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仏教者のことば54

 一心を二心に致さぬがようござる。  盤珪禅師・日本(盤珪禅師語録)

1 ...仏教者のことば(54) 立正佼成会会長 庭野日敬  一心を二心に致さぬがようござる。  盤珪禅師・日本(盤珪禅師語録) 一日に三十分位は無我に  近ごろ職場や日常生活にいわゆるストレスを受ける機会が充満しています。そのために精神を痛め、精神的に落ち込み、そればかりか、いろいろ肉体的な病気を引き起こす人も多く、その防止や治療のために、座禅をしたり、ヨガを行じたりする人が増えました。たいへん結構なことだと思います。つまり、心身共に健康になり、りっぱな仕事をするためには、一日のうちにせめて三十分か一時間ぐらいは、心を静めて動揺させぬ境地にはいることが必要であることが、いま再認識されつつあるわけです。  ところが、座禅とか瞑想とかは、無我になるということを眼目としているのですけれども、普通の生活をしている一般人にとっては、無我とか無心になるというのは非常に難しいことなのです。ですから禅の修行でも、入門としては数息観ということをします。静かに息を吸いながら「一(ひと)――」と数え次に静かに息を吐きながら「――つ」と数え、こうして一から百まで数えてそれを繰り返すわけです。つまり、無心になるのでなく、「数える」ということに一心になるわけです。  われわれ在家仏教者が朝夕お仏前で読経をするのも、もちろん先祖供養という意義もありますけれども、と同時に、読経に一心になるということによって自然と無我の境地にはいれるという功徳もあるわけです。 雑念を気にするな  ところが、実際問題として、読経なら読経の最中にフト雑念がわいてくることがあります。仕事のことが頭に浮かんできたり、主婦ならば今夜のおかずは何にしようかなどと考えたりするものです。そんな時の大事な心がけが、右に掲げた言葉です。この場合の一心というのは、一つの雑念という意味です。一つの雑念が浮かんだとき、それを取り去ろうと考えるのを二心と言ってあるのです。取り去ろうと努力すると、かえってそのことに心が執らわれて、いよいよ雑念のとりこになってしまう。だから雑念など気にするな。ほうっておけばそれは自然に消えてしまうものだ……というのです。  盤珪禅師がこの言葉を言われたのは、じつは日常生活に起こる悪念についてであって、大略つぎのように説いておられるのです。  「怒りや、惜しむ心や貪りの気持ちが起こるのを止めようと思って努力すれば、一心が二心になる。走る者を追っかけるようなもので、フトわいた心と、それを止めようと思う心が闘って、かえって止まらないものだ。悪念などを気にせず、それに執着したり、育てたりしなければいいのだ。人間の本質は不生不滅の仏心なんだということを思い出し、それを信じさえすれば、悪念はいつしか向こうから消えていってしまうものだから、くれぐれも一心を二心にしないことだ」と。  普通の道徳の教えでは、悪念が起こったら努力して抑えよと説きます。それも間違いではありません。しかし、それでは意識下の自己までは清まりません。従って、一時は抑えてもいつかまた悪念が浮かんでくるのです。  そこに宗教の信仰の価値があるわけです。「自分は表面は凡夫だが、底にある本質は光り輝く仏性なのだ」という真実を絶えず自分に言い聞かせていると、それが次第に潜在意識にまで浸み込んでいき、悪念が起こってもすぐ消えるようになり、ついには自由自在な、解放された心になるのです。  ともあれ、この「一心を二心に致さぬ」というのは、じつに深い、そして広い意味を持つ言葉であると知るべきです。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば55

【機関紙誌】

たよりになるのは  くらかけつづきの雪ばかり  野はらもはやしも  ぽしやぽしやしたり黝(くす)んだりして  すこしもあてにならないので  ほんたうにそんな酵母のふうの  朧ろなふぶきですけれども  ほのかなのぞみを送るのは  …

たよりになるのは  くらかけつづきの雪ばかり  野はらもはやしも  ぽしやぽしやしたり黝(くす)んだりして  すこしもあてにならないので  ほんたうにそんな酵母のふうの  朧ろなふぶきですけれども  ほのかなのぞみを送るのは  …

