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人間釈尊26

心美しき富商たち

1 ...人間釈尊(26) 立正佼成会会長 庭野日敬 心美しき富商たち 護弥長者家の大騒ぎは  王舎城切っての大商人護弥(ごみ)家のその日は上を下へのてんてこまいでした。  「大広間には敷物を敷いたか。米は全部洗ったか。芋はそろそろ煮たほうがいいぞ……」  主人が先頭に立って指図をしたり、あっちへ行ったり、こっちへ来たりで、はるばる舎衛城から旅して来て着いたばかりのスダッタはろくろく構ってもらえません。  スダッタは、これも巨万の富を持つ大商人で、大勢のみなし子や養い手のない老人たちへ手厚く施与しているので(給孤独長者(ぎっこどくちょうじゃ))と呼ばれている人でした。護弥家の娘を息子の嫁にもらい受けたいと、その相談に来たのですが、それを言い出すことさえできないテンヤワンヤのありさまです。  「どうしたのです。国王でも招待なさるのですか」と聞けば、  「いいえ。明日ブッダとお弟子方にお越し頂くことになっているんで……」  との答え。よく聞きただしてみると、最近ゴータマ・ブッダというお方がこの地に来られ、多くの人のために尊い法を説いておられるというのです。  「そうですか。わたしもそのお方を拝むことができましょうか」  「できますとも、明日ここへおいでになりますから……」  「いつもはどこにお住まいになっていらっしゃるのですか」  「あっちの町はずれにある寒林(墓場)においでなんですよ」 墓場で釈尊を拝した  その夜、護弥の家に泊まったスダッタは、どうしても熟睡できません。三度も目を覚ましては、ブッダとはどんなお方だろうかと想像し、早くお目にかかりたいという思いに駆られるのでした。そして、ついに堪え切れなくなって、まだ夜も明けやらぬのに屋敷を抜け出してしまったのです。  墓場といっても、そのころのインドでは、穴を掘って埋めるわけではなく、死体は地上に置いたままにしていたのです。お釈迦さまは、菩薩としての苦行中から、そうした墓場で座禅したり、瞑想したりなさいました。骸骨を寝床として眠られたこともありました。(本稿第13回参照)。おそらく「死生一如」ということを悟り切るためになさったことと思われます。  さて、スダッタが寒林にさしかかると、あたりはまだまっ暗です。林をわたる風が不気味な音を立てています。スダッタは総身の毛が逆立つような恐ろしさに襲われ、思わず引き返そうとしました。そのとき、何ともしれぬ大きな力が前へ前へと引きつけるのを覚えるのでした。勇を鼓して歩を進めて行きますと、林がすこしひらけたところを、見るからに神々しいお方がそぞろ歩きをなさっているのです。  「ああ、あのお方こそ……」と直感して近づいていくと、そのお方はこちらを振り向かれ、「よく来た。スダッタよ」と声をかけられたのです。  向こうからわが名を呼ばれたスダッタは、夢かと驚き、全身の血が喜びに沸き立つ思いでした。われ知らずおそばに駆け寄り、そのみ足に額をつけて拝しました。お釈迦さまは、「さあ、そこに座りなさい」と優しくおっしゃって、人間として大切な布施のこと、戒のこと、歩むべき正しい道などをお説きになりました。スダッタがどんなに感激したか、想像に余りあります。  これが、後に祇園精舎を寄進したスダッタとお釈迦さまの尊い出会いだったのです。  それにしても、護弥長者といい、給孤独長者といい、ほんとうに人間らしい、精神性の高い大富豪たちがいた昔のインドが、つくづく懐かしく思われてなりません。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊27

永遠不滅の大布施

1 ...人間釈尊(27) 立正佼成会会長 庭野日敬 永遠不滅の大布施 信仰の喜びに燃える富豪  前回の話の続きになりますが、舎衛城から息子の嫁とりに来たスダッタ(給孤独長者)は、思いがけなくもゴータマ・ブッダという尊い師にお目にかかり、教えを受けることもできました。  そして、護弥長者がブッダをご招待申し上げたご供養の席にも連なることができました。このようなすがすがしい感激は生まれて初めて味わうものでした。  お食事が終わって、ブッダが鉢と手を洗い終わられたのを見て、スダッタはおん前に進み出て申し上げました。  「世尊。願わくはわたくしのおりますコーサラ国の舎衛城にも布教にお出かけ頂きとう存じますが……」  世尊は深くおうなずきになりました。  「ありがとうございます。わたくしは全財産をなげうっても、世尊とお弟子方のために精舎を建設いたします」  「いや、スダッタよ。出家修行者は林の中や空き家での修行を楽しむものです」  雨季以外は一滴の雨も降らないインドでは、森林や野原に寝ても平気だったのです。しかし、道も田畑も水びたしになる雨季にはそうはいきません。布教の旅もできないので、ある一ヵ所にとどまって座禅その他の修行をするのが教団のしきたりになっていたのです。これを雨安居(うあんご)、または夏安居(げあんご)と言います。そこでスダッタは申し上げました。  「世尊よ。雨安居ということもございます。ぜひ精舎の建設をお許しくださいませ」  世尊は黙っておうなずきになりました。さあ、スダッタの胸は燃え上がりました。また、結婚の話も護弥長者の快諾を得ましたので、スダッタは足も地に着かないような気持ちで舎衛城へ帰って行ったのです。 (祗園精舎)縁起  帰り着くやいなや、スダッタは適当な土地の検討を始めました。城外で、町から遠からず近からず、静かで景色の美しい所……と探してみたところ、祇陀(ぎだ)太子の所有される園林しかないという結論に達しました。  そこで太子を訪れ、その土地を譲ってくださいとお願いしたところ、太子は冗談半分に申されました。  「あの土地全体に金貨を敷きつめたら、それと引き換えに譲ってやろう」  スダッタは、家に帰ると早速使用人たちに命じて、その土地に金貨を敷き始めたのです。それを聞いた太子は驚いてスダッタのところに飛んで来て、  「やめなさい、スダッタよ。あの土地はわたしに返しておくれ。わたしがそのゴータマ・ブッダという尊いお方に寄進しよう」  スダッタは考えました。――祇陀太子は広く世に聞こえた実力者だ。あの高名なお方が信仰を起こして寄進されたとあれば、ブッダの教団も大発展するに違いない――と。そして、その場で太子の申し出を受け入れました。  まず太子が門屋を造り、スダッタが大金を惜しげもなく注ぎこんで、道場から、宿房から、料理場から、蒸気ぶろまで完備した大精舎を造り上げたのです。そして、その名を(ジェータ(祇陀)・ヴァーナ(園林)・ヴィハーラ(精舎))と名づけました。自分の名前を表に出さないところに、スダッタの奥ゆかしさがしのばれます。しかし、中国の人がそれを漢訳するとき給孤独(ぎっこどく)長者の名を入れて(祇樹給孤独園)としました。それがわが国でいう祇園精舎にほかなりません。  お釈迦さまがその精舎で数多くの尊い教えをお説きになり、ハシノク王をはじめ多くの人々を教化され、舎衛国を舞台としてさまざまな信仰美談が生まれたことを思えば、スダッタの布施は永遠不滅の大功徳であるということができましょう。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊28

