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人間釈尊46

古い約束を忘れることなく

1 ...人間釈尊(46) 立正佼成会会長 庭野日敬 古い約束を忘れることなく なぜ王舎城へ向かわれたか  お釈迦さまがヴァラナシの近くの鹿野苑で五人の比丘に初めて法を説かれてから、その教えに帰依する人が続々と集まり、短時日の間に六十人ものサンガ(信仰者の団体)ができました。するとお釈迦さまは全部の弟子たちに「世の多くの人々の幸せのために布教の旅に出よ。ただし、同じ道を二人で行くな。一人ずつ違った道を遍歴して法を説くがよい」と命ぜられ(これを「伝道宣言」という)、ご自分もお一人で王舎城へと旅立たれました。  ヴァラナシはその当時からたいへん栄えた町であり、修行者が集まる宗教の中心地でもあったのですから、そこに腰をすえておられれば教団の隆盛は間違いないはずなのに、なぜ六十人をバラバラに旅立たされたのでしょうか。  もちろんその理由は、伝道宣言のお言葉にもあるように、あまねく世間の人々を救済するためだったのです。教団の繁栄といった私心など微麈ももたれなかったのです。  では、なぜご自分は王舎城へ向かわれたのでしょうか。そのみ心の中をおしはかってみますと……。  第一に考えられるのは、王舎城付近には六年間も苦行された村や、仏の悟りを開かれた記念すべき場所があり、そうした土地に対する懐かしい思いに引きつけられたのではないかということです。  だが、もっとハッキリ推測されるのは、ビンビサーラ王との約束を果たされるためだった……ということです。本稿の十一回にも書いたように、出家直後のシッダールタ太子は王舎城近くの山中で修行しておられました。ビンビサーラ王はその人物を見込んで太子を訪れ、自分の片腕になって国政を見てもらいたいと要請しましたが、太子は――わたしは人間最高の道を求めて出家した身ですから――と言って断られました。そのとき王は、  「では、最高の道を悟られたら、ぜひこの町に来てその教えを聞かせてください」  と言い、太子は  「はい。お約束しましょう」  と答えられたのでした。  その約束がお釈迦さまの脳裏に焼きつけられていたことは十分察せられるのです。 うるわしい心と心の再会  さて、旅の途中で有名な宗教家優楼頻羅迦葉(うるびんらかしょう)と二人の弟およびその数百人の弟子たちを教化された世尊は、王舎城に着かれると城外の林中に足を止められ、優楼頻羅迦葉に命じて王を招請せしめられました。  王は、かねて尊崇していた優楼頻羅迦葉がたちまち世尊に帰依したことを聞いて、新たな驚きを覚えながら、林中へやってきますと、世尊は数百人の新弟子たちに囲まれ、端然とお座りになっておられます。  「おお、お久しぶりでございました、世尊。よくぞこの国へおいでくださいました」  「あの時お約束したではありませんか。王もご健在でおめでとうございます」  あいさつを交わされるお二人の再会は、世にもうるわしい光景でありました。  それからお釈迦さまは、王のためにじゅんじゅんと仏法をお説きになりました。  ――この世のすべてのものは因と縁との和合によって生ずるもので、独立した「我」というものはない。その「我」に執着するがゆえに苦があり、争いが生まれるのだ云々――  王は心の底から感銘し、いよいよ帰依の念を深めました。そして、竹林精舎を建立したり、世尊が籠(こも)られる霊鷲山への登山道を改修したり、仏教の大外護者(げごしゃ)となったのでありました。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊47

身を調えるのが最高の修行

1 ...人間釈尊(47) 立正佼成会会長 庭野日敬 身を調えるのが最高の修行 技の習得に専念する青年  一人のバラモンの青年がおりました。頭がよく、たいそう器用で、どんなことでもよく覚える天才型の人間でした。  二十歳のとき、――この世の技術という技術をすべて身につけよう。でなければ、すぐれた人間とはいえないのだ――と考えました。  富豪の子でしたから、金と暇に飽かせて次から次へと師匠に就き、音楽から、書道から、馬術から、着物の裁断・衣装のデザイン、料理の技術まで習い、それらをすっかり身につけました。  それにもあき足らず、諸国をめぐって珍しい技があれば残らず習得しようと決意し、旅に出ました。  ある町を通りかかると、矢作り職人が矢を作っていました。その手際の鮮やかなことは目を見張るばかりで、買い手は列をつくっており、争って求めていくのでした。  青年は、――よし、この技を覚えよう――と考え、弟子入りしました。そして、しばらく修業しているうちに師匠をしのぐほどの腕前になりました。彼は謝礼のお金を差し出してそこを辞し、また旅へ出ました。  大きな川にさしかかりました。舟でその川を渡ったのですが、その船頭の舟の操りかたの巧みさは、ほれぼれするほどでした。向こう岸に着くと、さっそく船頭に頼みこんで弟子にしてもらいました。  桿(さお)のさし方、櫓(ろ)の漕ぎ方など、毎日懸命に練習した結果、師の船頭も及ばぬほどの腕前に達しました。そこで、謝礼を上げてそこを去り、また旅を続けました。  ある国にさしかかったとき、国王の宮殿を見る機会がありました。じつに立派な建築で、とりわけ軒や柱に施された彫刻の見事さにはただ感嘆するばかりでした。  青年は、その宮殿を造った大工を探し出して弟子入りし、設計から施工、そして装飾の技術まであらゆる技を習得しました。これまた棟梁をしのぐほどの技量となりましたので、厚く謝礼してそこを去りました。 ただ歩いておられる釈尊に  このようにしてその青年は十六の国々を回り、ありとあらゆる学芸・技術を習い覚え、天下に自分ほど偉い人間はないと肩をそびやかしながら、故郷へ帰ろうとしていました。  たまたま舎衛城に入ろうとして、祇園精舎の前を通りかかりました。  お釈迦さまは、この青年がいい素質は持ってはいるけれど、一つだけ欠けたものがあるのを神通力でお見通しになり、その青年の前へと歩いて行かれました。  それまで仏道の沙門を見たことがなかった青年は、粗末な衣をまとって静かに歩いて来られるその姿の神々しさに、思わず見とれてしまいました。  「失礼ですが、あなたはどんなお方でしょうか」と尋ねると、お釈迦さまは、  「わたしは身を調(ととの)える人である」  とお答えになりました。  「身を調えるとはどんなことですか」  お釈迦さまは偈を説いてお聞かせになりました。  治水者は水を導き、矢作りは矢を矯(た)め直し、木工は木を調える。賢者は、おのれの身を調えるのである  もともと利発なその青年は、心を調え行いを調えることが人間にとっていちばん大事な修行であり、最も価値あることであることをその場で悟り、お弟子の一人に加えて頂くようお願いし、お許しを得たのでありました。そして非常に高い境地に達したということです。(この偈は法句経八〇番に収録されています) 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊48

