1344 件中の 841 件目~ 860 件目を表示

法華三部経の要点34

法華経は最微者をも見捨てない

1 ...法華三部経の要点 ◇◇34 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経は最微者をも見捨てない 「賃金は倍もらえるぞ」  前回に書いたように、父の長者の大邸宅の門前に来ていながら窮子はそこを立ち去って行きました。経文には「如(し)かじ貧里に往至して、肆力(しりき)地(ところ)あって衣食得易からんには」とありますが、つまり「自分は貧しい環境の所に住むのが気楽だし、賃仕事ももらい易いだろう」ということです。  これも大切な要点です。長い年月のあいだ物的な欲望のみを追ってその日暮らしをしていますと、精神を高めるとか、人格の向上とかいったむずかしいことはどうでもいい、そんなことは自分にふさわしくない、と思うようになります。「如かじ貧里に往至して云々」というのは、そういう凡夫の心理をじつによくうがっています。  長者は使いの者をやって窮子を連れて来させようとしましたが、窮子は父の心も知らず、恐ろしさのあまり気を失ってしまいます。父はそれでもあきらめず、子が逃げ去って住んでいる貧しい街に汚い服装をした使いを出し、「いい仕事がある。賃金は普通の倍もらえるぞ」と誘いをかけさせます。  ここも非常に大事なところです。精神世界のすばらしさなどになんらの関心もない人に、いきなり宗教や信仰のよさを理論的に説いてみたところで、なかなかその人の心は動きません。それどころか、ますますそういった世界に背を向けるようにもなりかねません。そこで、相手が現在いる所まで降りて行って(汚い服装をして)、その上「賃金は倍もらえるぞ」と、現実の利益でもって誘うのです。 弱い愚かな人間にも救いを  よく「現世利益(りやく)で信仰に誘うのは不純である」と説きます。たしかに純粋な信仰のあり方からすれば、そうでしょう。しかし、それがその人を真の信仰へ導くキッカケになるならば、それは大いに意義あることなのです。  どのような世界的な宗教といえども、現世利益とまったく無縁であることはありませんでした。その奥底にはりっぱな哲学や世界観があったとしても、表面的には現世利益によって信者が増えていったことはまぎれもない事実です。  たとえばイエス・キリストも、患者の頭を撫(な)でられただけで病気を治したり、足の不自由な人に「立って歩め」という一言で即座に歩くことができるようにされたことが聖書に明記されています。  お釈迦さまも、伝道の手始めに、優楼頻羅迦葉(うるびんらかしょう)という拝火教の教主の家にわざわざ泊まりに行き、神通力によって火堂の中の毒蛇を手なずけることによって、たちまち千五百人の信者を獲得された……と仏伝にあります。  今日の世界的な宗教においては、もちろん、教祖や聖者の人格に引きつけられた人もありましょうし、教えのすばらしさに傾倒した人もありましょうけれども、ごく普通の大衆はその教祖や聖者の持つ不可思議な力に魅せられて後について行ったことも、否定できない事実です。  法華経は、「仏と成る」という究極の理想をかかげながらも、弱い人間、愚かな人間をけっして見捨てはしない。どんな人間にも救われの道をひらいている。そこが法華経のありがたさです。それが「賃金は倍もらえるぞ」の一語に象徴されているのです。  ですから、昭和初期における最も行動的なキリスト者であった賀川豊彦師もその著『生活としての宗教』の中にこう書いておられます。「最微者(最も弱小な凡夫)に対する跪拝(きはい)!  その心持ちでゆく人が法華経行者の最大のものであることを知って、私は自分が必ずしも法華経の道に背いているものではないことを知った」と。  わたしはけっして現世利益を説くことだけを勧めているのではありません。ただ、凡夫の心理というものをおろそかにせず、「いかにしたら正しい救われの道へ導いてあげられるか」ということを、いつも考えていくことが大切であるということを言いたいのです。          ...

法華三部経の要点35

神仏は信仰者を飢えさせない

1 ...法華三部経の要点 ◇◇35 立正佼成会会長 庭野日敬 神仏は信仰者を飢えさせない 仏は凡夫の域まで降り給う  窮子に与えられた仕事は便所などを掃除することでした。窮子はどんな汚い仕事でも素直にやっていました。長者は自分も汚いなりをし、手には糞を取る器を持つことによって窮子に親近感を抱かせながらそばに行き、「おまえは食うに困っているというじゃないか。だが、ここにおれば大丈夫だよ。賃金もあげてやろうし、米でも、塩でも、暮らしに必要なものを何でもあげるから安心して働きなさい」と言ってくれるのでした。  これも信解品の大事な要点です。仏さまといえば、目には見えないけれど、ただもう尊厳な聖なる存在として、近寄り難い気持ちを起こす人もありましょう。  しかし、そんな気持ちでいたのでは救いは生じません。仏さまと凡夫との間に、波長が合致するといいますか、響き合い、通じ合うものがあってこそ、救いは生ずるのです。  凡夫には心に自由自在さがありませんが、仏さまはすべてにおいて自由自在ですから、まず仏さまのほうから凡夫の所まで降りて来てくださるのです。長者がわざと汚いなりをして窮子に近づいて行ったというのはそのことなのです。久遠実成の本仏が釈迦牟尼世尊という肉体を持つ人間としてこの濁った世の中に出現されたのも、観世音菩薩が三十三種の人間の身をもって普門示現されるのも、やはりそうなのです。  このことは、われわれに二つのことを教えます。  第一は、「この世で出会うさまざまな人の中に、そうした仏や菩薩の化身を見いだす」ということです。そういった人の一言一行の中から救いの種子を感じ取ることが救われの道だということです。  第二は、「われわれ法華経の行者(布教者)はけっしてお高くとまってはいけない」ということです。いくら自分が高い境地にいようと、相手の境地にふさわしい所まで降りて行って心を溶け合わせることが大切だということです。これを「和光同塵(わこうどうじん)=自分の身の光をやわらげ、世俗の塵に同化する)」といって、菩薩行をなす者にとって忘れてはならない心得なのであります。 道心の中に衣食あり  ここのくだりにもう一つ大切な要点があります。それは「暮らしに必要な物は何でもあげるから安心して働きなさい」という言葉です。  よく「信仰活動に打ち込んでいると家業がおろそかになって食うに困りはしないか」と心配する人があります。無理もない心配ですけども、それはきわめて狭い考えです。  正しい信仰に生き、正しい信仰活動をしている人は、つまるところ久遠実成の本仏の教えそのものに順応しているわけですから、仏さまがその人を見殺しにするはずはないのです。むかしの中国の名言に「天道人を殺さず」というのがあります。イエス・キリストも、「なにを食らい、なにを飲まんと思い煩い、なにを着んと、からだのことを思い煩うな。(中略)まず神の国と神の義を求めよ。さらばすべてこれらの物は、なんじらに加えられるであろう」(マタイ伝六・二五―三四)と言っておられます。神に奉仕する者を神が飢えしめるはずはないというのです。  仏教においても、伝教大師は「道心の中に衣食(えじき)あり」と言っておられます。真剣に仏道を求める人には必要な衣食住は自然と備わってくるというのです。  この『長者窮子の譬え』で、長者が「生活に必要な物は何でもあげるから安心して働きなさい」と言ったのも、そうした意味なのであります。 ...

法華三部経の要点36

自分は宇宙の歯車の一つである

1 ...法華三部経の要点 ◇◇36 立正佼成会会長 庭野日敬 自分は宇宙の歯車の一つである 地味でたゆみない修行が  ここでちょっとお断りしておきたいことがあります。法華経は、つまるところは大衆の救いのためのものでありますが、なにしろ二千年も前のインドで、大乗の菩薩としての自覚にたった出家修行者が中心となって編集された「信仰の書」ですので、その大衆には、優婆塞、優婆夷という在家も含まれてはいますが、当面の救いの対象は、声聞とか縁覚とかいう出家修行者だったのです。そして、その大衆も仏と成る大道の上にあるのだというのが法華経迹門(しゃくもん)の根本思想だったのです。  ですから、この信解品においても、例えば声聞である須菩提や迦旃延らが「わたくしどもは自分が解脱したことで満足し、それ以上のことを求めませんでした」とサンゲしたことも要点には違いないのですけれども、それは出家修行者としての反省であって、われわれ在家の信仰者とはちょっと次元が違います。  この要点シリーズは、あくまでも現代に生きる在家のためのものですから、右のような出家修行者のための要点はなるべく取り上げないことにしています。その点をご承知おきください。  さて、信解品の『長者窮子の譬え』の窮子は、長者(仏)から命ぜられるままにどんな仕事もいやがらず、根気よく、コツコツと遂行していました。人のいやがるようなところの掃除だけでも二十年もやっていたのです。そこを見込まれてだんだん重要な仕事を任せられ、ついには総支配人といった立場に昇格したのでした。  それでも私欲などを起こさず、地味に、忠実に働いていました。ところが、長者が死を迎えようとするとき、内外の人々を呼び集めて――じつは、これはわたしの実子だったのだ――と打ち明け、その全財産を窮子に相続させたのでした。  そのとき窮子は心の中で「今此の宝蔵、自然(じねん)にして至りぬ」とつぶやきました。つまり「長者さまの言いつけどおりに働いているうちに、この大きな財産がひとりでに自分のものになった」という喜びの歎息なのです。この「自然にして」というのがこの品の要点の一つです。 仏の眼から見れば一切平等  どんな仕事でも、社会がそれを必要としているという点においては平等なのです。もっと大きな眼――仏さまの眼と言ってもいいし、宇宙の眼と言ってもいい――から見れば、仕事の相違とか地位の上下などは無いに等しいのであって、一切は平等なのです。  ですから、自分の地位に劣等感を覚えている人は、眼を大きく放って宇宙全体を見渡し、その中の自分をみつめてみるといいのです。  よく「自分は単なる歯車の歯の一つに過ぎない」と卑下する人がありますが、歯の一つでも尊いものではありませんか。あなたという歯があればこそ歯車全体が成り立っているのですよ。そういったより積極的な意味で「自分は宇宙の歯車の歯の一つなのだ」という自覚を持ってください。そうすれば、劣等感などはたちまち吹っ飛んでしまうでしょう。  森林太郎は三十六歳の若さで陸軍軍医学校長に任ぜられるほどの逸材でしたが、とつぜん九州・小倉の第十二師団軍医部長に左遷されました。失意のあまり辞職さえ考えたのですが、気を取り直し、閑職で余暇の多いのを利用してドイツ語の勉強に励みました。その結果生まれたのが不朽の名訳『即興詩人』だったのです。それがキッカケで、文豪森鴎外が生まれたわけです。むろん軍医としての職務にも忠実に励みましたので、のちに軍医総監という最高の地位に上りました。  何事にしても、逆境や不遇にめげず、地味にコツコツと修行することが最後にはものをいうのです。 ...

