仏教者のことば(40)
立正佼成会会長 庭野日敬
百尺竿頭一歩を進める
宏智禅師・中国(従容録七四則)
向上の上にも向上を
百尺(約三十メートル)もある竿の頂上からさらに一歩を進める、というのです。
古来このことばについては、次のような二つの解釈がされています。
第一は、ある道に修業に修業を重ねて、その頂上を極めても、そこで気をゆるめたり、有頂天になったりしないで、さらに工夫と努力を重ねて向上をはからねばならない……という意味。
これは世のよろずのことに通ずる戒めであって、とりわけ、学問・芸術・スポーツなどの道にたずさわる人は、これを信条としないかぎり一流の人物とはなりえません。物理学者・天文学者・数学者として当時の学界の頂点にあったアイザック・ニュートンは、こう言っています。「学問の大海は無限に広く、わたしなどは、まだその浜辺で貝を拾っているに過ぎない」と。この謙虚さ、この視点の高さに、われわれも大いに学ばなければなりますまい。
第二の解釈はもっと深遠で、原著の辞句にのっとって仏道修行の極点を示したものです。原著にはこうあります。
百尺竿頭(かんとう)に歩を進め
十万世界に身を全(まっと)うす
百尺もある竿の先まで登りつめたら、あとは虚空しかありません。その虚空へ向かって歩を進めるということは、いちおうの悟りを極めても、その悟りを乗り越えて、絶対の世界に徹入し、自由自在の身となることをいうのです。そうすれば、十万世界のどこへ行っても、大安心して生きておられるというのです。
しかし、自分一人が自由自在の境地に達したからといって、何もしないでいたのでは、じつは「百尺竿頭に歩を進め」たことにはならないのです。自由自在の生きたはたらきをしてこそ、一歩を進めたことになるのです。
地上に降りて人を救う
それならば、その生きたはたらきとは何をいうのでしょうか。空々漠々たる虚空を、さらに上へ上へと飛んで行っても、もはや何もありはしません。
生きたはたらきをするには、百尺の竿頭から、また地上へ降りて来なければならないのです。お釈迦さまも、無限の過去から永遠の未来まで、高い霊界からこの娑婆世界へ何万遍も往来なさっているのだといわれます。観世音菩薩も、三十三身に姿を変えて、この娑婆世界の人間を救済してくださっているといわれます。それこそが、自由自在の生きたはたらきです。そして、それこそが仏法の行きつく究極の道なのです。
この『従容録』の二八則にも、こんな話が出ています。ある僧が護国和尚に向かって「鶴が松の梢に止まっている姿はどうですか」と問いました。禅の高い悟りの境地に達している姿をどう思いますか、という意味なのです。すると護国和尚は「高い所に何もしないで止まっているのは恥知らずだ」と、一言でやっつけてしまっています。
考えてみればまったくそのとおりで、仏法というものは何のためにあるのか、つまるところは人間が幸せに生きるためです。すべての人間を幸せにするためです。ですから、仏道の修行は自分だけの悟りや幸福だけで終わってはならない。必ず他の多くの人を幸福にするはたらきにまで発展させなければ意義はないのです。「百尺竿頭に一歩を進める」ということばは、実生活の上では第一の解釈のように、信仰生活の上では第二の解釈のように受け取り、われわれの大切な人生訓とすべきでありましょう。
題字 田岡正堂
立正佼成会会長 庭野日敬
百尺竿頭一歩を進める
宏智禅師・中国(従容録七四則)
向上の上にも向上を
百尺(約三十メートル)もある竿の頂上からさらに一歩を進める、というのです。
古来このことばについては、次のような二つの解釈がされています。
第一は、ある道に修業に修業を重ねて、その頂上を極めても、そこで気をゆるめたり、有頂天になったりしないで、さらに工夫と努力を重ねて向上をはからねばならない……という意味。
これは世のよろずのことに通ずる戒めであって、とりわけ、学問・芸術・スポーツなどの道にたずさわる人は、これを信条としないかぎり一流の人物とはなりえません。物理学者・天文学者・数学者として当時の学界の頂点にあったアイザック・ニュートンは、こう言っています。「学問の大海は無限に広く、わたしなどは、まだその浜辺で貝を拾っているに過ぎない」と。この謙虚さ、この視点の高さに、われわれも大いに学ばなければなりますまい。
第二の解釈はもっと深遠で、原著の辞句にのっとって仏道修行の極点を示したものです。原著にはこうあります。
百尺竿頭(かんとう)に歩を進め
十万世界に身を全(まっと)うす
百尺もある竿の先まで登りつめたら、あとは虚空しかありません。その虚空へ向かって歩を進めるということは、いちおうの悟りを極めても、その悟りを乗り越えて、絶対の世界に徹入し、自由自在の身となることをいうのです。そうすれば、十万世界のどこへ行っても、大安心して生きておられるというのです。
しかし、自分一人が自由自在の境地に達したからといって、何もしないでいたのでは、じつは「百尺竿頭に歩を進め」たことにはならないのです。自由自在の生きたはたらきをしてこそ、一歩を進めたことになるのです。
地上に降りて人を救う
それならば、その生きたはたらきとは何をいうのでしょうか。空々漠々たる虚空を、さらに上へ上へと飛んで行っても、もはや何もありはしません。
生きたはたらきをするには、百尺の竿頭から、また地上へ降りて来なければならないのです。お釈迦さまも、無限の過去から永遠の未来まで、高い霊界からこの娑婆世界へ何万遍も往来なさっているのだといわれます。観世音菩薩も、三十三身に姿を変えて、この娑婆世界の人間を救済してくださっているといわれます。それこそが、自由自在の生きたはたらきです。そして、それこそが仏法の行きつく究極の道なのです。
この『従容録』の二八則にも、こんな話が出ています。ある僧が護国和尚に向かって「鶴が松の梢に止まっている姿はどうですか」と問いました。禅の高い悟りの境地に達している姿をどう思いますか、という意味なのです。すると護国和尚は「高い所に何もしないで止まっているのは恥知らずだ」と、一言でやっつけてしまっています。
考えてみればまったくそのとおりで、仏法というものは何のためにあるのか、つまるところは人間が幸せに生きるためです。すべての人間を幸せにするためです。ですから、仏道の修行は自分だけの悟りや幸福だけで終わってはならない。必ず他の多くの人を幸福にするはたらきにまで発展させなければ意義はないのです。「百尺竿頭に一歩を進める」ということばは、実生活の上では第一の解釈のように、信仰生活の上では第二の解釈のように受け取り、われわれの大切な人生訓とすべきでありましょう。
題字 田岡正堂