1 ...仏教者のことば(55) 立正佼成会会長 庭野日敬  たよりになるのは  くらかけつづきの雪ばかり  野はらもはやしも  ぽしやぽしやしたり黝(くす)んだりして  すこしもあてにならないので  ほんたうにそんな酵母のふうの  朧ろなふぶきですけれども  ほのかなのぞみを送るのは  くらかけ山の雪ばかり  (ひとつの古風な信仰です)  宮沢賢治・日本(宮沢賢治全集第二巻) 苦渋に満ちた生活の中で  周知のとおり、宮沢賢治は法華経の熱心な信奉者でありました。純粋でいちずな魂の持ち主でしたけれども、現実の生活は波乱に満ちたものでした。妹トシが病気になったので上京し、その看護にあたりながら、模造真珠の製造販売を計画しましたが、父の許しが得られず失望したこともありました。浄土真宗の檀家であった一家の改宗を父に迫って激論したり、日蓮宗の信仰団体である国柱会に入会し、無断上京してあて名書きや校正などの仕事をしながら自活し、街頭布教に精を出したこともありました。  帰郷してからも、酸性土壌の中和剤を改良して東北四県を宣伝して歩いたり、農学校の教師となったり、世俗的な生活にもずいぶん苦労したのです。その間、農民の稲作指導や農民芸術運動を興すかたわら、詩や童話をたくさん作りました。そうしているうちに、かわいがっていた妹が死に、自分も肋膜炎を患うなど、思うに任せぬ暮らしが続いていました。そんな時に書いたのが、前掲の詩なのです。 頼りになるのはただ一つ  「野はらもはやしも ぽしやぽしやしたり黝んだりして すこしもあてにならないので」というのは、この現実世界がつねに不安定で、苦渋(くじゅう)に満ち、確かな心の依りどころのないことを表現しているのです。  そこには酵母のような、白っぽくて、おぼろげで、頼りなさそうな吹雪が降っています。そんな吹雪ではありますが、それがはるか向こうのくらかけの山に積もりますと、清らかに輝く峰のすがたとなります。そのくらかけ山の峰の白雪ばかりが心の依りどころであり、あこがれであり、勇気を与えてくれるただ一つの存在だというのです。  紀野一義師は、これを「十界互具」の思想の影響のあらわれだと解釈しておられますが、わたしもそれに賛成です。「十界互具」については第四十九回にくわしく書きましたのでここには説明を省きますが、賢治も自分はまったくの凡夫で、欲もあれば、怒りもあり、愚痴もあれば、修羅もある、あの吹雪の中の野原や林のようにぽしゃぽしゃしたり、くすんだりして、われながら歯がゆく、頼りない……と思っているのです。  しかし、そのような自分にも、一つの希望はある。自分の中には仏性というものがたしかにあるのだ。仏の世界はあのくらかけ山のようにたいへん遠く、あそこまでは行けそうもないけれども、あの清らかな雪の峰を眺め仰いでほのかな望みを覚えるということは、仏性がある証拠なのだ……と感じているのです。  この詩を繰り返し繰り返し読んでいますと、賢治と同じような心象風景がわたくしどもの胸にも広がってきます。迷いに満ちたどうしようもないような自分ではあるけれども、仏の世界のあこがれは持っている。それがいいんだ。そのあこがれを持ちつづけ、もっともっと強くしていけば、くらかけの山はずんずん近くに寄ってくるのだ……こう思っただけでも、明るい希望がほのぼのとわいてくるではありませんか。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば56

【機関紙誌】

仏道は、初発心のときも仏道なり、成正覚のときも仏道なり、初中後ともに仏道なり。たとえば万里をゆくものの、一歩も千里のうちなり、千歩も千里のうちなり、初一歩と千歩とことなれども、千里のおなじきがごとし。  道元禅師・日本(正法眼蔵・説心説性)