法華三部経の要点37

根があってこそ枝葉も繁る

1 ...法華三部経の要点 ◇◇37 立正佼成会会長 庭野日敬 根があってこそ枝葉も繁る 薬草諭品の大意  薬草諭品に入りましょう。この章の大意は、――久遠実成の仏さまがすべての生あるものに注がれる「慈悲」はあくまでも平等であるが、それを受ける衆生はその個性によってさまざまな受け取り方をする――ということです。別な角度から見れば、この世のものごとには「平等相」と「差別相」の両面があるという哲理が述べられているのです。  その中心になるのが『三草二木の譬え』です。「迦葉よ。たとえていえば、この世界中の山や、谷間や、平野に生えている小さな木や、大きな木や、いろいろな草や薬草などは、種類がさまざまで、名前も形もそれぞれに違っている。それらの上に降って来る雨は一相一味であって、どの木にもどの草にも平等に降り注ぐ。しかし、その雨を受けるほうは、草木の大小や種類によって受け取り方が違うのである。それぞれの草木の性質に応じて、根・茎・枝・葉が違った形で生長し、思い思いの花をひらき、思い思いの実を結ぶのである」とあります。 信・戒・定・慧の四要素を  まず、この「根・茎・枝・葉」ということから考えていってみましょう。  これは信仰の不可欠の条件である、「信」「戒」「定(じょう)」「慧(え)」を象徴しているのです。  草木にとっていちばん大切なのは根です。根がなければ茎も枝葉も出ません。その根が「信」なのです。  「信」があってこそ「戒」も守れます。在家信仰者に示された五戒の、ムダな殺生をしてはいけないとか、ウソをついてはいけない等々の「戒」も、ともすればその場その時の自分の都合によってつい破ってしまうのが凡夫の常です。ところが、仏さまを信じ、いつでも自分を見守ってくださっているのだと信じていると、どうしてもそういった「戒」を守らざるをえないのです。畏(おそ)れる心からです。  「戒」を守っておれば、おのずから心が安定します。仏さまのみ心と自分の心と波長が合致するからです。従って「定(精神が統一して乱れない境地)」にも自然と入っていけるのです。  「定」の境地に入って初めてほんとうの「慧」を得ることができます。「慧」というのは一切のものごとの真のすがたを見きわめる智慧のことです。  ここまで来ればもはや「人生の達人」と言ってもいい素晴らしい人となれるわけですが、それも元をただせば「信」という根があってこそのことです。これが宗教のいのちです。宗教の存在価値です。宗教が一般の倫理・道徳と違うエネルギーを持っている理由はこの一点にあるのです。  この根・茎・枝・葉という順序を逆に考えていってみますと、いくら根が丈夫でも、あるべき枝葉が落ちたり、茎が切られたりしたら、ついには根も腐ってしまいます。それと同じで、ほんとうの「慧」がなかったら、「信」も間違った信、すなわち迷信になってしまいます。  また、「定」がなかったら、信仰に疑惑を生じてフラフラと迷いに陥り、不幸への道へ転落する結果になります。  また「戒」を守らずに暮らしていれば、「信仰なんていらない」といった気持ちが生じ、いつしか久遠の仏さまの慈悲に背を向ける生きざまに堕落してしまいましょう。そういう生きざまがどんな結果になるかは、火を見るよりも明らかなことです。  このように、「信」「戒」「定」「慧」の四つはいつもしっかりとつながって共存していなければならないもので、どれひとつ欠けても完全ではなく、信仰はスクスクと育ってはいかないのです。このことを、ここのくだりからくみ取らねばなりません。    ...

法華三部経の要点38

信ずる人こそ救われる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇38 立正佼成会会長 庭野日敬 信ずる人こそ救われる 日常生活も信で成り立つ  薬草諭品のギリギリの要点は、久遠の仏さまの大慈悲はあらゆる衆生に平等にそそがれているのだということです。そう聞かされてもなかなか信じられない人があるかもしれません。そんな人は、救いのレールに乗りきれない気の毒な人です。前回に「信」こそが宗教の「根」であることについて説明しましたが、じつはわれわれの日常生活も「信」によってこそ成り立っているのです。  バスに乗るにしても、暗黙のうちに運転手さんを信頼しておればこそ何のためらいもなく乗り込めます。理髪店に行っても、理容師さんを信用しておればこそあの鋭いカミソリを顔やノドに当てさせます。牛乳を買っても、そのブランドを信用しておればこそ安心して飲みます。それらに対していちいち疑いを持ったらとても暮らしていけません。  さて、久遠の仏さまは、われわれの五官(目・耳・鼻・舌・皮膚)で感じとることはできません。この世のものごとはおおむね五官で感じとれますが、絶対的な存在とも言える久遠の仏さまは、われわれの五官で直接感じとるというわけにはいかないのです。だから信じられないのでしょうが、それは、自分の五官で感じとれるものしか信用しない物質万能的な考えの人です。  久遠の仏さまだけでなく、この大宇宙の万物万象の中には、自分の五官のみで直接認識することができないことは、いろいろとあります。例えば、すべての物質は電子・陽子・中性子といった素粒子で出来ているということについて、もはやだれも疑念をいだきませんが、あなたはそれを見ることができますか。宇宙の果てにあるというクェーサー星は秒速二十数万キロメートルの速度で地球から遠ざかっているそうですが、あなたにはそれが見えますか。久遠の仏さまが五官で感じとれないから信じられないというのはそれと同じではないでしょうか。 ながむる人の心にぞすむ  久遠の仏さまの大慈悲を信ずるか信じないか、それはあなたが本質的に救われるか救われないかの分かれ道なのです。このことはむかしからよく月の光にたとえて説かれます。法然上人の歌にこういうのがあります。  月かげのいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ  月の光はどの町どの村にも平等にふりそそいでいるのだが、それを眺める人がどう受け取るかによってその価値に大きな差が生ずるというのです。  この「すむ」というのは「住む」と「澄む」の両方の意味を込めてあります。月の光を浴びていながらそれには全く無関心で、金もうけのことなどばかりを考えている人もありましょう。そんな人は、月の光になんらの印象も覚えず、なんらの感慨ももよおさない。精神的な深い喜びを知らない哀れな人です。  それに対して「ああ、いい月だなあ」とうち仰いでそぞろ歩きをするような人の心にこそ月の光が「住む」のです。「宿る」のです。さらに、その月を見上げながら、その光に天地のいのちの不思議を感じ、永遠ということに思いを馳(は)せ、心が洗われたような気持ちになる人があったら、そんな人の心にこそ月かげは「澄む」のです。  仏さまの慈悲もそれと同じです。あらゆる人に平等にそそがれているのですけれども、それを信じない人は何の喜びも感じません。喜びを感じないから本質的な救いに縁がないのです。いわゆる「縁なき衆生は度し難し」です。  反対に「ああ、仏さまに生かされている。ありがたい!」と感じる人は、しみじみとした歓喜を覚えます。そのような人の心にこそ仏さまの大慈悲はとどこおりなく、濁りなく、そのままスーッと通ずる。つまり、仏さまのみ心がその人の心に住み(宿り)もし、澄みわたりもする。  まことに、信ずる人こそが幸せな人であり、ほんとうの意味で救われる人なのであります。 ...