持戒者は天に生まれる

1 ...人間釈尊(48) 立正佼成会会長 庭野日敬 持戒者は天に生まれる 飢渇しても殺生せず  お釈迦さまが祇園精舎にお住まいのときのことです。  マガダ国王舎城で出家したばかりの二人の比丘が、仏陀にお目にかかって直接に法をうかがいたいと思い、舎衛国へと旅立ちました。  両国の中間には人跡絶えた広漠たる荒野があり、二人がそこにさしかかったのはちょうど一年中で最も暑熱が激しく、しかも雨が一滴も降らない時期で、川も泉もすっかり渇(か)れ果てていました。  いつ体力が尽きてしまうか、いつバッタリ倒れるかという限界状況にありましたが、ただ仏さまを拝したいという一心から、気力だけでよろよろと歩いていました。  ところが、珍しく数本の木立があり、その下に古い泉の跡があってほんの少し水がたまっていました。やれ嬉(うれ)しやと飲もうとしたところ、その水には小さな虫がいっぱいわいていたのです。  「ああ、ダメだ。仏陀の戒めの第一に不殺生ということがある。この水を飲めば虫たちを殺すことになる。ああ、飲めない。飲んではならない」  と一人が言えば、もう一人は、  「いや、わたしは飲む。飲んで命をつないで仏さまのお目にかかる」  と言う。  「そうか。わたしは殺生戒を犯さずに死んで善処に生まれよう」  そう言ったかと思うと、その場に倒れて息を引き取りました。すると、その霊はたちまちにして忉利天(とうりてん)に昇りました。そして、そこから花と香を持って地上に降り、お釈迦さまのもとへ参って礼拝することができました。 自然を大殺生する現代人  もう一人は、水を飲んだおかげで命をとりとめ、疲労こんぱいしながら祇園精舎にたどりつきました。そしてお釈迦さまを拝してから、  「わたくしには一人の連れがございましたが、途中で死んでしまいました。どうぞその比丘のことも思いやってくださいませ」  と泣き泣き申し上げました。お釈迦さまは、  「知っている。その比丘はそなたより先にここに参っている。あそこにいる神々しい天人がそなたの連れであるぞ」  とおおせられ、さらにご自分の胸を開いてそこを指し示され、  「そなたは戒を守らずに、わたしのこの身体を見に来たのだ。そなたはわたしの前にいるようでも、じつはわたしの心からは万里も離れているのだよ」  とおおせられました。その比丘は自分の考えの至らなかったことをつくづくと悔い、いつまでもそこにうなだれていたのでした。  これは法句比喩経第一に出ている話ですが、肉体生命を大事にする現代の風潮からすれば、生き残ったほうの比丘の肩を持つ人のほうが多いかもしれません。  しかしわたしは、これは個人個人が殺生戒を守るか守らぬかの問題を超え、そして二千五百年前のインドの一地域での出来事を超え、人類と大自然との共存関係の大切さを底に秘められた教えと受け取りたいと思うのです。  二十世紀末の人類は、七、八十年間の短い人生の安楽のために大自然界のあらゆる生きものを虫けらのように殺生してはばかりません。そればかりか、土・水・空気といった無機物までをほしいままに殺生しています。そういった所業がどんな結果を生むかは想像に難くありません。  仏典には往々にして現実離れしたような話がありますが、このような受け取り方をすれば、八万四千の法門すべてが現実の教えとなることと思うのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊49

教えに背く弟子をも捨てず

1 ...人間釈尊(49) 立正佼成会会長 庭野日敬 教えに背く弟子をも捨てず お足跡を踏み消そうとした  善星という比丘は、お釈迦さまのお傍(そば)に仕える弟子でありながら、教えを信じようとしないばかりか、かえって世尊に反感をいだき、何かといえば反抗的な言動をしてはばからない、心の曲がった男でした。  お釈迦さまがカーシー国に布教に行かれたときのことです。町へ托鉢に出られますと、人々は仏さまを拝み、立ち去られた後も、その足跡をジッと見つめて尊崇の念を深めるのでした。仏さまの足跡には尊い印文(いんもん)が残るという信仰があったからです。  ところが、お供をして後ろに従っている善星は、わざわざその足跡を踏み消してしまおうとするのでした。町の人々は、なんという恐れ多い、何という心ないことをする男かと、怒ったり呆(あき)れたりするのでした。  王舎城に苦得という異教の師がいて、いつも「因果などというものはない。人間の煩悩にも原因はなく、また煩悩からの解脱にも原因はないのだ」という説をなしていました。  善星はお釈迦さまが「善因善果・悪因悪果」ということを説かれるのがいかにも身を縛られるように感じていましたので、この苦得の自由奔放な説に心から敬服してしまいました。  そしてお釈迦さまに、  「世尊、世の中に阿羅漢(あらかん=あらゆる煩悩を除き尽くした人)がいるとすれば、あの苦得こそ阿羅漢だと思います」  と言いました。お釈迦さまが、  「何を愚かなことを言うのだ。苦得などは阿羅漢とはどんなものかということさえわかっていないのだ」  とおっしゃると、善星は、  「世尊は阿羅漢ですのに、どうして苦得に嫉妬(しっと)などされるのですか」  と、とんでもないことを言い出すのでした。そんな男だったのです。 なぜ長く傍に置かれたのか  善星は、仏さまの傍にいるのがどうにも窮屈になり、自ら離れ去って行きました。そしてナイランジャナー河の近くに独り住んでいました。  お釈迦さまは、善星がその後どうしているだろうかと心配され、迦葉を連れてわざわざ訪ねていかれました。  善星はお二人の姿を見ると、こっそりと房を出、河を渡って逃げようとしました。そして深みにはまって溺(おぼ)れ死んでしまったのです。お釈迦さまの心眼には、彼がたちまち地獄に落ちたのがアリアリと映りました。  「ああ、とうとう救われなかったか……」  お釈迦さまは悲しげに嘆声を発せられました。  迦葉が、  「どうしてあんな男を二十年もお傍に置かれたのですか」  とお尋ねすると、  「それはね。善星にも毛筋ほどの善根はあるのだから、辛抱づよくそれが現れるのを待っていたわけだ。また、善星には多数の親類がいて、その人たちは善星を阿羅漢だと信じ込んでいる。もしわたしが彼を捨ててかえりみなければ、どれほど多くの人が彼のために迷いの道に落ちこむかわからない。それゆえ二十年ものあいだわたしの傍近く置いて、彼の邪見の害毒がひろがらないようにしていたわけだ」  と仰せられました。  お釈迦さまの忍耐づよさと、心の広さと、智慧の深さが、つくづくしのばれる話ではありませんか。提婆達多を「善知識」とおっしゃったのと双璧をなす話だと思います。 (涅槃経第三十三より) 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊50

釈尊は名医でもあられた

1 ...人間釈尊(50) 立正佼成会会長 庭野日敬 釈尊は名医でもあられた 栄養に細かい心遣いを  無量義経に、世尊を賛(たた)えて「医王・大医王なり、病相を分別し薬性を曉了して、病に随って薬を授け、衆をして薬を服せしむ」とあります。これは、心の病(煩悩)を治す名医だと解釈するのが普通ですが、じつは身体の病を治す名医でもあられたのです。そのことは経典のあちこちにたくさん記されています。その二、三例をあげましょう。  王舎城付近には「秋時病」といって、秋口に発生する一種の風土病がありました。主として消化器系統が侵されるのでした。比丘たちにもそれが発生しました。お釈迦さまが阿難に、  「阿難よ。どうもこのごろ、瘠せて顔色の悪い比丘が多くなったようだが、どうしたのだろうか」  とお尋ねになりますと、  「どうやら秋時病にかかっているようでございます。粥を飲んでも吐きます」  との答え。  「それはいけない。栄養をつけてやらなければなるまい。熟酥(じゅくそ=ヨーグルトの類)・酥(チーズの類)・植物油・蜜・糖などを取るように、そう言いなさい」  いつもは贅沢な食べ物として許されていなかったこれらの栄養食を、薬としてお勧めになったのでした。  ところが、教団の掟として食事は午前中に一回だけと決まっており、比丘たちはいっぺんにそれらの栄養食を食べたので、かえって吐いたりくだしたりしました。お釈迦さまは早速、  「病人は一日中いつでもよいから、欲しい時に少量ずつ食べるようにしなさい」  と命ぜられ、その後、戒律をそのように改められたといいます。 看護の心得五個条  ある時、一人の比丘が頭痛をわずらいました。蓄膿症によるものだったらしく、医者が鼻を洗おうとしましたが、どうもうまくいきません。  そこでお釈迦さまは、木や竹で潅鼻筒(かんびとう)という器具(おそらく世尊の発明か)を作らせ、それを用いて乳の油で鼻を洗わせられたといいます。その時、その液がなかなか鼻に入りません。そこでお釈迦さまは、  「頭のてっぺんを手でさするか、または足の親指をこすってごらん」  とアドバイスされたと、経典(四分律)に記されています。東洋医学でいう「経絡」をも心得ておられたのではないかと推測されます。  また、病人の看護についてもこまごまと指示されたことが、経典のあちこちに見えています。例えば、南伝大蔵経にはこうあります。  「比丘たちよ、次の五個条をよく行う者がよい看護人ということができる」 1、よく薬を調合する。 2、病気に適応した薬や食事を与える。 3、ただ慈心をもって看護し、余念を交えない。 4、大小便や嘔吐物を除くのを厭(いと)わない。 5、時に応じて法を説き、病者を慶喜させる(法悦を覚えさせる)。  お釈迦さまご自身がこのようにして病比丘を看護されました。とくに第5項によって病気が治った比丘も、数々あったといいます。  宗教の説法によって病人の心を安らかにすることは、最近になって末期のガン患者などにとって大事であると気づき、ホスピスなどで実行されるようになりましたが、お釈迦さまは二千五百年も前にすでに行われ、効果をあげておられたのです。  まことに「医王・大医王なり」はそのまま真実だったのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊51

