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人間釈尊6

学習が出家の遠因の一つに

1 ...人間釈尊(6) 立正佼成会会長 庭野日敬 学習が出家の遠因の一つに 文字を習われたけれど  シッダールタ太子は少・青年時にどんな勉強をなさったのでしょうか。さまざまな仏伝が述べていることには大きな差異がありますが、次のような説が事実に近いと思われます。  太子は七歳のときからヴィシヴァーミトラという師について文字を習われました。といえば当時のバラモン教の重要経典を学ぶためと思われがちですが、そうではなく、将来、国王となった場合、外交文書その他の書類を読んだり作成したりするのに必要だったからでした。なぜならば、古来インドでは宗教の教えを文字に表すのはその神聖さを汚すものと考えられていたからです。修行者たちは説法を耳で聞いてそれをことごとく暗記し、人に伝えるにも口による説法をもってしたのでした。その習慣は、のちに太子が仏陀となられてからもそのまま生きており、仏陀が書かれた文字が一字も残っていないのはそのせいなのであります。  渡辺照宏博士によりますと、十九世紀になってからも、ヨーロッパの学者がバラモン教の重要経典であるヴェーダを活字本として出版したとき、インドの保守的バラモン階級の人たちが激しく反対したそうです。  尊い法は暗記すべきであるというこの習慣を知ることは、仏教の伝弘(でんぐ)を学ぶうえに重大なポイントになると思います。  第一に、偈(げ)の重要性ということです。現在のわれわれの経験でも、散文より韻文(詩・歌)のほうが覚えやすいように、教えを一言一句間違いなく記憶させるためには偈(詩)として説かれる場合が多かったのです。法華経でも長行(じょうごう=散文形)の後に同じ内容を偈で説かれたのは、そういった大事な意味があるわけですから、たんなる繰り返しのように考えておろそかにしてはならないのです。  第二に、仏滅後四、五百年後に編集された法華経には、逆に、(書写)ということを大事な行として強調してあることです。つまり、世の進歩と共に文書布教ということが不可欠になったからでありましょう。その点からみても、法華経は進歩的なお経だったわけです。 父王の青写真も空に帰した  文字と共に算数をも学ばれました。当時、カピラバストにアルジュナという数学の大家がいて、その師について勉強されました。この算数の教育も将来の実用を考えての父王のさしがねだったようです。国王は財政面の歳出・歳入(とくに税の取り立て)などについて数学の知識が必要だったからです。  太子は文字の勉強についてもそうでしたが、算数においても成績は抜群で、ついには師のアルジュナも及ばぬほど数学の奥深いところにまで到達されたといいます。のちに説かれた仏法に、極微から極大までの数を現代の科学者がびっくりするほどに駆使されたことからみても、その天才ぶりがうかがえます。  また、国王として必要な戦略・戦術の心得をはじめ、天文・祭祀・占い・古典・呪術などについても教育を受けられたといいます。このうち、戦争の仕方についての学習に太子がどんな気持ちで臨まれたかは疑問の残るところです。幼年期から争いを好まず、弱肉強食の世界をうとましく感じておられた太子ですから、おそらく気乗りがしなかったばかりでなく、そのような学習が出家の遠因の一つになったのではないかとも推測されます。  いずれにしても、父王の望まれた実用的な教育の路線は、ことごとく意外な結果に終わってしまったのでした。このことについて、われわれ現代人も、よほど反省しなければならないと思います。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊7

