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法華三部経の要点14

だれでも人を救える

1 ...法華三部経の要点 ◇◇14 立正佼成会会長 庭野日敬 だれでも人を救える 「度」とは目覚めさせること  無量義経の十功徳品に説かれている第三の功徳に「未だ自ら度すること能(あた)わざれども、已(すで)に能く彼を度せん」とあり、第四の功徳にもまた「未だ自ら度せずと雖(いえど)も而(しか)も能く他を度せん」とあります。こうして二度も繰り返して説かれるほど、このことは無量義経最大の要点の一つであると言えましょう。  「度」というのは氵(さんずい)のある「渡」と同じくワタスと読み、他の人を迷いのこちら岸(此岸)から悟りのあちら岸(彼岸)へ渡してあげることです。といえば何か現実離れしたことのように聞こえますが、つまりは人を真理に目覚めさせてあげるということなのです。  そこで、冒頭の句は、自分はまだ真理に目覚めてはいなくても、人を目覚めさせることができるというのです。わたしどもの会では「信仰者即布教者」を信条としていますが、入会したての人で自分自身にある救いを自覚した人が、たとえまだ仏教の教義などはよくわからなくても「有り難い教えですよ。いっしょに信仰しましょう」といったごく素朴な言葉で人にすすめ、何十人という人を正法への目覚めに導いた例は数えきれぬほどあります。  まことに「自ら度すること能わざれども已に能く彼を度せん」なのです。 他を度せば自分をも度す  では、そうして「他を度した」本人はどうなるのか。他を度しているうちに、その努力と体験を通じてひとりでに自分も法に目覚めていくもので、そのような実例もわが会には無数にあります。古人がいみじくも言ったように「教えるは教えらるるものなり」であります。『心のプリズム』(朝日新聞科学部編)という本にこんな実話が載っていました。  意志が弱く、酒代のために三人の子供のふだん着まで質に入れ、二十年間に五十回も職を変えたというアル中の人が、ある断酒会に入ってついに酒をやめることができたという話です。  その人は、まず試しに三日ほど酒をやめてみたところ、断酒会の仲間から「大したものだ」とほめられ、ほめられると悪い気がせず、飲みたくてたまらないのを我慢していた。 そのうち、新しく会に入ってきた仲間のことを夢中で心配するようになり、なぜ酒をやめねばならないかをけんめいに話をするようになった。自分自身はまだ飲みたい気持ちは残っていたにもかかわらず、後輩たちを説得することがそのまま自分を説得することになり、とうとうまったく飲まずにいられるようになってしまった……という話です。これなどは、他を度することによって自らをも度してしまった典型的な例でありましょう。  ただここで見忘れてならないのは、その人が救われたのは、まず断酒会という正定聚(しょうじょうじゅ=正しいことを信条として結束した仲間)に入ったからだということです。その正定聚に入らなければ先輩にほめられてヤル気を起こすこともなく、後輩たちを説得するうちにいつしか酒から離れることもなかったのです。だからこそ、われわれの会でも、サンガへのお導きを何より大切な行としているのです。  冒頭にかかげた句は、結局のところ「まず人を救え」ということにほかなりません。大自然の姿を眺めてみても、花はまず蝶(ちょう)や蜂(はち)に蜜(みつ)を与えることによって雄しべの花粉を雌しべにつけてもらいます。熟した柿(かき)の実は、まず小鳥に果肉を食べさせることによって種子を方々に撒(ま)き散らしてもらい、子孫を増やしています。「まず与える」ことによって自分も利益を得ているのです。これが天地自然の理であると知るべきでしょう。 ...

法華三部経の要点15

法華経はあらゆる生あるものへの教え

1 ...法華三部経の要点 ◇◇15 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経はあらゆる生あるものへの教え 永遠不滅の教え  それでは妙法蓮華経に入りましょう。  まず第一章の序品ですが、この章はいかにも不可思議な光景や遠い過去世の追憶などに終始しています。それはもちろんたんなる神秘的な物語ではなく、法華経が空間的にも時間的にも無限永遠の教えであることを象徴しているのです。  空間的に無限のひろがりを持つ教えであることは、その説法の座に集まっている聴衆の顔ぶれを見れば歴然としています。実在の人物は男子・女子の修行者たちとマガダ国のアジャセ王とその家臣たちだけで、あとは文殊菩薩・観世音菩薩をはじめとする法身(ほっしん=現実に身体をもつ存在ではなく、真理や救済力の当体としての身)の菩薩、釈提桓因(しゃくだいかんにん=帝釈天)をはじめとするバラモン教の神々、八種の竜王たち、乾闥婆王(けんだつばおう)・阿修羅王・迦楼羅王(かるらおう)といった鬼神たちなどです。  ということはつまり、法華経が宇宙のありとあらゆる生あるものに正しい生き方を教える経典であることを象徴しているのです。  つぎに、時間的な永遠性ということは、後段に述べられている、過去に二万もの日月燈明仏(にちがつとうみょうぶつ)がおられたというくだりによく現れています。  最後の日月燈明仏が、まだ出家されない前の八人の王子が仏道に入って仏となられ、そのうち最後に成仏された方を燃燈仏と申し上げた……と述べられていますが、一般には、燃燈仏とは過去世に出られた仏の中でいちばん古い仏とされているのです。  ところが、この法華経においては、その燃燈仏の前に二万もの日月燈明仏が出られて次々に教えをリレーしてこられたと説くのです。ということはつまり、「法華経の教えは、無限の過去から永遠の未来まで永遠不滅の真理である」ということの象徴にほかなりません。 宗教協力の源流がここに  仏教の根本思想は、宇宙のあらゆる存在はいわゆる「神」によって造られたものではなく、ある因(原因)とある縁(条件)とが合致して生まれたものであるとしています。したがってお釈迦さまは、天上にあってこの世を支配する神々の存在を認めてはおられませんでした。  しかし、お釈迦さまは、古来のバラモン教の信仰を頭から排斥しようとはなさらなかったのです。法華経説法の座に、天上界の主である帝釈天や、月・星・日の神々であるという名月天子・普香天子・宝光天子や、その家臣であるという四天王などがつらなっているのは、そういった神々をも仏法の中に包容し、仏法によってそれらに新しい存在価値を与えようとされたわけです。  これもお釈迦さまの大智慧と大慈悲の現れだということができましょう。何事にしても、頭から否定し、捨て去ってしまっては、それでおしまいです。そうではなく、否定しなければならないものごとも、その否定を乗り越えて新しい存在価値を発見するならば、そのものの生命を新しく創造したことになります。つまり、生かせないものごとはなにもないのです。  このようにして、これらのバラモン教の神々は「仏法護持」の神々、言い換えれば「真理を護る徳と力の象徴」となったわけです。八百万(やおよろず)の神々の存在を信じていた日本人は、そうした思想をスムーズに受け入れ、帝釈天や毘沙門天などをお寺に祀り、崇敬しています。  ともあれ、いま世界の心ある人々に受け入れられて一大潮流となっている「宗教協力」の胎動が日本から始まったのは、その源流が法華経のこの序品にあり、それを日本人が素直に受け入れたからであると思うのですが、どうでしょうか。 ...

法華三部経の要点16

なぜ求名が弥勒菩薩になれたのか

1 ...法華三部経の要点 ◇◇16 立正佼成会会長 庭野日敬 なぜ求名が弥勒菩薩になれたのか どうして光明を放たれたか  法華経序品の圧巻はなんといってもお釈迦さまが眉間(みけん)から大光明を放たれた奇瑞でありましょう。  無量義処三昧(「無限の教えの基礎」という瞑想)に入っておられる仏さまの額からとつぜん一条の光がサッと東方へ放たれたと見るや、その光は下は無間地獄の底から上は有頂天という天界までをあかあかと照らし出しました。そして、苦と迷いの世界にうごめいている衆生や、そこから脱け出して仏道を修行している人びとや、他の幸せのために慈悲の行為を実践している菩薩たちや、もろもろの仏さまが入滅される様子など、この世界のありとあらゆる生あるものの姿が写し出されたのでした。  これはもちろん、お釈迦さまの智慧は、この世のあらゆる生あるものの実相を明らかに見通す智慧であることの象徴ですが、その場にいた人びとはいったいどうしたわけでこのような奇瑞をお見せになったのかと、不可思議な思いにかられていました。  そこで弥勒菩薩は、過去世のことをよく知っている文殊菩薩に質問してみました。すると文殊菩薩は、過去世におられた日月燈明仏という仏さまが、同じような奇瑞を現ぜられたのち最も深遠な法をお説きになったという経験から、「釈迦牟尼世尊もこれから至上の教えである法華経をお説き始めになるだろう」と答えます。  その答えの中で文殊菩薩は「衆生をして咸(ことごと)く一切世間の難信の法を聞知することを得せしめんと欲するが故に、斯(こ)の瑞を現じたもうならん」と言い、また「是(こ)れ諸仏の方便なり」とも言っています。  この「方便」に関して、本多顕彰さんは『わたしの法華経人生論』(佼成出版社刊)という本の中で「さとりを開いた者が説教をしようとしても、大衆が耳を傾けようとしないから、奇跡を演出して、視聴を集めようとしたのだ、とマンジュシュリー(文殊師利菩薩)が説明する。どんないいことばにも、民衆が耳を傾けようとしないことがある。傾けなければ、無いに等しい。聴かせるためには、仏陀もしんぼう強く手段をつくさなければならなかった」と解説しておられます。  まことに名解説であり、われわれ現代の布教者にとってもよくよく味わい、胸に刻んでおかなければならないことだと思います。 凡夫も善行によって仏に  この品にはもう一つ、たいていの人が見過ごしている要点があります。それは、文殊菩薩が弥勒菩薩の前世の身について語っているくだりです。  ――はるかなむかし、法華経と同じ内容の教えを説いた妙光法師に一人の弟子があった。怠けてばかりいて、名声や利益をむさぼり、学んだこともすぐ忘れ、仏道の真義を悟ることができなかった。だから求名という綽名(あだな)をつけられていた。しかし、ただ一つ取りえがあった。それは人のために善い行いをすることだった。その因縁によって無数の仏さまに会いたてまつることができ、その教えに従って仏道を行じたので、今こうして釈迦牟尼世尊に会いたてまつることができた。そして世尊の教えによって未来には必ず仏になることができるだろう。その求名というのが、じつはあなただったのだ――  これを読みますと、弥勒菩薩も元はふつうの人だったことがわかります。それが、もろもろの善い行いをしたことによって、しだいに仏の教えを身につけるようになった。そのいきさつは、われわれにとってじつに素晴らしい手本です。大きな勇気を与えられる見本です。これも序品の中の大切な要点だといわなければなりません。 ...