心身の大医王・釈尊

1 ...人間釈尊(51) 立正佼成会会長 庭野日敬 心身の大医王・釈尊 「手当て」で病比丘が快癒  前回に引き続き、釈尊が名医であられたことについて、もう少し述べてみましょう。  祇園精舎におられた時のことです。比丘たちはみんな町の居士(こじ=在家の男性信者)の屋敷に招待され、精舎はガランとしていました。釈尊はおひとりで比丘たちの房を見て回られました。  ところが、ある部屋で病気の比丘が、自分のもらした大小便にまみれながらうんうん呻(うな)っていました。世尊が、  「どうしたのだ。どこが悪いのか」  とお尋ねになると、  「腹病でございます。苦しくてたまりません」  「だれも看病してくれる者はいないのか」  「はい。わたくしがいつも他人の世話をしたことがございませんので……」  「そうか。よろしい。わたしが治してあげよう」  世尊はさっそく比丘の傍らに座られ、その身体に手を当ててさすっておやりになりました。すると、たちまち苦痛は去り、心身共に安らかになりました。  これは、十誦律巻二八に出ている実話ですが、世尊が触手療法の名手でもあられたことを物語っています。大聖者にはこのような能力が具わっており、イエス・キリストも患者の頭をなでられただけで、病気を退散せしめられたことが、聖書に明記されています。  また、言葉だけで病気を治された例もたくさんあります。キリストが、足なえの人に「立って歩め」と言われたら、即座に足が立ったことが、これまた聖書にあります。  釈尊も、前(35回)に書きましたように、気の錯乱したバターチャーラーという女に、  「妹よ、気を確かに持て」  と言われたその一言で、たちまち正気に返ったという記録があります。  ところがわれわれ凡夫にも、キリストや釈尊のような大聖者には及びもつかないけれど、そうした能力が潜在していることを知っておくべきでしょう。  頭が痛ければ、ひとりでに額を押さえます。「手当て」という言葉はそこから出ているといわれています。また、言葉の力にしても、病人に対する心からの励ましの言葉がどれぐらいその生命力を鼓舞するか、計り知れないものがあるのです。 現実の功徳の大切さ  さて、さきの病比丘に対する釈尊のその後の処置が、これまた実に尊くも有り難いものでした。  やおら病比丘を助け起こし、外へ連れ出された世尊は、顔じゅうの唾や鼻水をふき取られ糞にまみれた衣を脱がせて洗濯した衣に着せ替えておやりになりました。また、部屋もきれいに掃除され、新しい草を敷いてその上に座せしめられました。そして、次のようにお諭しになりました。  「そなたは今後、人間としてのまことの道を求めることにもっともっと励むのだよ。それを怠れば、またこのような苦痛を覚えることがある。精進第一と心がけよ」  その比丘は心の中につくづくと考えました。(あえて原文のまま記しましょう)  「『いま仏の威神力を以て、我が身を摩するに当(まさ)に手を下したもう時、我が身の苦痛即ち除療し身心安楽なり』と。是の比丘、仏の大恩を念じ、善心を生じ、清浄の位を得、種々願を立つ」  この比丘はついに阿羅漢(一切の煩悩を除き尽くした人)の位を得たといいます。  この一連の経過は、われわれ後世の仏弟子としてよくよく吟味し、見習わなければならないことだと思います。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊52

戒律も柔軟に合理的に

1 ...人間釈尊(52) 立正佼成会会長 庭野日敬 戒律も柔軟に合理的に 病人は葫を食べてよい  釈尊教団にはたくさんの戒律がありました。毎度説明しますように、「戒」というのはもともと「良い生活習慣」という意味で、それを身につけることによって次第に人格を向上せしめようという目的の定めでした。「律」というのは教団の秩序と、清潔と、平和を維持するための掟(おきて)でした。  その「律」にしても最初から制定されたものではなく、比丘たちの中でよくない行為をしたものがあるごとに、世尊が「今後こんなことをしてはならぬ」と戒められたことから起こったもので、いわば自然発生的な掟だったのです。  それだけに、一部の基本的な「律」は別として、日常生活に関する細かい定めはけっして絶対的なものではなく、お釈迦さまは時と、人と、場合に応じて一時的にお許しになったり、永久的に改変されたりしました。そのように、大変柔軟で合理的なお心の持ち主でもあられたのです。その二、三例をあげましょう。  ある比丘がやせこけて寝込んでいるのをごらんになった世尊が、  「どうしてそんなにやせ衰えているのか」  とお尋ねになりますと、  「どうにも食欲がないのでございます」  「何か特別に食べたいものはないかね」  「わたくしは俗人でしたころ葫(ニンニク)を常用しておりましたが、こちらでは禁止されておりますので……」  ニラとかネギとかニンニクの類は強精作用があって修行を妨げるのでタブーとなっていました。しかし、体力の衰えた病比丘となれば、それがプラスに作用することを世尊はちゃんとご存じだったのです。そこで、即座に全教団に布令されました。  「今日より病比丘に限ってニラ・ニンニクの類を食することを許す」と。 温かい慈悲と透徹した智慧  世尊が鹿野苑に滞在しておられたときのことです。比丘の中に病人が続出し、六十人にも達しました。在俗のとき医師だった比丘がいて、懸命に看護していましたが、肝心のその医比丘が疲労こんぱいしてしまいました。お釈迦さまが心配され、  「そなたが寝込んだら病人たちが困る。なにかそなたが過労に陥らない手だてはないものかね」  と尋ねられました。すると、  「けっして看病疲れではございません。ここからハラナイ(ベナレス)の町までは半由旬(はんゆじゅん=約二キロ)ありますが、毎日薬を求めに行くのに疲れるのでございます」  という答えでした。  「そうか。薬は買いためて何日ぐらい保(も)つものかね」  「生酥(ミルク)・酥(チーズ)・油・蜜(みつ)などの類ですから、七日間は保ちます」  教団の掟としては、食物を蓄えることを固く禁じていました。物に対する執着心を起こさせないためだったのでしょう。しかし、六十人もの病人を助けるためとなれば話は別です。世尊はただちに、  「病気の比丘のための薬は七日間に限って蓄えることを許す。ただし、七日を過ぎたら残りは必ず捨てること。けっして服用してはならぬ」  と命ぜられました。  お釈迦さまは仏陀であると同時に、あくまでも人間であられました。そして、人間を限りなく愛するお方でありました。とりわけ、病者をいたわる慈悲心はことさら深かったようです。  その慈悲心も、透徹した智慧に裏打ちされたものであったことに、われわれは深い感銘を覚えざるをえません。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊53

初めて五戒を授けられた人

1 ...人間釈尊(53) 立正佼成会会長 庭野日敬 初めて五戒を授けられた人 人間はこうあるべきだ  ダンミカは非常に熱心な在家信者でした。あるとき五百人もの仲間を連れて祇園精舎にお参りし、お釈迦さまに、在家の仏教者はどういう生き方をするのが最高であるかをお尋ねしました。お釈迦さまは次のようにお説きになりました。  「第一に、生きものを殺してはならない。他の人に殺させてもならない。また、人が殺すのを容認してもならない。  第二に、与えられないものを、他の人の物と知って、これを取ってはならない。また、他の人が盗むのを容認してはならない。  第三に、性行為を慎むことである。すくなくとも、他人の妻と通じてはならない。  第四に、集会の中で、あるいは人と対しているとき、嘘(うそ)を言ってはいけない。人びとが嘘を語るのを容認してはならない。  第五に、酒を飲んではならない。人に飲ませてもよくない。(薬として飲む酒は除くとして)酒は人を狂わせるからである」  そのほかにも、いろいろと教えられましたが、最後に、  「正当な商売をしなさい。そうして正しく得られた財をもって父母を養うことである。以上のように行じて放逸を慎むならば、死んでから自光(自ら光を放つ)という神々の住む天界に生まれるであろう」  と締めくくられました。  これは、最も古いお釈迦さまの言行録であるスッタニパータに記録されていることですから、俗人への戒めの原点である五戒を初めてうかがったのは、おそらくこのダンミカでありましょう。 臨終のダンミカ  そのダンミカはどのような一生を送り、どんな死を迎えたか。中村元先生著『人間釈尊の探求』にはこう述べられています。  ダンミカは仏の教えをよく守り、毎日のように修行僧のために食事や日常用品を布施し、また、妻や子も深く仏教を信じていたので、円満で幸せな生活を送っていました。  そのうち病を得てそれが重くなり、いざ死に臨もうとしたとき、お釈迦さまにお願いして修行僧に枕元で心の静まるお経を読んでもらいました。お経が始まるとダンミカは、  「待ってくれ、待ってくれ」  と叫ぶのでした。妻や子たちは、「ああ、どんなに仏教を信じていても、やっぱり死ぬのは恐ろしいのか」と、嘆き悲しみました。ダンミカがそう叫んだきり息を引き取ったように見えたので、修行僧は読経をやめて帰って行きました。  そのとき、いままで意識のなかったダンミカがふっと息を吹きかえし、妻や子たちが泣いているのを見て、「どうしたのか」と尋ねましたので、「あなたが、待ってくれ、待ってくれと叫び声をあげたので、やっぱり死ぬのは怖いのだろうと思って泣いていたのです」と答えました。するとダンミカはこう言ったのです。  「そうではない。読経が始まるとすぐ天人が枕元にやってきて『私たちの世界は楽しいですよ。早くいらっしゃい』と声をかけたのだ。だけど私は、もっとお経を聞いていたかったから、『待ってくれ、待ってくれ』と言ったんだよ」  そう言い終えると、静かに大往生を遂げました。ダンミカは兜率天(とそつてん)に生まれたということです。ともあれ、ダンミカこそは在家仏教徒の最高の典型だと言っていいでしょう。  なお、この五戒は、混乱を極めた現代において新しく見直さなければならぬ戒めであると、わたしは信じています。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊54