法華三部経の要点39

今後の家庭にはいよいよ宗教が必要

1 ...法華三部経の要点 ◇◇39 立正佼成会会長 庭野日敬 今後の家庭にはいよいよ宗教が必要 愛情は想像から生まれた  前回に、久遠の仏さまの大慈悲を信ずる人こそ救われる人だと述べました。それに対して、どうすれば五官で感じとれぬものを「信ずることができよう」か……と質問する人がありました。同じような気持ちをいだいている人も多いことと思いますので、この際じっくりと説明しておきましょう。  たしかに、五官で感じとれないものを「信じなさい」といわれてもにわかに信じうるものではありません。初めは想像するよりほかはないのです。「仏さまはどういうお姿でいらっしゃるのだろうか。仏像や仏画に見られるようなお姿だろうか。それとも白髪・白衣の神々しいお姿だろうか。姿・形はなく、ただ目もくらむような光明そのものだろうか」。そんなふうに想像してみるのです。それをくりかえし、重ねているうちに、その想像がしだいに実感を持つようになり、ついには抜きさしならぬものとして心の中に定着するようになります。  この「想像する」ということが、人間にとってじつに重大な意味を持つものなのです。人間らしい人間の第一条件である「愛情」というものも、この「想像」という心の作用から生まれたものだといわれています。  われわれがまだ原始人だったころのことですが、まだ他の動物とあまり差のなかったヒトがだんだん頭脳が発達してくるにつれて、過去の経験にもとづいて先ざきのことを想像できるようになりました。また、目の前に起こったことでないものごとを心にえがくことができるようになりました。  たとえば、猛獣などがそのへんをうろついているときなど、洞窟(どうくつ)の中でジッとしていながら、外にいる仲間のことを考えたのです。トラやライオンが不意に襲ってきた。逃げるに逃げられない。ついに鋭いツメにかけられてしまう。その様子を想像して「あ、たいへんだ」と自分も恐怖を覚える。次の瞬間「ああ、あの人がかわいそうだ」という思いがわいてくる。それが「感情」の発生です。そして「同情」の発生です。  このように、人間にとっていちばん高貴な心の作用である「愛情」とか「思いやり」とかは、じつに「想像」からこそ生まれたのです。 想像の欠如が冷たい社会を  ところが、じつはこの「五官で感じとれないものを想像する」という心の作用が近頃の子供に失われつつあるのです。これはゆゆしい大事だと思います。ひる間は塾やおけいこごと通いに追いまくられ、夜は個室にこもってひとりコンピューターゲームで遊ぶ。友だちづき合いは少ない。すべてが即物的な生活です。  むかしの子供は、赤頭巾ちゃんの映画を見ても、オオカミが森の中のおばあさんの家に入ろうとするのを見ると、思わず「入らないで!」と叫んだりしたものです。ところが今の子供は、「カラスなぜ鳴くの」の歌に対しても「カラスの勝手でしょ」といったそっけない対応をするようになりました。  「思いやり」とか「同情」とかいう情緒を持つことが人間らしさの大きな条件であって、これが欠けたらまさに冷血動物みたいなものだといっていいでしょう。そして、そのような人間が増えたら、この世はエゴとエゴとがむき出しにいがみ合う修羅の世界となってしまいましょう。  ですから、これからの教育には「五官に感じとれないものを想像する」という心の作用を養うことが絶対必要な条件となりましょう。  家庭においても、目に見えぬ神仏を拝む宗教がどんなに大切であるかは、この一事をもってしてもうなずけることと思います。                                                        ...

法華三部経の要点40

雑草という草はない

1 ...法華三部経の要点 ◇◇40 立正佼成会会長 庭野日敬 雑草という草はない 万物はもともと同根  現代の物理学は、すべての物質が電子・陽子・中性子等の素粒子から出来ていることをつきとめました。それによって、この世の万物がもともとは同根であり、平等な存在であることが実証されました。  空気とか、水とか、土とかいう無機物でもわれわれ人間と同根だというのですから、ましてや人間どうしが本質的には平等な存在であることは、もはや実感をもってうなずかざるをえないでしょう。ところが、同じ人間どうしでも、現実のあらわれにおいてはさまざまな相違が見受けられます。身体の大きい人、小さい人、頭のいい人、鈍い人、手先の器用な人、不器用な人等々。すなわち、本質的には平等であっても、現象的には相違があることも否定できない事実です。  たいていの人は、その差別相のみを見て、平等相を見ることをしません。だから、自分は背が低いとか、もの覚えがわるいとか、容貌(ようぼう)がよくないとかいった劣等感のとりこになる人が多いのです。もしあなたがそんな劣等感の持ち主であるならば、薬草諭品こそがそれをキレイに拭(ぬぐ)い去ってしまうでしょう。  「其の雲より出ずる所の 一味の水に 草・木・叢林・分に隨って潤を受く 一切の諸樹 上中下等しく 其の大小に稱(かの)うて 各(おのおの)生長することを得」  どんな人でも、世の中が必要とすればこそ、それなりの姿で存在しているのです。肉体の大小や、外見や、素質や、才能などは千差万別でも、宇宙的視野で見れば、まったく平等な「価値ある存在」であり、本質的にはまったく平等に生かされているのです。  ここで思い出すのは、昭和天皇が口癖のようにおっしゃっておられた「雑草という草はない」というお言葉です。この一言をとりあげるだけでも昭和天皇はほんとうの意味で偉いお方だったということができましょう。 仏性を磨き出す人が最上  自分はつまらぬ人間だと思っている人も、ちょっと気分を変えて自分を客観的にながめてみると、案外ひとよりすぐれた面があることを発見できるものです。頭の回転はよくないけれど、粘りづよくコツコツ努力する型であるとか、きりょうはよくないが世話好きでひとの面倒をよく見るのでみんなに好かれるとかいった具合です。  ですから、自分の持っているそのような特質を見いだし、それを十分に生かすならば、自分に与えられた存在価値をりっぱに充足することができるのです。  さらに大事なことがあります。頭脳とか、容貌とか、体格とか、財産とか、地位とかは人間の本質とはなんらかかわりのないものです。その証拠には、それらの何一つとしてあの世まで持っていけるものはないではありませんか。  ただ一つ、つねに人間のいのちと共にあって離れないものがあります。それは心です。仏教的にいえば仏性です。これが正真正銘、人間の本質です。ですから、あなたがどんなに貧しくても、どんな境遇にあろうとも、心さえ美しければ人間として最高の存在なのです。  したがって、信仰によって心を清め、菩薩行によって仏性を磨き出そうとする精進こそが、この世に生まれた価値を発揮する最上の道なのであります。経文にも「世尊の処を求めて(世尊のような境地に達したいと願って)我当に作仏すべしと 精進・定を行ずる 是れ上の薬草なり」とあるではありませんか。  劣等感にさいなまれている人は特にこの薬草諭品を味読してほしいものです。この世に雑草という草はないのですから。                                                       ...

法華三部経の要点41

「道を以て楽を受け」とは

1 ...法華三部経の要点 ◇◇41 立正佼成会会長 庭野日敬 「道を以て楽を受け」とは 信仰による「現世安穏」  薬草諭品には、短い言葉の中に非常に重大な意味と世界を含んだ名句がたくさんあります。たとえば――「今世・後世、実の如く之を知る」「道を以て楽を受け」がそうです。  この二句の中に、法華経全体をつらぬく歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう=人間は何度も生まれ変わりながら成仏への修行を続けるものである)という大思想がこめられているのです。まず後者から考えていってみましょう。その句の前後を補えば、こう説かれています。  「是の諸の衆生、是の法を聞き已(おわ)つて、現世安穏にして後に善処に生じ、道を以て楽を受け、亦(また)法を聞くことを得」  現代語に訳しますと、――これらの衆生は、仏の教えを聞いた結果、現世においては心の安らぎを得て幸福な身となり、来世には善い境界に生まれる。すなわち、仏道に随順するおかげで楽しい生活を送ることができ、その世でもふたたび仏の教えを聞くことができる――となります。  この「現世安穏にして」ということをしっかりと吟味しなければなりません。いわゆる神だのみだけの信仰においては、「病気も治れば、心配ごとも解決し、経済的にも恵まれる」と、信仰と実生活を単純に短絡します。逆に、一部の宗教者や学者は「信仰は心だけの問題だ」として、信仰と実生活との関連を無視したがります。  この後者の考えも片寄った狭いものであって、心が解き放たれれば病気も快方に向かうことは現代の「心身医学」が実証していますし、仏道に入って日々の生き方が仏さまの教えに合致すれば、生活のよろずのことが好転してくるのもけっして不思議ではありません。また、信仰によって人間が変われば、まわりの人びとの見る眼も変わり、対応の態度も変わり、それが幸せを呼ぶのも当然の成り行きです。人間のありようのすべてを洞察している法華経は、そういった意味で「現世安穏にして」と断じているのです。 後に善処に生ずるのも真実  次に「後に善処に生じ云々」ですが、科学では「物質不滅の法則」というものがありますが、人間においても、死によってすべてが無に帰するのではありません。今世だけではなく来世というものが、ちゃんとあるのです。  ですから、現世において「道を以て」すなわち仏さまの説かれる教えに従って生活しておれば、次の世においても「楽を受け」すなわち天上界のような所に生まれて安らかに生きることができる……というのです。  われわれ凡夫には死後のことはまったくわかりません。しかし、お釈迦さまのような大聖者はそれをハッキリ知っておられるのです。さきにかかげた第一の句「今世・後世、実の如く之を知る」というお言葉のとおりです。  その末世において「亦法を聞くことを得」とあるのが、これまた尊いことです。天上界といっても、まだ仏界ではありません。そこに生まれ変わった人もまだ仏ではありません。ですから、そこでも仏法によって修行をつづけなければ、心身共に衰退していくのです。すなわち、「天人の五衰」といって、①頭上の花がしぼむ ②腋(わき)に汗が流れる ③衣が汚れてくる ④身の光が失われる ⑤本座(天上人の座)にいることを楽しまぬようになる、と説かれています。  しかし、この世で法華経の教えをしっかりと聞いて身につけた人は、天上界に生まれてもそこでまた法を聞くことができると保証されているわけです。ありがたいことです。そして、再び人間として生まれ、修行を続け心を清めていくことによって次第に仏の境界に近づいて行く、これが人間に課せられたさだめである、と心得るべきでしょう。                                                       ...