釈尊一日のお暮らしは

1 ...人間釈尊(28) 立正佼成会会長 庭野日敬 釈尊一日のお暮らしは 食事は一日に一度  わたしどもはお釈迦さまのたくさんの教えを学び、数々の教化の実例を聞き、さまざまな逸話を読んで、お釈迦さまの全体像はある程度頭の中にえがいていますが、さて実際にどんな一日をお暮らしになっていたか、それをまとまった形では知らされていませんでした。ところが、幸いにも中村元先生が、精舎にお住まいの場合の一日をあらゆる文献からまとめて『ゴータマ・ブッダ』という本に発表されていますので、おおむねそれに基づいて一日のご日課を紹介させて頂くことにしましょう。  インドの人たちは早起きですが、お釈迦さまもずいぶん早くお目覚めだったようです。そして口をすすがれてから、ご自分の部屋で静かにひとときを過ごされました。おそらくしばしの瞑想にお入りになっておられたのでしょう。  托鉢の時間が来ると、外出用の衣に着がえて、町や村へ出かけられます。お一人の場合もありますし、弟子たちをお連れになることもありました。  町や村の人たちは、おいでになるのを待ち受けていて、お釈迦さまを拝しては鉄鉢の中にお米、その他の食物を入れてさしあげます。お釈迦さまは黙然としてそれをお受けになります。  人びとは布施をさせて頂く、そして功徳を積ませて頂くという気持ちでさしあげるのであって、恵むなどという気持ちは毛頭ありません。お釈迦さまも、その布施を黙然としてお受けになり、頭一つお下げになりません。礼などを言えば、せっかくの布施の功徳が消えてしまうという理念からです。現在もその風は東南アジア諸国の僧侶と信者との間に残されています。  弟子たちを引き連れて托鉢される場合は、町や村の人びとは「わたくしには十人の沙門さまに供養させてください」「わたくしには二十人を」といったふうに、争うようにして布施の受納をお願いしたといいます。  精舎にお帰りになりますと、受けられた食物で食事をおとりになります。あるいは信者の招待で、その家で供養を受けられることもありました。その場合は、そこに集まった人びとに法をお説きになってから、精舎にお帰りになります。いずれにしても、食事は一日にその一回きりだったのです。 瞑想と説法の午後と夜  精舎に帰られたお釈迦さまは、お弟子たちに戒を与えられたり、瞑想の指導などをされます。それをうかがってからお弟子たちは、森へ行ったり、丘に登ったりして、それぞれの修行に入ります。  お釈迦さまは、気が向けば横になられます。そして疲れがとれると、起き上がって「世を見つめる瞑想」に入られます。  そうしているうちに在家の信者たちが香や花などの供物を持ってお参りに来ます。お釈迦さまはそれらの人びとに、やさしく法を説いておやりになるのです。  その後、浴室に入って水を浴びられることもあり、そしてふたたび居室に入って座禅瞑想をされます。  夜になると、修行僧たちが個人的な指導を受けに来ます。それに対して一々ていねいにお答えになり、ご指導をされます。  もう少し夜が更けると、神々が降りて来てさまざまな質問を発したり、ご指導を受けたりしたことがしばしばあったといいます。  もっと夜が更けると、長い一日の疲れをとるためにそぞろ歩きをなさり、それからおやすみになります。右脇を下にした、いわゆる「獅子臥」の姿勢で眠りにおはいりになるのです。  これが人間釈尊の一日だったのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊29

説法を聞きながら切開手術

1 ...人間釈尊(29) 立正佼成会会長 庭野日敬 説法を聞きながら切開手術 人間的に愛されていた阿難  お釈迦さまは、仏陀としては万人・万物に平等な慈悲をお垂れになったことは申すまでもありませんが、人間釈尊としていちばん愛されたのは、常随の侍者阿難ではなかったかと思われます。  阿難は、お釈迦さまが出家された年に、浄飯王の弟、甘露飯王の子として生まれました。つまり従兄弟(いとこ)に当たるわけです。お釈迦さまが成道後初めて帰郷されてからマガダ国へお帰りになる時、阿那律や提婆と一緒に出家して王舎城へとお供したのでした。その時は十二歳だったといわれています。  お釈迦さまには、おそばにいて身の回りのお世話をする侍者がおりましたが、あまりにお気に召さず二、三人代わったように伝えられます。ところが、阿難が選ばれてお仕えするようになってからは、主従というより、あるいは師弟というより、親子といったほうがふさわしいほどの間柄になり、入滅されるまでの約二十五年の間、ずっとおそばについていたわけです。  ですから、仏伝の中でも人間的情愛に富んだエピソードとなると、阿難との間の話が断然多いのです。そのいくつかを紹介してみましょう。 阿難ならではの無痛手術  阿難は、舎利弗とか、目連とか、摩訶迦葉といった人たちと違って、智慧において格段に鋭いものがあるとか、神通力の持ち主であるとかいった際立った特微はなかったのですが、しかし、法を聞くことの熱心さと、それをよく記憶していることにおいては人並みすぐれたものがありました。  お釈迦さまが王舎城の竹林精舎におられた時、阿難の背中に大きな腫れものができ、たいへん苦しんだことがありました。  お釈迦さまは、さっそく名医耆婆(ぎば)を呼んで、治療を命ぜられました。耆婆は患部を診察してから、お釈迦さまにこっそり申し上げました。  「あの腫れものは切開しなければ治りません。切開には相当な痛みが伴います。世尊や上首の長老がたは、定(じょう=精神統一)に入って痛みを忘れることがおできになりますけれども、失礼ながら阿難尊者にはまだ無理だと存じますが……」  それをお聞きになった世尊は、しばらくお考えになっておられましたが、やがてこうおっしゃいました。  「いいことがある。そなたの手術中、わたしが阿難に法を説いて聞かせよう。さあ、手術の用意をしなさい」  用意ができると、世尊は阿難と差し向かいにお座りになり、説法をお始めになりました。阿難はいつものように目を皿のようにして世尊を見つめ、耳を澄まして一言一句も聞き逃さないように聞き入っています。  その間に耆婆は阿難の後ろに回りメスをふるって腫れものを切開し、膿(うみ)をすっかり出し、その跡に膏薬を塗って手術を終えました。  耆婆が手術の完了を目で合図しますと、世尊は、  「どうだ阿難。いま耆婆がそなたの腫れものを切開手術したが、痛くはなかったか」  とお聞きになりました。阿難は、  「えっ、手術したのでございますか。ぜんぜん存じませんでした。痛くもなんともございませんでした」 と申し上げました。  「そうか。よかった、よかった」 世尊は満足そうにおうなずきになりました。  なかなか味わい深い話ではありませんか。  世尊の思いやりの智慧と、名医耆婆のメスさばきと、阿難の聴法の熱心さと、三位一体で成しとげられた無痛手術の一幕でありました。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊30

霊鷲山での世尊と阿難

1 ...人間釈尊(30) 立正佼成会会長 庭野日敬 霊鷲山での世尊と阿難 洞穴で相通じていた居室  霊鷲山にお詣りするには、旧王舎城跡(今はジャングル化している)を南北に走る本道から分かれ、いわゆる頻王道(ひんおうどう=ビンビサーラ王が造ってさしあげた登山道)をあえぎあえぎ登っていくのです。その頂上近くに阿難窟という石窟があります。阿難が座禅・瞑想の修行をした場所です。  頂上の狭い平地にはお釈迦さまのお住まいのご香室があり、今はその基壇のみが残っていますが、わずか四坪ばかりの一室の趣です。  ところで、阿難窟はご香室のちょうど真下に当たり、頂上の北側の巨岩の中から洞穴が阿難窟のすぐ近くにまで通じているのです。  そうした配置から推察しますと、阿難は、昼間はご香室にいてお身の回りのお世話をし、また、頂上からやや下の南側にある平地で大衆に法華経や無量寿経などの説法をなさるときもおそばにいて聴聞し、夜になると自分の石窟に下がって、一人、修行したもののようです。 大鷲に脅された阿難を  その付近には獰猛な大鷲がたくさんおり、虎もよくうろついていました。現代になってもやはり虎が出没し、高楠順次郎博士が踏査に行かれたときも、虎のうなり声を聞いて急ぎ行動を中止されたこともあるそうです。  阿難は温順で優しい性格だった半面、剛毅さに欠けていました。恐怖心も俗人並みで、自分でもそれを反省していたらしく、中阿含経第四七に次のような記述があります。  阿難が一人静かな所で黙想しているとき、こう考えました。「恐怖というものは智慧の至らなさから起こるのではないか。智慧が明らかであれば恐怖は起こらないのではないか」。そこでお釈迦さまのもとへ行き、そのことを申し上げると、お釈迦さまは、  「よくそこに気がついた。ごく小さな枯れ草から起こった火が大きな楼閣をも焼きつくすように、真理を知らぬ迷いから恐れや不安や憂いが起こる。過去に対する悔恨も、現在に対する憂慮も、未来に対する不安も、すべて真理を知らぬことから起こるのである」とおおせられた、とあります。  さて、ある夜更けに霊鷲山の石窟で阿難が瞑想をしていますと、魔王がその修行を妨げようとして巨大な鷲の姿となって洞窟の入り口の岩に止まり、大きな翼を羽ばたいてものすごい音を立て、闇をつんざくような叫び声をあげました。  阿難は恐ろしさのあまり、身がすくみ、ブルブル震えるばかりでした。そのとき、世尊は頂上のご香室にあられましたが、神通力をもって洞穴を通じて阿難の頭を撫でられ、「これは魔王の脅しに過ぎない。少しも恐れることはないのだ。そなたの心が恐れさえしなければ、魔王すら何も危害を加えることはできないのだ」と、おおせられました。  そのご一言で、阿難はすっかり心身の落ち着きを取り戻し、再び瞑想の修行に戻ることができた……と、『大唐西域記』に記されています。  お釈迦さまは常に理性的な教えによる教化を旨としておられましたが、まだ悟りを開いていない者に対しては、時と場合によってはこのように神通力をもって慈愛の手を差し伸べられたのです。  とりわけ阿難に対してはそのような事例が多く、追って二、三紹介しますが、そういうところにお釈迦さまの人間性の豊かさと大きさがうかがえるように思われるのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊31