懺悔は大いなる善

1 ...人間釈尊(54) 立正佼成会会長 庭野日敬 懺悔は大いなる善 舎利弗を讒訴した比丘  お釈迦さまが成道されてから四十年ほどたったころの出来事です。夏安居(げあんご=雨期の三ヵ月間一ヵ所にとどまってする修行)を終わった舎利弗が、お釈迦さまのお許しを得て布教の旅に出かけました。  舎利弗が祇園精舎を出て行った直後に、一人の比丘がお釈迦さまのもとへ来て、  「世尊。舎利弗長老は私をさんざん侮辱して旅に出ました」  と申し上げました。世尊は傍らにいた比丘に、  「急いで舎利弗を呼び返しなさい」  と命じられ、阿難に、  「すべての比丘たちに、これから舎利弗が説法をするから講堂に集まるように伝えなさい」  と言いつけられました。  一同が講堂に参集した時、舎利弗も戻ってきました。お釈迦さまは舎利弗を正面に座らせて、お尋ねになりました。  「そなたが出かけたあと、一人の比丘が来て、そなたにさんざん悔辱されたと告げたが、それは本当か」  舎利弗は立ち上がって深々と一礼し、  「世尊、私は今年八十歳になろうとしておりますが、殺生したおぼえもなく、嘘をついたことも、他人の悪口を言ったことも、記憶にございません。もしそんなことがあったとしたら、ずいぶん心が乱れていた時のことでしょう。しかし、きょうは夏安居を終えたばかりで、心は澄み切っております。どうして他人を悔辱などすることがありましょう。世尊。大地はどんな不浄な物でもそれを受け、逆らうことをしません。大小便でも、痰(たん)や唾(つば)でもそれを拒否しません。世尊。水はよいものでもよくないものでもそれを受け入れて洗い清めます。きょうの私はそのような気持ちでおります。もし誤ってある比丘を悔辱したのであれば、この場で彼に懺悔いたしましょう」  真心からほとばしる舎利弗の熱弁に、並み居る一同深く感動しました。例の比丘は、真っ赤な顔をしてうつむいていました。 懺悔は仏法の一大事  お釈迦さまはその比丘に対して、  「いまの言葉を聞いたか。そなたこそ懺悔しなければならないのではないか」とおっしゃいました。その比丘はブルブル震え出し、  「世尊。悪うございました。どうぞわたくしの懺悔をお受けくださいませ」  「いや、わたしにではなく、舎利弗に向かって懺悔しなければならないのだ」  そこで、その比丘は舎利弗の足に額をつけて礼拝し、涙ながらに言うのでした。  「私は、あなたがあまりにも智慧にすぐれ、世尊のご信頼が厚いのに妬(ねた)み心を起こし、ついに讒言(ざんげん)の罪を犯してしまいました。どうぞお許しください」  舎利弗は、その比丘の頭を優しくなでながら、  「懺悔は仏法の中でも最も大切な行いの一つで、広大な意義を持つものです。過ちを懺悔することは大いなる善です。よく勇気を出して懺悔しましたね。わたしはあなたの懺悔を快く受けますよ」  と言いました。  お釈迦さまはお口もとに微笑を浮かべながら、その光景を眺めていらっしゃいました。そして、美しいその結末をごらんになって、何度もうなずかれたのでした。  じつはお釈迦さまは、初めからその比丘の訴えが嘘であることを承知していらっしゃったのです。しかし、ちょうどいい機会だとお考えになり、わざわざ一山の大衆を集めて懺悔ということの尊さを見せしめられたのでありました。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊55

舎利弗と羅睺羅の忍辱も

1 ...人間釈尊(55) 立正佼成会会長 庭野日敬 舎利弗と羅睺羅の忍辱も 異教徒に打たれた舎利弗  舎利弗がお釈迦さまのお弟子になってから間もないころのことです。一緒に入門した親友の目連と霊鷲山の洞窟にこもって修行をしていましたが、ある日、舎利弗が外へ出たところへ、カタという鬼とウパカタという鬼(雑阿含経の本文には「鬼」とありますが、おそらく凶悪な異教徒だったのでしょう)が現れて、ウパカタのほうがいきなり舎利弗をなぐりつけました。舎利弗の顔が一瞬ゆがんだほどの怪力でした。  物音を聞きつけて目連が飛び出してみると、舎利弗が顔をおさえています。  「どうした……」  「うん、ウパカタになぐられた」  「痛いだろう。大丈夫か」  「ものすごく痛いが、平気だよ」  「舎利弗、君はすごいね。あの鬼が岩を打てば岩は糠(ぬか)のように砕けると聞いている。それなのに大した傷も受けず、平気でいる。君の徳の力が偉大なことの証拠だよ」  と目連は賛嘆しました。  後でこのことを聞かれたお釈迦さまは、次のような偈を詠まれて舎利弗をおほめになりました。   心、金剛のごとく   堅くして動かず   己れに執(しゅう)する心なければ   怒って打つ鬼の力も及ばず   かくのごとく心を修むれば   苦痛も何であろうか 忍辱ほど快いものはない  後年、お釈迦さまがひとり子の羅睺羅を出家せしめられた時、幼い羅睺羅を舎利弗に預けられたのは、舎利弗がたんに「智慧第一」といわれるほど頭脳明晰だったばかりでなく、このような「徳の人」でもあったからでありましょう。  因縁の不思議といいましょうか、その羅睺羅も養い親と同じような目に遭ったことがあるのです。  ある朝、羅睺羅は舎利弗のあとについて王舎城の町を托鉢していました。すると、一人の男が飛び出してきて舎利弗の鉢の中へ砂を投げ入れ、十歩ばかり後ろを歩いていた羅睺羅の顔をなぐりつけました。当時まだ新興宗教だった仏教の修行者は、往々にしてこうした暴行を受けたのです。  舎利弗が振り返ってみると、眼の上あたりが切れて血が流れています。逃げて行く悪者を追いかけようともせず、すぐ羅睺羅の所へ駆け寄って舎利弗は、  「痛かっただろう。だがね、世尊の弟子であるからには、どんなことがあっても怒ってはならないんだよ。いいかね」  「ハイ」  「世尊はいつも、慈しみをもって衆生を憐れめとお教えになっておられる。そして『忍辱ほど快いものはない』と仰せられている。いいかね、怒りながら我慢するのはほんとうの忍辱ではない。忍辱は快いものだとおっしゃる世尊のご真意を悟らなければいけないよ」  「ハイ。よくわかります」  羅睺羅は小川の流れで血に汚れた顔を洗い、澄んだ眼で舎利弗を見上げながら言いました。  「わたしはあの人を気の毒に思います。あの人は不幸から不幸への暗い道をたどって行くに違いありません。あんな無法な人をどうしたらいいのか、それがわからずに残念です」  羅睺羅の立派さは、もちろん舎利弗の教化の賜です。しかし、われわれはさらに二人の師であるお釈迦さまの偉大さをしのばずにはおられません。とりわけ「忍辱ほど快いものはない」の一語、これほど宗教者の特質を表したことばはないと言ってもいいでしょう。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊56