仏道は、初発心のときも仏道なり、成正覚のときも仏道なり、初中後ともに仏道なり。たとえば万里をゆくものの、一歩も千里のうちなり、千歩も千里のうちなり、初一歩と千歩とことなれども、千里のおなじきがごとし。  道元禅師・日本(正法眼蔵・説心説性)

1 ...仏教者のことば(56) 立正佼成会会長 庭野日敬  仏道は、初発心のときも仏道なり、成正覚のときも仏道なり、初中後ともに仏道なり。たとえば万里をゆくものの、一歩も千里のうちなり、千歩も千里のうちなり、初一歩と千歩とことなれども、千里のおなじきがごとし。  道元禅師・日本(正法眼蔵・説心説性) 仏道とはいのちを生かす道  仏道はいのちの道です。この世のすべてのものが、そのいのちをあるがままに生かすための心のありかた、生活のありようを求め、知り、教える道です。  しかし、最初から「すべてのものを生かす」といった高邁(こうまい)な考えをいだいてその道に入るという人はまずありますまい。初めは、失意や挫折感を何か高度な思想によって克服したいとか、事業に失敗してこの世に望みを失い、わらにでもすがる気持ちで救いを求めるとか、あるいはそのような切迫した動機はなくても、精神的によりすがる何物かが欲しいという気持ちで仏教を学んでみようか……という人もありましょう。  そうした初発心(しょほっしん)も、本人は意識していなくてもその心の奥を深く吟味してみますと、つまりはいのちを生かす道を求めているのです。そこが尊いのです。絶望にも陥らず、自暴自棄になって悪へ走ることもなく、おのれのいのちをより良く生かそうと、あがき、手探りする、そこが立派なのです。  成正覚(じょうしょうがく=究極の真理を覚る)などということは、はるか山のかなたにあって自分など到底達しられるものではない……とだれでも思いましょう。たしかにそのとおりです。大聖釈尊のような覚りにわれわれ凡人が到達するのは至難なことかもしれません。  しかし、それでもいいのです。それに向かって一歩でも踏み出せば、その一歩がすなわち仏道なのです。第一歩(初)も、中間の千歩(中)も、ゴールへの到達(後)も、すべて仏道なのです。 夢・決意・努力  世俗のどんな道でも同じです。学問の道でも、芸術の道でも技能の道でも、みんな同じです。理想の境地に向かって一歩踏み出せば、間違いなくその境地へ一歩近づいたことになります。焦ることはありません。ただ大事なことは、初一念を忘れないことです。  自動車王といわれたヘンリー・フォードは、少年のとき父親と一緒に馬車に乗ってデトロイトの街へ出て、初めて蒸気車を見ました。「お父さん、馬車を止めて……」と叫んだ彼は、止まっている蒸気車の所へ走り寄ってシゲシゲと見回し、運転手に走る仕組みを聞きました。帰ってきた少年は、「馬がいなくても動く車なんてスバラシイなあ、ぼく大きくなったらあんなのを造るんだ」と言いました。  十二歳のとき母親を亡くしましたが、病気が急変して命が危ないとなったとき、彼は馬を走らせて町まで医者を呼びに行きました。しかし、医者が着いたときはすでに母親は息を引き取っていました。彼は母親の遺体にすがって「馬より早く走れる物があったら、お母さんは助かっていただろうに……」と嘆き、その瞬間、これからの進むべき道を固く決意したのです。  彼は努力に努力を重ねてその決意をつらぬき、万人のための大衆車といわれたフォードを完成したのですが、その成功にもやはり「初」があり「中」があったのです。初めは夢であり、それが決意に変わりました。そして努力がそれを成就したのでした。  道元禅師のこの言葉は、現代のわれわれにとってもつねに身近に生きていると知るべきでしょう。仏道とは特別な道ではなく、人間のいのちを生かし伸ばす道にほかならないのですから。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば57

【機関紙誌】

生死即涅槃と体するを名づけて定となし、  煩悩即菩提に達するを慧となす。  天台大師・中国(法華玄義九)

生死即涅槃と体するを名づけて定となし、  煩悩即菩提に達するを慧となす。  天台大師・中国(法華玄義九)

