仏教者のことば(46)
立正佼成会会長 庭野日敬
絶えず善行を行なっていると、だんだん情緒が美しくなっていって、その結果、他の情緒がよくわかるようになり、それでますます善行を行なわずにいられないようになるのである。
岡潔・日本(春宵十話)
智慧光の差し込む順序
岡潔(おか・きよし)理学博士は、文化勲章を受章した世界的な数学者ですが、仏教への帰依が深く、その理解の透徹さはまれに見るものがあります。なまじっかな専門家よりずっとすぐれた、真の仏教者というべき方です。
博士は「善行」ということについて、「フランスのアンドレ・ジイドは「無償の行為」であるとしているが、日本人がむかしから行なってきた善行は「少しも打算、分別の入らない行為」であって、無償かどちらかをも分別しないのである」と説いておられます。
その例として、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、今の三浦半島から房総半島へ渡られる途中で、にわかに嵐が吹き起こり、船がまさにくつがえろうとしたとき、海神の怒りをなだめるために、妃の橘媛命(たちばなひめのみこと)が、なんの躊躇(ちゅうちょ)もなく海に身を投ぜられた行為をあげておられます。
そのような打算も分別もはいらない行為の際に働いているもの、それが純粋直観であって、それを真智または智力だとして、次のように説明しておられます。
「智力の光は、たいていの人についていえば、感覚、知性、情緒の順序で上ほどよく差し込み、下には差しにくい。一番下のこころの部分は智力が最も差しにくく、日光に対する深海の底のようなありさまにある。この智力の光が差さないと、存在感とか肯定感というものがあやふやになり、したがって手近に見える外界や肉体はたしかにあるが、こころなどというものはないとしか思えなくなる。かようにして物質主義になるのである。私欲の対象である金銭や権力が実在すると固執するだけでなく、情緒とか宗教とかいったものを毛嫌いするのである」
善行と情緒は循環する
たしかに博士の言われるとおり、真の意味の智慧の光は、自己本位の暮らしばかりをしている人の心の底までは届きにくいものです。
そして、どうして金儲けをしようかとか、どうして楽な生活をしようかとか、どうして出世しようかとか、そういった人生のほんの上っ面の知恵にとどまってしまうのが普通です。
それよりももう少しものを深く考える人は、どう生きるのが正しいか、どうしたら社会はよくなるか、といったようなことを思索します。すなわち、智慧の光が知性の世界まで差し込んできたわけです。
しかし、そこまではまだ「理」の世界であり、分別の世界です。そこからさらに深い心の世界まで光が差し込んできますと、「他」と「自」とを区別する壁がだんだん薄くなり、だれもが親しい友だちのように見えてきます。懐かしく、慕わしく、相手が喜べば自分もうれしく、相手が悲しめば自分も悲しく、相手が苦しんでおれば、どうしても助けてあげずにはいられなくなります。こういう美しい気持ちが「宗教的情緒」であり、仏教でいう慈悲というのは、その極致をいうのです。
そこまで達するのは難しいことのようですけれども、案外そうではないのです。とにもかくにも人に対する善行をしてみるといいのです。善行をすれば、ひとりでに自分の情緒が美しくなり、人の情緒というものを思いやる心も生じてきて、ますます善行をしなければおられなくなります。冒頭の博士の言葉はそこのところを言ったものであり、それこそがほんとうの宗教心というものなのです。
題字 田岡正堂
立正佼成会会長 庭野日敬
絶えず善行を行なっていると、だんだん情緒が美しくなっていって、その結果、他の情緒がよくわかるようになり、それでますます善行を行なわずにいられないようになるのである。
岡潔・日本(春宵十話)
智慧光の差し込む順序
岡潔(おか・きよし)理学博士は、文化勲章を受章した世界的な数学者ですが、仏教への帰依が深く、その理解の透徹さはまれに見るものがあります。なまじっかな専門家よりずっとすぐれた、真の仏教者というべき方です。
博士は「善行」ということについて、「フランスのアンドレ・ジイドは「無償の行為」であるとしているが、日本人がむかしから行なってきた善行は「少しも打算、分別の入らない行為」であって、無償かどちらかをも分別しないのである」と説いておられます。
その例として、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、今の三浦半島から房総半島へ渡られる途中で、にわかに嵐が吹き起こり、船がまさにくつがえろうとしたとき、海神の怒りをなだめるために、妃の橘媛命(たちばなひめのみこと)が、なんの躊躇(ちゅうちょ)もなく海に身を投ぜられた行為をあげておられます。
そのような打算も分別もはいらない行為の際に働いているもの、それが純粋直観であって、それを真智または智力だとして、次のように説明しておられます。
「智力の光は、たいていの人についていえば、感覚、知性、情緒の順序で上ほどよく差し込み、下には差しにくい。一番下のこころの部分は智力が最も差しにくく、日光に対する深海の底のようなありさまにある。この智力の光が差さないと、存在感とか肯定感というものがあやふやになり、したがって手近に見える外界や肉体はたしかにあるが、こころなどというものはないとしか思えなくなる。かようにして物質主義になるのである。私欲の対象である金銭や権力が実在すると固執するだけでなく、情緒とか宗教とかいったものを毛嫌いするのである」
善行と情緒は循環する
たしかに博士の言われるとおり、真の意味の智慧の光は、自己本位の暮らしばかりをしている人の心の底までは届きにくいものです。
そして、どうして金儲けをしようかとか、どうして楽な生活をしようかとか、どうして出世しようかとか、そういった人生のほんの上っ面の知恵にとどまってしまうのが普通です。
それよりももう少しものを深く考える人は、どう生きるのが正しいか、どうしたら社会はよくなるか、といったようなことを思索します。すなわち、智慧の光が知性の世界まで差し込んできたわけです。
しかし、そこまではまだ「理」の世界であり、分別の世界です。そこからさらに深い心の世界まで光が差し込んできますと、「他」と「自」とを区別する壁がだんだん薄くなり、だれもが親しい友だちのように見えてきます。懐かしく、慕わしく、相手が喜べば自分もうれしく、相手が悲しめば自分も悲しく、相手が苦しんでおれば、どうしても助けてあげずにはいられなくなります。こういう美しい気持ちが「宗教的情緒」であり、仏教でいう慈悲というのは、その極致をいうのです。
そこまで達するのは難しいことのようですけれども、案外そうではないのです。とにもかくにも人に対する善行をしてみるといいのです。善行をすれば、ひとりでに自分の情緒が美しくなり、人の情緒というものを思いやる心も生じてきて、ますます善行をしなければおられなくなります。冒頭の博士の言葉はそこのところを言ったものであり、それこそがほんとうの宗教心というものなのです。
題字 田岡正堂