弟子として衆の模範となった妃

1 ...人間釈尊(7) 立正佼成会会長 庭野日敬 弟子として衆の模範となった妃 太子の結婚について  いわゆる仏伝は別として、古い経典のどれを見ても、シッダールタ太子の結婚についてはほとんど触れられていません。ということは、太子の出家や成道に対して深刻な影響をおよぼすことのない、人間としてごく普通の出来事であり、妃もそのような人柄の女性だったからでありましょう。  中村元博士は『ゴータマ・ブッダ』の中で、妃の名前がさまざまに伝えられていることに関してこう述べておられます。  「ヤショーダラーというのは、インドでしばしば聞く名である。その名がはっきり伝えられていないところから見ると、おそらく妃は典型的な淑(しと)やかなインド貴婦人で夫に対して従順であったために、表面に表われるほどゴータマの一生に衝撃的な影響は与えなかったのであろう。例えば妃が悪性の婦人であったとか、婬乱の人であって、それがゴータマの出家の原因となったのであるならば、早くから聖典の中に個人名がはっきり伝えられていたに違いない。ちょうどデーヴァダッタ(提婆達多)のように」と。  たしかにヤショーダラー妃は、そのような婦人であったようです。そのことは、太子が出家された後の生活ぶりからも察することができます。ひそかに出城されたその夜、帰ってきた馬手チャンダカの報告を聞いた直後はさすがに嘆き悲しんで、  「わが君よ。わたしが妻として正しく務めを果たしているのに、なぜわたしを置いて行ってしまわれたのですか。夫婦一緒に出家苦行したという王の例もあるではありませんか。また、布施と説法の催しを夫婦揃って行えば、未来の世に善い果報が得られるというではありませんか。それなのに、なぜお独りで……」  と恨みつらみを述べましたが、すぐ思い直して、  「きょうからわたしは正式の寝床には寝ません。香水を入れた湯には入浴しません。身を飾ったりお化粧をしたり、模様のある着物を着ることもしません。おいしい料理も、飲み物も口にしません。宮殿の中に住んでいても、山林の中にいるつもりで苦行の生活をいたします」  という誓いを立てました。そして、ずっとその誓いのとおりの生活をしていたといいます。  また、のちに出家して、かつての夫である釈尊の弟子になってからも、自分には厳しく仲間の尼僧たちにはやさしく、あらゆる点で衆の模範となったことでも、その人柄が察しられます。 妃の二人の弟が歩んだ道  ついでながら、多くの仏伝は、ヤショーダラー姫を得るためにシッダールタ太子が難陀や提婆達多などと技くらべをしたことを伝えていますが、これはありうることではありません。なぜならば……。  難陀はシッダールタ太子の異母弟で、太子が成道の数年後に故郷に帰られたとき新婚二日目だったといいますから、その年齢差は十五歳ぐらいはあり、太子の成婚当時はまだ幼児だったわけです。  また、ヤショーダラー姫は釈迦一族のスプラダッタ王の娘であり、提婆達多も、阿難もその実弟です。弟が姉に求婚などするはずはありません。  それにしても、この兄弟の兄のほうは釈尊のお命まで奪おうとした反逆者となり、弟は常随の侍者として終生心からお仕えしたことを思えば、運命はいろいろないたずらをするものだと言わざるをえません。いや、運命のいたずらではなく、やはりその人の持つ心ざまの違いなのでありましょう。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊8