1 ...仏教者のことば(57) 立正佼成会会長 庭野日敬  生死即涅槃と体するを名づけて定となし、  煩悩即菩提に達するを慧となす。  天台大師・中国(法華玄義九) 「即」には「至る」の意あり  生死(しょうじ)というのは、第一義としては文字どおり生と死を指すのですが、仏教ではこの世のすべてのものが移り変わる流転(るてん)の姿を言うことが多いのです。涅槃(ねはん)というのは差し当たり「真理を悟って心の安らぎを得た状態」と考えてよく、定(じょう)というのは、周囲の影響によって動揺することのない定まった心を言います。  また、煩悩(ぼんのう)というのは、人間のさまざまな欲望に基づく迷いのことであり、菩提(ぼだい)というのはその迷いから抜け出した悟りの境地を言います。  ところで、この「即」という語に問題があります。普通にはすなわちと読んでそのままという意味に解しますが、それでは「煩悩がそのまま悟りである」というとんでもない誤解が生じます。即時とか即決とかいう言葉がありますが、すぐさまと言っても、問題が提示されてから決定するまでには当事者の心の強い動きがあることは否定できません。「即」には「近づく」とか「至る」という意味がありますので、右の言葉の「即」はけっしてそのままではなく、むしろ「そこに至るための起動力」と解するのが適当かと思われます。 煩悩を積極的に活用せよ  そこで、右の言葉を現代語に意訳しますと、「すべてのものごとは移り変わるものだと知り、その変化に驚いたりあわてたりしない安定した境地を体得していることを不動心と言い、すべての欲望から生ずる迷いを起動力としてよりよい生活へと活用する悟りを人生の智慧だと考えるべきである」ということになると思います。  人生に変化はつきものです。第一に、生・老・病・死という重大変化があります。これは絶対に逃れえない流転の姿です。また、境遇の上にも、仕事の上にも家庭の事情にも、大なり小なりの変化がつきまといます。それがあるのが自然の姿であると達観して、つねにどっしりしている人こそが人生の達人だと言えましょう。  釈尊も、ご臨終の際、お弟子たちに「すべてのものは移り変わるものである。怠らず努めるがよい」と遺言されました。この「怠らず努めるがよい」というお言葉に千鈞の重みがあると思います。どんな変化があろうと、その時点時点においてベストを尽くせばよいのです。そういう心がけと行動力さえあれば、けっして変化にあわてふためくことはないのです。右に掲げた第一句も、こういうことを教えていると思うのです。  次に第二句についてですが、釈尊のような大聖は別として、普通の生活者だれしも煩悩を持たぬ人はありません。煩悩があることが生きている証拠だと言ってもいいでしょう。煩悩はいわばカビのようなものです。カビは食物を腐らせたり、病気を引き起こしたりしますけれども、それをいい方へ用いれば、みそ・しょうゆ・カツオブシのような生活必需品を作り出すことができます。ペニシリンとか、ストレプトマイシンとかいう、すでに何千万人もの生命を救った抗生物質も、もともとはカビにほかならないのです。  煩悩もそれと同じです。もちろん、煩悩に引きずられたり、おぼれたりしては身の破滅となりますから、ある程度の抑制は必要ですが、もっと積極的にそれをいい方向へ向ける智慧をはたらかすべきでしょう。そうすると、煩悩がかえってよき人生への起動力となり、進歩のエネルギーとなることは必至です。それが「煩悩即菩提」の意義であると信じます。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば58

【機関紙誌】

 親によき物を与えんと思いて、せめてやるものなくば、一日に二三度笑みて向え。  日蓮聖人・日本(上野殿御消息)

 親によき物を与えんと思いて、せめてやるものなくば、一日に二三度笑みて向え。  日蓮聖人・日本(上野殿御消息)