峻厳な一面もあられた

1 ...人間釈尊(56) 立正佼成会会長 庭野日敬 峻厳な一面もあられた 不公平の黙過をご叱責  お釈迦さまの舎利弗に対する信頼は絶大なものがありました。しかし、あくまでも理性の人であったお釈迦さまは、舎利弗がどんなことをしようともとがめ立てしないといった、愛情におぼれるようなことはなさらなかったのです。  わたしが調べたかぎり、舎利弗がお釈迦さまに厳しく注意されたことが二回ほどあります。  その一つは、ある日、舎利弗を最上座とする比丘の一行が信者の家に招待された時のことです。帰ってきた沙弥(しゃみ=少年僧)にお釈迦さまが、  「どうだったか。みんな満足に施食を受けたか」  とお聞きになりますと、  「満足の者もあり、不満足の者もございました。上座の比丘たちにはおいしいごちそうが出ましたが、わたくしども下座の者には胡麻の搾り粕と菜を煮合わせたのと米の飯だけでした」と、少年らしく率直に答えました。  お釈迦さまはすぐ舎利弗をお呼びになり、  「最上座のそなたが、信者の不公平なもてなしを黙過するとは何事であるか」とお叱りになりました。  舎利弗はただただ恐れ入って引き下がり、食べてきたばかりのごちそうを吐き、ひそかに懺悔の真心を表したのでした。 論難すべきは論難せよ  もう一つは、提婆事件に関することです。提婆達多は、国王アジャセの支援もあって、相当数の弟子たちを引き連れてお釈迦さまに背き、別派を立てようとたくらんでいました。そして、教団内に混乱を起こすことを目的として、次のような戒律の改革案を提出しました。 一、比丘は林中に住み、都市の付近に住んではならない。 二、比丘は信者の食事の招待を受けてはならない。 三、比丘は終生ボロをつづった衣を着るべきで、信者の献じた衣を着てはならない。 四、比丘は樹下に眠るべきであって、家の中に寝てはならない。 五、比丘は魚鳥の肉を食してはならない。  しかし、お釈迦さまは――大勢の比丘の中には元気な者もおれば病気がちの者もおり、全部が全部そのような厳しい生活ができるものではない。仏道は心の解脱をこそ求めるものであるから、あまり形式にこだわることはない。戒律も比丘らしい生活から逸脱しないためのものであって、あまり束縛をきつくするとかえって道を求める気持ちを委縮させることになる――というお考えでした。  そこで舎利弗をお呼びになって、  「提婆達多の所に行って、この五則は仏道修行にふさわしくないと徹底的に論破してきなさい」  と命ぜられました。舎利弗はいつになくもじもじしています。  「どうしたのか。何か異論でもあるのか」  「いいえ。世尊の仰せのとおりでございますが、じつはかねがねわたくしは提婆達多の才能を褒めたたえておりましたので、どうもバツが悪いのでございます」  と申します。するとお釈迦さまはキッとしたお顔で、  「褒めるべきことは褒めるのが道理であり、論難すべきことは論難するのが道理である。行ってきなさい」  と決然と仰せられました。舎利弗は一言もなく恐れ入って出掛けて行き、使命を果たしたのでした。  お釈迦さまには、こうした秋霜烈日のごとき一面もあられたのであります。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊57

仏縁の種子はいつか芽ぶく

1 ...人間釈尊(57) 立正佼成会会長 庭野日敬 仏縁の種子はいつか芽ぶく 有名なウパカの後日譚  霊鷲山のあるマガダ国の南方にヴァンカハーラという地方がありました。文化の低い土地で、住民はたいてい野獣を狩り、その肉を町へ売りに行って生活していました。  その土地へウパカという修行者が遍歴してきました。民度は低くても宗教の修行者を大事にする土地でしたので、しばらくそこにとどまっているうちに、猟師のかしらの娘チャーパーに熱烈な恋をし、修行を捨ててその娘と一緒になったのです。  入り婿となった彼は、義父が狩りをしてきた獣の肉を町へ売りに行かされていましたが、そのうち子供ができました。妻のチャーパーは、赤ん坊が泣くと、こんな子守唄をうたうのでした。(渡辺照宏師訳による)   ウパカの子供   坊さんの子供   肉屋の子供   泣くのはおよし  いくら婿養子の身とはいえ、妻にこのような侮辱を受けてはたまりません。清浄の身であった修行者時代を振り返っては、物思いにふける毎日でした。  ある時ふと思い出したのは、ずっと以前に会った聖者のことです。ガヤ近くの道を歩いていた時、いかにも神々しい姿の沙門とすれちがいました。思わず呼び止めて、  「あなたは清らかな顔をしておられるが、だれを師として出家し、どのような教えに帰依しておられるのですか」  と尋ねると、その沙門は決然として答えました。  「わたしは一切知者であり、一切勝者である。一切の煩悩を滅し尽くして解脱した者である。自ら悟りを開いたのであり、この世に師はなく、わたしと等しいものはない。わたしは仏陀である」  ウパカは、半ば驚き、半ばあきれて、  「あるいはそうかもしれん」  と言い捨て、首をかしげながら歩み去って行きました。  これは、お釈迦さまが成道直後、五比丘に法を説こうと鹿野苑へおもむかれた途中の出来事で、世界で最初に仏の教えを聞くチャンスを失ったことで有名な、あのウパカがこのウパカなのです。 蒔かれた仏縁の種子は  ――いま世に名高い釈迦牟尼という聖者はきっとあの方に違いない――そういうひらめきを覚えたウパカは、お目にかかって教えを受けたいと思い立つと、もう矢も盾もたまらなくなりました。その決心を妻に告げたところ、チャーパーはさすがに自分の非をわび、思いとどまってくれと懇願しましたが、それを振り切って祇園精舎へと旅立ったのでした。  祇園精舎に着いたウパカは、仏前に出て、  「世尊。わたくしを覚えていらっしゃいますか」  「覚えている。ガヤの付近で会ったね。あれからどうしていたのか」  「はい、あちこちを遍歴しまして、最近はヴァンカハーラで俗人となっておりました」  「年をとったようだが、また出家する気があるかね」  「はい、出家いたしとう存じます」  こうして入門したウパカは一心に修行を続け、澄みきった解脱の境地に達することができました。ガヤ付近で言葉を交わした時はそっけなく別れてしまったのでしたが、仏縁というのは不思議なもので、こうしてついにはまことの師弟となり、まことの幸せを得ることができたのでした。  なお、チャーパーは、子供を父に預けてウパカの後を追い、これまた仏門に入って立派な尼僧となったのでありました。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊58

砂の供養を快く受けられた

1 ...人間釈尊(58) 立正佼成会会長 庭野日敬 砂の供養を快く受けられた 世尊の鉢の中に砂を  ある朝お釈迦さまは阿難を連れて王舎城に托鉢に出かけられました。  城門を入るとすぐに少しばかりの広場があり、周りにはニグルダの木やセンダンの木が茂っており、双思鳥が美しい声でさえずっています。  その広場のまん中で二人の子供が砂遊びをしていました。ジャヤという子とビジャヤという子でした。  無心に砂いじりをしていたビジャヤがふと目を上げると、見るからに神々しい沙門が鉢を持って歩いて来られます。そのお顔からは金色の光が差し渡っているように見えました。  「あ、仏さまだ」  ビジャヤは直感しました。  「何か供養申し上げなければ」  そう思ったビジャヤは、両手に砂をすくい上げると、お釈迦さまの鉢の中へ入れ、手を合わせて拝むのでした。そして、かわいい顔を真っすぐにお釈迦さまの方へ向けて、きれいな声で偈(げ=詩)を詠んだのです。   仏さまのおからだからは   美しい光が出ています   仏さまのお顔は   金いろに輝いています   尊いお方よ   ここに砂をさしあげます   わたしをお救いくださいませ  お釈迦さまはニッコリとほほ笑まれ、快くその供養をお受けになり、静かに立ち去って行かれました。 子の無邪気と世尊の温かさ  阿難は世尊のお心をはかりかねながら、ついて歩いていましたが、とうとうたまりかねて、  「世尊は、いま砂の供養をお受けになり、ニッコリお笑いになりました。諸仏は何か特別な因縁があった時、お笑いになると聞いていますが、世尊はどうしていまお笑いになったのですか」  とお尋ねしますと、お釈迦さまは、  「わたしが入滅してから百年後に、この童子はパレンプ村に生まれて、姓を孔雀といい、名を阿育というであろう。のちに大王となって天下を治め、また仏の遺骨を広く分かち、八万四千の塔を建てて供養するであろう。そのことが見えてきたから微笑が浮かんだのである」  そうおおせられた世尊は、  「阿難よ。この童子が捧げた砂を竹林精舎の経行処(きょうぎょうしょ)にまいておくれ」  と命ぜられました。  これがアショカ大王出生の予言であると言われていますが、予言うんぬんはまずさしおくとして、このエピソードに現れた子供の無邪気な行為とお釈迦さまのお心の温かさに、限りない懐かしさを覚えずにはおられません。  と同時に頭に浮かぶのは、法華経方便品にある「万善成仏」の教えです。  昔ある童子が遊びの中で砂を集めて仏塔をつくった……その子はすでに仏道を成じた。  ある童子はたわむれに、木の枝や自分の指で砂の上に仏の絵をかいた……その子も次第に功徳を積み、大悲心を具えるようになって、ついに仏道を成じた。  このように、小さな仏縁がいつかは大きい実を結ぶのだということを、アショカ王出世の予言に託しておおせられたのではないかと、わたしにはそう思われてなりません。  いずれにしても、砂を差し上げた子供の純粋な心を微笑をもって受けられたお釈迦さまの人間味に、われわれの心もほのぼのと温かくなるのを覚えるではありませんか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊59