法華三部経の要点42

どうしたら心が清まるか

1 ...法華三部経の要点 ◇◇42 立正佼成会会長 庭野日敬 どうしたら心が清まるか 心を清めねば人類は滅ぶ  前回に、歴劫修行によって心を清めるのが人間に課せられたさだめであると述べました。それについて、なぜ心を清めねばならないのか、という基本的な疑問を起こす人が必ずあると思います。  外国のある動物園に「世界中で最も凶悪な動物」という標示のある一室がありました。暗い入り口を入ってひと曲がりすると、奥に大きな鏡があって自分の姿が映し出されるのです。つまり、世界中でいちばん凶悪な動物は人間だという皮肉です。  人間以外の動物は、いわゆる食物連鎖の摂理によって他の動物を食べることはしますが、自分の同類を殺して食べるのはドブネズミ及びそれに準ずる二、三種とゲンゴロウの幼虫ぐらいのものだそうです。ところが人間は、毎日の新聞が報ずるようにやたらと同じ人間を殺します。戦争ともなれば、何十万・何百万という人間仲間を殺りくします。  そればかりか、近年に至っては、土壌・空気・水・森林等を汚染・破壊することによって大自然をも殺りくするようになりました。まことに地球上で最も凶悪な動物だといわれても仕方はありません。  なぜ人間はこうなったのでしょうか。それは、頭脳が非常に発達したのはよかったのですが、その頭脳をわがままな欲望すなわち必要以上の物欲・快楽欲・権勢欲等々のために無制限に使用し、自然の摂理をどんどん踏みにじってきたからです。このまま進めば、大自然のしっぺ返しを食って破滅の道をたどることは必至です。ですから、人類生き残りのためには、どうしても心を清めることによって貪婪(どんらん)な欲望をほどほどに抑制しなければならないのです。 仏のみ跡をたどるほかない  では、どうしたら心を清めることができるのでしょうか。宗教の信仰以外に道はありません。われわれ仏教徒に言わしめれば、お釈迦さまのみ跡を慕い、ご一生になさったことを見習っていくほかはないのです。  薬草諭品で、ご自分(如来)の使命について「未だ度せざる者は度せしめ、未だ解(げ)せざる者は解せしめ、未だ安ぜざる者は安ぜしめ、未だ涅槃せざる者は涅槃を得せしむ」とおおせられています。これなのです。この仏さまのご活動を見習っていくほかはないのです。  すなわち――貪欲の禍(わざわ)いに満ちた娑婆世界で苦しんでいる人を貪欲から離れた彼岸に度(わた)してあげる。真実の教えを知らず心にとらわれを持つ人に真実の教えを理解させ、とらわれから解放してあげる。そして大安心の境地に達せしめる。最終的には、諸法実相の悟りを得て、久遠本仏と一体になる境地にまで導く――というお釈迦さまのおん働きを、見習うのです。  もちろん、仏の教えを聞き、仏教書を読み、ご宝前でご供養をするのも、心を清める効果は大いにあります。しかし、それはまだ「声聞」や「縁覚」の修行であって、仏道の入り口に過ぎません。大切な入り口ではありますが……。  いちばん大切なのは「菩薩」の修行です。声聞や縁覚の修行の段階ではまだ「自分のため」という意識があるために心が完全には清まりません。それに対して菩薩の修行になりますと、「人さまのため」という愛他の念が心を占めていますので、百パーセント心が清まってくるのです。  では、具体的にどんな行為をすればいいのか。菩薩とは仏さまのお使いですから、仏さまのなさることを見習い、まねをしていくほかはありません。すなわち、「未だ度せざる者は度せしめ」から順々に他の人を導き、ほんとうの意味でしあわせにしてあげればいいのです。  そうした行為が積もり積もって人類全体を救い、回り回って自分をも救うことになるのであります。                                                       ...

法華三部経の要点43

生かされるままに生きる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇43 立正佼成会会長 庭野日敬 生かされるままに生きる 世界はバランスで成り立つ  では、もう一度『三草二木の譬え』にもどって、ごく身近な問題について再考し、この品のしめくくりとしましょう。  「一雲の雨(ふ)らす所、其の種性に称(かの)うて生長することを得て、華果敷(ひら)け実なる。一地の所生・一雨の所潤なりと雖も、而も諸の草木各差別あるが如し」  前にも述べましたように、この世の万物万象はその姿・形は千差万別であるけれども、その本質においてはすべて宇宙の大生命ともいうべき久遠本仏の現れであります。その分身であり、それに生かされているのです。  この経文には植物を例にとって説いてあります。大きな木も小さな木も、同じ雨の恵みを受けて生長するのだけれども、その姿・形も、性質も千差万別である。亭々たる大木もあれば、小さい木でも香り高い花を咲かせるものもあり、小さい草でも美しい花をひらくのもあれば、地味な存在ながら貴重な成分を持つ薬草もある……というのです。  そうした千差万別の植物がバランスよく存在してこそ野山は美しく、健全に成り立っているのであって、もし地球上の植物が杉なら杉、ススキならススキ一色だったとしたら、想像するだけで恐ろしいことです。  植物の世界に限らず、この世の中のすべてがそのとおりなのです。 すべての仕事が大切  植物や、人間以外の動物は、自然のままに生きています。久遠本仏に生かされるままに生きています。そして、自然の摂理のままに死にます。ですから、人間のような貪欲によるところの悩みもなく、また大自然をそこなうこともありません。  ところが人間は、なまじ発達した頭脳を持つばかりに、自分のあり方に不満を覚えたり、ひとの存在を羨(うらや)み妬(ねた)んだり、それが高じては憎悪や怒りを生じ、自身が苦しみ悩むばかりか、他を苦しめたり害したりするのです。それがどんなに愚かなことか、ここでよくよく考えてみましょう。  人間の身体は小宇宙だといわれていますが、まさにそのとおりです。六十兆もの細胞が、それ自身のための働きをしながら、同時に他の細胞の働きを助けつつ、整々とバランスよく活動しています。  一例として、消化器の活動を見てみましょう。食べ物を食べると、胃は自然に動き出し、それをドロドロにして小腸に送り、そこで栄養分が吸収され、残りカスが大腸に送られる……これが目立った大筋ですね。  ところが、その前に十二指腸という短い管があって、そこで、ちょっとわき道にある膵臓(すいぞう)から出る膵液や胆のうから出る胆汁が加わって小腸へ送られるのです。その胆のうとか、膵臓とかいう目立たない存在がなければ、消化という働きは絶対に成立しないのです。  社会における人間一人一人のあり方もこれと同じです。大通りとか表通りといってもいい職業や地位にいる目立った存在もあれば、路地裏のような目立たない仕事で働く人もあります。しかし、――社会に害悪を流すような仕事はもちろん例外として――どんな職業・地位でも世の中の大切な歯車の一つにほかなりません。さきにあげた胆のうや膵臓のように、それがなくては社会の機能が完全に回転しないのです。  電車に乗った時のことを考えると、もっとわかりやすいかもしれません。私たちの目に止まるのは運転士さんや車掌さんだけです。ところが、電車がちゃんと動くには、送電に携わる人、線路に異常がないかを常に見守る人、あるいは電車が時刻通りに運行されるようにと管理する人など、私たちの目にふれないところで活躍されている方々が、大勢おられるのです。  毎日毎日を黙々として勤労されている方々に申し上げます。あなた方がいなければ社会は成り立っていかないのです。どうかそのことを自覚してください。それが久遠の仏さまに生かされるままに生きるための尊い自覚なのであります。                                                       ...