絶対平和の世界への憧れ

1 ...人間釈尊(8) 立正佼成会会長 庭野日敬 絶対平和の世界への憧れ 不自由の中で真の自由を  王宮におけるシッダールタ太子の生活は、じつに不自由なものだったようです。もちろん物質的には何不自由もない暮らしでした。前(第三回)に述べたように、三つの宮殿を与えられ上等の衣服を着、多くの侍女たちにかしずかれていました。宮殿内にいるときも、侍女たちが白い傘蓋(さんがい)を頭上にさしかけていましたし、庭を散歩するときもやはり傘蓋をさしかけて、昼間なら暑い日光が、夜ならば夜露が当たらないようにと、細心の注意を払っていました。  けれども、前に記したような、雨季の四カ月間は侍女たちに囲まれて一歩も宮殿の外に出たことがないといった生活が、精神的にはどんなにうっとうしいものだったかは、容易に察することができます。  雨季以外のいい季節にも、父の浄飯王のさしがねで、外出はなかなか許されなかったようです。それは、実社会のさまざまな苦難や悲劇などを見聞して若い胸を痛めないようにという配慮からだったのでしょう。  しかし、青年太子の鋭い直観や深い思索は、そうした束縛などに抑圧されるようなものではなかったのです。かえってそうした不自由が人間の真の自由を求める心をかき立てていったに違いありません。 人間はなぜ戦争をするのか  王舎城は七重の堀に囲まれ、七重の城壁をめぐらし、その間には騎象の軍、騎馬の軍、戦車の軍、歩兵の軍が七重に配備され、ひしひしと王宮を守っていました。  そのうえ、浄飯王も、太子も、毎晩寝所を変えたといいます。暗殺を避けるためだったのです。  物質的にはどんなに贅(ぜい)を尽くしていても、これが人間らしい生活といえるでしょうか。昼も、夜も、外敵に対して(あるいは内敵にも)せんせんきょうきょうとし、心の安まる暇もない。それが人間のほんとうの生き方でしょうか。そうした思いが青年太子の胸を絶えず去来していたことでしょう。  さらに考えられるのは、――おびただしい軍象や軍馬を飼い、それよりももっと多い兵士たちを養っていくためにはたいへんな費用がかかる。その費用はどこから出ているのか。もちろん人民から取り立てる租税からである。人民たちはその租税を納めるために、朝から晩まで汗水たらして田畑で働いている。病気になっても医者にかかることができず、道端に倒れ苦しんでいる者を見たこともある。  なんというムダであろうか。侵略さえなければ、戦争さえなければ、人民たちはもっと豊かに、もっと安楽に暮らしていけるはずだ。大国であるコーサラ国やマガダ国の人民にしても、やはり同じなのであろう。  いまは戦争がないけれど、いったんそれが始まれば、敵味方にかかわらず多くの人が死に、傷つき、そのために家族も悲しみ、苦しむ。軍費はますますかさみ、それを補うために租税はますます過酷になり、人民たちは二重も三重もの苦しみを背負わなければならない。  それなのに、人間はなぜ戦争をするのか。戦争は果たして多くの軍象・軍馬を飼い、多くの兵士たちを養っておかねばならぬものか。人間はどうしてこんな愚かなことをするのだろうか――。  このような疑問が若い太子を思い悩ませ、と同時に、争いのない、戦いのない、絶対平和の世界へのあこがれが抜きさしならぬ切実さでその胸にわき上がってきたであろうことは、容易に推察できます。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊9