法華三部経の要点17

現実化してこそ法は生きる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇17 立正佼成会会長 庭野日敬 現実化してこそ法は生きる 方便品と名づけられた理由  方便品に入ります。  この章の初めに「諸法実相」とか「十如是」といった難しい理論が出てきますので、それがこの章の主題かのように思われがちですが、そうではないのです。それらはもちろん大事な法門ですからあとで詳しく解説しますけれども、ほんとうの主題は冒頭にあるつぎのお言葉にあるのです。  「吾成仏してより已来(このかた)、種種の因縁・種種の譬諭をもって、広く言教(ごんきょう)を演(の)べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著(じゃく)を離れしむ。所以(ゆえ)は何(いか)ん、如来は方便・知見・波羅蜜。皆已に具足せり」  現代語に訳しますと、「わたしは仏の悟りを得てからこのかた、いろいろと実例をあげたり、譬え話をしたりして、多くの人を教え導いてきました。すなわち、それぞれの人と場合に応じた適切な方法で、過度の欲望への執着のために苦しんでいる人々をその執着から離れさせ、苦から解放してきました。なぜそれができたかといいますと、わたしは巧妙な手段(智慧の発揮の方法)において最高の完成度に達しているからです」ということになります。  ここにおおせられているように、人間の苦しみはおおむね欲望への過度の執着から起こります。かといって、ふつうの人にただそれを理論的に説いたところで、なかなか納得させることはできません。それで、実際に執着を捨てることによって救われた人の実例をあげたり(これを因縁説という)、譬え話をしたり(譬喩説という)して、だれにもわかるような方法で説けば、「なるほど」と納得させることができるのです。  わたしどもの会でも体験説法(因縁説)ということをたいへん重視しています。生きた体験を聞くことによって――ああ、わたしもこの教えで救われるのだ――という実感がしみじみと胸にわくからです。また、第十回に書いた寒苦鳥の譬え話を聞けば――自分にも「のどもと過ぎれば熱さを忘れる」怠け癖があるのではないか――と反省せざるをえなくなります。こういったところが方便の大切さなのです。  仏さまの智慧は、煎(せん)じ詰めれば、すべての人間を幸せにしてあげたいという慈悲心に結晶されます。しかし、その智慧も、慈悲心も、相手の苦しみのケースに応じた適切な言葉、あるいは行為によって現実化してこそ、生きてはたらくのです。その現実化の手段が「方便」にほかなりません。この章が「方便品」と名づけられた理由はそこにあるのです。 形から入ることも大切  われわれの信仰心も、その「心」を言葉により、行為によって現実化してこそ、充実し、ほんものになっていくのです。そのことを、この章の後半に説かれる偈の中でくり返しくり返し強調してあります。いわゆる「万善成仏」の法門です。(梵文ではすべて未来形になっており、それが法華経の経相から見ても当然ですからそれに従って解説します)  すなわち――仏さまの遺骨を供養する者も、塔を建てて仏徳を顕彰する者も、たわむれに砂を集めて仏塔を造った子どもさえも、それが因となって悟りを得る者となるであろう。  さまざまな仏像を造った者も、造らせた者も、遊び半分に木の枝や指先などで仏の絵を描いた子どもでも、だんだんと功徳を積んで、ついには悟りを得るであろう――  このように「心」を「行為」として現実化することが大切だというのです。また「子どもがたわむれに云々」とあるように、まず「行為」から入って、そこから「心」が生ずることも多々あるのです。イギリスの思想家カーライルは「形式は内容を決定する」と言っています。仏教の言葉にも「信は荘厳(しょうごん=お寺の建物や装飾などの美しさ)より起こる」とあります。これも「方便が大切」ということにほかなりません。 ...

法華三部経の要点18

人間は本質的に平等である

1 ...法華三部経の要点 ◇◇18 立正佼成会会長 庭野日敬 人間は本質的に平等である だれもが仏になれる!  前回に述べましたように、方便品の第一の要点は「方便(適切な手段)によって現実化してこそ法は生きてはたらく」ということでした。では、その「はたらき」の目的は何なのでしょうか。  これまでの四十余年の間、お釈迦さまは、さまざまな方便を用いて現実に苦しんでいる人びとを救ってこられました。しかし、お悟りになった真実のすべてはまだお明かしになっておられません。なぜならば、人びとの機根(教えを受け入れる能力)がそこまで高められていなかったからです。  その真実すべてをこの法華経で説こうとなさっておられるのですが、しかし、説きかけて「いや、やめておこう」と躊躇(ちゅうちょ)されました。舎利弗は「そうおっしゃらないで、どうぞお説きください」と熱心にお願いするのですが、お釈迦さまは「いや。このことを説けば、一切世間の人びとも諸天(天界の人びと)もみんな驚き、かえって疑いを持つだろう。増上慢の者はきっと大きな穴(大坑)に落ち込んでしまうだろうから……」と言ってお断りになります。  舎利弗がそれでもあきらめずに三度もお願いしましたので、その熱心さにほだされて、ついにその甚深無量の法をお説き始めになりました。それこそが、あらゆる方便をはたらかせる究極の真実、仏の教えの最終目的にほかならなかったのです。  それはどんなことか。「仏の教えを聞き、それを実践する人は必ず仏となることができる」という一大事です。これまでの四十余年間一度もお説きにならなかったことというのは、この破天荒な真実なのです。  これを浅く受け取る人はびっくり仰天し、――悪心を起こしたり、悪い行いをしたりする人間がみんな仏になりうるなんて、そんなことがあるものか――と、かえって仏さまのお言葉に疑惑を持つ恐れがあります。増上慢の人は反対に――おれはもう仏なんだ――と、うぬぼれの大穴に落ち込んでしまうかもしれません。だから、説くことを躊躇されたわけです。 仏説の平等は本質の平等  だれもが仏になれるというのは、だれもがそのような素質を平等に持っているということです。あらゆる人間は久遠実成の本仏の実の子であることをすべての人に悟らせてあげようとされたからこそ、お釈迦さまは、そのような大胆な宣言をなさったわけです。  この「人間平等」ということですが、一般社会においては、一七八九年(今年からわずか二百年前)のフランス革命の議会で初めて大衆的に認められました。ところがお釈迦さまは、それよりも二千数百年も前に法華経でそれを宣言しておられるのです。  しかも、フランス革命での平等宣言は、「法(法律)の前の平等」とか「課税の平等」といった人間の暮らしの上の平等であり、制度の上の平等であったのに対して、お釈迦さまの平等宣言は、もっと深いところに根ざした「人間の本質の平等」だったのです。  暮らしの上、制度の上での人間平等でも、人類にとってはたいへんな進歩でした。しかし、それは人間としての真の向上につながることばかりでなく、かえってエゴの主張ばかりが強くなったり、個人主義の悪い面が表に出るようになったり、それがもとで大小の紛争の種となるマイナスもあったのです。  それに対して、仏法が説く「人間の本質の平等」は「人格の向上」の原動力となり、人類のほんとうの幸せの基盤となるものなのです。このことについては、次回に改めて考えることにしましょう。                                                                                                                                   ...