法華三部経の要点44

仏に近づく現実的な道は

1 ...法華三部経の要点 ◇◇44 立正佼成会会長 庭野日敬 仏に近づく現実的な道は 仏とは完全な自由人である  授記品に入ります。「法華経は授記経である」といわれているぐらい、この授記ということは法華経の大眼目であります。これは、お釈迦さまが弟子たちに対して「そなたはたしかに仏になりうる」という保証を与えられることです。ただし、それには、この品の摩訶迦葉への授記のお言葉に「(そなたは)未来世に於て当に三百万億の諸仏世尊を奉覲(ぶごん=尊いお方にお目にかかること)して、供養・恭敬・尊重・讃歎し、広く諸仏の無量の大法を宣(の)ぶることを得べし。最後身に於て仏になることを得ん」とあるように――こののち数えきれないほどの生まれ変わり(輪廻)をくりかえしながらこういう行いを続ければ――という難しい条件がつけられているのです。  すべての人間には仏性(仏となりうる素質)があるのですから、修行次第では最後身(人間として修行する最後の身で、生死輪廻の最終段階)において必ず仏となりうるわけです。  といっても、現在ふつうの人間としてセチガライこの世で生活しているあなたは「とても自分なんぞは……」と、まるで違う世界の夢物語のように思うでしょう。しかし、あながちそうではないのです。  右に述べられているような「仏」とは、輪廻を解脱し、究極の悟りを完成された方のことですが、それはまずさておいて、いわゆる「仏さま」とはどんな人かといえば、一口に言って「完全な自由人」と定義していいでしょう。 こだわりがなければ自由  人間の歴史は「自由の欲求」の歴史だといってもいいのです。原始時代からこのかた、飢えからの自由・自然の脅威からの自由・疾病からの自由等々を求めて生きてきました。さらに、だんだん文化が進むにつれて、貧困からの自由・圧制からの自由・言論の自由等々、人間社会に新しく生じてきた不条理や圧迫からの解放をも望んで工夫と努力を重ねてきたのです。  ところが、現象的な意味においては完全な自由はありえないのです。早い話が、どこへでも自由に楽々と行きたいとして発明された自動車でしたが、半面、それは排ガスによる大気汚染や騒音公害につながり、渋滞という現象に束縛されることが多々あるではありませんか。また、労働の苦から解放されようとして開発されたさまざまな生産機器や化学物質が、一方ではさまざまな環境破壊を引き起こして、われわれに新たな苦を強いているではありませんか。  それならば、完全な自由はどこにあるのでしょうか。それは心にあるのです。現象にとらわれれば束縛が付きものですが、心がそれにこだわらなければ、束縛はあっても無きに等しく、そこにこそ真の自由があるのです。身近な例を引けば、「人は歩道を歩け」というルールがありますが、その束縛をこだわりなく守っておれば安心して道を歩くことができます。そこに自由があるのです。もしかりに「天下の公道だ。どこでも歩く自由があるんだ」といって車道を歩いたとしたらどうなるか、言わずと知れたことでしょう。  お釈迦さまは「心の自由」を完全に達成したお方でした。本稿の第三十二回に紹介した盤珪禅師の言葉のように「お釈迦さまは心に一物も持っておられなんだによって、三界はわがものと、世の中の主になられたのじゃ。どこでも自由に寝起きされたのじゃ」といったお方だったのです。この「一物」とは「我(が)へのこだわり」にほかなりません。  ですから、「究極の悟り」という最高の目標は、きちんと持っているべきですが、この世において仏に近づく第一歩としては「応身仏」であるお釈迦さまを見習って「心のこだわりをなくすること」なのです。「我に執着しないこと」です。「道理に対して素直になること」です。 ...

法華三部経の要点45

授記とは人生の方向づけである

1 ...法華三部経の要点 ◇◇45 立正佼成会会長 庭野日敬 授記とは人生の方向づけである 歴劫修行とはどんなことか  仏となることを保証される授記の条件の随一は歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう)ということです。何百ぺん何千ぺんと生まれ変わりを繰り返しながら仏性を磨く修行をすることです。  仏教では、人間には生まれ変わりがあることを最初から認めています。『スッタニパータ』にもこうあります。  「(一五二)諸々の邪(よこし)まな見解にとらわれず、戒めをたもち、知見を具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることはないであろう」(中村元訳『ブッダの言葉』岩波文庫)  これを裏返せば、そこまでいたっていない人は、再びある母胎に宿ってこの世に生まれ変わり、修行を続けねばならない――ということになります。  法華経に至っては、序品に、文殊菩薩が弥勒菩薩に向かって「今のわたしは過去世の妙光菩薩の生まれ変わりであり、そなたはわたしの弟子だった求名の生まれ変わりなのだ」と告げたのを皮切りに、最後の章の勧発品に「この人(法華経の実践者)は死んだのち忉利天(とうりてん)に生まれるであろう」といわれるくだりに至るまで、全巻――人間とはこの世限りのものではない――という真実に貫かれているのです。ですから、歴劫修行を抜きにしては法華経は文字通り骨抜きになってしまうのです。 進歩こそ本然のあり方  仏教では、この世での修行の総仕上げをして完全に解脱した(とらわれから離れた)人はただちに浄土(仏界)に赴き、反対に、行いも心も濁りきったままの人は直通で地獄に行くものとされています。そのどちらでもない普通の人は、中有の身としてしばらく時を過ごし、その間に、その人のそれまでの業(行為の蓄積)によって、六道もしくは仏界のうちのどこかに生まれ変わるとされています。  ですから、この「中有」にある間に、われわれが真心からなる追善供養として『経典』を読誦することが大事なこととなってくるのです。また、地獄、餓鬼、畜生などの悪趣に生まれ変わった場合はもちろん、第四十一回にも書きましたように、幸い天上界に赴かれた人も、まだ「仏」となられたわけではありませんから、われわれが読誦する経典の功徳をそういう方々へ回し向け、一刻も早く成仏されるよう念ずるわけです。  一方、現世に生きるわれわれもいつかは必ず死ななければなりません。しかし、さきほどから申し上げているように、われわれはけっしてこの世限りのものではありません。とすれば、死んだ後のことも考えておかねばなりません。はるかな未来世へと続く自分自身の生き方を心に決めておかねばなりません。  この世でも目先の本能や欲望の満足ばかりを追ってアクセクと人生を送り、死んでから幸いにもまた人間に生まれ変わったとしても、やはり同じような人生を送り、永遠にそれを繰り返すとしたら、何という無意義な生き方でしょうか。人間は「完全な自由」を目指して絶えず進歩していくことが本然のあり方なのですから、右のような生き方の人は天の摂理に反する最低の存在といわざるを得ません。  ですから法華経は、この世に生きているうちは完全な自由人である「仏」となることを目指し、そのような「人生」を重ねて「最後身」において究極の悟りを得た「仏」となることを目標として人生を送れ、と教えているのです。  「授記」というのは、そのような人生の軌道に乗ったと認められる弟子たちに、お釈迦さまが与えられた保証なのですが、後世の凡夫であるわれわれとしては「このような境地を目指すのがほんとうの生き方であるぞ」という、人生の方向づけにほかならないと知るべきです。                                                       ...

法華三部経の要点46

言葉の力の偉大さを知ろう

1 ...法華三部経の要点 ◇◇46 立正佼成会会長 庭野日敬 言葉の力の偉大さを知ろう 「大王の膳」の譬え  この授記品でまず摩訶迦葉が仏と成る保証を与えられました。すると、目連・須菩提・迦旃延らが偈(げ=詩)を頌(じゅ)して「世尊、どうぞわたくしどもにも仏となる保証をお授けくださいませ」とお願いしました。  その偈にはいわゆる「大王の膳(ぜん)」の譬えが説かれています。すなわち「飢えたる国より来って 忽ちに大王の膳に遇わんに 心猶お疑懼を懐いて 未だ敢て即便ち食せず 若し復王の教を得ば 然して後に乃ち敢て食せんが如く 我等も亦是の如し」というのです。  ――これまで長いあいだ自分たちが仏に成りうるなどとは思ってもいなかったのに、この法華経の説法において世尊は突然そのようなことをおおせいだされた。そして、まず舎利弗がその保証を与えられ、次にここで摩訶迦葉もその保証を頂いた。飢餓の国からはるばる来て、大王から最高のごちそうを頂いたようなものである。われわれの前にもそのごちそうが出されている。頂いていいものとはわかっているけれども、やはり一抹の不安がある。大王が「食べていいぞ」と一言いわれれば安心して頂戴(ちょうだい)できるのだが――という心持ちです。  三人の微妙な心理がよく描かれています。目連は「神通第一」、須菩提は「解空(空をよく理解している)第一」、迦旃延は「論議(教えの要点を論ずること)第一」というお釈迦さまのお墨付きをもらっている教団中の逸材です。とはいえ、自分たちはもろもろの菩薩たちとは異質の、一段低い信仰者だと思い込んでいたのでした。ところが、この法華経の方便品以降の説法で自分たちも仏と成る軌道の上にいることがわかり、しかも、現に舎利弗・大迦葉という声聞仲間が授記されたのですから、自分たちもその資格があるぞと躍り上がりたい気持ちになっているのです。しかし、お釈迦さまから実際に成仏の保証のお言葉を頂かないうちは、一抹の不安がまだ心の隅にあるのです。上の「大王の膳」の譬えはその気持ちを率直に表白しているわけです。 言葉は神であり仏である  言葉というものはそれほど大切なものです。  われわれ立正佼成会会員が朝夕読誦する経典の開経偈にも「色相の文字は即ち是れ応身なり」とあります。「法華経に説かれている言葉、それを表している文字は、とりもなおさずお釈迦さまのおん身そのものなのである」というのです。  キリスト教でも同じようなことを言っています。聖書のヨハネ伝の最初に「太初(はじめ)に言(ことば)ありき。言は神と共にあり、言は神なりき」とあります。  言葉は仏であり、神であるというのです。善い言葉には神仏のお力が宿ります。人の運命を変えるばかりか、環境をも変える偉大なはたらきをもするのです。道元禅師の名言のように「愛語よく回天の力あり」なのです。  逆に、よくない言葉を吐くことは、仏を汚し、神を冒涜(ぼうとく)する行為です。そして、人をおとしめ、傷つけ、不幸にします。  われわれ布教者は、とりわけ言葉を大切にしなければなりません。われわれの一言一言が人を幸せにし、世の中を変えていくのです。愛の言葉、思いやりの言葉、慰めの言葉、励ましの言葉、それがわれわれの言葉でなくてはなりません。  場合によっては折伏(しゃくぶく=相手を強く責めて回心させる)も必要ですけれども、それを用いるのはよほどの徳を具えている人でないと逆効果の危険があります。やはり摂受(しょうじゅ=相手を柔らかに抱き取りおだやかに説得する)が本筋であると心得るべきです。 いずれにしても、お導きや手どりをする人、あるいは人の上に立つ人の言葉は思いがけないほどの力を持つものです。大切の上にも大切にしましょう。                                                       ...