新しい精神世界への希望

1 ...人間釈尊(9) 立正佼成会会長 庭野日敬 新しい精神世界への希望 インドにおける出家の事情  人間が熟慮に熟慮を重ねた一大事を決行するには、内的にせよ外的にせよ、あるふんぎりが必要です。シッダールタ太子が、かねてから思い定めていた出家を決行するにも、それがあったようです。それは一子ラーフラ(羅睺羅)の誕生です。  そのころのインドでは――富裕な上流階級に限ってのことですが――一生を四つの時期に分けて過ごす風習がありました。  第一は学生(がくしょう)期で、少年時代には師の家に住み込み、学問(主として宗教聖典)を学びました。それがすむと家に帰って結婚し、ふつうの家庭生活を営みます。これを家住期といいます。そして、男の子に恵まれ、その子が成長すれば、父は財産をその子に譲り、森に入って質素な宗教生活に入ります。その際、妻は子に扶養を託してもいいし、一緒に森の生活をしてもいいことになっていました。これを林住期といいます。最後の第四期は遊行(ゆぎょう)期といって、髪やひげを剃り、鉢と杖と水瓶だけを所有物とし、すべての執着を捨てて乞食(こつじき)の生活をするのです。  もちろん、すべての上流階級人がこのとおりしたわけではありませんが、それが理想的な一生のパターンとされていたわけです。  現代のわれわれから見れば、最後の遊行期などはとうてい考えられもしないもののようですけれども、よくよく吟味してみますと、「人生の後半期には特に精神生活を重んじよう」という点において、大いにうなずけるものがあります。  ともあれ、釈尊をはじめ宗教的偉人がインドに輩出したのは、こうした土壌が背景にあったことは知っておいていいことでしょう。 若者らしい気迫の出家  さて、多くの仏伝は、一子羅睺羅が誕生したその日に太子が出城されたと伝えています。前述の古代インドの風習から考えて、跡取りが生まれたことが太子の出家決行のふんぎりになったものとして納得がいきます。  中国の儒者や日本の国学者たちは、太子が家族を捨てて出家したことを非難し、仏教排斥のひとつの理由としました。しかし、それは不当な非難であって、太子はそのような無責任な方ではなかったのです。当時のインドの風習に従って、家住期をとどこおりなく終えたうえで、心おきなく出家されたものと思われます。  心おきなく……とはいっても、人間である以上、家族への微妙な愛情は断ち切りがたいものがあったでしょう。そのことは、次のようなことからも察することができます。  渡辺照宏博士によれば、太子はいよいよ出家の決心を決めると父王の居間に行き、ハッキリとその意志を伝えました。父王はそれを聞いて「何でも望みをかなえてやるからとどまってくれ」と頼みましたが、どうしてもその固い意志をひるがえさせることはできなかったのでした。  義母のマハープラジャーパティと妻のヤショダラー妃に対しては、出家の意志など絶対に漏らしませんでした。父には打ち明け、母と妻には秘し隠しにしていた……その理由は容易に察することができます。男性の愛情と女性の愛情の差異をよく心得ておられたのでしょう。  しかし夜半、愛馬カンタカにまたがって城を出る太子の心中には、家族に対する感傷などほとんどなかったものと思われます。新しい精神世界へ挑戦する烈々たる気迫と大いなる希望に胸はいっぱいに膨らんでいたことと推察されます。  それこそが青年の青年たるゆえんであり、大いなるものを打ち立てる人の首途(かどで)にふさわしい姿であるからです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊10

心に誓った“無上の悟り”

1 ...人間釈尊(10) 立正佼成会会長 庭野日敬 心に誓った無上の悟り 出城、歴史的瞬間!  夜の深い闇に閉ざされたカピラバスト城は、警備の兵士さえ寝静まり、物音ひとつしません。空には無数の星がきらめき、南十字星が空低く斜めにかかっています。  中庭には、ひそかに命を受けた馬手のチャンダカが、太子の愛馬カンタカを引いて待っていました。  スラリと背が高く色白の美丈夫シッダールタ太子は、軽やかなカーシー産の衣服を着け、胸には瓔珞(ようらく)、腕には宝石をちりばめた腕環をはめた、凛々しい王子の姿のままです。  無言で深く頭を下げるチャンダカに、黙ってうなずいた太子は、ひらりと愛馬にうちまたがります。チャンダカに手綱を引かれた白馬カンタカは静かに歩み始めました。  父王の命令で固く閉ざしてあった城門も音なく開き、昼夜の別なく警戒していた兵士たちに発見されることもなく――仏伝によれば、天上から下ってきた神々のはからいによったとされている――太子は城外に出ました。そのとき心のうちに固く誓ったといいます。  「無上の悟りを得ないうちは、二度とこの門をくぐらない」と。  まことに歴史的な一瞬でした。この瞬間から世界の精神世界に大きな変革がきざしたのです。そして、二十世紀末の今日、地球と人類の危機を救うただ一つの道といわれる正法の芽が、この城門を出る一歩から萌(も)えはじめたのだ……と思うとき、いまさらのようにその瞬間の尊さに深い感慨を覚えざるを得ません。 ただ一人東方をさして  夜のしらじら明けに、マイネーヤという所に着きました。ここで太子は身につけていた装身具をすべて取り外し、その一つの摩尼珠(まにしゅ)をチャンダカに渡し、これを大王に差し上げるように命じました。そして、  「大王にこう申し上げてほしい。『わたしは世間的な欲望はなく、天国へ生まれたいとも思いません。一切衆生が正しい生き方を知らず、生死輪廻(しょうじりんね)に苦しんでいるのを見て、それを救うために出家するのです。志を遂げるまでは再び帰ることはございません』と」  そして、瓔珞や腕環などの装身具は、義母マハープラジャーパティとヤショーダラー妃に渡すようにと命じました。  チャンダカに対しては、兄のような優しみを込めて、  「よくやってくれたね。お前のおかげで、わたしの年来の望みがかなえられた。ほんとうにありがとう」  と礼を言い、冠につけてあったひときわ光り輝く宝石を手渡して、  「さあ、これを取っておくがよい。これをわたしと思い、いつもわたしが傍らについていると思って安らかに暮らすのだよ」  と、温かい言葉をかけるのでした。  チャンダカは、ただただ涙に暮れるばかりでしたが、ふと、自分が太子の出城の手引きをしたことを責める気持ちが起こり、  「ご主人さま、大王や皆さまのお嘆きを思いますと、わたくしは川の泥の中に沈んでいくような思いでございます。もう一度考え直してお帰りになっては……」  と申し上げましたが、それが徒労であったことは言うまでもありません。太子は自ら剣を抜いて、まげに結っていた黒髪をバッサリと切り落とし、ただ一人朝日のさす東のほうへ林を抜けスタスタと歩み去って行ったのでした。  じつに颯爽とした姿でした。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊11