破戒の危機を救われた阿難

1 ...人間釈尊(31) 立正佼成会会長 庭野日敬 破戒の危機を救われた阿難 阿難の最大の女難  阿難は年も若く、まれに見る美男子だったといいます。ある日、托鉢からの帰りみち、のどが渇いて仕方がなかったところ、泉のほとりで一人の娘が水を汲んでいました。  「その水を一杯供養してもらいたいんだが……」と頼むと、娘はもじもじしながら汲んでさし出しました。  うまそうに飲んで軽く目礼をして立ち去っていく後ろ姿を見送りながら、プラクリティというその娘はたちまち燃え立つような恋心にとりつかれてしまいました。家に帰ったプラクリティは、呪(まじな)い師だった母親に「あのお方を家に呼び寄せて……」と頼みました。母親が「いいえ、五欲を離れた出家の方には呪いは通じないんだよ」とさとしましたが、「あの方と添えないぐらいなら、わたしは死んでしまう」と泣きくずれるのでした。  一人娘の可愛さに、母親があらゆる秘術をつくして祈ったところ、それが通じたものか、祇園精舎にいた阿難はついフラフラとプラクリティの家まで来てしまいました。母娘はたいへんに喜び、美しいベッドを用意して阿難を招き入れました。  その時、祇園精舎におられたお釈迦さまは、愛弟子が破戒の危機にあることを天眼(てんげん)をもって知られ「戒の池清らにして、衆生の煩悩を洗う云々」という偈を唱えられ、定(じょう)に入られました。と、阿難は何か柔らかい風のようなものに包まれたような気持ちになり、われ知らず精舎へと立ち帰ったのでした。 プラクリティの回心  明くる日から、阿難が托鉢に出ると、プラクリティは舎衛城の城門の所に待ち受けていました。美しい服を着、髪には花を飾り、キラキラ輝く首飾りをつけ、阿難のすぐうしろについて来るのです。阿難が歩けば歩き、止まれば止まります。町の人が食物を捧げれば、傍らからジッとそれを見ています。  托鉢を終えて城外に出ても、やはりあとからついてきます。祇園精舎の中に入っても、しばらくは門の前に立ちつくしています。  阿難は恥ずかしいやら煩わしいやらでたまらず、世尊にそのことを申し上げました。世尊はすぐ門の外へお出になり、  「娘よ、そなたは阿難の妻になりたいのか」とお尋ねになりました。プラクリティが顔を赤らめながら「はい」とお答えすると、  「では、出家することが条件であるぞ。それでいいか」  とお聞きになります。プラクリティは素直に、「はい、出家いたします」と言うのでした。  「では、父母に話して許しを得てきなさい」とおおせられました。  プラクリティはさっそく家に帰って父母を説き伏せ、黒髪を剃って世尊のもとへ戻ってきました。ただもう阿難のそばにいたい一心からだったのでしょう。そこで世尊は、  「娘よ、色欲は火のように自分を焼き、相手をも焼くものだ。それを知らぬ者は、蛾が灯火の中へ飛びこむように自分を滅ぼすのだ」と、こんこんと言い聞かせられました。プラクリティはもともと純情な娘でしたので、たちまち証(さと)りをひらき、りっぱな比丘尼になったのでした。  それはさておき、当時のインドでは身分の制度が非常に厳しく、たまたまプラクリティがいちばん低い身分の家の子でしたので、その娘を出家させたのはけしからんと、猛烈な非難が国内にわき起こりました。しかし、世尊はまったくそれに耳をかさず、「人間はすべて平等である」という信念をつらぬかれたのでした。お釈迦さまこそ、真の民主主義の始祖でもあったと言っていいでしょう。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊32

おおらかな阿難の人柄

1 ...人間釈尊(32) 立正佼成会会長 庭野日敬 おおらかな阿難の人柄 他教の信者とも隔てなく  外道(げどう)という言葉があります。「仏教以外の宗教およびその宗教を信仰する人」をいう意味ですが、いつしかそれが侮蔑や憎しみをこめた意味に使われるようになったのは、残念なことです。  仏教の始祖であるお釈迦さまは、そんな偏狭な気持ちは少しもお持ちにならず、バラモン教やジャイナ教、その他さまざまな教えの人たちともなんらの隔てもなく意見を交換され、法の話をされたことが、初期の経典にはたくさん出ています。  こんなこともありました。ヴァイシャーリー国の実力者であったシーハ将軍は著名なジャイナ教徒でしたが、お釈迦さまの説法を聞いて心から感服し、改宗を宣言しようとしました。お釈迦さまは「あなたのような有名人が軽々しく立場を変えるのはよくありません」と注意され、それでもシーハが仏教徒となることを決意すると、「では、ジャイナ教の僧たちをもこれまでどおり供養しなさいよ」と諭されました。  阿難も常時おそばにいただけあって、その感化を強く受けていたらしく、たいへんおおらかなところがありました。ロージャ・マルラという在俗の友だちがいましたが、仏法を信じようともせず僧を敬おうともしない男でしたけれども、いい人間だったので仲よく付き合っており、お釈迦さまも別に交際をお止めになることはありませんでした。  ある時、お釈迦さまは千二百五十人のお弟子たちと共に仏教徒の多いバーヴァリー城にいらっしゃることになりました。城中の人びとは大喜びで、その日に世尊一行をお迎えに出ない者からは、金百両の罰金を取るという取り決めをしました。  さてその日になって、阿難が世尊に従って城内に入ろうとすると、ロージャが仏教徒たちといっしょに出迎えに来ているのです。阿難がそのわけを聞きますと、「百両の罰金を出すのがいやだったから」ということでした。阿難がお釈迦さまにその話をしますと、「かわいそうな男だ。いっぺんわたしの所へ連れてきなさい」と言われるのでした。 衣服をもらいに行った阿難  ロージャがいやいやながらお釈迦さまのもとへ参りますと、まるで息子の友人が来たように親しくお迎えになり、いろいろ世間話をなさりながらだんだん仏法の話をお聞かせになりました。すると、ロージャはいっぺんに仏法の素晴らしさに敬服し、在家の信者にならせて頂きました。  そうなると、阿難とロージャとの友情はますます深まり、阿難にとってロージャの家はまるでわが家同様の気持ちになってしまったのです。俗人の間ではよくあることですが、出家修行者の世界では珍しいことでした。  ある日、阿難はロージャの家に衣服をもらいに行きました。あいにくロージャは留守でしたので、奥さんにそう言いますと、奥さんもすぐ衣類の箱を出してきました。阿難はその中からいちばん古いのを取り、「これをもらって行きますよ」と言って帰りました。  あとでロージャが阿難の所へ来て、  「なんだい。君はいちばん粗末な服を持って帰ったそうじゃないか。どうしていいのを取らなかったんだい」  と聞くと、阿難は、  「いや、上座の人たちのために顔や手を拭く布を作って差し上げようと思ったのだよ。いいものなんかもったいないよ」  と答えました。  教団の一部の人びとの間に、阿難のこのむとんじゃくな行為を非難する声が上がりましたが、お釈迦さまはそれをお取り上げにならず、なんのおとがめもなかったそうです。  ちょっといい話ではありませんか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊33