1 ...仏教者のことば(58) 立正佼成会会長 庭野日敬  親によき物を与えんと思いて、せめてやるものなくば、一日に二三度笑みて向え。  日蓮聖人・日本(上野殿御消息) 老人問題への示唆と  これはもちろん親孝行の教えです。苦しい境遇にあって、親に何かおいしい食べ物とか、暖かい着物とか、見て楽しめる盆栽とか、そういった物を親にあげて喜んでもらおうと思ってもそれのできない人は、せめて一日に二度でも三度でも笑顔を見せてあげなさい、それが大きな孝行なのですよ……というのです。いかにも日蓮聖人らしい、深い人間愛に満ちた言葉です。  ところで、わたしは、これを単に親に対する子のあり方のみでなく、老人問題に関する現代人へのアドバイスとしても受け取りたいと思うのです。  病気で寝たきりの老人、世話する人もない独り暮らしの老人など、これらは老齢化社会がいよいよ進行しつつある現在および近い将来においては、国家や地方自治体が真剣に考え、善処しなければならない問題ではありますけれども、しかし、家族や、隣人や、一般の個々人も、これをないがしろにしては人道にも天道にも反することになると思うのです。  人間、年を取って老いるのは、きわめて自然の成り行きです。老いて来れば、特別の人は別として、体力も気力も薄れ、日常生活の楽しみも次第に失われてきます。しょっちゅう孤独感に襲われます。  そうなってからいちばんうれしいのは、人の情けです。家族や隣人の優しい思いやり、特にここに掲げた日蓮聖人の言葉にもある親しみをこめた笑顔、これらがどれぐらい慰めになるかは、若い世代が想像する以上のものがあるのです。 いま光る無財の七施  雑宝蔵経というお経の中で、「無財の七施」ということが教えられています。金もなく、暇もなく、地位もない人でもできる、つまりどんな境遇にある人でもできる布施ということです。それは眼施(げんせ)・和顔悦色施(わげんえつしきせ)・言辞施(げんじせ)・身施(しんせ)・心施(しんせ)・牀座施(しょうざせ)・房舎施(ぼうじゃせ)の七つです。  眼施というのは、優しいまなざしで人を見ることです。  和顔悦色施というのは、和やかな笑顔で人に明るい感じを与えることです。  言辞施というのは、理解のある、優しい言葉をかけてあげることです。  身施というのは、身体を使っての親切行です。  心施というのは、心から相手の幸せを祈ってさしあげることです。つまり、善念の布施です。  牀座施とは、座席を譲ってあげることです。  房舎施とは、一時的にもせよ、雨露しのぐ場所を提供してあげることです。  この七つは、一般のどんな人に対しても大切なことですが、とりわけ老人に対してピッタリの布施だと思うのです。日蓮聖人の前掲の言葉が「和顔悦色施」に当たることはいうまでもありません。  諸橋・大漢和辞典によりますと「孝」という字の「耂」は「老」の省略だそうです。ですから、子が親に仕えるとか養うとかという意味はもちろんですが、もっと敷衍(ふえん)して、一般の人が老人を大切にするという意味に考えてもいいのではないでしょうか。  いずれにしても、現代はあまりにも金、金、金の時代です。物、物、物の時代です。このような世相の中にあって、右の日蓮聖人の言葉は、温かくも香(かぐわ)しい一陣の風を吹き送るものではないでしょうか。 題字 田岡正堂...