ビンビサーラ王との出会い

1 ...人間釈尊(11) 立正佼成会会長 庭野日敬 ビンビサーラ王との出会い 見知らぬ若い修行者  王舎城は昼近くなっていました。  名君ビンビサーラ王は、いつものように城の外壁の望楼から人民たちの暮らしの様子を眺めていました。  と、托鉢を終えたらしい見知らぬ若い修行者がすぐ下の通りを静かに歩いています。スラリとした長身は姿勢が正しく、色白の顔は輝くように澄み、いかにも気品に満ちていました。  王は傍らの侍臣たちに尋ねました。  「おまえたち、あの修行者を知っているか」  「いいえ、見たこともない人です」  「ごらん。誠に美しく、気高く、清らかで、目を下に向けて歩いている。並の人ではない。かの人を追え。どこに住んでいるか突き止めて来い」  (目を下に向けている)のに気づいたのはさすがに炯眼(けいがん)で、当時のすぐれた修行者は、地を這う小さな虫を踏み殺すことがないように、常に前方の地面を見つめながら歩いていたのです。  いまどの仏像(如来像)を拝しても、やはり目を半眼にしてやや下を向いておられます。一切衆生をいとおしむ大慈悲のみ心がその半眼に表れているのを知るべきでしょう。  さて、家来たちはさっそく城を出て、修行者の跡を追います。修行者は相変わらず静かに歩を進めながら、王舎城の町を巡る五山の一つパンダヴァ山に登って行きます。そして、その中腹にある洞くつへ入って行くのでした。  城に帰った家来たちがその旨を報告しますと、王は、  「よし、わたしはあの人に会いに行く。すぐ馬車の用意をせよ」  と命じました。  重臣たちは――どこのだれともわからぬ若者に会うために、大王がわざわざお出かけになるとは――と意見しましたが、王は耳をかそうともしません。 聖なる約束が交わされた  王はパンダヴァ山のふもとで馬車を降り、険しい坂道を登ってくだんの洞くつに達しました。入り口近くに端座している若い修行者に丁寧にあいさつし、その身分を尋ねます。修行者は答えました。  「わたくしはカピラバスト国の太子であったゴータマと申します。思うところがあって出家した者です」  「そうでしたか、やっぱり……。少し話をしたいが、どうですか」  「結構です。どうぞお座りください」  二人はすぐ打ち解けてさまざまな話を交わしましたが、やがて王はこう切り出しました。  「あなたはまだ青春に富み、どんなことでもできる人だ。わたしはあなたに精鋭な軍隊と多くの財産を分けて上げましょう。そして二人でマガダ国をますます繁栄させようではないですか。あなたも、そうして大いに人生を楽しんではどうです」  修行者は即座に答えました。  「お志は有り難いが、お断りいたします。わたくしはもろもろの欲望には憂いがつきまとうことを見て、すべてを捨てて出家した身です。そして人間最高の境地を求めて励もうとしています。その修行をむしろ楽しんでいるのです」  王はあきらめざるを得ませんでした。  「わかりました。だが、あなたが最高の悟りを得られたならば、ぜひこの町へ来て教えを聞かせてください。ぜひとも……」  「はい。お約束しましょう」  王はなにか心が洗われたようになって山を下りて行きました。  後に劇的に展開されるビンビサーラ王と釈迦牟尼世尊の深い交わりは、この会見がそもそもの端緒だったのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊12