人間平等の思想は不滅

1 ...人間釈尊(59) 立正佼成会会長 庭野日敬 人間平等の思想は不滅 どの河の水も海に入れば  前(36回)の肥くみニーダの話の最後でも触れましたが、同じようなことがナンダの入門のときにも起こりました。  ナンダはお釈迦さまの異母弟で、浄飯王の後を継ぐべき王子でした。そのナンダが出家して入門するとき、教団のしきたりどおり、先輩の足に額をつけて礼拝していました。  その途中で、次の先輩の顔を見たとたん、ナンダは困惑の色を浮かべて立ちつくしてしまいました。その比丘がかつて奴隷階級の身だったウパリだったからです。  ウパリはカピラバストの理髪師でしたが、あるとき頭をそるお客が急に増えたので不思議に思って人に聞くと、シッダールタ太子が仏陀となって帰って来られ、そのたぐいなき人格を慕って出家する人が多いのだということ、しかも釈尊教団では身分の上下を問わず平等に扱われるのだと聞き、喜び勇んで入門したのでした。そうした事情もあり、ひたすら戒律を守って修行しましたので、ついに教団で「持戒第一」と認められるまでになったのでした。  そのことを知らぬナンダは、元奴隷階級だったウパリの足を拝むなんていくらなんでもできはしないという気持ちだったのです。その様子を見られたお釈迦さまは、  「ナンダよ。あのインダス河やガンジス河など四大河の水は、河にあるうちは別々だが、大海に流れこんでしまえば同じ海の水になってしまうではないか。そのように、俗世間には四つの階級があるが、わたしの所へ来たら階級の別なんかありはしない。みんな兄弟だ。さあ、ウパリの足を拝みなさい」  とおさとしになり、ナンダもお言葉に従ったのでありました。 インドで仏教が消えた理由  仏教がインドで興ったのにインドでは消えてしまった理由については、いろいろな説があります。  最も常識的なのは、イスラム教徒の侵入による仏教僧の殺りくと仏教文化財の潰滅ということです。しかし、その信仰が民衆の中に深く定着しておれば、日本における隠れキリシタンのようにどこかに残るはずであり、それさえなかったのは、あの酷烈な気候風土のもとに住む人にとって理性的な仏教の教義がふさわしくなかったのだ、という説もあります。  ところが、意外なことにもう一つ、このナンダがウパリの礼拝を嫌ったような感情の問題が潜んでいるという説も有力になっているのです。  カースト(身分階級)制は、今は憲法によって形式上はなくなっていますが、潜在的にはまだまだ牢固として残っています。例えば現在でも、ホテルで床(ゆか)の掃除をするボーイは決してベッドなどをいじることを許されません。ベッドメークはほかのボーイがするのです。つまり、ここにも身分の別があるのです。  しかし、お釈迦さまが打ち出された「人間平等」の大思想は、抜きさしならぬ真理の上に立つものでありますから、いつかは必ずインドの地にも復活するでしょう。その先触れとして、かつてのネール首相は、最下層階級出身のアンベドカル博士を法務大臣に任命しました。素晴らしい業績でした。  われわれ日本人もこうした問題に無関心であってはならないでしょう。また、身分のことよりもっと広い貧富の差とか、民度の高低とか、文化の相違とかいった面で、第三世界の人々に対する差別感をぬぐい切っていないのではないか……そのようなことを改めて反省する必要があると思いますが、どうでしょうか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊60

譬喩の名人でもあられた

1 ...人間釈尊(60) 立正佼成会会長 庭野日敬 譬喩の名人でもあられた 一滴の水と善根の譬え  お釈迦さまが祇園精舎でこのような話をなさいました。  ――わたしがある所で多くの人に法を説いていたら、一人のバラモンが自分の髪の毛を一本抜いてその尖端に一滴の水をつけ、  「世尊、この水をさし上げます。つきましては、この水が風や日光に当たって乾かぬよう、また、鳥や獣にも飲まれぬよう、不増不減のままに保存して頂きたい」  という難問を出してきた。わたしはその髪の毛を受け取ると、すぐガンジス河に投げ入れた――  こう語られてから、次のような解説を加えられました。  「ガンジス河に投げ入れた一滴の水は、大河の水の中にあって乾くこともなく、鳥獣に飲まれることもなく、ついには大海に流れ入って永久に生きつづけるであろう。それと同じように、そなたたちが社会の人たちのために積んだ善根は、たとえ一滴の水ほどの微細なものであっても、広い社会の中で永遠のいのちを持ちつづけるのである」  われわれ現代人でもこの譬えを聞くと、「エネルギー不滅の法則」を思い出して、なるほどと納得させられます。 われわれ人間は死刑囚  また、霊鷲山での説法でこんな話をなさったこともあります。  ――ある死刑囚が、どうしても生きていたいと思い余って脱獄した。その国の法律では、脱獄者は象に踏み殺させることになっていたので、役人は兇暴な象にその男のあとを追わせた。  地響きをたてて大象が迫ってくるのを見た脱獄囚は、ちょうどそこにあった井戸へ飛び込もうとすると、井戸の底には大きな竜が口を開けているのだ。アッと驚いたが逃げ出すわけにはいかず、井戸の中に垂れ下がっている一本のカズラにすがりついていた。  すると、二匹のネズミが出てきて、カズラの上のほうをガリガリかじり始めた。もうダメだ……と絶望感にさいなまれていると、口のあたりにポタリと一滴の蜜が落ちてきた。たいそう甘い。見上げてみると、井戸の上に生い茂ったカエデの大木からしたたり落ちる樹液なのである。  やれ嬉(うれ)しやとそれを嘗(な)めて生命をつないでいるうちに、井戸から出ることもできず、底に下りることもできぬ中途半端な境涯ながら、だんだんそうした暮らしに慣れてきて、ただその一滴ずつの蜜の甘さを楽しみに、いつかはカズラが切れることも忘れ、はかないぶら下がりの生活をつづけていたのであった。  普通一般の人間にしても、この死刑囚と似たようなものである。いつかは必ず肉体の死がやってくるのを忘れ、ただその日その日の歓楽を追って暮らしているのだ――  この話を聞いていますと、それが譬え話だとわかってはいても、なにか惻々(そくそく)と身に迫るものを覚えます。たしかにわれわれはカズラにぶら下がっている死刑囚のようなものです。しかし、絶望してはならない。現実のカズラのほかにもう一本の見えざる堅固な綱をわれわれは知っているのです。言うまでもなく、人間のいのちの永遠を説く仏道にほかなりません。このことが、この譬え話の底にかくされているわけです。  理屈っぽくなった現代人は、ともすれば譬喩というものにソッポを向きたがります。しかし、お釈迦さまの説かれた譬喩にはじつに深い哲学が秘められているのです。法華経の七つの譬え話もそのとおりです。素直な心になってよくよく味わいたいものです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊61