阿難はこうして侍者となった

1 ...人間釈尊(33) 立正佼成会会長 庭野日敬 阿難はこうして侍者となった それまでの侍者たちは  順序が逆になりましたが、ここで阿難が常随の侍者となったいきさつについて述べておきましょう。  それまでは、いろいろな比丘がお身の回りの世話やお使いなどをしていましたが、どれもこれも思わしくありませんでした。  ナーガサーラーという比丘などは、こんないたずらをしたのです。雨の降る夜でした。お釈迦さまは雨が降っても夜の経行(歩きながらの瞑想。座禅などの疲れをとるためにも行われる)を怠られることはありませんでしたが、その夜も雨具をつけて経行しておられました。  ナーガサーラー比丘は早く自分の房に帰ってゆっくりしたいので「もうおやめになっては……」と再三申し上げましたが、世尊は黙ってお続けになり、夜が更けてもいっこうおやめになりません。そこで彼は子供じみた一策を案じ、衣を頭からかぶって暗闇の中にかくれ、「ウォー、ウォー」と気味の悪い声を出して妖怪の真似をしたのです。もちろん、それにびっくりされるような世尊ではなく、彼の企ては失敗に終わったのでした。  また、ある比丘はお釈迦さまの用具(カミソリとか、鉄鉢とか、水こし袋など)を勝手に使うくせがありました。ある時など、外へ持ち出していたところを盗賊に襲われ、その用具を奪われてしまったばかりか、頭をさんざんなぐられて死にそうになったこともありました。  これが近い動機になり、老年にもなられたこともあって、常随の侍者が欲しいとお考えになりました。そして、王舎城の竹林精舎で上座の比丘たちを集めてご相談なさいました。憍陳如・阿説示・舎利弗・目連・摩訶迦葉・摩訶迦旃延といった十数人の長老たちでした。 阿難が出した三つの条件  まず憍陳如が「わたくしがお仕えいたしましょう」と申し出ました。彼は世尊の苦行時代からご一緒した者で、鹿野苑で教化された五比丘の一人でした。「いや、そなたはわたしより年上で、もう老境に入っている。自分一人のことをやれば十分です」とおおせられました。  その他の人々も、「わたくしが……」「わたくしが……」と申し出ましたが、「そなたたちは、わたしと共に教えを広めることに力を尽くすのが役目です」と言ってお断りになります。  教団の総世話役ともいうべき立場にあった目連は、ふと阿難のことを思い出しました。まだ年は若いし、性質はいいし……そう考えて世尊に申し上げると、「あれならいいだろう」というお答えでした。  そこで目連は阿難の所へ行ってその旨を伝えました。阿難は、「わたくしのような者が……」と、何度も何度も辞退しました。しかし、目連は、「世尊は東の窓から差しこむ朝日のようなお方です。その光は必ず部屋の西の壁を照らします。あなたはその西の壁のように直接世尊のみ光を受ける身になれるのですよ」と言い、とうとう阿難を説得しました。  阿難は三つの条件をつけて承諾したのでした。それは、  (一) 世尊の新旧の衣や食物を頂戴しないこと。  (二) 世尊が在家信者に招待される時は、必ずしもお供しないでよいこと。  (三) いつでも世尊のおそばに行ってお給仕できること。  (三)は当然のことですが、(一)と(二)は条件としては逆のように思われます。ここに阿難の清潔な人柄がよく表れているとは思いませんか。  こうして、爾来二十五年にわたる親子のような師弟の生活が出発したのです。時に世尊が五十五歳、阿難が二十七歳でありました。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊34

仏道の門を女性にも開く

1 ...人間釈尊(34) 立正佼成会会長 庭野日敬 仏道の門を女性にも開く 出家を決意した貴婦人たち  お釈迦さまの仰せには何事でもハイ、ハイと従っていた阿難が、生涯にたった一度だけつよく反論し、ついに世尊を説得してしまったことがあります。それも女性に関することでしたから、やはり生来のフェミニストだったのでしょう。  お釈迦さまの成道から五年後、父君の浄飯王が亡くなられました。王の後添いであった摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)は、天涯孤独ともいうべき境遇になってしまいました。  というのは、赤ちゃんの時から成年に至るまで愛育した太子(のちの釈尊)は早く出家しておられましたし、浄飯王との間に出来た実子の難陀も、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた孫の羅睺羅(釈尊の実子)も、すでに出家してしまっていたからです。  俗世でのいきがいをすっかり見失ってしまった彼女は、王の葬儀をすませるとすぐ世尊のもとへ行き、出家してお弟子になりたいと申し出ました。が、世尊は頑としてお許しにはなりませんでした。  泣く泣く王宮に帰るには帰ったものの、どうしても思い切れません。嫁の耶輸陀羅(やしゅだら)妃も、夫と愛児に出家されて寂しい人生を送っていましたので、摩訶波闍波提の決意を聞いてパッと顔を輝かせ、「ぜひお供を……」と言うのでした。その話はすぐ一族の女性たちの間にひろがり、「わたしも」「わたしも」と、十数人の同志ができました。  みんなはそろって黒髪を剃りおとし、黄衣を身につけ、素足のままで住みなれたカピラバスト城を後にしました。そのとき世尊がおとどまりのヴァイシャーリーまでは二百数十キロの道のりです。  それまでは王宮の奥深く住み、外出には美々しい輿(こし)に乗り、世間の人に顔を見せたこともない貴婦人たちが、石ころだらけの道をはだしの足に血を滲ませながらの旅です。昼間は烈日の下を沿道の人々の好奇の眼にさらされ、夜は冷えこむ路傍で着のみ着のままの野宿。それでも必死に耐え忍んだのでした。 阿難の懸命のとりなしで  一行がお釈迦さまのおられる精舎の門前にたどり着いたのは日暮れどきでした。異様の女たちが来たと聞いて阿難が出てみると、埃にまみれてよろめいているその人たちはまぎれもなく世尊の養母摩訶波闍波提、かつての妃耶輸陀羅をはじめ一族の人たちです。  「どうしたのです。そのお姿は……」  「世尊のお弟子にさせて頂きたいと決心し、家を捨ててまいったのです」  阿難はすぐさま世尊のもとへ参って、そのことを申し上げました。世尊は、  「それはならぬ。女人は出家の修行には耐えられない。それに、教団の規律が乱れる恐れがある。追い返しなさい」  と、非常に厳しいご態度です。阿難は、この時ばかりは、思い切って言葉を返しました。  「世尊はいつも人間はすべて平等であるとお説きになります。み教えに従えばすべての人間が仏の悟りを得られるとお説きになります。それなのに、女人をそれから除外されるのは矛盾ではございませんでしょうか」  「うむ。……それはそなたの言うとおりだが、出家者として教団の人となるには規律を厳守しなければならぬ。女人にはそれが不可能なのだ」  「それでは、もし規律を厳守することを誓えばお許しくださいますか」  世尊は黙然としておうなずきになりました。  阿難がすぐさま門外に出てその旨を伝えますと、一同は感極まって泣くばかりでした。  これが比丘尼教団の発端なのであります。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊35

錯乱の女も長老尼に

1 ...人間釈尊(35) 立正佼成会会長 庭野日敬 錯乱の女も長老尼に 素っ裸の顛倒の女性に…  祇園精舎のひるさがりでした。  お釈迦さまは涼しい森の木陰で、多くの在俗の人びとに囲まれて説法をしておられました。そこへ、どこから迷いこんだものか、一人の若い女が素っ裸のままやってきました。  「あっ、あの頭のおかしいバターチャーラーだ」  「世尊のおそばへ行かせてはまずい。止めろ」  二、三人の者が女の前に立ちふさがりました。それを見られた世尊は  「止めるな。好きなようにさせるがよい」とおっしゃり、女がおそばに近づくと、  「妹よ、気を確かに持て」  と声をかけられました。その一言で、女はたちまち正気に返り、裸の姿が恥ずかしくなって、その場にうずくまってしまいました。  「だれか、この女に着物をあげなさい」  という世尊のお言葉。群集の一人が一枚の布を投げてやりますと、女はそれをまとって世尊の前に進み出てひれ伏し、  「尊いお方。どうぞわたくしの力になってくださいませ。わたくしの子供も、父も、母も、みんな死んでしまいました」  世尊は静かにおおせられました。  「妹よ。そなたは家族が死んだといって嘆き悲しんでいるが、遠い遠い昔から今日まで、数えきれないほどの人たちが子供や親に死なれて流した涙は、世界中の海の水よりまだ多いのだよ」 捨てた水のゆくえで悟る  この女性は、わずか十数日のうちに夫は毒蛇にかまれ、上の子はおぼれ死に、赤ん坊は鷹にさらわれ、実家は暴風雨で倒壊して父母と弟を失い、そのショックで気が狂わんばかりになってしまったのでした。  彼女はお釈迦さまのお言葉を聞いているうちに、自分だけが不幸な身ではないということが胸にしみてわかってきました。世尊は重ねて、  「自分自身が死に臨んだ時のことを考えてみなさい。家族も、親戚も、なに一つ頼りになるものはないのですよ。ただ、この世の道理を悟り、清らかな生活を送れば、不死という理想の境地に達することができるのです」  とお説きになりました。彼女はたちどころに仏法への信を起こし、出家・入門をお願いしてお許しを得たのでした。  比丘尼教団に入って熱心に修行していた彼女は、ある日、足を洗った水を捨てたところ、すぐ地中に吸いこまれてしまいました。もう一度水を流してみたところ少し先まで流れ、さらにもう一度流してみるともっと先まで流れて行きましたが、ついにはやはり地中に消えてしまいました。  彼女はじっと考えました。(人間も、最初に流した水のように早死にする人もあり、二度目のように中年で死ぬ人もあり、三度目のように長生きする人もある。いずれにしても死ぬことに違いはない)。  その思いが世尊のみ心に通じたものか、世尊のお声が耳もとに聞こえてきました。  「そのとおりである。そこで心得ておかねばならないことは、人がもし百年生きようとも、真理を知らず放逸に暮らすならば、真理を知って精進する者の一日の生にも劣る、ということである」  それを聞いたとたんに彼女は悟りを開いたといいます。そしてこのお言葉は、法句経百十二番に収録されています。また、彼女自身が詠じた偈も、南伝の長老尼偈経の百十二番から百十六番までに収録されており、よほど高い境地に達したもののようです。  ともあれ、人びとに相手にされなかった素っ裸の顛倒の女に親しく声をかけられ、ここまで育てられたお釈迦さまの優しさと教化力には、ただ頭が下がるばかりです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊36