法華三部経の要点19

仏性を尊重し合うところこそ寂光土

1 ...法華三部経の要点 ◇◇19 立正佼成会会長 庭野日敬 仏性を尊重し合うところこそ寂光土 まず自分の仏性を自覚する  法華三部経には「仏性」という語は一回も出てきません。しかし、「仏の教えを聞き、よく持(たも)ち、よく実践する者は必ず仏となることができる」というのが、この経典をつらぬく根本理念であり、仏となれるのはそうした素質(仏性)があればこそなのですから、法華経は全巻これ仏性の教えだといってもさしつかえありません。  さて、前回の終わりに、仏法が説く人間の本質の平等は「人格の向上」の原動力となり、人類のほんとうの幸せの基盤となるものだと書きましたが、今回はそのことについて考えてみることにしましょう。  人間はだれでも仏すなわち「完成された人間」になりうる素質(仏性)が具(そな)わっているということがわかれば、われわれ凡夫にどんな変化が起こるのでしょうか。  われわれは日常の仕事に追われてあくせく働き、また身の回りに起こるさまざまなトラブルに右往左往しながら日々を送っています。それを一生のあいだ続けながら、ついに死を迎えるのだと考えれば、なんともいえない虚無感を覚えます。自分はいったい何のために生きているのか――と、絶望的な気持ちになることもあります。  そのような時に、法華経の教えによって「あなたのほんとうの生涯は仏になるためにあるのですよ。あなたには仏になる素質が具わっているのですよ」と聞かされると、ハッと目が覚めたようになります。「そうか。わたしにも仏になれる素質があったのか。この一生はそんなスバラシイ目的のためにあるのか」という思いが、その日からの生活を一転させ、はつらつとした、いきいきとしたものに変えてしまうのです。そして、「仏となるために、よいことを思い、よい行いをしよう」という気持ちが胸底に定着するようになります。それがすなわち「人格の向上」の原動力にほかなりません。 草木国土悉皆成仏へ  たんに自己の人格の向上の問題だけではありません。周りの人にも「完成された人間」になりうる素質があることがわかってきますから、人びとを見る目がガラリと変わってくるのです。これまで「つまらないやつだ」とさげすんでいた相手がいても、形の上に現れた状態ではなく、その人の本質である仏性を見るようになり、必ず仏になりうる人として認められるようになります。あとの『常不軽菩薩品第二十』に登場する常不軽菩薩がその典型でしょう。  そのようにして、すべての人間が他の人の仏性を信じ、尊重するようになれば、そこにこそ心の底からの「和」が生じます。嫉妬(しっと)することもなく、軽蔑(けいべつ)することもなく、みんなが認め合い、睦(むつ)み合って暮らすようになります。そういった社会こそが寂光土なのです。  もう一つ大事なことがあります。「自然とも仲よくするようになる」ということです。  仏教でいう衆生というのは、生きとし生けるものという意味です。もっと拡大解釈して、土とか水とか石とかいった無生物も、久遠の本仏に生かされているのだと仏教では見ているのです。ですから、中国の天台僧・湛然(たんねん)が言い始めたという「草木国土悉皆成仏」という理念が生まれたわけです。  今やこの考え方は、たんに仏教の中ばかりでなく、人類の運命をにない、その危機を救う一大事となっています。人間のあまりにもわがまま勝手な生きざまが、自然を破壊し、汚染し、このまま二十一世紀になれば、地球上で生きていくことさえ難しいといわれているのですから。  われわれが法華経精神の普及に必死に取り組んでいるのは、世界中の人間がお互いに「完成された人間」となる可能性を持つことを認め合い、と同時に、自然とも仲よくする関係になって、この世を寂光土化しようという大誓願のためにほかなりません。このことをよくよく心得ておいて頂きたいものであります。 ...

法華三部経の要点20

仏教には一仏乗があるだけ

1 ...法華三部経の要点 ◇◇20 立正佼成会会長 庭野日敬 仏教には一仏乗があるだけ みんな仏道の上にいる  第十七回に「法を現実化する方便こそが大切である」ことについて書きましたが、そうであればこそ法華経では、その現実化の行動者である菩薩が、仏を除けば人間の中で最も価値ある存在だと強調するわけです。  お釈迦さまは方便品の中で、「諸仏如来は但(ただ)菩薩を教化したもう」とか「諸の菩薩を教化して声聞の弟子なし」などと、繰り返し繰り返し菩薩をたたえ、信頼するお言葉を述べておられます。  ここで誤解してはならないのは、声聞や縁覚は相手にしないという意味ではないことです。  ――声聞も縁覚も仏となる道の上に乗っていることは確かである。しかし、まだ積極的な歩みに踏み出していない。だから、積極的な歩みをする菩薩になるように導きたいのだ――というみ心なのです。  「仏となる」とか「声聞」「縁覚」「菩薩」とかいえば、いかにも現実離れした存在のように思われますが、けっしてそうではありません。現代語で表現すればこういうことになります。  仏とは、前にも書いたように、「めざめた人」のことです。宇宙の真理と人生の真実にめざめ、その悟りにもとづいてこの世のあらゆる存在を幸福に導こうという大慈悲心の持ち主なのです。  声聞というのは、仏教の本を読んだり、説法を聞いたりして、仏の道を学ぼうとする人です。このような人も「めざめ」への道の上にいることは確かです。現代語でいえば「学習派の信仰者」ということになりましょう。  縁覚というのは、仏の教えについてひとり静かに思索し、暝想し、「めざめ」へ近づこうとする人です。こういう人も仏への道の上にいることは確かなのです。現代語でいえば、「暝想派の信仰者」ということになりましょう。  菩薩とは、声聞の要素も持ち、縁覚の要素も具(そな)えているのですが、ただ違うのは、他の多くの人びとへの教化や救済に奔走するという一点です。「行動派の信仰者」と名づけていいでしょう。 歩み出しさえすれば  法華経以前では、仏道修行者が「学習派」「暝想派」「行動派」の三派に分かれているように考えられていました。事実そういう傾向が顕著でした。そして「学習派」や「暝想派」の人たちは、もっぱら煩悩から解脱することを目標として修行し、仏になるなんてとうていできないことだと思い込んでいました。お釈迦さまも、みんなの機根(教えを受ける能力)がまだ熟していないと見られて、わざと「みんな仏の道の上にいる」ということをお説きにならなかったのです。  しかし、この法華経方便品に至って「十方仏土の中には 唯一乗の法のみあり 二なく亦(また)三なし」という大宣言をなさったのです。そして、法華経を行ずる者はことごとく仏になることができると、保証されたのです。  ――これまで学習派・暝想派・行動派の別があるように考えていたが、そのような派閥の別などありはしないのだ。あるのは「仏の智慧にめざめ、その慈悲を行ずる」という大きな一本道(一仏乗)しかないのだ。学習派の人も暝想派の人もその一本道の上にいるのだ。ただ、積極的な歩み(菩薩行)を起こしていないだけのことなのだ――という素晴らしい大宣言です。  これを仏教学者は「開三顕一」と名づけていますが、つまり――仏教書を読むことも、座禅を組むこともいいことなんだ。それも仏道の一段階なんだ。大いにやりなさい。ただし、「他を幸せに導く行動」という段階へ進むことを忘れてはいけませんよ――ということなのです。                                                                   ...

法華三部経の要点21

人を仏道に導く順序は

1 ... 法華三部経の要点 ◇◇21 立正佼成会会長 庭野日敬 人を仏道に導く順序は 一大事の因縁を以ての故に  方便品の大きな要点の一つに「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう」という一句があります。  「一大事の因縁」というのは「一つの大事な目的」ということです。では、その目的は何かといえば、「すべての人に仏知見を開かしめ、仏知見を示し、仏知見を悟らせ、仏知見を成就する道に入らせることである」と説かれています。  仏知見というのは、この世のあらゆるものごとの実相を見きわめる智慧のことですが、これを大づかみにいえば、すべてのものごとの本質の平等性と、さまざまな現象として現れている現実の相(すがた)を、ありのままに、そして、明らかに見通す智慧だと言っていいでしょう。  仏さまの側からいえば、そのような智慧をすべての人間に完成させることが、仏さまがこの世にお出ましになられた一大事の因縁ですが、われわれの側からいえば、そのような智慧を身につけることがこの世に生まれてきた一大事の因縁だといえます。つまり、人生の真の目的はそこにあるのだというわけです。  人生を楽しむのもいいでしょう。せっせと稼いでお金をもうけるのもいいでしょう。しかし、この「人生の真の目的」を見忘れたり、ないがしろにしたりすれば、人間としての向上もなければ、社会の進歩もありえません。それどころか、みんなが欲望を限りなく肥大させ、自己本位の生きざまに走り、奪い合い、足の引っ張り合いの世界をつくりあげてしまいます。現在の世相がそうではないでしょうか。  人類がほんとうに幸せになるためには、どうしても先に述べたような「人生の真の目的」に目覚めることが不可欠の要件なのです。法華経が歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう=生まれ変わりを重ねながら菩薩行を続ける)をも説く理由はここにあるのです。 開・示・悟・入の順序  それでは、この一大事の因縁である「開・示・悟・入」について説明いたしましょう。  「開」というのは、仏の智慧に眼を開かせることです。これまでそんなことに無関心だった人に「気づかせる」ことです。より高い、より尊いものに「気づく」ということが、進歩・向上の出発点となるのです。  「示」というのは、仏の智慧の実際を示すことです。たとえば、仏さまの説かれた縁起の法則を実際に起こったある例証によって示せば、初心の人も「そんなものかなあ」と心を動かすようになります。それが第二の段階です。  「悟」というのは、第二の段階からさらに進んで「なるほど」と心の底から納得する段階です。  そこでいよいよ「入」という段階へ進むのです。すなわち仏の智慧を成就するための修行に入るわけです。ご宝前で読経する。唱題する。経典の解説書を読む。その内容についていろいろ考えをめぐらす。説法を聞く。法座に参加したり、明るい社会づくりのためのさまざまな集会に出席する。みんなそのための修行です。そして、他の人を仏道に導く菩薩行へと進む。このような実践によってこそ、目覚めへの道は完成へと近づいて行くのです。  この順序は、世の万事に応用できる基本的なセオリー(理論)です。たとえば、緑の保存についても、そんなことに無関心な人にまず文書その他の方法でその大切さに気づかせること(開)が出発点です。そしてアフリカや東南アジアなどの実情を示せば、「このままでは地球が危ない」と心底から悟ります。そこで、その危機を救う実践(たとえば、本会で実行しているクズの種を中国に送る運動など)へと入らせるのです。  このように、開・示・悟・入は、現代語で表現すれば「啓発・例示・了解・実践」ということになり、すべてのキャンペーンに通ずる大法則なのです。                                                              ...