新しい求道の旅へ…

1 ...人間釈尊(12) 立正佼成会会長 庭野日敬 新しい求道の旅へ… 二人の高名な師に就いたが  菩薩(もはや太子ではなく、衆生を救う道を求める修行者ですから、今後こう呼ぶことにします)は、都の付近にはすぐれた宗教家や哲学者がいるので、そうした師を求めて王舎城に来たのでした。  第一に就いた師はアーラーラ・カーラーマという名高い仙人でした。非常に深遠な境地に達した人でしたが、菩薩はその指導によって短時日のうちに師と同等の境地に達しました。仙人は、――ここにとどまって一緒に弟子たちを指導してくれないか――と懇請しましたが、菩薩は辞退しました。  なぜならば、師の教えは(教え)というよりは師弟一対一の研さんによって得られる特殊な境地であって、とうてい多くの大衆を現実の苦しみから救うことなどできないものだったからです。  次に訪れたのは、これまた高名なウッダカ・ラーマプッタという仙人でした。ここでもしばらくのうちに師と同等の高い境地に達し、――共に弟子たちを指導しよう――と誘われましたが、やはり自分が出家した本来の目的は達成できないと見定め、そのもとを去りました。  菩薩は考えました。――もうこうなったら自分自身の修行と思索によるほかはない――。そう決意して新しい求道の旅へと出発したのです。 菩提の地は美しかった  王舎城から西南の方へ徒歩の旅を続けていた菩薩は、ガヤ山という小さな山に突き当たりました。なんとなく心ひかれた菩薩は、その山に登り頂上を極めてみると、北方の眼下に緑の平野が開け、ネーランジャナー河の青々とした流れを挟んで、美しい林や村々が点々と望まれます。  一本の樹の下に座ってその平和な風景を眺めているうちに、この地こそ自分が修行するのにふさわしい土地ではないか……という思いがきざしてきました。山を下りてあたりを歩きまわってみますと、村人たちはいかにも淳朴(じゅんぼく)そうで静かな生活をしていますし、川の水は清らかですし、林に入ると物音ひとつ聞こえず、木々の精ともいうべき香ぐわしい空気が漂っています。  「よし、ここだ!」  菩薩は林の中の平らな地を選んで草を敷き、禅定の場としました。と、そのとき思いがけないことが起こったのです。ラーマプッタ仙人の所で相弟子だった五人の修行者が突然木々の陰から現れてきたのです。  「ゴータマよ」  「おお、あなた方は……」  「そうです。ぼくらは長い間、師の下で修行してきましたが、どうしても師の教えられるような境地に達することができませんでした。それなのに、後から来たあなたはほんのしばらくの間にそれを達成された……」  「しかも、それにも飽き足らず、さらに高い境地を目指して立ち去って行かれた」  「だからわれわれは――あの人と一緒に修行しようじゃないか――と相談して、こっそり後をつけてきたのです。邪魔はしませんから、どうかおそばで修行させてくださいませんか。お願いします」  菩薩はしばらく考えていましたが、やがて無言でうなずきました。  五人は喜んで、それぞれに林の中に自分の場をしつらえ、そこに落ち着きました。  この五人の修行者こそ、のちに仏の悟りを得られた釈尊が初めて法を説いて教化された、いわゆる五比丘にほかなりません。  法華経序品の最初に出てくる阿若憍陳如(あにゃきょうぢんにょ)もその一人ですし、のちに舎利弗がその端正な相貌を見て驚き、それが舎利弗入門のきっかけになった阿説示(あせつじ)もその一人です。縁というものの、なんという意味の深さでしょう。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊13