身をもって示された四民平等

1 ...人間釈尊(36) 立正佼成会会長 庭野日敬 身をもって示された四民平等 肥え汲みニーダの困惑  舎衛城はひる近くなっていました。  お釈迦さまは、数人の比丘たちを引き連れての托鉢を終えられ、祇園精舎へ戻ろうと静かにお歩きになっておられました。  舎衛城の町は石造りの家がギッシリ立ち並び、それを縫って狭い路が迷路のように入り組んでいました。  肥え汲みのニーダは人糞尿をいっぱい甕(かめ)に入れて背に負い、前かがみになって石だたみの上を歩いていました。ふと前方を見ると、かねて遠くからお姿を拝したことのある仏さまがこちらの方へ歩いてこられます。  ――これはいけない、汚い物にまみれた自分がおそばを通るなんて畏れおおい――そう考えたニーダはすぐ横道へそれて行きました。  その様子をごらんになった世尊は、すぐに道を変え、ニーダがやってくる前方に現れました。ニーダはあわてて引き返し、ほかの道を通りますと、またまた世尊が立ちはだかるようにその前にお立ちになります。  なぜ世尊がそんな意地悪をなさったのか。意地悪でも何でもありません。ニーダのような人をこそ教化しなければならない、とお考えになったのです。  というのは、当時のインドではカーストという不条理な身分制度が牢固(ろうこ)として存在していたのです。バラモンという学問や宗教を司る階級、クシャトリヤという王族・武士階級、ヴァイシャという農工商の庶民、シュードラという最下級の奴隷の四姓(ししょう)です。  お釈迦さまは、「人間はすべて平等な存在である」という信念に徹しておられましたから、機会あるごとにそれを説き、ご自分の言動にもそれを実際に示されていたのです。ですから、ニーダの行動を一目見られて、この人間にこそ自分自身の尊厳さを認識させなければ――とお考えになったわけです。 神像の頭も足も同じ黄金  さて、どう道を変えてもお釈迦さまが目の前にお現れになるので、ニーダはすっかり度を失い、あわてたあまり甕を壁にぶっつけて落とし、全身に人糞尿を浴びてしまったのです。そのとき、世尊はおっしゃいました。  「ニーダよ。わが身を卑下してはならぬ。人間は生まれた種族によって尊卑が決まるものではない。何をしてきたかの行いによって決まるのである。もしそなたが望むなら、きょうからわたしの精舎に入れてあげるが、どうだ……」  ニーダは感きわまって平伏しました。お釈迦さまはそのままニーダを祇園精舎にお連れになり、サンガの一員にお加えになったのでした。  しばらくたってから、大きな問題が起こりました。というのは、釈尊教団のしきたりとして、新しく入門した者は先輩の足に額をつけて礼拝することになっていました。ところが、ニーダより後に入門したバラモン階級の出の者が、シュードラ出のニーダの足など頂礼したくないと拒否する騒ぎが起こったのです。  そのときお釈迦さまは、次のような説法をなさり、その不心得を厳しくおさとしになったのです。  「黄金をもって神の像をつくるとしよう。頭の部分になる地金もあれば、胸、腹、足の部分になる地金もある。頭の部分になる黄金と、足の部分になる黄金とその価値において上下があるか。人間もそれと同じである。すべてが等しく尊い存在なのである」と。  いつの時代になっても変わることない、人間存在の基本原理でありましょう。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊37

仏陀と菩薩の微笑

1 ...人間釈尊(37) 立正佼成会会長 庭野日敬 仏陀と菩薩の微笑 衆生を愛するが故の微笑  後世の仏伝作者や経典編集者は、お釈迦さまを神格化するあまり、いつも謹厳そのもののようなお顔をしておられたように伝えていますが、事実はもっと柔らかな心の持ち主で、よく微笑されたようです。その証拠は仏像にも現れており、中国の北魏(ほくぎ)や日本の飛鳥(あすか)時代の如来像はお口もとに神秘的な微笑をたたえておられます。  僧伽羅刹(そうぎゃらせつ)所集経というお経には仏身の妙相を非常に詳しく述べてありますが、その二十二番目に「微笑(みしょう)」という一章があるくらいです。そこには次のように述べられています。  「世尊かくの如く笑みたもう。かくの如き因縁をなすは、本行のなすところ、衆生を憐れむがゆえに、すなわちかくの如き笑みを現ず」  つまりお釈迦さまは、前の世からずっと積んでこられた衆生を憐れむ行いの因縁によって、自然と微笑を現される……というのです。また、こうもあります。  「仏の笑むを見るに、塵垢なく、清浄にして瑕(か=きず)なし。本(もと)修行するところ、また虚言なし」  口もとに現れる笑いにもいやらしいのがあります。ニヤリとする皮肉な笑い。相手を侮蔑するようなニタニタ笑い。そんなものではなく、お釈迦さまの微笑はまったく心の底からの、純粋なものだったのです。というのは、長い間の修行によって円満なご人格が完成され、そのご人格から自然と発する微笑であるからそこに嘘いつわりは微塵もない……というわけです。  それらの具体的な現れが、大般若波羅蜜多経第五百六十五にあります。すなわち……  世尊のお説法を聞いて感激した六百人の比丘たちが、歓喜をあからさまに爆発させて花々を散じ、世尊に向かって合掌しました。そのとき世尊はニッコリと微笑されました。阿難が、  「いま世尊はニッコリなさいましたが、どういうわけでお笑いになったのですか」とお聞きすると、こうお答えになりました。「このもろもろの比丘たちは、これから星の数ほどの年月を経たのち仏となることができる。そのことが目に見えてきたから、思わず笑みを浮かべたのである」。  まことに「衆生を憐れむがゆえに」……。お弟子たちを心から愛されるがゆえの微笑だったのです。 微笑しつつ使命感を自覚  仏さまでもこのとおりです。ましてや、そのお使いとして直接一般大衆に接している菩薩ともなれば、なおさら「和顔愛語」を心がけていなければなりますまい。  ですから、華厳経第五十九に、世尊は「仏子よ、菩薩摩訶薩は十事をもってのゆえに微笑を示現して心に自ら誓う」とお説きになり、その十の事柄をお示しになっておられます。  その第一に「世間の人たちは欲望の泥の海の中で苦しみもがいている。そういう人たちを救うのが自分に課せられた使命だと、微笑しながら自ら誓うのである」とおおせられています。  菩薩とは、自分も仏道を修行しながら、人々を救い、世の平和化のために挺身する人間をいうのですが、その使命を自覚すれば、往々にして歯を食いしばるような悲壮感をもって活動に立ち向かう人があります。それも決して悪いことではないでしょうが、お釈迦さまのご真意としては、「もっと柔軟な、楽しい気持ちで、微笑と共に教化活動をしてほしい」とお考えになっていたのではないかと思われます。  後世のわれわれ仏教徒にとって、非常に大事なお示しではないでしょうか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊38