法華三部経の要点47

魔をも向上のエネルギーに変える

1 ...法華三部経の要点 ◇◇47 立正佼成会会長 庭野日敬 魔をも向上のエネルギーに変える 魔には二種類ある  お釈迦さまは摩訶迦葉への授記のお言葉の中で「魔事あることなけん。魔及び魔民ありと雖(いえど)も皆仏法を護らん」とおおせられています。はるか未来の後の理想社会のこととも受けとれましょうが、しかし、これをわれわれはいま現実に生きる世界の真実と受けとめることが大切だと思います。  魔というのは、ひっくるめていえば、正しい道を妨害する邪(よこし)まな存在で、「邪魔」という日常語もそこから出ているのです。この魔には二種類があります。一つは外から襲ってくるもので「身外の魔」といい、もう一つは自分自身の内に潜むもので、これを「身内の魔」といいます。  お釈迦さまが菩提樹の下で最終的な禅定に入られたとき、魔やその手先たちが入り代わり立ち代わりやってきてお悟りの邪魔をしました。その魔の正体については二説があります。一つは、実際にそうした悪霊がいたという説。すなわち身外の魔です。もう一つは、人間の潜在意識に巣くっている悪い経験の集積(身内の魔)だという説です。この後者のほうがより現実的だと思いますので、それについて吟味してみましょう。  現在でも、すぐれた指導者のもとでなく独りで座禅などをしていた人がそうした潜在意識の表面化に襲われて異常な状態になった例もあるようです。しかしお釈迦さまは、たぐいなき精神力と、また諸天善神の加護によって、そのような危機を見事に乗り切り、悟りをひらかれたわけです。  人間は、原始的な生物だった時代からこのかた、自身の生命の維持と種族の保存のためにさまざまなエゴの行為をしつづけてきました。残虐な殺りくをもあえてしました。そうした経験がすべて潜在意識の底に沈んでいてなかなか消え去らないのです。  ですから、倫理・道徳の教える道を精いっぱい守っていても、その潜在意識からつき上げてくる悪念にそそのかされて、ついよくない行為をし、自分をも不幸にし、ひとをも傷つけ、社会にも害悪を流してしまうわけです。  そうした深層意識がつくる「罪」を防ぐものは宗教の信仰しかありません。宗教の信仰は、まず顕在意識(表面の心)を清めます。さらに、潜在意識までも清めますので、心奥から突き上げてくる悪念をも抑止するのです。こんなはたらきをするものは、ほかにはないのです。 「魔があっても魔事がない」  さらに、大乗仏教の教義に即していえば、信仰がさらに進めば潜在意識に潜む悪をも大きく包容してしまいますので、悪が悪のはたらきをしなくなるのです。かつてわたしが本紙の『会長随感(平成1・10・13)』に「人間の体は五十兆もの細胞の働きで保たれているのですが、その二倍もの細菌が体の中で共存しています。それが、間違った生活で体力が落ちると、よくない菌がどんどん増えてバランスが崩れてくる。これが病気です」と書きました。  それと同じで、潜在意識に潜む悪菌をも「やはり自分の一部なんだ」と包容しますと、それらが全人格のバランスをつくる一員となりますから、わるさなどをしなくなるのです。これが「魔があっても魔事がない」ということにほかなりません。  それどころか、そういった悪菌が自分に試練を与えて精神を鍛えてくれるエネルギーとなるのです。大乗仏教でいう「煩悩即菩提」というのはそのことなのです。お釈迦さまが、前世の物語にことよせて「わたしが正覚を成じたのは提婆達多という善知識(よき友)のおかげである」とおっしゃったのも、そのことにほかなりません。提婆という「悪」をも包容してしまわれたればこそ、あの比類なき大人格が形成されたのです。                                                        ...

法華三部経の要点48

魔に護らせるのが仏法

1 ...法華三部経の要点 ◇◇48 立正佼成会会長 庭野日敬 魔に護らせるのが仏法 悪を知る者が悪を除きうる  前回に、ご成道直前のお釈迦さまを襲った魔ものは潜在意識に潜む過去の経験の表面化だったという説を紹介しましたが、「お釈迦さまほどの人格者がなぜ?」という疑問を持たれる人もあろうかと思われますので、そのことについて説明しておきましょう。  潜在意識の底に沈んでいるものは、前回にも書きましたように、人間がまだ原始的な生物だったころからの経験の積み重ねであって、なかなか簡単に消えるものではありません。  天台大師も、一念三千の法門の大事な骨格である「十界互具」において、仏界にも地獄・餓鬼・畜生・修羅等々の各界が併存しているのだと説いています。これを狭く、人間の深層意識の考察だと考えても、じつにすばらしい洞察だと思います。と同時に、地獄に落ちる人にも仏に成る種子がちゃんとあるのだと言っていますから、われわれ凡夫にとっては大いなる救いです。  そして大師は、『観音玄義』の中で「仏は修悪(しゅあく)を断じ尽くして、但(ただ)性悪(しょうあく)あり」と言っています。「仏は悪を行うことを断じ尽くしておられるが、性(素質)としての悪はやはり持っておられるのだ」というのです。ということは、逆に見て、素質としての悪を具有していながらも悪を行われることがまったくないところが、仏さまがたぐいなき人格者であられるゆえんだ……ということになりましょう。  さらに『観音玄義』に「仏は性悪を断ぜずと雖も、而も能く悪に達す。悪に達するを以て悪に於いて自在なり。(中略)自在を以ての故に、広く諸悪の法門を用いて衆生を化度(けど)す」ともあります。「仏さまは悪というものによく通達しておられるからこそ、悪に染まっている衆生を教化することがおできになるのだ」というのです。まことにそのとおりで、悪のいろいろな姿を知っていなければそれを除く方法も心に浮かんでくるはずがありません。このことは、仏法の広宣流布にたずさわるわれわれもよくよく心得ていなければならないことだと思います。 日本の進むべき道もここに  もう一つ、「なぜ魔が仏法を護るのだろうか」という疑問を持つ人もあるでしょう。  大乗仏教、特に法華経は悪を大きく包容する教えです。提婆達多品にそれがよく表れていますが、陀羅尼品においても、もと凶悪な鬼女でお釈迦さまに教化されて善神となった鬼子母(きしも)をはじめとする恐ろしげな鬼女たちが「わたくしどもは誓って説法者をお護りします」と申し上げ、仏さまは「善哉、善哉」とお褒めになっておられます。  現実の世の中から悪が完全になくなることは考えられません。ですから、仏教は、悪をも包容し、あるいは自らの精神を鍛えるために活用し、あるいはそれを教化することによって社会に役立たせようと図るのです。  前回に引用した『会長随感』に、宇宙飛行士が無重力状態で二百日も暮らすと、ふくらはぎの肉が三〇%も落ちるという事実を紹介しましたが、精神もそれと同様で、あまりにも抵抗のない、いわば無重力や無菌室の中にいるような状態が続きますと、向上進歩のエネルギーが衰弱してしまいます。いわゆる「青白き善人」となってしまう のです。  これはたんに個人にとってばかりでなく、大小の団体にとっても、あるいは国家にとっても、大事なポイントだと思います。特にこれからの日本はいろいろな意味で世界のリーダーとなるべき使命を背負っていますが、世界にはめんどうな国があることは否めません。それらを避けて通ったり、背を向けたりすることなく、お釈迦さまの包容力を見習って、そのめんどうさを良いエネルギーに変える縁となり、世界平和に寄与してもらうよう努力することこそ、日本が真のリーダーになるために歩むべき道でありましょう。  このように「魔をも仏法を護るよう導く」これが仏法の偉大なところなのです。                                                       ...