開祖 (19840727A)第25回IARF世界大会開会式

【音声】

2 ...○司会 ここでIARF会長庭野日敬先生より、開会のごあいさつをいただきます。 ○庭野開祖会長 (一同 拍手)本日、ここに第25回IARF世界大会を開催するにあたり、その準備のために、鋭意努力を重ねてこられましたディーター・ゲアマン事務総長、山本行隆大会実行委員長さまをはじめとする事務局、並びに関係者各位に対して、まずもって厚く御礼を申し上げる次第でございます。(一同 拍手)  また公務ご多忙の中にもかかわりませずご臨席くださいました諸先生方に対しまして、心より感謝申し上げたいと存じます。  さらに、この大会にご参加くださいました皆さま、特に外国からはるばるご出席くださいました方々に対しまして、心から歓迎の意を表するものでございます。(一同 拍手)  なお、この第25回世界大会の主会場(咳払い)として、立正佼成会の施設をお使いいただけましたことを、うれしく存ずるものでございます。と同時に準備不慣れのために、皆さま方にご不便をおかけするやもしれませんので、まずもってそのことをおわび申し上げておきたいと存じます。  英国の詩人キップリングが「東は東、西は西、永遠に二つは出会うまじ」と詠じたことはあまりにも有名であります。しかし、宇宙時代を迎え、地球を客観的に眺められるようになった今日(こんにち)では、キップリングの詩もいささか色あせて見えるのもいたしかたのないことかもしれません。  いまや、東西の交流は科学技術の提携をはじめ、その他の情報交換においても極めて増大しつつあります。かつては、西洋が教え、それを東洋が学ぶという一方的な時代が長く続いたことも事実であります。そして、いま、その立場は逆転し、東洋が教え、西洋が学ぶ時代になったという人もございますが、わたくしに言わせまするならば、もはやそのような優位性を論ずるときではないと思うのであります。  いまや世界は、東と西、あるいはアジア対ヨーロッパといった図式では割り切れない時代になっております。したがいまして、狭くなったこの地球上に時を同じゅうして生きるわたくしたちが21世紀に向けてよりよく生きるためには、東洋も西洋も互いに学び合い、力を合わせなければならない時代が来ていることをわたくしたちは謙虚に認識したいものであります。  確かに、科学は目覚ましい進歩を遂げました。 例えていえば、駅馬車は汽車にかわり、やがて飛行機になりました。しかも、ジェット機が出現した現在では、もはやわたくしたちはプロペラ機に乗る気は致しません。このように科学は前へ前へと進み、より便利になってまいりました。にもかかわらず、人々の不安は増大しつつあります。...
3 ...ということは、進歩と申しましても、それには不安を増長する進歩と、安心のできる進歩とがあるとわたくしは思うのであります。  申すまでもなく不安な進歩とは、核兵器や、無制限な生命科学の進歩で、安心できる進歩では、すべての人間にとって容認できるところの秩序ある進歩であります。この前へ、前への進む科学に対して、文化なかんずく宗教は常に過去にさかのぼり、原点に返り、キリストやマホメットや、仏陀(ぶつだ)の精神に立ち帰り、それを確認するという特徴を持っております。  これゆえにこそ、宗教は常に暴走しようとする科学にブレーキをかけ、それを秩序ある進歩、調和のとれた進歩にするという重要な責務を負うものであるとわたくしは考えるのであります。いまや、神仏にかわって物質万能主義と申しましょうか、即物的な考え方が支配的になっております。と同時に、人々の心の中から、思いやり、優しさ、愛というものが失われつつあります。  数年前、インドにおいてわたくしはチャーリー・デュークという宇宙飛行士にお会いしたことがございます。彼は、彼は月着陸船のパイロットであり、月面に3日間滞在した人物であります。彼は、この地上に帰ってきて、たちまち富と名声を手にしたわけでありますが、逆に自分の家庭が崩壊するという問題に直面して、気づいたのであります。つまり得るという目的として、事を得(う)るということを目的として生活ではなく、与えることの生活がいかに大切であり、それを人間が失ってしまったら、この地球はあの月と同様に荒涼というか、寂寞(せきばく)というか、寂寞(せきばく)とした世界になってしまうということに気づいたのであります。そして彼は、ハイテクの技量だけでは、信じていた宇宙飛行士から宗教の世界に身を投じたということでありました。  この第25回世界大会も、またこの地上に荒涼とした月砂漠にしないために、そして明るい21世紀を迎えるためには、いったいどうすべきかという共通の目的を持って開催されたわけであります。そのために、東から西から、われわれはここに集うたのであります。お互いがお互いに対して、無知であるということは、裏を返せば学ぶことに対して、怠惰であったか、あるいは(咳払い)教えることに不親切であったからにほかなりません。わたくしたちは、この点を反省しつつ、この会議を通じて、一層の理解と協力が促進されるよう努力したいものであります。そのことを心から念願致しまして、わたくしのごあいさつに代える次第でございます。(一同 拍手)  ご清聴ありがとうございました。...