釈尊の絶妙な方便

1 ...人間釈尊(38) 立正佼成会会長 庭野日敬 釈尊の絶妙な方便 死んだ子を抱いて歩く女  舎衛城の町を一人の女が、三歳ばかりの子供の死体を抱いて、フラフラと歩き回っていました。そして行き会う人ごとに、  「この子に薬をください。お願いします」  とけんめいに頼むのでした。この女は商人の妻でキサー・ゴータミーといいましたが、一人子を急病で失って半狂乱になっていたのでした。  薬をくれと言われても、だれも相手にしません。ただ一人、心すぐれた男がいて、彼女に告げました。  「城外の精舎に仏陀といわれるお方がおられるから、そのお方にお願いしてごらん」  ゴータミーはさっそく祇園精舎に行ってみますと、大勢の人に囲まれて説法しておられる神々しいお方がおられます。それを見てとったゴータミーはおん前に進み出て、  「仏さま、この子に薬をくださいませ」  とお願いしました。お釈迦さまは、  「よく来たゴータミー。これから町へ行って、むかしから今まで死人を出したことのない家から芥子(けし)粒を一粒ずつもらってきなさい。そうしたら、いい薬をあげよう」  とおっしゃいました。  ゴータミーが町へ引き返して一軒一軒回ってみましたが、これまでに死人を出したことのない家は一軒もありませんでした。  そこでゴータミーはハタと気がつきました。――死んだのはこの子だけではないのだ。仏さまはそのことをお教えくださったのだ――。  そして町の外の墓場に行って子供の遺体を葬り、スッキリした気持ちでお釈迦さまのみもとへ戻ってきました。 自身も聖なる道へ回生した  「ゴータミーよ。芥子粒は手にはいったか」  「いいえ、み仏さま。もう芥子粒は要りません。み教えはよくわかりました」  そこで世尊はお説きになりました。  「自分の子や家畜に心を奪われ、愛におぼれて執着しているうちに、死はそれらをさらって行くであろう。人びとが眠っている間に洪水が村を押し流して行くように」  このお言葉は法句経の二八七番に残されていますが、この一偈を聞いたゴータミーはますます心が開け、出家して仏法に精進したいと決意しました。  お許しを得て比丘尼僧院に入ったゴータミーの進歩は目を見張るほどで、ほどなくアラカンの悟りに達しました。とくに、粗末な衣を着、質素な暮らしをしていることは比丘尼中で第一であると、お釈迦さまに褒められたのでした。  法句経三九五番にある次のお言葉は、キサー・ゴータミーをお褒めになったものだといわれています。  「たとえ拾いあつめて作った、見苦しい衣を着ていても、身体は瘠せ、静脈が浮かび上がって見えるほどであっても、ひとり林中で心を静めて瞑想している、わたしはそのような人をバラモンと呼ぼう」  なお、キサーというのは「瘠せ女」という意味だそうで、ゴータミーの得名だったのです。  彼女自身が詠んだ偈も、南伝の長老尼偈経の二一三番から二二三番に記されています。その最後に、  「わたしは聖なる八つ道(八正道)を修習して、不死の境地に達し、法の鏡を見た。わたしは(貪・瞋・癡の)矢を抜きとり、心の重荷を下ろし、解脱することができた」  とあります。女性として、母として最大の不幸に陥った人が仏法に救われた一例ですが、それにしてもお釈迦さまの方便の見事さはどうでしょう。「方便即真実」とはこのことなのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊39

釈尊の財産はこれだけ

1 ...人間釈尊(39) 立正佼成会会長 庭野日敬 釈尊の財産はこれだけ 世尊の衣を頂いた迦葉  さき(二十四回)に、出家して王舎城へと旅する摩訶迦葉をお釈迦さまが途中まで出迎えられた話を書きましたが、その直後にこういうことがあったのです。  「ちょっと一休みしようか」とお釈迦さまがおっしゃるので、迦葉はすぐ自分の上着を脱ぎ、四つに畳んでその上に座って頂きました。お釈迦さまはその上着を触られて、  「柔らかな布だね」  とおっしゃいました。迦葉は即座に、  「その上着を差し上げたいと存じますが、いかがでしょうか」  と申し上げます。世尊はお尋ねになりました。  「そなたは何を着て行くのか」  「世尊の糞掃衣(ふんぞうえ)を頂きたいのですが……」  世尊は黙って上着をお脱ぎになり、迦葉に与えられました。迦葉は思わず涙ぐむほどに感激してその上着を押し頂き、身に付けました。  着ているものを交換する、それには並々ならぬ意味があるのです。隔てのない友情と親しみの表れなのです。お釈迦さまが初対面の迦葉をどうごらんになっていたかが、この一事でもうかがい知ることができましょう。  糞掃衣というのは、墓場などに捨てられたボロ布をつづり合わせた衣で、世尊も他の比丘たちと同様、それを常用しておられたのです。  それ以来迦葉は、一生のあいだ衣食住すべての面で質素な生活に徹し、教団中「頭陀(ずだ)第一」と評せられました。頭陀というのは梵語ドゥタの音写で、樹下石上を宿とし、鉢に入れられた食物以外は食べず、着るものは糞掃衣に限るといった暮らし方をいうのです。 世尊は世界一の大富豪  お釈迦さまもそのような生活をしておられたのですが、お気持ちはもっと広々としておられ、信者や国王に招待されれば気さくにお出かけになり、新しい衣を寄進されればこだわりなくお受けになりました。ただし、たいていはだれかに下げ渡されたもののようです。  いずれにしても、簡素な生活という基本は守り続けておられました。その所有物といえば、他の修行者たちと同様、左の七点に限られていました。  三衣(さんね)という三種の衣。まず(大衣)といって、托鉢に出たり、信者宅に招かれたりする時の正装。これは二十五条の布ぎれをつづり合わせて一条の布としたもの。次に(上衣)といって、説法をなさる時(弟子たちならば、礼拝・聴法の時)や集会などの際に着る平常着で、九条の布ぎれをつづり合わせて作る。三番目は(中衣)といって、日常の作業や就寝の時につける肌着。  これらは、もともとはボロ布をつづったものだっただけに、たとえ新品でも鮮やかな色でなく、カサーヤ(濁った色)と定められていました。いまの袈裟(けさ)という名はそこからきているのです。  この三衣一組に加えて、座ったり寝たりする時に敷く座具と、飲み水をこすための漉水嚢(ろくすいのう)と、托鉢の時、食物を受ける鉢と、それにカミソリ。これが全財産でした。  それにもかかわらず、お釈迦さまはこの世で最高の大富豪であられた。なぜか。法華経譬諭品に「今此の三界は皆是れ我が有なり」とおおせられたように、「大宇宙は自分のものだ」とお考えになっていたからです。  後世のわれわれも、もちろんお釈迦さまには及びもつかないけれど、精神世界の王者となることを一生の目標とし、できうる限り生活は簡素にしたいものです。なぜなら、今のままでは人類が滅びに向かうことは必至ですから。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊40

金糸刺繍の衣と弥勒菩薩

1 ...人間釈尊(40) 立正佼成会会長 庭野日敬 金糸刺繍の衣と弥勒菩薩 摩訶波闍波提手作りの衣  前回にお釈迦さまの衣について書きましたが、そのついでにぜひ触れておきたいエピソードがあります。  太子を育てた養母の摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)は、太子が出家されたのち、いつかはお役に立つこともあろうかと、一条の衣を作りました。自分で糸を紡ぎ、自分で織った上等のものでした。漢訳には、「金縷黄色衣(こんるおうじきえ)」とありますから、おそらく金糸で刺繍がしてあったものと思われます。  お釈迦さまが仏陀となられてから数年後に故郷に帰られたとき、郊外の林中にそれを持って訪れ、  「これはわたくしが作ったものです。どうぞお納めください」  と申し出ました。世尊は、  「わたしが受け取るわけにはいきません。教団に寄進なさるがよいでしょう」  と申されます。しかし摩訶波闍波提は、  「世尊に着て頂くために作ったものです。どうぞ、どうぞ、お受けください」  と懇願してやみません。お傍にいた阿難が、  「世尊。摩訶波闍波提さまは、世尊を二十九年もお育てになったお方ではございませんか。それに、今は在家の信者として、三宝に帰依し、五戒を守ってお暮らしになっておられます。どうかその真心をくみ取ってあげてくださいまし」  と、とりなしました。世尊もそれに動かされ、いちおうご自分への寄進としてお受けになり、あらためて教団へ寄付されたのでした。 着ると三十二相が現れた  教団に寄付はされたものの、だれがそれを着るかということが問題になりました。立派すぎると言って、だれも着たがりません。  やむなく世尊が決じょうをお下しになりました。  「弥勒比丘に着用させよ」と。  法華経序品で、文殊菩薩が弥勒に、  「そなたは前世にもろもろの善根を植えたために無数の諸仏に会いたてまつり、供養・恭敬・尊重・讃歎した身である」と告げていますが、その因縁によるものでしょうか、生まれつき人並みすぐれた尊貴な風格と慈悲心の持ち主でした。  バラナシの大臣の家に生まれ、親戚にあたるバラモン学者の家で育てられたのですが、その学者の命令でお釈迦さまのもとに参って法を聞き、たちまち感動して出家・入門したのだそうです。  お釈迦さまが金縷黄色衣をこの人に着せようとなさったことには、深い意味がこめられているように推察されます。  というのは、弥勒をご自分の後継者(教団の後継者ではなく、衆生済度の仏として)と思い定めておられたからです。当時は比丘の身分でしたけれども、内面的にはすでに菩薩であり、しかも補処(ふしょ=釈迦牟尼仏の代わりになる)の菩薩だったわけです。  お釈迦さまは、こう予言しておられます。  「弥勒は、わたしの入滅後五十六億七千万年後に兜率天から娑婆世界へ下生して仏となり、衆生を救済するであろう」と。  弥勒比丘がこの衣を着るようになってから、一般の人々もその予兆を見ることができました。これを着て托鉢に出ると、仏と同じような三十二相がその身に現れ、全身が黄金のように輝き、人々はその姿に見とれて、食物を差し上げるのを忘れるほどだったといいます。  それにしても、世尊は万人を平等に愛されたのですが、しかし、それぞれの人間の特質を見分けられる眼がおそろしく的確だったことは、このエピソードからもうかがわれます。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊41

