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仏教者のことば(43)
立正佼成会会長 庭野日敬

 他は是れ吾れに非ず
 用某典座・中国(典座教訓)

老典座の心意気

 典座(てんぞ)というのは、寺院で一山の僧侶のために日々の食物を準備し、調理する役僧のことです。そして、この『典座教訓』というのは、道元禅師がその役僧の心得を述べられた書で、いわば台所生活の教科書のようなものです。米のとぎ方から水の使い方までいちいちこまかく書いてありますが、その眼目は単なるノウハウ(実際の方法の知識)ではなく、そのいちいちの作業にこもる真心が仏法の神髄に通ずることを教えられたところにあります。
 その中に禅師が中国へ留学中に経験された一挿話が、次のように述べられています。
 「わたしが天童山景徳寺にいたときのことである。用なにがしという老人が典座の役を勤めていた。わたしが昼食を終わって東側の廊下を渡っていると、その典座が仏殿の前で茸を天日に乾していた。
 夏の油照りの暑い日だったが、手には竹の杖をつき、頭には笠もかぶっていない。庭に敷かれた甎(せん・瓦のように焼いた敷石)は、照りつける太陽に熱し切っている。その老典座は汗をしとどに流しながら、懸命に茸を乾しているのだが、見るからにつらそうな風だった。背骨は弓のように曲がり、眉は鶴のように白かった。
 わたしは思わず近くに歩み寄って、『失礼ですが、お年はおいくつですか』と聞いたところ、『六十八歳です』との答え。わたしはそれを聞いて、『そのようなご高齢では、さぞ骨が折れることでしょう。どうして部下の者や作業員をお使いにならないのですか』と言ったところ、その人は言った。『他は是れ吾れに非ず』と。つまり、他人のしたことは、わたしのしたことにはならないのだというのである。
 わたしは『まことにおっしゃるとおりですが、わざわざこんなカンカン照りの中で、なさらなくてもいいのではありませんか』と言った。すると『茸乾しは、カンカン照りのときに限るのですよ。この日中をはずして、いつやるんですか』と答えた。
 わたしは返す言葉もなく、そこを立ち去ったが、廊下を歩みながら、この典座という役目がどんなに尊いものかをしみじみと悟ったのであった」

母の手料理の貴重さ

 この話は、今の世の主婦やお母さん方によくよく味わって頂きたいと思います。近ごろは、主婦の台所離れが一つの風潮のようになっています。それは、食事の準備や調理をしたりするのを、いかにもつまらぬことのように考えるからでありましょう。
 しかし、けっしてそうではありません。食は身を養う大事なものです。身を養うだけでなく、病を防ぐという目に見えぬ役目もあります。もう一つ大切なことは、食事をおいしく食べることは、心を楽しくさせ、また、一家だんらんの機会ともなるのです。
 こんな重大な役目が、どうしてつまらぬものなのでしょうか。道元禅師が廊下を歩きながらしみじみと悟ったように、実に人間存在の基点につながる深い意味を持つ仕事なのです。しかも、そこには無限の工夫の天地があり、実にやりがいのある仕事なのです。
 特に深く味わって頂きたいのは、この典座の言った「他は是れ吾れに非ず」という言葉です。世のお母さん方、あなたのお子さんにとって、お母さんの心のこもった手料理がどれほど重要な心理的効果を持つものか、一生忘れられぬ「おふくろの味」というものがどんなに貴重なものかを、もう一度考え直してください。まことに「他は是れ吾れに非ず」なのです。
題字 田岡正堂

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