良い説法の四つの要素

1 ...人間釈尊(61) 立正佼成会会長 庭野日敬 良い説法の四つの要素 議論のための議論は空しい  お釈迦さまの十大弟子の一人に摩訶倶絺羅(まかくちら)という尊者がいますが、じつはこの人は舎利弗の母の弟なのです。  一家は秀才ぞろいだったようで、倶絺羅があるとき舎利弗をみごもっていた姉と哲学上の議論を闘わしたところ、苦もなく言い負かされてしまいました。倶絺羅は「いつもの姉と違う。きっと腹の中の胎児が教えているに違いない。生まれない前からこうだから、生まれて大きくなったらどんな知恵者になるかわかったものではない。いまのうちに諸国を行脚して勉学を重ねておかなければ……」と考え、バラモンの修行者の仲間に入って南インドへ旅したのでした。  そこでバラモン教の十八大経をことごとく読破し、ひとかどの大学者になったつもりで、故郷のマガダ国へ帰ってきました。帰ってみると、家族はほとんど死に絶え、まだ見ぬ甥(おい)の舎利弗が最近にわかに有名になったゴータマ・ブッダの弟子になっていると聞きました。  さっそく竹林精舎を訪れた倶絺羅は、まずゴータマ・ブッダなる人に論戦をいどんでみました。倶絺羅は、  「わたしは懐疑論者です。人間がうち立てた一切の説を認めません。あなたの説はどんな説か知らないが……」  と切り出しますと、お釈迦さまは、  「一切の説は認めないこと、それもそなたがうち立てた説ではないか。その論法でいけば自分自身の説をも認めないことになる。そのようなのを議論のための議論といい、自分も悟れないし、世間の人をも救えないのだぞ」とさとされました。倶絺羅は一言もなく恐れ入ってしまいました。  それからお釈迦さまは、縁起の法をはじめ、諸行無常の理から四諦の教えまで順を追ってお説き聞かせになりましたので、にわかに夢から覚めたようになり、その場で入門をお願いして許されたのでした。  舎利弗が入門して十五日目のことでしたが、舎利弗はそのときお釈迦さまをうしろからあおいでさしあげていながら、それらの法門を初めて開き、そくざに悟りを開いたといいます。 現代にも必要な「四弁」  倶絺羅もほどなく仏法に通達するようになり、とりわけ教義を説く弁舌においては並ぶ者がないといわれるようになりました。あるときお釈迦さまは、大勢の比丘たちに倶絺羅の説法ぶりを次のようにお褒めになりました。  「比丘たちよ。倶絺羅はこの世に行われているあらゆる思想に通じ、その意義を明らかに解説することができる。これを『義弁』という。  また倶絺羅は、如来の説いた法のすべてを総括して心得、欠けるところなくそれを説く。これを『法弁』という。  さらに倶絺羅は、仏の言葉はもとより、世の人々が話す俗語にもよく通じ、たくみにそれを用いて法を説く。これを『辞弁』という。  また倶絺羅は、法を説くときいささかも憶することなく堂々と説き、大衆は知らず知らずのうちにそれに引き込まれて法悦を覚える。これを『応弁』という。  比丘たちよ。そなたたちも法を説くときは摩訶倶絺羅のように『四弁』を具備することを心がけるがよい」  この「四弁」は、二千五百年後のわれわれ仏弟子にとっても、そのまま服膺(ふくよう)すべき心得であると思います。一つ覚えのように仏法を古典的な解説のみで説いても、人々はよく納得できず、魅力をも覚えません。あるいは現代科学に裏づけさせたり、あるいは社会情勢の現実に即したり、あるいは流行語などを用いてユーモラスに説いたり、さまざまな工夫が必要なのであります。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊62

仏も貪欲であられた

1 ...人間釈尊(62) 立正佼成会会長 庭野日敬 仏も貪欲であられた 倒れても前へ杖を投げて  お釈迦さまが祇園精舎におられたとき、比丘たちに次のようなむかし話をされました。  ――あるところにシュミラという修行者がいた。シュミラはたいそう説法が上手で、よく人々を良い道へみちびいた。  あるとき国王に呼ばれて法を説いたところ、ことのほか気に入られて、  「そなたに褒美をとらせよう。望みの物を言うがよい。何なりとかなえてやろう」  と言われた。シュミラは、  「では申し上げます。わたくしのために広い土地をください。そこに僧坊を建ててください」  とお願いした。王は、  「よろしい。そなたが一瞬も休むことなく走りつづけて行き着いた所までの土地を残らずそなたに寄進しよう」  と約束された。そこでシュミラは身軽ないでたちになって走り出した。しだいに息が切れ、足も重くなった。しかし、少しでも広い土地が欲しいという一心から、けんめいに走りつづけた。  やがて、もはや一歩も進めないほどヘトヘトになってしまった。しかし、なおも最後の力をふりしぼってヨタヨタと歩いて行った。  いよいよ精も根も尽き果てたシュミラは、ばったりと地上に倒れた。しかし、彼は土に爪を立てるようにして這(は)って行った。そのうち這う力もなくなった。すると今度は体を横にして転がり始めた。が、ついにその力も尽きてしまった。  そのときシュミラはどうしたでしょうか? 持っていた杖(つえ)を前の方へ投げて、  「この杖の落ちた所までがわしの土地だ」  と叫んだのであった―― これが仏の貪欲  この話をなさったお釈迦さまは、  「わたしもこのシュミラと同じく貪欲なんだよ。もちろん土地が欲しいのでもなく、僧坊が欲しいのでもない。一歩でも多くの土地へ行って一人でも多くの人を救いたい。できることならこの三千世界の生きとし生けるものすべてを救いたい。これがわたしの貪欲なのだ。  しかし、わたしも人間だ。体力にも寿命にも限りがある。いつかは倒れてしまうだろう。その時までわたしは走りつづける。布教の旅をつづけるのだ」  とおおせられました。  そのお言葉のとおりのことを、お釈迦さまは実行されたのでした。八十歳にもなられて、リューマチ性背痛という持病を持ちながら、なおも布教の旅に出かけられたのです。  ベールヴァという村にさしかかられたとき、ちょうど雨期に入りましたので、そこで雨安居(第二十七回参照)をされたのでしたが、その年は米が不作でやむなく馬糧を召し上がったために、ひどく胃腸を害され、死の一歩手前を彷徨(ほうこう)されたのでした。  それでも、たぐいなき精神力をもってその重病を克服されると、衰弱した肉体に鞭(むち)うつようにして再び北へ向かって旅立たれたのです。  そしてついに力尽きてクシナーラという村でお倒れになりました。いよいよご入滅という時に、スダッタという異教徒が教えを乞(こ)いに来ました。阿難が――世尊はご臨終であられるから――と言って面会を断っているのを聞かれたお釈迦さまは、  「阿難よ、法を聞きに来た人を拒んではならぬ。通しなさい」  と言って枕元に呼ばれ、四諦の法をお説きになったのでした。それこそが、シュミラが倒れても前方へ杖を投げて「ここまでわたしの土地だ」と叫んだ所行そのままだったのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊63

異端者をも追放されず

1 ...人間釈尊(63) 立正佼成会会長 庭野日敬 異端者をも追放されず プレイボーイ迦留陀夷  迦留陀夷(かるだい)は、浄飯王の師であるバラモンの子で、美ぼうと才気と弁舌で知られた貴公子でした。浄飯王はシッダールタ太子に出家の気配があるのを察し、快活明朗な彼を太子の侍者とし、太子の気持ちをなんとか現世の快楽へと引き戻そうとされましたが、結局その効はなかったのでした。  太子が出家された後、迦留陀夷はカピラ国の大臣となり、友好国の舎衛国によく出かけ、ハシノク王にもしばしばお目にかかっています。舎衛国の大臣・密護とも親友の間柄でしたが、いつしか密護の奥さんとも不倫関係に陥るというプレイボーイでした。  お釈迦さまが成道されてから、浄飯王は何度も使いを送って帰国を促されましたが、使いの者はみんなお釈迦さまのもとで出家してしまい、一人として帰って来ません。浄飯王は最後の手段として迦留陀夷を使者として出されたのですが、彼もどうしたわけか出家してお弟子になってしまいました。  しかし、迦留陀夷は「ぜひ一度お帰りになるように」とお釈迦さまを説得しましたので、お釈迦さまも老父王を慰めに行こうというお気持ちになられ、歴史的な帰国となったのでした。ぜんぜん違った性格と思想の持ち主なのに、どこか気の合うところがあったのではないかと推測されるのです。 家庭教化の名手でもあった  迦留陀夷は比丘となってからも相変わらずやんちゃぶりを発揮していました。六群の比丘という暴れ者仲間のリーダーとなって、祇園精舎の森のカラスを何十羽も射落としたり、少年比丘たちを引き連れて町を練り歩き、人々をからかったり、いたずらをしたりしました。  王宮にも自由に出入りできたのですが、ある時フト末利夫人の裸体を見たことから、祇園精舎に帰って「おれは王妃の裸を見たぞ」と触れ回ったこともありました。そのほか、比丘尼や町の女性と問題を起こしたことも度々あったのです。  もちろん、その都度、お釈迦さまは彼を呼びつけ厳しく叱責されたのですが、戒律の定めでは、ある違反を初めて犯した時は「教団からの追放」という最大の罰は与えないことになっていましたので、その規則の通りいつもお叱りだけにとどめられたのでした。  そうした問題児だった一方では、酸いも甘いも噛み分けた、いわゆるワケ知りだけに、親子・夫婦のいざこざを納めるのが上手で、家庭ぐるみ教化して仏法へ導いた数が舎衛城だけで九百九十九家に達したといいます。  ところが、最後に教化しようとしたある主婦が、ひそかに情を通じていた盗賊の首領との仲を割かれるのではないかと思い、その男をたきつけて迦留陀夷を殺そうとたくらんだのでした。そして、迦留陀夷が女の招きによってその家に行って法を説き、夜道を帰るところを、一刀のもとに斬り殺されたのでした。じつに壮烈な殉教だったのです。  翌日、全比丘の集会がありましたが、迦留陀夷の姿が見えないのでみんなが不審に思っていると、お釈迦さまは神通力で昨夜の殉教を知っておられ、  「迦留陀夷とわたしは若い時分からの親しい友であったが、ああ、いまついに別れることになった」  と、悲しげにおおせられたといいます。  この一語に、お釈迦さまの迦留陀夷に対する特別なお気持ちがうかがわれるように思います。単なる師弟という間柄を超えた人間的愛情をそこに感じとっても、仏さまに対する冒瀆にはならないのではないでしょうか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊64