新興宗教につきものの法難

1 ...人間釈尊(41) 立正佼成会会長 庭野日敬 新興宗教につきものの法難 忌まわしい中傷をまく女  祇園精舎が出来てから、パーセナーディ王をはじめ舎衛城の町の人びとの尊崇は、新興の仏法に集中するようになりました。他の教団の修行者たちは、それがいまいましくてなりません。  その嫉妬心が高じて、ある一団の修行者たちが、およそ宗教者としては考えられぬような悪計を企(たくら)んだのでした。  その仲間の女修行者スンダリーは評判の美人でしたが、そのスンダリーが毎日けばけばしい化粧をし、夕方になるとわざと人目につくようにシャナリシャナリと歩きながら、祇園精舎のほうへ向かうようになりました。  朝になると、祇園精舎から出てきたように装って、舎衛城の町へ帰るのです。そして、知る人に会うごとに、  「ゆうべはね、祇園精舎に泊まってきたのよ。沙門ゴータマの所に寝たの」  と聞こえよがしに言うのでした。  その噂はたちまち町中に広がりました。それを見すました悪い修行者たちは、数人の殺し屋に金をつかませて、スンダリーを殺させたのです。  殺し屋たちはスンダリーを虐殺し、祇園精舎のお釈迦さまの部屋のそばの深い溝に投げ込み、土をかぶせておきました。 悪評にも泰然として  悪い修行者たちは、スンダリーが行方不明になったと騒ぎたて、王に訴え出ました。王が、  「心当たりの所はないのか」と聞くと、  「そういえば、近ごろよく祇園精舎へ行っていたようですが……」  と、しゃあしゃあと答えます。  「では祇園精舎のあたりを捜してみよ。捜索を許す」  悪い修行者たちは、その辺を捜すふりをしてから、スンダリーの死体を溝から引き揚げ、舎衛城へ担いで帰りました。  釈尊教団の名声はまったく地に落ちてしまいました。比丘たちが町へ托鉢に出ても、聞くに耐えぬ罵りを受けるばかりです(新興宗教にはつきものの法難でした)。  そのことをお釈迦さまに申し上げると、顔色ひとつ変えられず、悪罵する人にはこう説いてやるがよいと言われ、次のような偈をお説きになりました。  「偽りを言う者は地獄に落ちる。自分で作(な)していながら作していないと言う者も同様である。両方とも、己れの作した行為によって己れを悪しき運命へ索(ひ)いて行くのである」  それでも、弟子たちの中には「この舎衛国から引き揚げては……」と言い出す者も出てきました。お釈迦さまは、  「しばらく待て。そのような噂は七日もすれば消えていくであろう」と仰せられ泰然としておられました。  そのうち殺し屋たちは、もらった金で酒を飲んでいるうちに喧嘩を始め、その中の一人が、  「おい、お前がいちばん悪いんだぞ。スンダリーを一撃で打ち倒したのはお前じゃないか」と口走りました。それを小耳にはさんだ役人は、ただちに殺し屋たちを逮捕し、極刑にしました。  悪い修行者たちがどうなったかは、言うまでもありません。お釈迦さまが説かれた偈のとおり、「己れの作した行為によって己れを悪しき運命へ索いて行った」のでした。  これは事実あった事件で、右の偈は法句経の三〇六番に収録されています。  それにしても、お釈迦さまの忍辱の強さには、ただただ敬服のほかはありません。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊42

死刑となる五百人を助命

1 ...人間釈尊(42) 立正佼成会会長 庭野日敬 死刑となる五百人を助命 罪人の悲泣を耳にされて  そのころ舎衛国と毘舎離(ヴァイシャーリー)国とは仲が悪く、毘舎離の野盗どもがしばしば群れをなして舎衛国の村落を掠奪したり、破壊したりしていました。  たまりかねた舎衛国の役人たちが大挙して野盗狩りをし、五百人もの盗賊を捕らえて帰りました。町の広場に一同を引き据え、一斉に処刑することにしました。  さすがの荒くれ者どもも、いよいよ首を斬られるとなると、恐怖のあまり声をあげて泣き叫びました。  「死にたくない。助けてくれ……」  「もう悪いことはしません。命だけは……」  その慟哭(どうこく)の声はお釈迦さまの耳にも達しました。  「比丘たちよ。大勢の泣き叫ぶ声がするが、どうしたことなのか」  「世尊。五百人もの盗賊どもが、王の命令で処刑されようとしているのです」  「そうか……」  世尊はしばらく考えておられましたが、傍らに控えていた阿難におっしゃいました。  「すぐ王宮に行っておくれ。そして国王に、わたしがこう言ったと伝えなさい。『あなたは国の王です。民をいつくしむことはわが子のごとくでなければならないのに、なぜ一時に五百人もの人間を殺すのですか』と、そう聞いてきなさい」  阿難が王の所へ行って、その通りを伝えますと、王は、  「尊者よ。そんなことはわたしも心得ております。しかし、この賊どもはたびたび村々を襲っては家を打ち壊し、財産を掠奪して始末におえません。もし世尊が、この者どもが二度と盗賊をはたらかないようにしてくださるなら、釈放してやってもよろしいでしょう」  と答えました。  阿難が王の言葉を世尊に申し上げますと、こう言いつけられました。  「もう一度王の所へ行ってわたしがこう言ったと伝えなさい。『王よ、無条件に釈放されるがよろしい。わたしが二度と悪事をしないようにはからいましょう』と、そう言いなさい」 阿難の機転のはたらき  ところが阿難は、機転をはたらかせて、王の所へは行かず刑場に直行し、刑吏に「この罪人どもは仏陀がお救いになったのだから、殺してはなりませんぞ」と釘を刺してから、罪人どもに尋ねました。  「おまえたちは出家する気があるか、どうか」  賊どもは、  「いたします。いたします。わたくしどもが早く出家していたら、悪いこともせず、こんな恐ろしい目に遭わずにすんだでしょう。どうぞ出家させてください」  と哀願します。  「よろしい。そのように取りはからってあげよう」  そう言いおいて阿難は王の所へ行き、初めて世尊のお言葉を伝えました。王はすぐ役人たちに、「五百人の命だけは助けてやろう。しかし、まだ縄を解いてはならぬ。そのまま世尊のもとへ連れて行けば、仏陀が彼らを放たれるであろう」と命じました。  罪人どもが刑吏に連れられて行くと、世尊は路地に座って待っておられました。そのお姿を見るやいなや、戒めの縄はひとりで解けてしまったのでした(と『摩訶僧祇律』第十九巻は伝えています)。  そこで世尊がこんこんと法を説き聞かせられたところ、みんなが本心を取り戻して出家し、清らかな生活に入ったと言います。  お釈迦さまの、罪を憎んで人を憎まぬ大慈悲心と、阿難の頭の良さの一端をうかがうことのできる一挿話であります。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊43

