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仏教者のことば(56)
立正佼成会会長 庭野日敬

 仏道は、初発心のときも仏道なり、成正覚のときも仏道なり、初中後ともに仏道なり。たとえば万里をゆくものの、一歩も千里のうちなり、千歩も千里のうちなり、初一歩と千歩とことなれども、千里のおなじきがごとし。
 道元禅師・日本(正法眼蔵・説心説性)

仏道とはいのちを生かす道

 仏道はいのちの道です。この世のすべてのものが、そのいのちをあるがままに生かすための心のありかた、生活のありようを求め、知り、教える道です。
 しかし、最初から「すべてのものを生かす」といった高邁(こうまい)な考えをいだいてその道に入るという人はまずありますまい。初めは、失意や挫折感を何か高度な思想によって克服したいとか、事業に失敗してこの世に望みを失い、わらにでもすがる気持ちで救いを求めるとか、あるいはそのような切迫した動機はなくても、精神的によりすがる何物かが欲しいという気持ちで仏教を学んでみようか……という人もありましょう。
 そうした初発心(しょほっしん)も、本人は意識していなくてもその心の奥を深く吟味してみますと、つまりはいのちを生かす道を求めているのです。そこが尊いのです。絶望にも陥らず、自暴自棄になって悪へ走ることもなく、おのれのいのちをより良く生かそうと、あがき、手探りする、そこが立派なのです。
 成正覚(じょうしょうがく=究極の真理を覚る)などということは、はるか山のかなたにあって自分など到底達しられるものではない……とだれでも思いましょう。たしかにそのとおりです。大聖釈尊のような覚りにわれわれ凡人が到達するのは至難なことかもしれません。
 しかし、それでもいいのです。それに向かって一歩でも踏み出せば、その一歩がすなわち仏道なのです。第一歩(初)も、中間の千歩(中)も、ゴールへの到達(後)も、すべて仏道なのです。

夢・決意・努力
 世俗のどんな道でも同じです。学問の道でも、芸術の道でも技能の道でも、みんな同じです。理想の境地に向かって一歩踏み出せば、間違いなくその境地へ一歩近づいたことになります。焦ることはありません。ただ大事なことは、初一念を忘れないことです。
 自動車王といわれたヘンリー・フォードは、少年のとき父親と一緒に馬車に乗ってデトロイトの街へ出て、初めて蒸気車を見ました。「お父さん、馬車を止めて……」と叫んだ彼は、止まっている蒸気車の所へ走り寄ってシゲシゲと見回し、運転手に走る仕組みを聞きました。帰ってきた少年は、「馬がいなくても動く車なんてスバラシイなあ、ぼく大きくなったらあんなのを造るんだ」と言いました。
 十二歳のとき母親を亡くしましたが、病気が急変して命が危ないとなったとき、彼は馬を走らせて町まで医者を呼びに行きました。しかし、医者が着いたときはすでに母親は息を引き取っていました。彼は母親の遺体にすがって「馬より早く走れる物があったら、お母さんは助かっていただろうに……」と嘆き、その瞬間、これからの進むべき道を固く決意したのです。
 彼は努力に努力を重ねてその決意をつらぬき、万人のための大衆車といわれたフォードを完成したのですが、その成功にもやはり「初」があり「中」があったのです。初めは夢であり、それが決意に変わりました。そして努力がそれを成就したのでした。
 道元禅師のこの言葉は、現代のわれわれにとってもつねに身近に生きていると知るべきでしょう。仏道とは特別な道ではなく、人間のいのちを生かし伸ばす道にほかならないのですから。
題字 田岡正堂

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