仏教者のことば(44)
立正佼成会会長 庭野日敬
啐啄同時(そったくどうじ)
碧巌録第十六則の評・中国(禅林宝訓音義)
教える者と学ぶ者と
啐というのは、鶏の卵が孵化しようとする瞬間に、殻の中でひなが小さな声で鳴く声をいいます。啄というのはついばむとかたたくという意味で、この場合、親鳥が卵の殻をくちばしでつついて割ることをいうのです。
親鳥が二十一日のあいだ卵を抱いて温め、ひながかえろうとするとき、殻の中でかすかにチチと鳴く。と同時に親鳥が殻をくちばしでつつく。その瞬間に殻が割れてひなが生まれる、その呼吸がピタリと合っていることを言ったもので、転じて師と弟子との法縁が熟する瞬間の貴重さをたたえた言葉です。
世界的なマラソンランナー瀬古利彦選手と、かれを育てた中村清監督の出会いなど、その典型といえましょう。瀬古選手は、高校中距離界のナンバーワンだったのに、早大入試に一度失敗し、アメリカに一年留学したのですが、向こうの選手たちの体格やスピードに圧倒されて挫折感を味わいながら、帰国し再度の受験で早稲田に入ったのでした。
かれはアキレスけんを痛めていたのですが、それでも春の合宿に参加しました。館山の砂浜で足を引きずりながら走っていた瀬古選手に向かって、陸上部監督に就任したばかりの中村さんが、突然「お前はマラソンだ。わしの言うとおりにすれば世界に通用する選手になる」とズバリ断言したのです。中村さんは瀬古選手に初めて会ったときの印象をこう話しています。「目ですね。びっくりしました。あんな迫力を感じたのは初めてでした」と。(朝日新聞記事による)
その瞬間から、二人のマラソン人生が始まったのです。まことに「啐啄同時」であり、ほんとうの師と弟子との出会いとはこんなものなのです。
仏道においても、その他の学問や、芸術や、技能の世界においても、その気合というか、呼吸というものは、同じです。指導に当たる者は、弟子のすぐれたところを鋭く発見してやる。弟子は弟子で、単に受け身の態度でいるのでなく、自ら殻を破って外へ出ようという積極的な意志を持つ。そこに「啐啄同時」の呼吸が生まれるのです。
子供の自己拡大意識は
この呼吸は、親子の間柄にも通ずる大事なものです。近ごろは、幼少年の自閉症とか、登校拒否とか、非行化とか、家庭内暴力とか、さまざまな悲しむべき問題が起こっており、それも親の過保護に原因があるものが多いと聞いています。過保護というのは、さまざまな段階において、子供の自己主張とか、自己拡大の意識を抑えつけていることにほかなりません。
もちろん、赤ん坊の時代には絶対に保護が必要です。しかし、その時代を過ぎて幼児期に入るころから、何かを自分でやりたい、自分の世界を押し広げたいという意識を少しずつ持つようになります。そこのところを、親は目ざとくとらえなければならないのです。
母鶏も二十一日間はじっと卵を温め、保護しています。ところが、二十一日たつと、殻の中でひながかすかにチチと鳴く。それは殻を破って外へ出たい、つまり自己拡大の意思表示なのです。人間の幼児にも、少年にも、そういう徴候が必ずあるのです。
そのとき親が、思い切って殻をつついて破ってやることが大事なのです。それをやらないのが過保護であり、かえって思いがけない悪結果を生むのです。こういう点に「啐啄同時」という言葉は現代にも生きているものと信じます。
題字 田岡正堂
立正佼成会会長 庭野日敬
啐啄同時(そったくどうじ)
碧巌録第十六則の評・中国(禅林宝訓音義)
教える者と学ぶ者と
啐というのは、鶏の卵が孵化しようとする瞬間に、殻の中でひなが小さな声で鳴く声をいいます。啄というのはついばむとかたたくという意味で、この場合、親鳥が卵の殻をくちばしでつついて割ることをいうのです。
親鳥が二十一日のあいだ卵を抱いて温め、ひながかえろうとするとき、殻の中でかすかにチチと鳴く。と同時に親鳥が殻をくちばしでつつく。その瞬間に殻が割れてひなが生まれる、その呼吸がピタリと合っていることを言ったもので、転じて師と弟子との法縁が熟する瞬間の貴重さをたたえた言葉です。
世界的なマラソンランナー瀬古利彦選手と、かれを育てた中村清監督の出会いなど、その典型といえましょう。瀬古選手は、高校中距離界のナンバーワンだったのに、早大入試に一度失敗し、アメリカに一年留学したのですが、向こうの選手たちの体格やスピードに圧倒されて挫折感を味わいながら、帰国し再度の受験で早稲田に入ったのでした。
かれはアキレスけんを痛めていたのですが、それでも春の合宿に参加しました。館山の砂浜で足を引きずりながら走っていた瀬古選手に向かって、陸上部監督に就任したばかりの中村さんが、突然「お前はマラソンだ。わしの言うとおりにすれば世界に通用する選手になる」とズバリ断言したのです。中村さんは瀬古選手に初めて会ったときの印象をこう話しています。「目ですね。びっくりしました。あんな迫力を感じたのは初めてでした」と。(朝日新聞記事による)
その瞬間から、二人のマラソン人生が始まったのです。まことに「啐啄同時」であり、ほんとうの師と弟子との出会いとはこんなものなのです。
仏道においても、その他の学問や、芸術や、技能の世界においても、その気合というか、呼吸というものは、同じです。指導に当たる者は、弟子のすぐれたところを鋭く発見してやる。弟子は弟子で、単に受け身の態度でいるのでなく、自ら殻を破って外へ出ようという積極的な意志を持つ。そこに「啐啄同時」の呼吸が生まれるのです。
子供の自己拡大意識は
この呼吸は、親子の間柄にも通ずる大事なものです。近ごろは、幼少年の自閉症とか、登校拒否とか、非行化とか、家庭内暴力とか、さまざまな悲しむべき問題が起こっており、それも親の過保護に原因があるものが多いと聞いています。過保護というのは、さまざまな段階において、子供の自己主張とか、自己拡大の意識を抑えつけていることにほかなりません。
もちろん、赤ん坊の時代には絶対に保護が必要です。しかし、その時代を過ぎて幼児期に入るころから、何かを自分でやりたい、自分の世界を押し広げたいという意識を少しずつ持つようになります。そこのところを、親は目ざとくとらえなければならないのです。
母鶏も二十一日間はじっと卵を温め、保護しています。ところが、二十一日たつと、殻の中でひながかすかにチチと鳴く。それは殻を破って外へ出たい、つまり自己拡大の意思表示なのです。人間の幼児にも、少年にも、そういう徴候が必ずあるのです。
そのとき親が、思い切って殻をつついて破ってやることが大事なのです。それをやらないのが過保護であり、かえって思いがけない悪結果を生むのです。こういう点に「啐啄同時」という言葉は現代にも生きているものと信じます。
題字 田岡正堂