死にゆく人のために

1 ...人間釈尊(43) 立正佼成会会長 庭野日敬 死にゆく人のために 舎利弗友情の説法  舎利弗の在家時代の友だちにダネンという人がありました。その旧友が重い病気と聞いて、早速見舞いに行きました。  「どうですか、具合は」  と聞くと、  「体中が痛くてたまらないんです」  と言います。  「食べ物はよく食べていますか」  「ぜんぜん食欲がないのです。なにしろ頭が刀で刺されるように痛んで、それに腹も張り裂けるように痛みます。体中が火の上であぶられるように熱いのです」  その言葉を聞くまでもなく、舎利弗は一目見てもはや助かる見込みはないと判断しました。  「ではダネンよ。わたしの尋ねることに思うとおりに答えてください。君は下は地獄から上は梵天までのどこがいちばんいい所だと思いますか。どこに生まれたいと思いますか」  「もちろん梵天です。梵天に生まれたい……」  「安心しなさい。わたしの師のゴータマ仏陀は三界のすべてを見通しておられる方で、梵天に生まれる法をもお説きになっておられます。よくお聞きなさいよ。まず、すべてのものに対する執着を捨てよとお教えになりました。東西南北、四方上下のすべての存在に対して、恨みのない、怒りのない、争いのない広大な心を持ち、欲念を去って清らかになれば、身は死し、命は終わっても必ず梵天に生まれると保証してくださっています」  「そうですか。有り難いことです。それをうかがって心が安らかになりました」  ダネンは両眼に涙を浮かべながらも、ほおには微笑を浮かべ、両手を合わせるのでした。 在家仏教徒の一課題  「その気持ちですよ。何も心配はいりません。また来ますからね」  そう言いおいて、舎利弗は竹林精舎へと帰りました。あとで聞けば、ダネンはそれから間もなく、まことに安らかに息を引き取ったということでした。  竹林精舎では、お釈迦さまが大勢の人たちに囲まれて法を説いておられましたが、はるか向こうから舎利弗が歩いてくるのを見られ、  「みなさん。あの舎利弗はいまダネンという旧友のために梵天に生まれる法を説いて帰ってきました。まことの大徳です」  とほめたたえられました。  中阿含経第六にあるこの実話には、非常に大きな意味が含まれていると思います。  お釈迦さまは、病者に対しては特に慈悲をかけられたお方です。病気の比丘を手ずから看護され、汚れた体や衣を洗ってまでおやりになりました。また、遠くからお釈迦さまを拝しに旅してきた一団が、途中で病気になった一人を置き去りにして来たのを、きびしく叱責されたこともあります。  いま、末期のガンなどで余命いくばくもない人たちのための精神的な救いが、重大な社会的要請となっています。それに応えうるのは宗教者しかいないのですが、現在いわゆるホスピスの施設を造ったり、病院に出入りして死にゆく人々の友となっているのはほとんどキリスト者です。  仏教の僧侶が重病者のもとへ行くのを遠慮せざるをえない事情はお察しがつくことと思います。とすれば、在家の仏教徒がその任に当たらねばならないことになりましょう。今後の課題の一つだと思います。  ここで思い出すのは、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の詩にある左の一節です。  「南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイイトイヒ」 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊44

素直でないことの不幸

1 ...人間釈尊(44) 立正佼成会会長 庭野日敬 素直でないことの不幸 命終の老人への思いやり  舎衛城に大富豪のバラモンがいました。もう八十歳の老人でしたが、貪欲で、頑迷で、ものの道理のわからぬ人物でした。大きな邸宅に住んでいながら、さらに新しい邸宅を建てようと、自ら現場に出て工人たちを指示していました。  ある日、お釈迦さまが阿難を連れてその家の門前を通りかかられますと、元気そうに立ち働いているその老人の顔に、死相が現れているのです。  お釈迦さまは、――このままではこのバラモンは死んでも善い所へは行けない。今のうちに心を浄化してあげなければ――とお考えになり、声をかけられました。  「新しい家が出来るようだが、心にかかることなどありませんか」  バラモンはそれには答えず、  「この家をごらんください。前の方の堂閣はお客の応接のため、後の方の屋舎にはわたしが住みます。東西の二軒は息子たちと召し使いたちの住まいです。夏の涼み台、冬の温室も完備しているんです」  と、自慢たらたら。お釈迦さまは、  「それはそうと、いい折ですから少し話をしませんか。大事な偈が頭に浮かびましたので、お聞かせしましょう。これは生死に関する重大なことですから」  「いや、いまはとても忙しくて、座ってなんぞおられません。後日またおいでください。その偈だけをうかがっておきましょう」  お釈迦さまはこうお説きになりました。  愚か者は「われに子らあり、われに財あり」と心迷う。されど、己自身がすでに己のものではない。ましてや子らが己のものであろうか。財が己のものであろうか  バラモンはうわの空で聞いていたと見え、  「たいへん結構です。いまは忙しいですからまたおいでください。そのとき詳しく、その意味をうかがいましょう」  というニべもないあいさつ。お釈迦さまは仕方なくそこを立ち去られましたが、いつになく悲しそうなお顔をしておられました。 心が素直であるかどうか  お釈迦さまが立ち去られてから間もなく、そのバラモンが自分で屋根へたるきを上げようとしていた時、手を滑らせ、たるきがドッと頭の上に落ち、即死してしまいました。  神通力をもってその変事を知られた世尊は、「ああ、やっぱり……」と、物思いにふけりながら歩いておられますと、村の長(おさ)と数十人の村人が通りかかり、ご様子を拝して、  「世尊。何かご気分でもお悪いのではございませんか」  と尋ねましたので、世尊はかくかくの次第だったと、老人の急死を告げられ、その人々のために次の偈をお説きになりました。  愚かな者は、たとえ一生のあいだ賢い師についても正しい道理を知りえない。あたかも匙(さじ)が何百度食べ物をすくっても、食べ物の味を知ることがないように。賢い者は、たとえ短いあいだでも賢い師に近づくならば、たちまちにして正法を知ることができる。あたかも舌が食べ物の味を知るように  この「賢い」とか「愚か」とかいうのは頭脳のよしあしをおっしゃっているのではなく、心が素直であるかどうかを指しておられるのだと、わたしは解釈します。  頭脳のよしあしは現世に住んでいる短い間だけの問題であり、心の素直さは死後の運命を決める永遠の問題なのですから。  なお、前の偈は法句経六二番に、後の偈は六四・六五番に収録されています。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊45

後生を信ずるか信じないか

1 ...人間釈尊(45) 立正佼成会会長 庭野日敬 後生を信ずるか信じないか 異教徒の悪だくみ  この世の正しい道理にそむき、うそを言い、後生を信じない者は、どんな悪いこともやりかねない  これは法句経一七六番の句ですが、お釈迦さまがどんな時にこのお言葉を発せられたか、そのいきさつをお話ししましょう。  コーサラ国のパーセナーディ王は宗教家を大切にする人で、その影響によって舎衛城の市民たちもいろいろな宗教の修行者たちに喜んで布施し供養していました。  ところが、その郊外に祇園精舎が出来、お釈迦さまとお弟子たちが長期に滞在されるようになってから、その教えの素晴らしさに心服した王や市民たちの尊崇がそちらへ集中するようになりました。  それが妬(ねた)ましくてならない他教徒のうち、極めて低次元の修行者たちが、とんでもない悪だくみを起こしたのです。  その仲間の女修行者チンチャーは非常な美人でした。そのチンチャーが、ある日から急に祇園精舎の道をよく出歩くようになりました。それも、町の人々が説法を聞いて帰る夕方ごろに、花や香を持って祇園精舎の方へ行くのです。そして朝になると町の方へ歩いて行くのです。  それが毎日のことなので、当然、人々の好奇心をそそるようになりました。そうして四、五カ月たったころ、チンチャーのお腹がふくらんできました。人々が目引き袖引きしてコソコソ話しているのに対して、  「何も隠すことないわ。わたしは仏道修行者の子を宿したのよ」と公言するのでした。 地獄に落ちたチンチャー  九カ月ぐらいたったころ、チンチャーは大きなお腹を抱えて祇園精舎にやってきました。そして、説法を聞いている大勢の人々の前で、お釈迦さまに向かい、  「お偉い沙門さま。あなたのお情けを受けてこんな体になったのに、あなたは産室の用意もしてくれない。あなたができないんだったら、王さまにでも、お弟子たちにでもやらせたらどうなの。この情け知らず!」  と罵りました。お釈迦さまは平然として、  「妹よ。そなたの言うことが本当かどうかを知っているのは、そなたとわたしだけである」  と言われました。チンチャーは、  「そうよ。二人だけが知っていることよ」  と言い返します。  その瞬間、どうしたわけか――一説には帝釈天がそうしたのだと言われていますが――お腹をふくらませていた木の盆が大きな音を立てて地に落ちました。  人々はアッと驚き、そして怒り出し、――仏さまを悪だくみで陥れようとするとは何事だ――と、ツバを吐きかけたり棒で叩いたりして追い出しました。逃げ出したチンチャーは、精舎の外へ出てしばらく行った時、地面がにわかに割れて、無間地獄へ落ちてしまったということです。  その時、お釈迦さまが、決然とした面持ちで説かれたのが冒頭の偈であります。  お釈迦さまは「諸法空」を説かれたのだから、「人間は死ねばすべて空に帰する」と誤解している向きがありますが、空に帰するのは肉体であって、魂は永遠に生きると受け取るべきでしょう。そのことは、最高の経典である法華経の背骨をなす真実なのですが、法句経や阿含経やスッタニパータなど、お釈迦さまの言行を比較的忠実に伝えている原始仏教経典にも、至るところで説かれています。  いずれにしても、われわれ現代人も、目先のことだけでなく死後を含む未来にも思いをいたして生きれば大きな過ちを犯すことはないのであります。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...