法華三部経の要点22

人間には無限の可能性がある

1 ...法華三部経の要点 ◇◇22 立正佼成会会長 庭野日敬 人間には無限の可能性がある 「十如是」の法門の意味  方便品のもう一つの大きな要点に「十如是」の法門があります。すべてのものごとの本質である平等性と、さまざまな現象として現れる現実の相(すがた)を、ありのままに見通すための法則です。すなわち、「如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」という十の如是(にょぜ)です。  後世の学僧たちは、この三十四文字に法華経の哲理が結晶されているとして、これを「略法華」と呼んでいるほど大切な法門です。  如是の意味にはいろいろな説がありますが、「こうすればこうなる」という解釈がいちばん適切だと思います。ではこの十如是の意味を説明しましょう。  われわれがすべての事物を見るとき、まず目に入るのはその姿・形です。これを「如是相(そう)」と言います。  表面の現れであるその「相」を、一歩内面に立ち入って吟味してみますと、そのものの持つ性質というものがあることがわかります。それを「如是性(しょう)」と言います。  「相」があり「性」があるものには、必ずそのものの主体があります。それを「如是体(たい)」と言います。  主体を持つすべての存在は必ずそのものにふさわしい力、いわば潜在エネルギーというものを持っています。その力を「如是力(りき)」と言うのです。  その力(潜在エネルギー)は、機会を得ればはたらきだし、その機会に応じた作用を起こします。それを「如是作(さ)」と言います。  そして、どのような現象であろうと、それが生ずるのには、必ず原因があります。それを「如是因(いん)」と言います。  また、その原因も何らかの条件に合わなければ、現実に現象として現れることはありません。その条件を「如是縁(えん)」と言うのです。これが、「如是作」のところで述べた「機会」ということでもあります。  さて、ある原因がある条件に会えば、それにふさわしい結果が生じます。それを「如是果(か)と言い、その結果があとに残す影響を「如是報(ほう)」と言うのです。  以上の九つの如是は、初め(本)から終わり(末)まで、つまるところ(究竟して)宇宙の真理である法則のとおりになるということで等しい(等)というのが、最後の「本末究竟等(ほんまつくきょうとう)」ということなのです。  実に整然とした哲理ではありませんか。 希望と勇気を与える哲理  この哲理を人間の生き方の上に大きく展開させたのが、天台大師の説いた「一念三千」の法門です。いま説明したように、「十如是」は――この世のあらゆる事物は固定したものではなく、変化・流動させうるものであり、「こうすればこうなる(如是)」という原理に従うものである――ということを説いたものであります。  ということは、自分の性格や才能などの個性も、自分と関係するさまざまなことがらも、もともと固定したものではなく、自分の心の持ちようにより、努力により、どんなにでも変化させうる可能性を秘めているのだ、ということなのです。この哲理は、われわれに大きな希望と勇気を与えてくれるものです。  われわれは、ともすれば自分の能力に限界を感じ、一種のあきらめをいだきがちです。それは自分がつくった限界であり、自らが立てた壁であって、ほんとうの自分はそんな壁に閉じこめられたものではなく、上へ向かってもどこまでものぼって行ける、横へ向かってもどこまでもひろがって行ける、そんな無限の可能性を持っているのだ、というのです。  そのような可能性を知らされると、心の牢獄の壁にポッカリと大きな穴が開いたのを感じます。あなたにも、そんな可能性があるのです。希望を持ち、大いなる勇気を出してください。 ...

法華三部経の要点23

ありのままの尊さ

1 ... 法華三部経の要点 ◇◇23 立正佼成会会長 庭野日敬 ありのままの尊さ 諸法実相の三つの見方  前回には十如是の法門に示された「諸法実相」を、主として人間の生き方に即して説明しましたが、もっと視野をひろげて、大自然の姿にその真理を見てみましょう。  天台の教義では「諸法実相」を三重に説いています。まず第一は「すべての存在(現象)は空(くう)である」という見方。これを空諦(くうたい)と言います。  ところが、現象というものを一切否定し、その根源である空のみを見ていますと、おそろしい虚無感に襲われ、厭世観(えんせいかん)のとりこにもなりかねません。目の前に展開している現象をも認めなければ現実の生活はできないのです。その現象肯定の見方を仮諦(けたい)と言います。  しかし、現象肯定に片寄っていますと、どうしても目の前に現れるものごとにとらわれ、ふり回され、迷ったり苦しんだりします。そこで、あらゆる現象は因と縁との和合によって生じたものであるという縁起の法則にのっとって、ありのままに見るところに、諸法の実相のとらえどころがある。それがギリギリ真実の諦(さと)りであるというのです。これを中諦(ちゅうたい)と言います。中道というのもこの中諦と同じだというのです。  この中諦の境地は、理念的にはわかるけれども、現実的に「これこのとおり」とハッキリ示すことは難しく、言葉にも尽くし難いものです。だから、むかしの人は「妙」としか言いようがないと言いました。妙法蓮華経の「妙」もそれだというのです。 大自然の姿に学ぼう  言葉では言い尽くせないが、大自然の姿を見ればそれをマザマザと感得することができます。たとえば、自然林の姿などがそうでしょう。その中の一本の樹木をつくづくと見つめてみますと、たくさんの枝や葉が、それぞれ他の枝や葉の領分を侵さないようなほどよい空間を保ち、そこになんともいえない美しい調和がつくり出されています。だから、いつまで眺めていても飽きません。また、多くの木と木との間にも同じような美しい調和が保たれ、しかもみんながいきいきしています。  「芭蕉」という謡曲にこんな一節があります。  さてさて草木成仏の 謂(い)はれ(根拠)をなほも示し給(たま)へ 薬草喩品あらはれて 草木国土有情非情(生物・無生物)もみなこれ諸法実相の 峰の嵐や 谷の水音仏事をなすや――中略――されば柳はみどり 花は紅と知ることも ただそのままの色香の 草木も成仏の国土ぞ 成仏の国土なるべし 峰の嵐にも谷川のせせらぎにも諸法実相が現れているというのです。柳はみどり、花は紅というのは、ありのままということですから、つまり、大自然のありのままの姿にすべての存在の真実の相を見ることができる、というのです。  しかもそれらがすべて「仏事を成している」、久遠実成の仏さまの大いなるいのちを現しているというのです。大自然がありのままの状態であるときは、そこに宇宙の大生命そのもののいのちがいきいきと現れる。それが「草木国土悉皆成仏」の姿である……というわけです。  われわれはこのことに深く思いを致さねばなりません。人類は、とくに先進国の人間は、わがままな欲望のために大自然のありのままの姿を容赦なく破壊してはいないか。そのことを反省しなければなりますまい。  右の謡曲の中に「峰の嵐や谷川のせせらぎが仏事を成している」とありますが、人間が成す仏事も――もちろん人間でなければできない仏事もたくさんありますけれども――その根本は、「ありのままに生きる」ということではないでしょうか。ありのままに生きている人が、なんともいえず美しく、尊く見えるのは、やはり諸法実相の理にかなっているからでありましょう。 ...