法華三部経の要点49

われわれは久遠本仏と一体

1 ...法華三部経の要点 ◇◇49 立正佼成会会長 庭野日敬 われわれは久遠本仏と一体 宇宙はどのように誕生したか  化城諭品では、お釈迦さまと、われわれの宿世の因縁が説かれますので、最初から最後まで神秘的な、不可思議な叙述に満ちています。しかし、それらはすべてわれわれの信仰や実生活にとって非常に大切なことが象徴的に述べられているのですから、そのつもりで学んでいくことにしましょう。  まず、お釈迦さまは弟子たちにこう問いかけられます。「この世界全体の土を砕いて細かい粉にし、それを持って虚空へ飛び出し、千の世界を通り過ぎるごとにその粉を一粒ずつ落としていって、全部の粉がなくなるまで行ったとしたら、どれほどの国土を通ったことになるか、それがわかるか」。  弟子たちが茫然となって「わかりません」と答えると、お釈迦さまは、「大昔に大通智勝如来という仏がおられたが、その時代から今日までには、いま言った国土の数よりもっと多い年月がたっているのだ」とおおせられます。  このことは「宇宙の大生命ともいえる仏は、宇宙が出来たときから、いやその以前から存在しておられたのだ」という真実を象徴的に述べられたものです。この仏さまを、後世の仏教者は「法身仏」または「久遠実成の本仏」とお呼びしているわけです。  現代の科学では、百五十億年(一説では二百億年)前に濃密なエネルギーの塊があってそれがとつぜん大爆発を起こし、ものすごい熱と放射線を放出した(これをビッグバンという)、それが宇宙生成の始まりだとしています。  では、どうしてそのビッグバンが起こったのかということになると、まったく不可解なのです。文藝春秋(昭五七・九)に、小尾信弥東大教授と、宇宙論を深く研究していた赤塚不二夫氏との対談が載っていますが、その中で赤塚氏が「ビッグバンの前にはヤル気だけがあった」と言いだしたところ、小尾教授もそれを肯定し、「ということは、結局この宇宙は神さまがつくったということなんですよ。だから、ヤル気があったという表現は、神さまがつくったというのと同じことなんですね」と答えておられます。 久遠本仏に生かされている  『広辞苑』によれば、「意志」とは「こころざし。思慮・選択・決心して実行する能力」とあります。ですから、ビッグバンを起こしたヤル気とは「宇宙意志」と言い換えることもできましょうし、「宇宙の大生命」と名づけることもできましょう。それをわれわれ仏教徒は「久遠実成の本仏」とお呼びするわけです。  こう見てきますと、われわれ人間というものもハッキリしてきます。『躍進』の『法華経讃歌』(平1・12)に紀野一義先生がこう書いておられます。  「一九八七年二月二十四日に、大マゼラン星雲の中に超新星が生まれたことがわかり、この超新星一九八七Aの光の分析をしたところ、その元素の配列が、人間の体を構成している元素の構成比と全く同じであることがわかった。これによって人間は『星のかけら』であることがわかり、宇宙と密接に結びついて生きていることがわかったのである」  つまり、ビッグバンを起こしたヤル気あるいは「宇宙意志」のことを、われわれ仏教徒は「久遠実成の本仏」とお呼びしていると説明しましたが、それと、この紀野先生の「人間は『星のかけら』であり、宇宙と密接に結びついて生きている」ということを合わせて考えてみますと、「われわれすべてのいのちは、久遠本仏に包摂され、そして生かされているのだ」ということがよくわかるのです。そして、より本質的に見れば「われわれ人間と久遠本仏とは一体である」ということもわかります。これは、たんなる信仰者としての思い込みではなく、以上紹介してきたことのように、宇宙と人間との結びつきに静かに思いめぐらしてみれば、決して非科学的なことでなく、確かな現実であることが実感できましょう。 ...

法華三部経の要点50

人の本質を見れば一体感が生ずる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇50 立正佼成会会長 庭野日敬 人の本質を見れば一体感が生ずる 真の意味の「人間発見」  化城諭品には、深い意味を美しい情景に象徴させた表現がたくさんあります。その随一は次の一節でしょう。  「大通智勝仏阿耨多羅三藐三菩提を得たまいし時、十方各五百万億の諸仏世界六種に震動し、其の国の中間幽冥の処、日月の威光も照すこと能わざる所、而も皆大に明らかなり。其の中の衆生各相見ることを得て、咸(ことごと)く是の言を作(な)さく、此の中に云何(いかん)ぞ忽ちに衆生を生ぜる」  現代語に抄訳しますと、こういうことです。――大通智勝仏が無上の悟りを得られたとき、十方世界の諸仏の世界が感動にうち震い、それらの世界の中間にある日月の光も届かない暗やみの場所が急に明るくなった。そこにいた人間たちは、自分のまわりに大勢の仲間がいることを発見して、「おや、どうしてこんなに大勢の人間が急に生じたのだろう」と言い合った――  われわれは、身の回りに多くの人間を見ています。それはたいてい姿・形を見ているだけで、その本質を見ていません。すべての人間が宇宙の大生命ともいうべき久遠実成の仏の子であるという本質を見ていないのです。ですから、見ているようで、ほんとうは見ていないのです。そうした心の状態を「幽冥の処、日月の威光も照すこと能わざる所」と言ってあるわけです。  ところが、大通智勝仏が仏の悟りを得られると、にわかにそのやみの世界が明るくなった。そして、まわりにだれもいないと思っていたのに急に大勢の人間仲間がいることが見えてきた。その意味はもはや説明の要もないでしょう。 「縁」というものを見直そう  いまの日本には、ここに説かれている「幽冥の処」にいる状態にある人がたくさんいるのではないでしょうか。一緒に住んでいながら、親が子を見ていない。子にも親が見えない。夫には妻が見えず、妻も夫が見えない。見ようともしない。だから、一日じゅう口をきかない親子が生まれ、帰宅拒否の夫が生まれ、離婚願望の妻が生まれるのです。  こういう人たちにこそ仏法を説いてあげたいものです。せめて仏教でつよく教える「縁」ということをじっくりと話してあげたいものです。  「袖(そで)すり合うも他生(たしょう)の縁」という言葉があります。道で見知らぬ人とすれ違い、袖と袖とが触れ合った。それも前世からの因縁によるものだというのです。「他生」でなく「多生」だという説もあります。何十ぺん・何百ぺんも死に変わり生まれ変わりながらつくりあげてきた縁があってこそ、袖を触れ合ったのだというのです。  ただ一瞬、袖を触れ合っただけでもそうなのですから、ましてや、親子・夫婦となった縁がどれぐらい深いものか、それを考えてほしいものです。  いまこの地球上には五十億の人間が生きています。あなた方夫婦はその中の二人です。「五十億分の二」という考えられぬほどの希少な確率で結び合わされた二人です。親子ともなれば、結び合いどころではない。もともと血を分けた仲なのです。同じ細胞から分かれた細胞を持ち、共通の遺伝子を持つ間柄なのです。  こういう深い深い「縁」というものに思いを致し、それをしみじみとかみしめれば、相手に対する「愛(いと)しい」という感情が湧(わ)いて来ざるを得ないはずです。「愛しい」という感情が湧けば、心の表面を去来する反目とか疎隔といった気持ちはたちまち解消してしまいます。なぜならば、その瞬間に相手との一体感が生ずるからです。この一体感こそが、相手と自分をほんとうに結び合わせるものなのです。  そして、この一体感を夫婦・親子といった身近なものから、隣人、そして世界中の人々へと少しずつでも拡大していくことです。「此の中に云何ぞ忽ちに衆生を生ぜる」といううれしい驚きも、ここまで深まってこそ、ほんとうの幸せに到達するものと知るべきでしょう。                                                                     ...

