仏教者のことば(53)
立正佼成会会長 庭野日敬
有情非情とは、まず大方にもうけたる分際(ぶんざい)なり。一切の物に情なきにてはあるべからず。情のかわりたるを以て、なしといえるにや。
沢庵禅師・日本(玲瓏集)
一切のものに心がある
沢庵禅師は、純粋で、硬骨で、しかも思いやりの深い人でした。京都大徳寺の住持であったとき、幕府の無理な統制に屈しなかったために、今の山形県の上山に流罪となり、そこで三年間を過ごしました。将軍秀忠が死んだとき三代将軍家光は大赦(たいしゃ)を行い、禅師も許されて江戸にとどまっていましたが、家光はその高徳に心から傾倒し、品川に東海寺を創建せしめました。
家光は禅師が遷化されるまでの間に七十五回も同寺を訪れ、法の話を聞き、簡素な食事を共にするのを楽しみにしていました。その食事に出された「貯(たくわ)え漬け」という漬物がたいへん気に入り、城内に持ち帰って諸大名に披露し、「これは貯え漬ではなく沢庵漬じゃ」と言ったので、それがたちまち全国にひろまったといわれています。今では沢庵漬にその名が残っているばかりで、右に掲げた言葉に代表されるようなスバラシイ思想を知らない人が多いのは残念なことだと思います。
さて、有情(うじょう)というのは、意識や感情を有するものという意味で、人間をはじめとする一切の動物を指します。非情というのは、そういった「心」のない(と一般に思われている)植物や無生物を言います。従って、右の言葉を現代語に訳しますと、「有情・非情というのは、いわば大ざっぱに万物を分けて見たものである。しかし、一切の物に心がないはずはない。心のありようが違っているために、ないように見えるので、非情と言ったのであろうか」ということになります。
一切衆生に愛と思いやりを
禅師が言われたように、万物にはすべて心があるのです。植物にもちゃんとあります。前(第三十八回)に、ニューヨークのバクスター氏の実験について紹介しましたが、アメリカは物質万能主義の国と誤解されていますけれども、意外に精神とか、心霊とか、超能力とかに深い関心をもつ人が多いのです。とりわけ超能力については国家機関としての研究所ができているほどです(ただし、それが軍事目的だということは残念至極ですが……)。
平和目的のために心の力を利用している人は民間にたくさんあります。例えば、農業者で、野菜・草花・苗木などを精神力で普通以上に立派に成育させているという実例も報道されています。ある人は、トマトの苗を二列に植えて、一方には毎日「お前はかわいい元気な苗だ」と愛の言葉をかけてやり、一方には「バカヤロウ、弱虫め」などと罵(ののし)りつづけるという実験をしました。すると、前者は生き生きと育ち、大きくておいしい実をつけ、後者はいじけた茎葉になって、実も小さく、味も悪くなったそうです。
無生物にはまさか心などないだろう……と考える人が一般でしょうが、じつはそうではないのです。土でも、空気でも、水でも、宇宙がそれを存在せしめている以上は、そこに宇宙意志という心が籠(こ)められているのです。ただ、禅師が言われるように、心のありようが違うので無いように見えるだけのことです。
ですから、われわれは、人間同士はもちろんのこと、草木に対しても、大地や山河に対しても、愛情と思いやりをもち、仲よく共存していくよう心がけねばなりますまい。そうしてこそ、ほんとうの意味の平和世界が現出するのです。禅師も、つまりはそこのところを教えていられるのでしょう。
題字 田岡正堂
立正佼成会会長 庭野日敬
有情非情とは、まず大方にもうけたる分際(ぶんざい)なり。一切の物に情なきにてはあるべからず。情のかわりたるを以て、なしといえるにや。
沢庵禅師・日本(玲瓏集)
一切のものに心がある
沢庵禅師は、純粋で、硬骨で、しかも思いやりの深い人でした。京都大徳寺の住持であったとき、幕府の無理な統制に屈しなかったために、今の山形県の上山に流罪となり、そこで三年間を過ごしました。将軍秀忠が死んだとき三代将軍家光は大赦(たいしゃ)を行い、禅師も許されて江戸にとどまっていましたが、家光はその高徳に心から傾倒し、品川に東海寺を創建せしめました。
家光は禅師が遷化されるまでの間に七十五回も同寺を訪れ、法の話を聞き、簡素な食事を共にするのを楽しみにしていました。その食事に出された「貯(たくわ)え漬け」という漬物がたいへん気に入り、城内に持ち帰って諸大名に披露し、「これは貯え漬ではなく沢庵漬じゃ」と言ったので、それがたちまち全国にひろまったといわれています。今では沢庵漬にその名が残っているばかりで、右に掲げた言葉に代表されるようなスバラシイ思想を知らない人が多いのは残念なことだと思います。
さて、有情(うじょう)というのは、意識や感情を有するものという意味で、人間をはじめとする一切の動物を指します。非情というのは、そういった「心」のない(と一般に思われている)植物や無生物を言います。従って、右の言葉を現代語に訳しますと、「有情・非情というのは、いわば大ざっぱに万物を分けて見たものである。しかし、一切の物に心がないはずはない。心のありようが違っているために、ないように見えるので、非情と言ったのであろうか」ということになります。
一切衆生に愛と思いやりを
禅師が言われたように、万物にはすべて心があるのです。植物にもちゃんとあります。前(第三十八回)に、ニューヨークのバクスター氏の実験について紹介しましたが、アメリカは物質万能主義の国と誤解されていますけれども、意外に精神とか、心霊とか、超能力とかに深い関心をもつ人が多いのです。とりわけ超能力については国家機関としての研究所ができているほどです(ただし、それが軍事目的だということは残念至極ですが……)。
平和目的のために心の力を利用している人は民間にたくさんあります。例えば、農業者で、野菜・草花・苗木などを精神力で普通以上に立派に成育させているという実例も報道されています。ある人は、トマトの苗を二列に植えて、一方には毎日「お前はかわいい元気な苗だ」と愛の言葉をかけてやり、一方には「バカヤロウ、弱虫め」などと罵(ののし)りつづけるという実験をしました。すると、前者は生き生きと育ち、大きくておいしい実をつけ、後者はいじけた茎葉になって、実も小さく、味も悪くなったそうです。
無生物にはまさか心などないだろう……と考える人が一般でしょうが、じつはそうではないのです。土でも、空気でも、水でも、宇宙がそれを存在せしめている以上は、そこに宇宙意志という心が籠(こ)められているのです。ただ、禅師が言われるように、心のありようが違うので無いように見えるだけのことです。
ですから、われわれは、人間同士はもちろんのこと、草木に対しても、大地や山河に対しても、愛情と思いやりをもち、仲よく共存していくよう心がけねばなりますまい。そうしてこそ、ほんとうの意味の平和世界が現出するのです。禅師も、つまりはそこのところを教えていられるのでしょう。
題字 田岡正堂