法華三部経の要点24

心が変わればすべてが変わる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇24 立正佼成会会長 庭野日敬 心が変わればすべてが変わる 「念」は強くて継続的な心  前々回に天台大師の説いた「一念三千」について触れましたが、これは難しく考えればたいへん難しい説ですけれども、一口で言えば「心が変わればすべてが変わる」ということです。ただし、心といってもコロコロ変わるような軽い心ではありません。「一念」の念というのは、「念入りに書く」とか「初一念」とか「念力」とか「念が残る」とか「念を晴らす」といった使い方でもわかるように、非常に強く思い、そして絶えず思う心なのです。不適当な表現かもしれませんが、たいへんしつこいというか、根強い心なのです。  この強くしつこい心が悪い心であれば、その人の人格を低め、他の人への恨みなどとなって相手を傷つけることになりますが、善い心であれば、自分を無限に向上させ、多くの人を救い、環境をも、社会をも浄化するという偉大な働きを持つものなのです。  道元禅師はこう言っておられます。「(願い求めることは)行住坐臥、事にふれ、おりにしたがいて、種々の事はかわり来れども、其れに随いて、隙(ひま)を求め、心に懸(か)くるなり。此心あながちに(度はずれて)切なるもの、と(遂)げずということなきなり」と。日常生活の中で、ちょっと暇(隙)があればそのことを思い、度はずれるぐらいけんめいに思えば、その思いは必ず遂げられるのだ……というのです。 一念が三千を変える理由は  そういう一念が自分自身を変えることはだれでもわかります。しかし、それがどうして他人を変え、環境を変え、社会を変えるのでしょうか。まず常識でわかることから考えてみましょう。  第一に、心が変わればその人のものの考え方や、身の振る舞いや、口に出す言葉がひとりでに変わってきます。すると、周りの人びと(主として家族)がそれに感化されて変わってくる、これは当然のなりゆきです。  第二に、心が変われば、すべてのものを見る目が変わってきます。人に対しては、温かい目で相手の長所を見、短所は寛容の目で見るようになります。周りの自然に対しても、その美しさをこまやかに観察するようになります。芭蕉が「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」と詠んだように、だれもが見過ごすようなペンペン草の小さな花にさえ、いのちの美を発見するようになります。こういう主観的な意味で、世界が変わるのです。  第三に、強くて絶え間のない一念(善念)があれば、それは必ず同じ念を持つ同志と磁石のように引きつけ合い、合体します。そして、さらに強い力となって社会へ向かって波紋をなげかけます。それがしだいしだいに社会を変えていくのです。WCRP(世界宗教者平和会議)などがその好例といえましょう。  右に述べたようなはたらきのほかに、常識では測りしれない心のはたらきがあります。それは仏教でいう感応道交(かんのうどうこう=心と心が冥々のうちに響き合い交流すること)です。そんなはたらきはどうして起こるのでしょうか。現代最高の心理学者であるスイスのユングは「絶対的無意識」または「集合的無意識」というものがあると唱えています。これは、あらゆる人間に、いやあらゆる生物に共通する、最も深い所にある潜在意識だというのです。  とすれば、宗教者の祈りなどは、表面の心で祈っているようでも、それは深層にある自分の集合的無意識を動かし、それが多くの人びとの集合的無意識へ働きかけるのだ……と解釈することができ、納得することができます。  以上、いくつかの面から説明してきましたが、いずれにしましても、自分の心を変えることによって、人も環境も確かに変わったという体験は、信仰者にとって動かし難い事実なのであります。そこで私は、この「一念三千」をもう一歩突っ込んで、「自分が変われば、相手も変わる」と表現しているわけです。 ...

法華三部経の要点25

諸仏は五濁の悪世に出でたもう

1 ...法華三部経の要点 ◇◇25 立正佼成会会長 庭野日敬 諸仏は五濁の悪世に出でたもう 文化の進歩の逆現象  方便品にはもう一つ見逃してはならぬ要点があります。「諸仏は五濁の悪世(ごじょくのあくせ)に出でたもう」の一句です。これは現代の世相にぴたりと一致しますので、この五つの世の濁りについて吟味してみましょう。  第一の濁りは「劫濁(こうじょく)」です。これは時代が長く古くなったために起こる悪です。世の中も人間の体と同じように、古くなると動脈硬化を起こします。  それが一番顕著に現れるのは、政党をはじめとする諸団体でしょう。ある団体が結成された当初は、理想に燃え、情熱をたぎらせていたのが、年月がたつにつれて、ともすれば惰性的になり、形式主義的になっていきます。「何のためにあるのか」「だれのためにやるのか」という根本精神がかすんでしまうのです。だから、時に応じて草創期を思い起こし、初心に立ち返ることが絶対に必要なのです。  第二の濁りは「煩悩濁(ぼんのうじょく)」です。文化が進むのはいいことですが、半面、社会構造が複雑になるにつれて煩悩も種類が多くなります。人類が単純な暮らしをしていたころは、煩悩は食欲と種族保存欲などに基づくものだけだったのが、文化が進むにつれ、名誉欲とか権勢欲といった新しい煩悩が生じ、それが過大になったり暴走したりして、大小さまざまな争いの原因となるのです。  第三の「衆生濁(しゅじょうじょく)」というのは、世の中が複雑化すると、衆生の一人一人が自分の立場だけからものを考えるために、小は人間関係から大は国際問題に至るまで、摩擦や背反が激しくなり、地球上が修羅(しゅら)の巷(ちまた)と化していくのです。そういう時にこそ、法華経が説く「久遠本仏の大慈悲心」つまり、「すべての人間は宇宙の大生命ともいうべき久遠本仏に生かされているのだ」という真理に深く思いをいたさねばならないのです。  なお、西義雄博士は国訳大蔵経の『倶舎論巻十二』の注釈に、衆生濁とは人間が小さくなり無気力になることだとしておられます。  最近、日本の青年が無気力になったことが問題となっていますが、右のような解釈も一考に値すると思います。 最も恐ろしいのは「命濁」  第四の「見濁(けんじょく)」というのは、ものの見方が人により民族により大きく相違するために起こる世の乱れです。正しい見方にいろいろな方向があるのならいいのですが、悪世においては、たとえば「宗教はアヘンなり」とか「道徳教育は不要である」といったような邪見が横行して、正見を蔽(おお)ってしまうことが多いために、世の中が濁ってくるのです。  第五の「命濁(みょうじょく)」というのは、人間の命が短くなるというのですが、これはちょっと解せないかもしれません。むかしは「人生五十年」が通り相場でしたが、今の日本では八十何歳とかが平均寿命になっていますから、人間の寿命が短くなるという意味がわからないと思います。  したがってこれを、核戦争によって人類はアッという間に絶滅してしまう意味であるとか、今日のように添加物の多い食品を食べていると人間は長生きできなくなることを示唆しているのだといったうがった説明もあります。また科学文明の発達によって人間が本来持っていた生命力がだんだん脆弱(ぜいじゃく)になっていくことを教えているのだともいわれます。  そのいずれにせよ、究極的には「どうせ限りある生命だから、いまさらあくせく修行しても始まらぬ」というように、人間が刹那主義になってしまうことが恐ろしいことであり、これが命濁の示す警告であるといってもいいでしょう。  そういう危機(悪世)に際してこそ諸仏が世に出でたもうというのも、仏さまそのものは出られなくても、仏の教えを世にひろめる人間が続々と出現するというように解釈することもできましょう。そのように受け取って発奮のよすがとしたいものです。                                                             ...