法華三部経の要点51

天人でさえ修行が大切なのだ

1 ...法華三部経の要点 ◇◇51 立正佼成会会長 庭野日敬 天人でさえ修行が大切なのだ 人間界と天上界との交流  化城諭品には天上界における出来事が、まるで目に見えるように描写されています。天上界とは、薬草諭品(本紙41回)のところでも述べましたように、仏法を聞いて実践した人が死後就くことのできる「善処」です。お釈迦さまの言行を比較的忠実に伝えているという『スッタニパータ』四〇四にもこう説かれています。「法(に従って得た)財を以て父母を養え。正しい商売を行え。つとめ励んでこのように暮している在家者は、(死後に)『みずから光を放つ』という名の神々のもと(天上界=六欲天の総称)に生まれるであろう」 (中村元先生訳岩波文庫』による)。  つまり仏教は、たんに現世のみを対象にした倫理・道徳の教えにとどまらず、「来世までをも念頭において正しい生活をせよ」という教えにほかならないのです。ですから、「輪廻」ということを信じないかぎり、仏教(とくに法華経)の信仰は成り立たないのです。 安楽な暮らしをお返しする  さて、化城諭品には、大通智勝仏が悟りを開かれると、人間界ばかりでなく、もろもろの天上界の宮殿までが輝き出した、とあります。この宮殿というのは、天上界における安楽な暮らしを意味しているのです。天人は何の苦しみも悩みもなく、安らかに暮らしています。しかし、そういう暮らしが永久に続くとなれば、いったいどんな気持ちになるでしょうか。よほど怠け好きなものでないかぎり、退屈で退屈でたまらなくなるはずです。  そこへ、何か知らぬが新しい光が差してきた。新鮮で、はつらつたる力のみなぎった不思議な光明です。天人たちは寄り集まって「いったいこれはどうしたわけだろう」と話し合いました。その結果「どうやら地上にすばらしい仏さまが出現されたに違いない」という結論に達しました。  そこで地上をあまねく探してみると、大通智勝仏が菩提樹の下で大光明を発していらっしゃるのが見えてきました。天人たちは自分の住んでいる宮殿ごと虚空を飛んで行って大通智勝仏のみもとに参り「この宮殿を世尊に奉ります。どうぞお受けくださいませ。その功徳によってわたくしどもも仏道を成じ、またその功徳を一切衆生に及ぼし、みんな一緒に仏道を成じたいと願っております。どうかわたくしどもにも仏さまの教えを、わかりやすくお説きくださいませ」とお願いしたのです。  天上界といえども、まだ仏界ではありません。そこでの安楽な生活に慣れきって本質的な修行を怠っておれば下界へ墜落する運命が待っていることを、お釈迦迦さまは「天人の五衰」(本稿41回参照)ということで教えられています。   では、どのような修行をしなければならないのか。自らも菩提心(仏の悟りを得たいという志)を起こし、その修行のために他の人にも菩提心を起こさせる努力(菩薩行)をすること、これが随一最高の修行なのです。 化城諭品の天人たちもそのような決意を起こし、仏さまから頂いていた安楽な暮らし(宮殿)を仏さまにお返しして、自ら苦労を求めて衆生教化に献身しようとしているわけです。   現実の世界である「娑婆」に生きるわれわれにとっても同じことが言えます。われわれがどんなに物質的に恵まれ、安楽な暮らしをしていても、それにおぼれて酔生夢死することなく、真の「成仏」を求め、その修行のために「他の人びとを同じ仏道へみちびく苦労にチャレンジすること」が最高の生き方なのです。  仏道修行とはそうした努力に尽きるといっても言い過ぎではないでしょう。ですから、この化城諭品の「願わくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼし 我等と衆生と 皆共に仏道を成ぜん(願以此功徳=がんにしくどく・普及於一切=ふぎゅうおいっさい・我等与衆生=がとうよしゅじょう・皆共成仏道=かいぐじょうぶつどう)」は普回向(ふえこう)の偈といって、法華経系の宗派ばかりでなく、日本の各宗どちらでも、仏さまへのお誓いのことばとして唱えているのであります。 ...

法華三部経の要点52

四諦・八正道は不滅の教え

1 ...法華三部経の要点 ◇◇52 立正佼成会会長 庭野日敬 四諦・八正道は不滅の教え 人生苦を滅するには  化城諭品には仏教の大切な法門が二つも説かれています。その一つは四諦の法門です。経文にはこうあります。  「即時に三たび十二行の法輪を転じたもう。(中略)謂わく是れ苦・是れ苦の集・是れ苦の滅・是れ苦滅の道なり」  「三たび十二行の法輪を転じたもう」というのは、四諦の教えを三とおりにお説きになったので、四掛ける三は十二で、十二行の法輪というわけです。  「是れ苦」というのは、苦は人生につきものだということを諦(さと)れということです。とりわけ、老いること、病むこと、死ぬことの三つは絶対に避けられないものです。  ですから、さまざまな苦を酒や麻薬やつまらぬ遊びなどで一時逃れにごまかしたりせずその現実を直視しなさいと教えられているわけです。吠(ほ)えかかる犬に背を向けて逃げようとすれば、かえって追っかけてくるものです。立ち止まって正面から見据えると、けっして飛びかかってはきません。人生のあらゆる苦もそれと同じなのです。  「苦の集」の集というのは集起(じゅうき)の略で、苦をもたらすトラブルの原因は表面は一つのようでもその奥を見極めるとさまざま原因が集まっているのだ、ということです。  そうした原因を取り除きさえすれば、人生苦というものは必ず消滅するものだというのが「苦の滅」の意味です。  最後の「苦滅の道」というのは、苦を滅する道(というよりは苦を起こさない道というほうがいいかもしれません)は、ものごとを正しく見(正見)、正しく考え(正思)、正しく語り(正語)、正しい行いをし(正行)、正しい生活をし(正命)、自分の使命に向かって正しく励み(正精進)、心を常に正しい方向へ向けており(正念)、境遇の変化によって心を動揺させることなく正しく保っていること(正定)の八つの心構えです。  この八正道は、鹿野苑で最初の仏弟子となった五比丘に対するご説法から、クシナガラで最後の仏弟子となったスバッダに対するご説法まで終始一貫しているのです。ですから、われわれは常に現実の自分の行為をこの八正道に照らし合わせてみることが大切なのです。 布教の三つのタイプ  さて、この四諦の教えを三とおりにお説きになったというのは次のようなことなのです。  第一に、「示転」といって、いまわたしが解説したように、教えをそのままの形でお示しになることです。  第二に、「勧転」といって、教えの実践をお勧めになることです。示転で教えをお示しになっても、すべての人がすぐそれを自分の修行や生活の上に実践するとはかぎりません。ですから、お釈迦さまは言葉を尽くして「実践こそが大事であるぞ」とお勧めになるわけです。  第三の「証転」というのは、実際の証拠をお見せになることです。教えを示され、その実践を勧められても、ふつうの人は「果たしてそれで救われるのだろうか」と疑念をいだくものです。そこで「ここに生きた証拠があるぞ」とその事実をお示しになれば、「なるほど。それではわたしも……」という気持ちになるものです。  われわれ後世の布教者は、特にこの「証転」を大事にしなければなりません。紋切り型に教えを説き、口先だけでその実践を勧めてみても、人はなかなか動くものではありません。証転にこそ人を動かすエネルギーがあるのです。わたしが体験説法を重んずる理由もそこにあるのです。                                                       ...

法華三部経の要点53

十二因縁は人間教育の教え

1 ...法華三部経の要点 ◇◇53 立正佼成会会長 庭野日敬 十二因縁は人間教育の教え 差別心が争いを生む元凶  化城諭品に説かれる根本仏教の大切な二法門のもう一つは、十二因縁の教えです。これは、人間がどのように生まれ、どのように成長し、どのように老死に至るかという原因と条件(因縁)およびその結果との関連を十二の段階に分けて説き、それらの変化・成長が心の変化・成長と密接にからまっていることを解明されたものです。  しかも、単に個人の人生におけるものだけでなく、同時に、数十億年前の原始的生物から今日の人間に進化するまでの経過をもたどってあるのです。それらの所説は、二十世紀の生物学者・生理学者・心理学者が解明したこととほぼ一致しており、二千五百年も前に直観によってそれを悟られたお釈迦さまの偉大さには、ただただ驚嘆のほかはありません。  その法門全体については、紙面の都合上ここで解説し尽くすことはできませんので、わたくしの著書『法華経の新しい解釈』や『新釈法華三部経』の化城諭品の章を読んで頂くとして、ここにはその要点中の要点だけを述べることにしましょう。  この記事を読んでいる方はすでに青年期に達しておられる(あるいはそれ以上の)方だと思いますので、十二因縁の中の「取」以下に特に心を留めて頂きたいと思います。経文にはこうあります。  「取は有に縁たり、有は生に縁たり、生は老死・憂悲・苦悩に縁たり」  「取」というのは、愛着を覚えるものごとをどこまでも追い求めていこうとする欲望と、いったん手に入れたものはしっかりつかまえていたいという気持ち。反対に、ただ感情的にきらいなものに背を向ける気持ち。それを「取」と言います。  こうした「取」が生じると、同じものごとに対しても、人によって違った感情・違った考えを抱くようになります。そこで、他人と自分との間の差別という意識がハッキリしてくるのです。そうした差別心を「有」と言います。  その差別心があればこそ、人と人、民族と民族、国と国との対立が生じ、争いが起こり、苦の人生が展開するようになるのです。ですから、仏教で説く「人間の本質すなわち仏性の平等」をわれわれ自身が常に心中に確立しているばかりでなく、その真実を多くの人々に知ってもらうように努力しなければならないのです。それをしないかぎり、人間みんなが苦から逃れることはできないのです。 胎教と幼児教育の大切さ  もう一つの要点は、これから生まれてくる生命を、また、二、三歳になった幼児たちを健全に育てるために、十二因縁の前半「受は愛に縁たり」までを深く理解することです。     「識は名色に縁たり」は、まだ胎内での状態です。ところが、生理学者が明らかにしたところによりますと、人間の大脳皮質の神経細胞の数は約百五十億個あるが、驚くべきことにはその百五十億個が胎児のうちにすべてつくられてしまうのだそうです。ですから、妊娠中の母親の精神のあり方がその子の一生に重大な影響を与える……というのです。  昔は胎教ということをやかましく言いましたが、ひところの浅い科学万能思想から、近年までそれが無視されていました。しかし、最近の進んだ科学は再びそれをよみがえらせたのです。お釈迦さまが十二因縁をお説きになった真意の一半はやはりそこにあったのではないかと推察できます。  また、「六入は触に縁たり」から「受は愛に縁たり」までは、幼児期の段階です。この時期の保育の善しあしがまたその子の一生にとっての重大な分かれ道になることは言うまでもありません。特に「受」すなわち感性を美しく育てることを、世の親ごさんたちはよくよく心得て頂きたいものであります。 ...