健康な中にこそ真の悟りが

1 ...人間釈尊(13) 立正佼成会会長 庭野日敬 健康な中にこそ真の悟りが 物凄い苦行の連続  ウルヴェーラーの林中での菩薩の修行は実に言語に絶する苦行でした。南伝中部経典の獅子吼大経に、釈尊が舎利弗に当時の思い出を詳しく語っておられるくだりがあります。増壱阿含経巻二十三にもほとんど同じ内容のことが語られています。その主要なところを抜粋してみますと……。  「舎利弗よ。わたしは一日に一食をとり、あるいは二日に一食をとり、七日に一食をとり、このようにして、半月に一食をとるまでに至った。  わたしは、あるいは野草を食し、あるいは草の根を食し、あるいは木の実を食し、あるいは生米を食し、あるいは子牛の糞を食した」  「わたしは、あるときはいばらの上に臥し、あるときは板に打ち込んだ釘の上に臥した。長い間逆さまに立ったままでいたり、一日中直立したままでいたり、足を十字にしてうずくまっていたりした」  「わたしは、墓場に捨てられたボロを着て過ごした。あるいは木の皮や木片をつづったものを着て暮らした」  「わたしは墓場に行き、骸骨を寝床にしてその上に寝たこともあった。そのとき牧童たちがやってきてわたしに唾を吐きかけ、からだの上に放尿し、塵あくたをまき散らし、両耳の穴に木片をさしこんだ。しかし、わたしは彼らに対し悪心を起こさなかった」  「一日に一粒の米と一粒の麻の実を食することを続けた。わたしの臀部はラクダの足のようにやせこけてしまった。手で腹をなでると背骨に触った。大小便をしようとしてしゃがむと、ヨロヨロと頭を前にして地に倒れるのだった。手で肌をこすると、体毛は毛根からボロボロ抜け落ちた」 苦行は正覚の道ではない  「止息禅(しそくぜん=呼吸を止める禅定)をも試みた。口と鼻からの呼吸をせき止めた。そのとき、耳から大きな音を立てて風が出て行くのを感じた。たとえば鍛冶工のふいごによって吹かれるような物凄い響きであった」  「そこで、口と鼻と耳からの呼吸をすっかりせき止めた。すると、物凄い風が身中から吹き起こって頭頂をかき乱し、猛烈な頭痛が起こった。あたかも錐(きり)で頭のてっぺんをグリグリと突き刺すような激痛であった」  「そのときわたしはこう思った。およそ過去のあらゆる修行者の中で、自分以上の猛烈な苦痛を受けた人はないだろう。未来にさまざまな苦行をする人があっても、自分が経験している苦痛を超えることはあるまい。それなのに、わたしは完全な智見に達することができていない。これはどうしたことだろう。悟りに至るには、おそらく他の道があるのではなかろうか……と」  そのとき菩薩は、フト青年時代の一場面を思い出しました。  ――大樹の下で瞑想していたとき、自然に心が静まり、澄み極まり、非常に高い境地に達したことがあった。ああ、そうだ。気力と体力が充実していたからこそ、あのような経験をすることができたのだ――  ――そうだ。人間は生きているのだ。生きている人間の真の悟りは、健康で気力と体力が充実していなければ得られないのだ。今の自分はまるで死人同様だ。身体もひからび、情感もひからびてしまっている。これでは生きている人間を救うための智見など得られるものではない。こうしてはおられない!――  そういう思いがフツフツとわき上がってきました。菩薩は決然として立ち上がりました。立ち上がりはしたものの、足はもつれ、今にも前に崩れ落ちそうでした。しかし、その足を踏みしめ踏みしめ、ネーランジャナー河の岸辺を目指して歩き始めたのでした。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊14