釈尊の前世物語

1 ...人間釈尊(64) 立正佼成会会長 庭野日敬 釈尊の前世物語 人民の犠牲となった猿の王  お釈迦さまが祇園精舎で大勢の人たちにこんな話をなさいました。  ――むかしある所に五百匹の猿を従えた猿の王がいた。ある年がたいへんな干ばつで、山の木々にも実がよく生(な)らなかった。それもほとんど食べつくしてしまった。ところが、川一つ隔てた王城の園林には果樹がたくさん栽培されているので、猿王(えんおう)は一族を引き連れて移り住み、命をつないでいた。  しかし、園林の番人がそれを見つけて厳重な檻(おり)を作り、そこへ残らず追い込んでしまった。檻の一方だけは開いていたが、そこは川に面したけわしいがけになっており、逃げ出すことはできなかった。  猿王は一族の猿どもに命じて藤蔓(ふじづる)を集めさせ、それをつないで一本の綱とした。その一方の端を木に結びつけ、他方の端を自分の腰に結びつけ、ブランコのように川の上空を飛んで対岸の木の枝につかまった。そして蔓をその木に結びつけようとしたが、ほんの少しだけ長さが足りず、前足でつかまっているのが精いっぱいだった。  そこへ番人が見回りに来る気配がしたので、猿王はしっかと木の枝にしがみつき「みんな、早く渡れ」と叫んだ。五百の猿たちは藤蔓を伝い、最後には猿王の背中を渡って、無事に川を渡ることができた。  そのとたんに猿王は精根つきてバッタリと地上に落ち、気を失ってしまった。それを見た番人は猿王を捕らえて国王の前に引き据えた。猿王は「王さまの園林を荒らして申し訳ございません。これはわたくしの命令でしたことですから、どうぞわたくしだけを処刑して一族は見のがして頂きとう存じます。わたくしの肉はほんの少しですけれども、王さまはじめ皆さまの一晩のおかずにしてください」と申し上げた。  王はその心根に感動して、猿王を許したばかりか、国内に布告して猿たちが餌を取るのを妨げないようにと命じたのであった。  その猿王がいまのわたしであり、国王は阿難、五百の一族はいまの五百人の比丘たちである――と。 ジャータカの持つ意義  このようなお釈迦さまの前世の物語をジャータカ(本生譚)といい、仏典に出ているだけで約五百五十あります。普通の人間は、出生と同時に過去世のことはすっかり忘れてしまうのだといわれていますが、非常な神通力をもたれた世尊はあるいはそのような記憶を持っておられたのかもしれません。法華経でも、提婆達多品や常不軽菩薩品で前世の思い出を語っておられます。  仏教学者たちは、ジャータカは――世にもすぐれたお釈迦さまのお徳はとうてい現世の修行だけで達成されたものとは考えられないとした後世の信仰者たちが創作したものだ――としています。おそらく大部分のジャータカがそうなのでしょう。  しかし、だからといって、ジャータカを一種のお伽噺(おとぎばなし)として軽く見てはならないのです。わたしたちも子供のころ巌谷小波(いわやさざなみ)のお伽噺に夢中になったものではありませんか。時代が変わっても、子供たちはアンデルセンやグリムの童話をむさぼり読み、それがどれぐらい子供たちの胸に美しい感動を刻みこみ、どれくらい温かな情緒を育て、一生の人間形成に役立ったか、計り知れないものがあります。  ですから、お釈迦さまの説かれた譬え話や、仏典に出てくる因縁話などを、けっして――ありえないこと――などと軽く見過ごしてはならないのであります。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊65

譬喩から思索は限りなく

1 ...人間釈尊(65) 立正佼成会会長 庭野日敬 譬喩から思索は限りなく 麻を背負った二人の男  お釈迦さまが祇園精舎で多くの人々にこんな話をなさいました。  ――ある所に二人の友だち同士があって、仕事を求めて旅に出た。山を越え野を越えして歩いていると、ある荒野に麻がたくさん生い茂っているのを見つけ、これはお金になると早速それを刈り取り、背負えるだけ背負って故郷へ帰りかけた。  すると途中の山かげにたくさんの銀塊が転がっていた。第一の男は、背負っていた麻を捨てて、その銀塊を袋に入れて背負った。第二の男はそれを見向きもしなかった。  また旅を続けていると、土の中から金らしいものが顔を出しているのを見つけた。第一の男がそこを掘ってみると、金の塊がゴロゴロ出てきた。「これはすごい」と、すぐに銀塊と取り換えたが、第二の男はちょっと欲しそうな顔をしただけで取ろうともしない。  第一の男が――天からの授かりものなのにどうして取らないのか――と聞くと、  「麻をしっかり背負いこんでいて、おいそれと背中から下ろせないんだ」と言う。  「ぼくが手伝ってやるよ」  「いや、このままでいい。せっかく遠方から運んで来た麻だ。いまさら捨てるわけにはいかない」  「愚かなことを言うな。こうしてやる!」  第一の男は強引に友だちの麻の束を解き下ろそうとしたが、あまりしっかり結びつけてあるので、容易に取れない。第二の男は、  「余計なことをしてくれるな。おれに構わず先に行ってくれ」と言う。  仕方なくそのまま家に帰った彼は、莫大な財産を持って帰ったので、家族にも喜ばれ、一生幸せに暮らした。  それにひきかえ、第二の男は家族からは愚か者と呼ばれたばかりか、一生貧乏暮らしをしなければならなかった。 一つの譬喩から拡がるもの  中阿含経に出てくるこの譬え話は、読みようによっては別の解釈もできますが、ここでは善をみつけたら、それまで身につけていた悪を躊躇(ちゅうちょ)なく捨てて、善へ乗り換えよ……という教訓だとされています。  しかし、現代のわれわれがこの譬え話を読みますと、それをヒントとして、いろいろな連想が限りなくひろがっていくのです。  たとえば、ある低俗な信仰にはまりこんでいる人が、すぐれた高等宗教に巡り合ったとき、それに見向きもせず相変わらず迷信にとらわれておれば、一生を迷ったまま過ごさねばならない。  また、たとえば、ある思想を「これこそ真理だ」と固く思い込んでいた人が、それが誤った考えであり、もっとすぐれた思想があることを知っても、以前から背負っている思想を捨てるのは無節操だという無用のこだわりから、誤った思想にかじりつき、かえって世の中に害毒を流す。そのことに気づいて立て直しをしようとしている国が、世界に二つほどあります。  また、たとえば、金権政治と官僚主義を背中に固く結びつけている一国の指導層が、自由自在で創造的なやり方が目の前にあっても、勇敢にそれに乗り換えることをせず、国民をほんとうに幸せにできない国もどこかにある。  また、たとえば、二千年前の宗教上の恨みを麻の束のように捨てようとせず、いまだに争いを繰り返し、お互いが不幸になっている国々が中東にある。  このように、一つの譬え話から、思いは限りなくひろがっていき、そこから正しい道がおのずから見えてくるものです。ですから、仏典に出てくる譬え話を一概に無知の人のためのものと決めつけてはならないのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...