仏教者のことば59

【機関紙誌】

唯一の権利--そしてこれは仏教徒にとって同時に義務でもある--は、仏陀が覚りに達するために歩めと教えた道(中略)、そして自分で歩んでみて真理であることに気づいた道を、万人の前に提供することに外(ほか)ならない。  C・ハンフレーズ・英国…

唯一の権利--そしてこれは仏教徒にとって同時に義務でもある--は、仏陀が覚りに達するために歩めと教えた道(中略)、そして自分で歩んでみて真理であることに気づいた道を、万人の前に提供することに外(ほか)ならない。  C・ハンフレーズ・英国…

1 ...仏教者のことば(59) 立正佼成会会長 庭野日敬  唯一の権利――そしてこれは仏教徒にとって同時に義務でもある――は、仏陀が覚りに達するために歩めと教えた道(中略)、そして自分で歩んでみて真理であることに気づいた道を、万人の前に提供することに外(ほか)ならない。  C・ハンフレーズ・英国(『仏教』・原島進訳) 権利とは菩薩の自覚  ハンフレーズ氏とその著『仏教』については第二十二回に紹介しましたが、これは同書の中の「仏教は最初から伝道の宗教であった」ことを述べた一節にある文章です。  この文の前に「教えを宣布するということは、気のすすまない聴衆に一つの観念を押しつけて改宗させることではなく、ましてや自分の見解に服する信者を獲得せんがために圧力を加えることではない」とあり、この後に「もちろん、播かれた種子のうちにいくつかは、不毛の岩石の上に落ちるであろう。しかしいくつかはやがて豊かに生い繁る樹林になることであろう。「真理の贈り物はどんな贈り物よりもすぐれている」のである」と続けてあります。  この一連の文章は仏教の伝道・布教の精神と態度を、短文の中に、正しくそして過不足なく述べてある点において、世にすぐれたものであると思います。ただ一つ奇異に感ずるのは「唯一の権利」という言葉です。布教が仏教者の義務だというのは常識ですが、それが「権利」だと述べた人は浅学にしてほかに聞いたことがありません。しかし、よく考えてみますと、これは菩薩としての堂々たる自覚を示すものであり、布教者の内心の誇りを言い表したものだと思われるのです。勃勃(ぼつぼつ)たる勇気を奮い起こさせられる言葉ではありませんか。 真理の配達人こそ  日本人は、とくに仏教徒は、おおむね謙虚です。りっぱな布教者でありながら、たとえば宮沢賢治のように、「わたしの行く道は、このでこぼこの雪の道、行く先は向うの縮れた亜鉛色の雲なのだ。そこへ行かなきやならないんだ。陰気な郵便脚夫のように」といった表現をします。  この郵便配達員は、もちろん法華経の信仰を配達する役目を持っており、それは絶対になし遂げねばならない努めです。そういう使命を自覚していながら、死を前にしていたせいもありましょうが、「陰気な郵便脚夫」と自らを呼んでいます。  配達といえば、ガンで亡くなった作家の高見順氏は、病が重くなってから「何かを配達しているつもりで、今日まで生きてきたのだが、人びとの心に何かを配達するのがおれの仕事なのだが、この少年(筆者注・新聞配達の少年)のように、ひたむきに、おれは何を配達しているのだろうか」と書いています。  まことに価値ある人間とは、何かよきものを人びとに配達する役目を自らに課し、それに生きがいを感じている人です。その数ある配達人の中で最も価値あるのは真理の配達人でありましょう。「真理の贈り物はどんな贈り物よりもすぐれている」からです。(この言葉は法句経三五四からの引用)  したがって、仏教の布教者はこの世で最も価値ある人間だと自覚しても、けっして増上慢ではありません。尊い菩薩の自覚です。ですから、むやみに謙虚になる必要はなく、ハンフレーズ氏が述べたように「唯一の権利」と、堂々と胸を張って配達して歩いていいと思うのです。  もちろん、岩石の上に落ちた種子のように、受け取りを拒否する人もありましょう。しかし、その手紙はその人の潜在意識に深くはいり込んで、いつかは幸せの芽を吹くでしょう。大賀博士が発見した二千年前の蓮の種子が見事に発芽し、開花したように。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば60