法華三部経の要点26

向上は反省と下がる心から

1 ...法華三部経の要点 ◇◇26 立正佼成会会長 庭野日敬 向上は反省と下がる心から 反省にもとづく求道心こそ  譬諭品は、前の方便品の説法を聞いて大歓喜した舎利弗の「今世尊に従いたてまつりて、此の法音を聞いて心に踊躍(ゆやく)を懐き、未曽有なることを得たり」という感激の言葉から始まります。  なぜそれほど歓喜したかといえば、これまで自分は仏の悟りとはかけ離れた境地に低迷しているとばかり思って「終日竟夜(ひねもすよもすがら)毎(つね)に自ら剋責(こくしゃく)しき」と自分の至らなさを責めていたのが、方便品の説法で、仏さまの教えはただ一仏乗であって声聞も縁覚もなく、自分もたしかに成仏への道程にいることがわかったからです。  ここで見逃してならないのは、舎利弗ほどの大秀才がつねに自分の至らなさを反省していたという事実です。釈尊教団では「智慧第一」とたたえられ、多くの経典に現れているように、お釈迦さまもつねに「舎利弗よ」「舎利弗よ」と呼びかけて法をお説きになっていました。その舎利弗がけっして有頂天にならず、威張ることもなく、いつも現在の自分を反省し、さらなる向上への道を求めていたわけです。これが譬諭品の第一の要点だと思います。  ほんとうに偉くなる人は、必ずそうした精神的欠乏感ともいうべき、反省にもとづく求道心をもっているものです。イエス・キリストが「さいわいなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり」と言われたのも、そこのところなのです。 心の素直な人は「下がる」  舎利弗は、はじめ王舎城付近で世間の尊崇を集めていたサンジャヤという宗教家に弟子入りしました。わずか七日間(一説には三日間)で師の教えをすっかりマスターし、たちまち二百五十人の弟子を指導する師範代に任ぜられたのでした。それでも舎利弗は、より高いものを日夜求めつづけてやみませんでした。  たまたま王舎城の街頭で立ち居振る舞いの見事に端正な一修行者に出会い、一目でその人に引きつけられてしまいました。そして、「あなたの師は何というお方ですか」と尋ねたところ「釈迦牟尼世尊と申す正覚者です」との答え。「その師の教えはどんなものですか」と問えば「この世のすべての現象は因と縁との和合によって生ずるとお説きになります」という答え。 ――ああ、これこそ自分が求めていた最高の法である――と感動し、二百五十人もの弟子を持つ師範代の地位を惜しげもなく捨てて、お釈迦さまのもとにはせ参じたのでした。  入門してほどなく、さきにも述べたように舎利弗はお釈迦さまの弟子の中で「智慧第一」となったのですが、それでもけっして増長することはありませんでした。こんな話があります。  お釈迦さまの一行が王舎城から祗園精舎への旅の途中、ある精舎に泊まったときのことです。翌朝早くお目ざめになったお釈迦さまは、庭の一本の木の下で夜を明かしたらしい舎利弗をみつけられました。「なぜそんな所にいるのか」とお尋ねになりますと「昨夜は宿坊がいっぱいでございましたので」との答えです。若い比丘たちがわれ先にと部屋を占領してしまったのです。最長老の一人ですから、一声で部屋を空けさせることもできたのですが、舎利弗はそれをしなかったのです。その人格の崇高さにはただもう頭が下がります。  人間、有頂天になればそれで行き止まりです。方便品の説法を聞かずに退席して行った五千人がそれです。また、信仰上のことだけでなく、「平氏にあらずんば人にあらず」とうそぶいた平氏一門もそれです。頂点を極めて間もなく平家は転落の一途をたどり、ついに滅んでしまいました。  ともあれ、「智慧第一」の舎利弗が「終日竟夜毎に自ら剋責」したことを、われわれも時に応じて思い出したいものであります。                                                         ...

法華三部経の要点27

信仰の種子は前世に播かれた

1 ...法華三部経の要点 ◇◇27 立正佼成会会長 庭野日敬 信仰の種子は前世に播かれた 人との出会いは宿縁による  前回に、舎利弗の求道の苦悩と、ついに至上の法を得た喜びの告白について述べましたが、それをお聞きになったお釈迦さまは驚くべきことを言い出されました。「舎利弗よ。わたしは長い前世においてもそなたを教化しつづけてきました。そして仏の悟りを求めるように指導してきたのです。そなたはそれをすっかり忘れ、現世においてわたしの弟子になっても、ただ自身の解脱のみを願って修行していたのです。わたしは今、仏の本願によってそなたが過去世に行じたことを思い出させるためにこの法華経を説くのです」とのおおせです。  これは、われわれ後世の信仰者にとっても非常に大事なことですから、ここでじっくり考えておきましょう。  お釈迦さまのこのお言葉には、二つの真実がこめられていると思われます。  第一は、現世における人と人との出会いは、けっして偶然ではなく、前世の宿縁によるものだということです。  こんな例があります。天台大師が若いころ慧思禅師という高僧に学ぼうとして訪ねて行ったとき、慧思禅師は、  「おう。懐かしい。そなたとは前世に霊鷲山において共に法華経を聞いた。その宿縁によって今またわたしの所へやってきたのだ」と喜んだそうです。  つまり、この世で師弟となったり、友人となったり、夫婦となったりするということは、前世からの深い因縁の糸に結ばれているのだということです。ですから、そのような人との縁はけっしておろそかにできないものなのであります。 いま法華経を学ぶわれらは  第二に、この世におけるわれわれ人間の心というものは、その大部分は父母・兄弟その他の環境によって培われたものですが、その心の本質の部分は、やはり前世における経験や修行によって育てられているのだということが、このお釈迦さまのお言葉から察することができます。  たとえば、宗教のことなどにぜんぜん耳をかさない人があります。神社やお寺の前を通っても素知らぬ顔です。それに対して、道端の野の仏を見ても手を合わさずにはおられない人もあります。その違いはどこから来たのでしょうか。言わずともおわかりでしょう。  ましてや、仏教書を買って読もうとか、説法を聞きに行こうかとか、あるいは信仰者の仲間に入ってみようかとか思う人は、よくよく仏さまの教えに縁の深い人なのです。  わたし自身の幼時をふりかえってみても、朝は必ず神棚を拝んでから学校へ行きましたし、学校への途中にある諏訪神社や子安観音さまの前を通るときも、大日如来と刻まれた石碑の前を通るときも、必ずおじぎをして通りました。それで、村の人たちからは「あれはおかしな子だよ」といわれたものです。  ひとつには、校長先生の「人には親切にしなさい」「神さま仏さまを拝みなさい」という教えを素直に守ったせいもありましょうが、わたしの兄弟や他の生徒たちがいっこうにしようとしないことをわたしだけがしたというのは、やはり何か前世からの宿縁があったのだろうと、今になってつくづくと思われます。  とりわけ、いま法華経を学ぶわれわれは前世においても法華経を聞き、修行したのであるということをお釈迦さまのお言葉によって知るとき、たとえようのない深い感慨を覚えざるをえません。                                                        ...

法華三部経の要点28

ひとの仏性を見ることの大切さ

1 ...法華三部経の要点 ◇◇28 立正佼成会会長 庭野日敬 ひとの仏性を見ることの大切さ 誰でも「仏」を内在している  「法華経は授記経である」といわれています。授記というのはお釈迦さまが「そなたは将来かならず仏になることができる」という保証を与えられることです。その授記を法華経の中で受けた第一号が、譬諭品における舎利弗です。すなわち、「舎利弗、汝未来世に於て無量無辺不可思議劫を過ぎて、若干千万億の仏を供養し、正法を奉持し菩薩所行の道を具足して、当に作仏することを得べし」とおおせられています。  これは譬諭品だけでなく法華経全体の要点中の要点ですから、ここでよくよく吟味しておきましょう。  ここに、仏となる三つの条件が述べられています。(一)多くの仏さまに遇(あ)いたてまつって供養申し上げること。(二)正法をしっかり守ること。(三)菩薩行を実践すること。この三つです。  まず(一)の条件ですが、これを、お釈迦さまのような仏さまに千万億人もお遇いすることと受け取れば、何百遍生まれ変わろうとも不可能だと思われます。  ところが、人間という人間すべて久遠実成の仏さまの実の子なのですから、表面の姿はどうあろうともみんな必ず仏としての性質、すなわち仏性を持っているのです。ですから、その一人一人の仏性を、一人一人の仏と考えればいいのです。  そして、日常の暮らしの上で出会うすべての人の本質である仏性を見つめ、それを拝むように心がければ、それがとりもなおさず仏さまを供養することになります。したがって、一日に十人の人に出会うならば、十人の仏さまに遇いたてまつることになるわけです。  第一の条件をこのように受け取れば、千万億の仏に遇いたてまつることもあながち不可能事ではないことがわかり、うつぼつたる勇気がわいてくるではありませんか。 この理想は現実につながる  (二)の「正法を奉持し」ですが、仏教ではいろいろな正法を説いており、そのすべてを持(たも)たねばならないと思えば、これまた凡夫にとっては不可能だとさじを投げたくなりましょう。ですから、これを仏教のギリギリの根本法である「縁起」に絞ればいいのではないかと思うのです。すなわち、この世の万物万象はすべて他との持ちつ持たれつの関係の上に成立しているという真理です。この真理をつねに頭において、他の人を大切にし、自然をそこなわず、すべてのものとの調和を心がけておれば、そうした生き方がひとりでに仏に近づいていくわけです。  (三)の菩薩行ですが、これは「縁起(もしくは諸法無我)」という真理を実践に現す行為です。すなわち、あらゆる面においてひとを幸せにする行為を積極的に行うことです。いわゆる布施行です。中でもとくに大事なのは、人を本質的な意味において幸せにする法施でしょう。物質的な布施はおおむね一時的な効果しかありませんが、積極的な布施である法施(仏法を説くだけでなく、人を仏道に導くことも)は、永久にその人を幸せにする次元の高い行為であって、これが最高の菩薩行であります。  こう考えてきますと、仏(目覚めた人)になるということは、われわれ凡夫にとって及びもつかぬことではないことがわかってきましょう。  法華経はすべての人間が仏になることを理想としてかかげているわけですが、それはけっして夢のようなことではありません。右の三つの条件に一歩でも近づく人がこの世に増えてくればくるほど、確実にこの世界が平和に、幸せになってくることは間違いないからです。その意味で、法華経はまったく現実的な教えなのです。                                                                      ...

