仏教者のことば(57)
立正佼成会会長 庭野日敬
生死即涅槃と体するを名づけて定となし、
煩悩即菩提に達するを慧となす。
天台大師・中国(法華玄義九)
「即」には「至る」の意あり
生死(しょうじ)というのは、第一義としては文字どおり生と死を指すのですが、仏教ではこの世のすべてのものが移り変わる流転(るてん)の姿を言うことが多いのです。涅槃(ねはん)というのは差し当たり「真理を悟って心の安らぎを得た状態」と考えてよく、定(じょう)というのは、周囲の影響によって動揺することのない定まった心を言います。
また、煩悩(ぼんのう)というのは、人間のさまざまな欲望に基づく迷いのことであり、菩提(ぼだい)というのはその迷いから抜け出した悟りの境地を言います。
ところで、この「即」という語に問題があります。普通にはすなわちと読んでそのままという意味に解しますが、それでは「煩悩がそのまま悟りである」というとんでもない誤解が生じます。即時とか即決とかいう言葉がありますが、すぐさまと言っても、問題が提示されてから決定するまでには当事者の心の強い動きがあることは否定できません。「即」には「近づく」とか「至る」という意味がありますので、右の言葉の「即」はけっしてそのままではなく、むしろ「そこに至るための起動力」と解するのが適当かと思われます。
煩悩を積極的に活用せよ
そこで、右の言葉を現代語に意訳しますと、「すべてのものごとは移り変わるものだと知り、その変化に驚いたりあわてたりしない安定した境地を体得していることを不動心と言い、すべての欲望から生ずる迷いを起動力としてよりよい生活へと活用する悟りを人生の智慧だと考えるべきである」ということになると思います。
人生に変化はつきものです。第一に、生・老・病・死という重大変化があります。これは絶対に逃れえない流転の姿です。また、境遇の上にも、仕事の上にも家庭の事情にも、大なり小なりの変化がつきまといます。それがあるのが自然の姿であると達観して、つねにどっしりしている人こそが人生の達人だと言えましょう。
釈尊も、ご臨終の際、お弟子たちに「すべてのものは移り変わるものである。怠らず努めるがよい」と遺言されました。この「怠らず努めるがよい」というお言葉に千鈞の重みがあると思います。どんな変化があろうと、その時点時点においてベストを尽くせばよいのです。そういう心がけと行動力さえあれば、けっして変化にあわてふためくことはないのです。右に掲げた第一句も、こういうことを教えていると思うのです。
次に第二句についてですが、釈尊のような大聖は別として、普通の生活者だれしも煩悩を持たぬ人はありません。煩悩があることが生きている証拠だと言ってもいいでしょう。煩悩はいわばカビのようなものです。カビは食物を腐らせたり、病気を引き起こしたりしますけれども、それをいい方へ用いれば、みそ・しょうゆ・カツオブシのような生活必需品を作り出すことができます。ペニシリンとか、ストレプトマイシンとかいう、すでに何千万人もの生命を救った抗生物質も、もともとはカビにほかならないのです。
煩悩もそれと同じです。もちろん、煩悩に引きずられたり、おぼれたりしては身の破滅となりますから、ある程度の抑制は必要ですが、もっと積極的にそれをいい方向へ向ける智慧をはたらかすべきでしょう。そうすると、煩悩がかえってよき人生への起動力となり、進歩のエネルギーとなることは必至です。それが「煩悩即菩提」の意義であると信じます。
題字 田岡正堂
立正佼成会会長 庭野日敬
生死即涅槃と体するを名づけて定となし、
煩悩即菩提に達するを慧となす。
天台大師・中国(法華玄義九)
「即」には「至る」の意あり
生死(しょうじ)というのは、第一義としては文字どおり生と死を指すのですが、仏教ではこの世のすべてのものが移り変わる流転(るてん)の姿を言うことが多いのです。涅槃(ねはん)というのは差し当たり「真理を悟って心の安らぎを得た状態」と考えてよく、定(じょう)というのは、周囲の影響によって動揺することのない定まった心を言います。
また、煩悩(ぼんのう)というのは、人間のさまざまな欲望に基づく迷いのことであり、菩提(ぼだい)というのはその迷いから抜け出した悟りの境地を言います。
ところで、この「即」という語に問題があります。普通にはすなわちと読んでそのままという意味に解しますが、それでは「煩悩がそのまま悟りである」というとんでもない誤解が生じます。即時とか即決とかいう言葉がありますが、すぐさまと言っても、問題が提示されてから決定するまでには当事者の心の強い動きがあることは否定できません。「即」には「近づく」とか「至る」という意味がありますので、右の言葉の「即」はけっしてそのままではなく、むしろ「そこに至るための起動力」と解するのが適当かと思われます。
煩悩を積極的に活用せよ
そこで、右の言葉を現代語に意訳しますと、「すべてのものごとは移り変わるものだと知り、その変化に驚いたりあわてたりしない安定した境地を体得していることを不動心と言い、すべての欲望から生ずる迷いを起動力としてよりよい生活へと活用する悟りを人生の智慧だと考えるべきである」ということになると思います。
人生に変化はつきものです。第一に、生・老・病・死という重大変化があります。これは絶対に逃れえない流転の姿です。また、境遇の上にも、仕事の上にも家庭の事情にも、大なり小なりの変化がつきまといます。それがあるのが自然の姿であると達観して、つねにどっしりしている人こそが人生の達人だと言えましょう。
釈尊も、ご臨終の際、お弟子たちに「すべてのものは移り変わるものである。怠らず努めるがよい」と遺言されました。この「怠らず努めるがよい」というお言葉に千鈞の重みがあると思います。どんな変化があろうと、その時点時点においてベストを尽くせばよいのです。そういう心がけと行動力さえあれば、けっして変化にあわてふためくことはないのです。右に掲げた第一句も、こういうことを教えていると思うのです。
次に第二句についてですが、釈尊のような大聖は別として、普通の生活者だれしも煩悩を持たぬ人はありません。煩悩があることが生きている証拠だと言ってもいいでしょう。煩悩はいわばカビのようなものです。カビは食物を腐らせたり、病気を引き起こしたりしますけれども、それをいい方へ用いれば、みそ・しょうゆ・カツオブシのような生活必需品を作り出すことができます。ペニシリンとか、ストレプトマイシンとかいう、すでに何千万人もの生命を救った抗生物質も、もともとはカビにほかならないのです。
煩悩もそれと同じです。もちろん、煩悩に引きずられたり、おぼれたりしては身の破滅となりますから、ある程度の抑制は必要ですが、もっと積極的にそれをいい方向へ向ける智慧をはたらかすべきでしょう。そうすると、煩悩がかえってよき人生への起動力となり、進歩のエネルギーとなることは必至です。それが「煩悩即菩提」の意義であると信じます。
題字 田岡正堂