【機関紙誌】

 一切ノ法ハタダ道理トイウニ文字ガモツナリ。其外ニハナニモナキ也。ヒガコトノ道理ナルヲ、シリワカツコトノキワマレル大事ニテアルナリ。  慈円大僧正・日本(愚管抄巻七)

 一切ノ法ハタダ道理トイウニ文字ガモツナリ。其外ニハナニモナキ也。ヒガコトノ道理ナルヲ、シリワカツコトノキワマレル大事ニテアルナリ。  慈円大僧正・日本(愚管抄巻七)

1 ...仏教者のことば(60) 立正佼成会会長 庭野日敬  一切ノ法ハタダ道理トイウニ文字ガモツナリ。其外ニハナニモナキ也。ヒガコトノ道理ナルヲ、シリワカツコトノキワマレル大事ニテアルナリ。  慈円大僧正・日本(愚管抄巻七) ヒガコトにも原因あり  愚管抄はわが国最初の歴史哲学書として、高校の歴史教科書にも必ずといってよいほど収載されている名著です。神武天皇から順徳天皇までの歴史を述べながら、一切の事象は道理によって、生滅することを述べたもので、したがって、巻七にある前掲の一節は愚管抄全体のエキスといってもよいのです。  さて、この道理ということですが、これは倫理・道徳的な意味の道理ではなく仏法でいう因縁・因果の法則を指すのだと知らなければ、この後段の意味には首をかしげてしまうでしょう。念のために現代文に意訳してみますと……「一切のものごとは、ただ因果の法則によって存在するのである。その法則にはずれるものは一つもない。一般にいう道理に反したこと(ヒガコト)もやはり因果の理によって起こることを知り分けることが、決定的な(キワマレル)大事なのである」。  この後段の「道理に反した、曲がったことも、それなりの原因があって起こることだと知るべきだ」ということは、仏教者ならでは言い得ない、透徹した史観です。  この書は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒を計画されていることを未然に知り、そうした武力行使をおいさめする意図で著わされたものといいます。そのために、戦前では学校の教材としては敬遠され、戦後になって大いにその価値が認められるようになりましたが、時の権力者に対する宗教者の態度として、現代のわれわれも大いに学ぶべきものがあると思います。 末法ながら希望もある  今の世にはヒガコトが多過ぎます。小は家庭内暴力・少年の非行・性の乱れから、大は軍備競争・核戦力拡大化・超大国が操る代理戦争まで……。これからいったいどうなっていくだろうかと、心配でなりません。  愚管抄の中にも、世の中がだんだん悪くなっていくことを嘆き、同じ巻七に次のように書かれています。(原文は難解ですので、現代語訳だけを掲げましょう)  「人というものは、究極においては、似た者同志が友となるものである。それが、世も末になると、悪い人びとが同心合力して国の政治をわがもののように動かしてしまう。よい人びとも同じように一体同心になればいいはずなのに、そんな人がいないからどうにもならない。じつに悲しいことで、もはや神仏のご処置を仰ぐほかはないという心境である」  いつの世にも似たようなことがあるものだ……と、うなずかざるをえません。しかし、わたしは思うのですが、十二世紀半ばから十三世紀初頭にかけての当時と現代とでは、同じ末法の世でも様子がずいぶん違います。思想と、言論と、行動の自由がはるかに進んだ今日では「よいことに一体同心となり、合力する人」もたくさん出てきています。  明るい社会づくり運動に協力する人びと、地域の緑化にてい身する人びと、開発途上国の福祉向上に献身する人びと、核の廃絶・世界平和のために不惜身命の働きをする人びと等々、こういう人たちの存在を考えれば、まだまだ希望があります。  慈円大僧正も言われるように、この世には因果の法則のほかはないのです。よい因をつくれば必ずよい果が生まれます。そういう積極的な方向に、心と行動を向けていきたいものです。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば61

【機関紙誌】

他力ということ、易行(いぎょう)などともいうが、実は容易なことではない。他力といったら、自分は微塵もなしに、全部あなたまかせに、まかせなければならない。  沢木興道・日本(禅とは何か)