法華三部経の要点29

古びた屋敷とは今日の地球か

1 ...法華三部経の要点 ◇◇29 立正佼成会会長 庭野日敬 古びた屋敷とは今日の地球か 心も手入れをしなければ  法華経は文学性においてもあらゆる仏教経典中の随一といわれていますが、中でも譬諭品『三車火宅の譬え』の偈は二十八品中の圧巻でありましょう。その冒頭にこう述べられています。  「ここに長者があって、大きな屋敷をもっていたとしましょう。その家はたいへんに古び、こわれかかっていました。建物は高くそびえてはいますが、柱の根は砕け腐り、梁(はり)や棟は傾きゆがみ、石段は崩れ、垣根や壁は破れ、壁土やしっくいは剥(は)げ、屋根をふいた苫(とま)も乱れ落ち、垂木(たるき)や庇(ひさし)は抜けかかり、屋敷のまわりの土塀は曲がりくねっていました」  これは末世の人間の心のありさまを描写したものです。家屋敷は、住んでいる人が手まめに掃除したり手入れしたりしておれば、古くなってもそれなりの風格を保っているものです。世界でいちばん古い木造建築である法隆寺の、あの底光りのするような美しさがそのことをよく物語っています。  ところが、住んでいる人が掃除や手入れを怠っていますと、当然この文章にあるように荒れ果ててしまいます。人間の心も同様です。ですから、絶えず正しい教えを聞いたり読んだりして、それを日々のくらしの上に実践し、過ちや至らないところがあったらそれを反省して、コマメに掃除や手入れをすることが絶対必要なのです。 一般人の自覚と行動こそ  そうした心の荒廃ばかりでなく、実際にわれわれが住んでいるこの地球が、二十世紀末の今日、この文章にえがかれているように荒れたものになりつつあるのではないでしょうか。法華経は五五百歳後の世への警告の経典だという説もありますが、その説が当たっているふしも大いにあるように思われます。  「建物は高くそびえてはいるが」というのは、文明というものが高く大きく発達したことを象徴していると考えていいでしょう。しかし、残念ながらその土台は腐っているのです。いわゆる文明のおかげで、人類は「より早く」「より楽に」「より大量に」交通したり、生活したり、生産したりできるようになりました。ところが、そのような生き方は、半面、大気・水体系の汚染や、地球の温室化や、酸性雨による森林の立ち枯れや、化学肥料による土壌のやせ細りや、砂漠化の進行など、人類の運命そのものにかかわる恐ろしい事態を引き起こしつつあります。  一部の心ある人びとはそうした事態に危機を痛感して何とか打開の道を講じようとしていますが、大部分の人びとは相変わらず「より早く」「より楽に」「より大量に」の生き方を当然のように享受しているのです。あたかも古びた大きな屋敷の中で遊び戯れている子どもたちのように。このままではいつ「大火(決定的な事態)」が起こって人類自滅ということにもなりかねません。  もちろん、進歩に進歩を重ねる科学技術も、国の政治も、国際機関も、けんめいにそうした危機防止の手段を考究しているでしょう。しかし、人類の大部分を占める一般人に、そうした自覚と、反省と、少欲知足の生き方への転換がなければ、この滔々(とうとう)たる大勢を食い止めることは不可能でしょう。さきごろテンプルトン賞を受賞されたヴァイツゼッカー博士も「(過去の歴史においても)まったく禁欲しない社会は数世代で滅びてしまった。最低限の禁欲、富の放棄ということは、文化の安定性に絶対に必要である」と語っておられました。  火宅の中の子どもたちも、自ら門外に走り出ることによって救われました。この教訓を二十世紀末のわれわれも、腹の底にしっかりと受けとめなければならないのではないでしょうか。   ...

法華三部経の要点30

火宅の動物たちは人間の煩悩

1 ...法華三部経の要点 ◇◇30 立正佼成会会長 庭野日敬 火宅の動物たちは人間の煩悩 高慢・怒り・愚かさ  譬諭品の『三車火宅の譬え』には、さまざまな動物の生態にことよせて、人間の煩悩の醜さ、汚さ、いやらしさが、これでもかこれでもかといわんばかりに描かれています。読んでいて胸がわるくなる思いがします。しかし、そんな思いがそのまま反省のよすがとなり、懺悔のきっかけになるのですから、性根を据えて読まねばなりますまい。  さて、古びて崩れかかった大きな屋敷の上をわがもの顔に飛びまわっているクマタカやカラスやワシなどの鳥は「慢」の象徴です。高い所から他を見くだしている高慢な心です。他の生物が地上をはいまわっているのに対して、自分は空中を自由自在に飛びまわっているのですから、よほど自省しないかぎりこのような驕(おご)りが生じやすいのです。いま世界一の経済力を誇る日本人には、このような驕りが生じつつあるのではないでしょうか。  つぎに、マムシやサソリやムカデなどが住みついているとあります。これらは他を刺したりかんだりして害を与える毒虫で、「瞋(しん)」すなわち「わがままな怒り」を象徴しています。自己中心の心から起こる怒りは、個々の人間関係をそこなうばかりでなく、それが民族的な「瞋」となると、長いあいだ中東あたりにくすぶりつづけているような戦争や紛争の元凶となるのです。「怒り」が慢性化すると「恨み」に変化するから恐ろしいのです。  また、イタチやタヌキやネズミなどが横行しています。これらは夜行性の動物で、智慧の光をきらい、やみにうごめく愚かな心「痴」を象徴しています。これらの動物に譬えられる人は、いちおうは利口なんです。利口は利口でもいわゆる小利口であって、コソコソした世渡りは上手だけれども、天地の理にかなった大きな智慧に欠けているために、たとえば一時の利益のためにやった贈収賄などが白日のもとにさらされると、小利口がじつは「痴」にすぎなかったことが露呈されることになります。心すべきことでしょう。 すべての苦しみは貪欲から  不浄物がいっぱい流れており、その上にクリムシの類がたかっている汚らしい光景がえがかれています。このクリムシは何を象徴しているかといえば「疑」の心です。心性の下劣な人は、えてしてうさんくさい物事にかかわり合うものです。したがって、何事にもまず疑ってかかります。こうして「疑う」のが心の習慣になりますと、心性はいよいよ下劣になっていくのです。  ですから、人間にとっていちばん大切なのは、いつも言うことですが、正直ということなんです。正直というのは何も難しいことではない。あたりまえのことを話し、あたりまえの行いをすればいいのです。多くの人がそうなれば、当然「疑」は人びとの心からしだいに消えてゆき、人と人との間に美しい信頼関係が生じてきます。そうなってこそ世の中はほんとうに寂光土化されるのです。  つぎに、いろいろなケモノが食をあさっていがみ合うあさましい姿がえがかれています。これは凡夫の心「貪欲」の象徴です。欲望というものは「生存」そのものと密着しているものであって、全面否定はできません。しかし、それが必要に応じたほどほどのものであり、そのほどほどに満足しておれば問題はないのですが、ともすれば「もっと、もっと」と限りなく肥大させがちです。それを貪欲というのです。  「もっと、もっと」と限りなく肥大しつづける貪欲が完全に満足されることはありえません。だから、そんな人はいつも欲求不満で心がイライラするばかりでなく、それによって病気を引き起こしたり、人間関係をそこなったり、犯罪に走ったり、いいことは少しもありません。まさにこの偈(げ)の中に喝破してあるように「諸苦の所因は貪欲これ本なり」なのであります。                                                       ...

法華三部経の要点31

人類がほんとうに救われるには

1 ...法華三部経の要点 ◇◇31 立正佼成会会長 庭野日敬 人類がほんとうに救われるには 人間性の立て直しこそが鍵  ハーバード大学のソローキン教授はその名著『人間性の再建』の中でこう言っておられます。  「世界永遠の平和のためには、人間性を立て直さなければならない」  まさにそのとおりだと思います。いま世界先進国の首脳たちによって核兵器の削減や、貿易の自由化や、開発途上国への援助等々について毎年のように話し合いが持たれています。たいへん喜ばしいことだと思います。  しかし、よくよく考えてみますと、そういった「物」や「金」についての相談や約束がいくらできても、肝心の「人間の心」が変わらないかぎり、権力のせめぎ合いや、富の奪い合いなどがやむことはなく、したがってこの地球上から暴力・殺りく・貧困・飢餓という不幸が消え去ることはないでしょう。  ですから、世界永遠の平和の根本方策はまさしく「心の立て直し」しかなく、それを遂行してこそ人間みんなが幸せになれるのです。 聞き、考え、実践する  法華経は、全巻その「心の立て直し」の教えにほかならないのですが、譬諭品の「三車火宅」の譬えにはその方策が最も端的に、そしてまとまった形で示されているのです。  衆生を火の家から脱出させるために、仏さまは「門の外に羊車・鹿車・牛車があるからそれに乗って遊びなさい」と誘いをかけられます。それはつまり「物や金や快楽だけにドップリ漬かっていないで、精神の喜びにも目を向けなさい」という誘いにほかなりません。  羊車というのは声聞の境地、鹿車というのは縁覚の境地、牛車というのは菩薩の境地なのですが、それだけ聞いたのでは現実離れがしているようで、現代人にとってはなじめないものと思われましょう。  そうではないのです。声聞というのは、いい本を読んだり、いい話を聞いたりすることなのです。そして、「なるほど」と理解する。感動する。その理解と感動が声聞の境地なのです。  縁覚というのは、つまり「考えてみる」ことにほかなりません。最近の多くの人たちは氾濫(はんらん)する情報の洪水に押し流されて、自分の頭脳・自分の心で「考える」ことをあまりしなくなっています。どんなにいい本を読み、いい話を聞いても、それについて自分なりに考えをめぐらしてみなければ、けっして「自分のもの」として定着せず、一過性の、ただの情報として右の耳から左の耳へと通過するだけに終わりかねません。  瞑想(めいそう)とか思索とかいえばいかにも高踏的(こうとうてき)で普通の人間にはできそうにないと感じる人があるかもしれませんが、なにもそう難しく考えることはありません。まず、「これはいったいどんなことかな」と考えてみればいいのです。考えてみて「うーん、そうか」と魂に響くものを覚えたら、それが縁覚の境地であり、それだけ精神的により高くなったわけなのです。  菩薩というのは、声聞の境地も縁覚の境地も兼ねそなえているうえに、「多くの人々との連帯」を考える境地です。ただ考えるだけでなくそれを実践に移す。実行する。それが菩薩の境地です。  ですから、声聞といい、縁覚といい、菩薩といっても、けっして現実から遊離したものではありません。人間の心を改造し、人間性の立て直しをするための、順序・次第を踏んだ着実な道程なのです。そして、われわれ一人一人が自らその道程を歩まなければ、人間としてのほんとうの幸福に達することはできず、世界永遠の平和も達成することは不可能なのです。  譬諭品のここのくだりは、そのように受け取らねばならないのであります。                                                       ...

法華三部経の要点32

この三界は我が有である

1 ...法華三部経の要点 ◇◇32 立正佼成会会長 庭野日敬 この三界は我が有である 宇宙と一体になられた釈尊  譬諭品の最大の要点は、というよりは法華経全巻の要点、いや全仏教経典の中で最も尊くありがたいお言葉、それは左の一句でありましょう。  「今此の三界は皆是れ我が有(う)なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり。而も今此の処は諸の患難(げんなん)多し。唯我一人のみ能く救護(くご)を為す」  この宇宙はすべてわたしのものだ。その中の生きとし生けるものはすべてわたしの子だ。この世(宇宙)にはさまざまな苦しみや悩みが充(み)ち満ちている。それを救うのはわたし一人しかいないのだ……とおおせらているのです。  この「宇宙はわがもの」というのは、ふつうに考えられるような「わたしが所有するものだ」というのではありません。「わたしは宇宙そのものだ」と、お釈迦さまは自覚されておられるのです。「我(が)」というものがまったくなく、そのためにご自分が宇宙全体と完全に一体になっておられるのです。  元禄時代の名僧盤珪(ばんけい)禅師は、この「三界は我が有」ということを、きわめてやさしいことばで次のように解説しておられます。  「心に何もなきときは、どこへでも固うならずにおられる。それが自在じゃ。自ら在るのじゃ。心に一物(注・一物とは「我」のこと)もなきときは、わが家で自在であるのみならず、どこへいっても、遠慮せずに、自在じゃ。お釈迦さまは心に一物も持っておられなんだによって、三界はわがものと、世の中の主(あるじ)になられたのじゃ。どこでも自由に寝起きされたのじゃ」  まことに名解説だと思います。われわれ凡夫はお釈迦さまほどの徹底した「無我」にはなれないでしょうが、たまには夜空に輝く無数の星を眺めて無限の思いにひたったりした時、あるいは、ひとりの悩める人を幸せにしてあげたいと真剣に取り組んでいる時、ふと、そういう自分を顧みたりすれば、いつしか「我」が薄れていくのを実感することができましょう。そのひとときの自由自在な気持ちが、どれぐらいわれわれの人生を快いものにするか測り知れないものがあると思います。 大慈悲と責任感と自信と  さて、宇宙がわがものであれば、その中に住む生きとし生けるものはすべてわが子であります。お釈迦さまはそのことを心の底から実感しておられたからこそ、苦しみ悩んでいる者には救いの手をさしのべずにはおられなかったのです。それが仏の大慈悲にほかなりません。  それにしても「一切衆生を救うのはわたしだけしかいないのだ」というお言葉は、聞きようによっては思い上がった、ひとりよがりの考えのように受け取れるかもしれません。  けっしてそうではないのです。これは大きな責任感の表白なのです。「わたしがやらなければだれがやるのだ」という、やむにやまれぬ責任感からのお言葉なのです。  仏とは、宇宙と人生の真理にめざめた人のことです。最も深く、最も明らかにめざめた人です。そのような人は歴史上お釈迦さまよりほかになかったのです。だから、この「唯我一人のみ能く救護を為す」というのは、大いなる責任感と同時に、大いなる自信から発せられたお言葉なのです。「わたしにはできる力があるのだ」という大自信の表白でもあるのです。  お釈迦さまよりほかに、だれがこれほどの大慈悲と、責任感と、自信を持ちえた人がありましょうか。  われわれは人間の歴史始まって以来の、そうした第一人者の教えを学んでいるのです。受持し、信仰しているのです。われわれこそはこの世でいちばんの幸せ者といわなければなりません。日蓮聖人が譬諭品のこの一節から、「主・師・親の三徳」を説かれたり、白隠禅師が同じここのくだりを読んだとき思わず声をあげて号泣したというのも、その無上のありがたさにむせんだのでありましょう。 ...

法華三部経の要点33

信仰心は人間の本質

1 ...法華三部経の要点 ◇◇33 立正佼成会会長 庭野日敬 信仰心は人間の本質 宗教への目覚めこそ  信解品に入ります。この品は、前の譬諭品で舎利弗に仏となる保証を与えられたことに感激した同じ声聞仲間が申し上げた『長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬え』が中心となっています。  大富豪の実子であった窮子は、幼いときに父の家からさまよい出て諸国を放浪する身となりました。大富豪とは久遠実成の本仏さまのことであり、窮子とはわれわれ衆生のことです。  われわれの大部分は、本仏さまの実子であるという真実を知らず、ただ物的な欲望のおもむくままに、その本来の自分にふさわしくない生活を送ります。それが「父の家からさまよい出て諸国を放浪する」ということの意味にほかなりません。  しかし、そうした生活を送っているうちにも、いつとはなく故郷の家に引かれる思いが生じ、放浪の足も自然とふるさとのほうへ向いて行くのでした。  ここのところがじつに尊いことではないですか。われわれは宇宙の大生命ともいうべき本仏さまの子であることをぜんぜん知らなくても、ある年齢に達すると、なんとなく本仏さまのような見えざる存在に心を引かれるようになってくるものです。わかりやすくいえば、宗教への目覚めであります。信仰心のきざしであります。この目覚め、このきざしを逃(のが)さぬ人こそがほんとうに救われる人なのです。なぜなら、その目覚めこそが人間の本質である仏性の目覚めなのですから。 黙して之を識る  この物語の窮子は、それとも知らず父の邸宅の門前にさしかかりました。奥のほうを見ますと、おおぜいの侍者に囲まれた見るからに尊げな長者がおられます。あまりにも豪勢なその様子に恐れをなした窮子は「とてもこんな邸(やしき)で雇ってもらえるはずがない」と思って、すぐ立ち去って行きました。奥のほうからその姿を見ていた長者は、ひと目でそれが長年探していた自分の子であることを知りました。経文には「黙して之を識(し)る」とあります。  この一句に本仏さまの慈悲の広大無辺さがしみじみと表現されているのです。久遠の本仏さまは、この宇宙のあらゆる所に充ち満ち、あらゆる生あるものを見守っておられます。すべての生あるものがご自分の実子であることをちゃんと知っておられるのです。それが「黙して之を識る」です。  大乗仏教では、言葉を尽くしてそのことをこんこんと教えているのですけれども、説かれる仏の世界があまりにも高遠なのでたいていの人が「とうてい自分たちの及びうる世界ではない」と考えて、ついついその教えから遠ざかって行くのです。布教者にとってこれは非常に大切なポイントで、この信解品にもその対策が述べられていますので、次回にそのことについて解説することにしましょう。  さて、われわれ凡夫がどこへ立ち去って行こうとも、久遠の本仏さまは相変わらずわれわれのそばにおられるのです。わが子として温かく見守っていてくださるのです。  われわれは早くそのことに気づかなくてはなりません。気がつけば、それまで本仏さまのほうからわれわれを「識る」という一方通行だったのが、今度はわれわれのほうからも仏さまを「識る」ことになり、そこにいわゆる「感応道交(かんのうどうきょう)」という宗教や信仰ならではの妙境が生まれるのであります。  信解品の窮子は、その妙境に達するのに二十年かかりました。しかし、二十年かかろうとも、それこそが人間としての最大の幸福であり、人間として生まれた最高の意義であると知るべきでありましょう。                                                        ...