わいてきた新しい勇気

1 ...人間釈尊(14) 立正佼成会会長 庭野日敬 わいてきた新しい勇気 魚たちは自然に生きている  苦行をやめる決心をした菩薩はよろよろと立ち上がると、まず墓場に行き、それまで着ていた木の皮をつづった衣を脱ぎ捨て、死体を包んであった白布を拾って服装を整えました。そしてネーランジャナー河の岸辺へ這うようにしてたどりつき、腰までの深さの所へ身を浸しました。  朝の川の水は冷たいけれども、快く肌を洗ってくれます。水の中へ目を凝らしてみますと、小魚の群れが泳いでいます。ツツーッと菩薩の体に近寄ってきて、肌を突つこうとして去って行く魚もいます。底の砂の上を半透明な川エビが這っていて、菩薩がちょっと足を動かすと、ヒョイとうしろ向きに跳ねのきます。  「ああ、魚たちもいきいきしているなあ。みんな生きているんだなあ」  そういう思いが菩薩の胸にこみ上げてきたことでしょう。  「遊ぶように生きている。自然に生きている。人間もこのように生きたいものだ……」  なにか新しい勇気がわいてきた菩薩は、長年の垢を懸命にこすり落とすと、岸に上がり、ボウボウと伸びていた髪やひげを剃ってさっぱりしました。 乳粥で心身共によみがえり  そのとき、朝まだきの靄(もや)の中を淡紅(うすくれない)の衣を来た女が近づいてきました。愛くるしい十五、六歳の少女です。湯気の立つ鉢を持っています。少女は菩薩の前にひざまずくと、その鉢をささげて、  「沙門さま。どうぞこれを召し上がってくださいまし」  と言うのでした。  村長(むらおさ)の末娘スジャータでした。スジャータは、信仰心の厚い父の影響で、かねてから修行者と見れば米や麦などを供養するのを楽しみにしている少女でした。きょうのは生の穀物ではなく、濃く煮詰めた牛乳で煮込んだ白米の粥です。菩薩が苦行をやめたのをはるかに見てとった村長が、娘に言いつけて作らせたのです。  菩薩はなんのためらいもなくその乳粥をすすりました。何年ぶりかで口にする人間らしい食物。ひと口吸うごとに全身にしみわたるような滋味、温かみ。身体ばかりでなく、精神にも新しい生気がよみがえってくるのを実感するのでした。  人間は人間らしい食べ物を食べなければならない。それが天地の法則に素直に従う道だ……そういう思いがこのとき菩薩の脳裏に深く刻みつけられたに相違ありません。  だからこそ、後日提婆達多が厳しい戒律改革案をつきつけ、――比丘は在家信者の食事の招待を受けてはならない。比丘は一生のあいだ魚肉を食べてはならない――などと言い出したとき、たちどころにそれを一蹴されたのでした。  また、このときスジャータが供養した乳粥のありがたさ、その意義の深さは、一生釈尊のみ心にしみついていたのです。その証拠には、クシナガラで亡くなられる直前に食事を供養したチュンダに対して、明らかにそのことをおっしゃっておられます。  それはさておき、心身ともによみがえる思いの菩薩は、スジャータに感謝の目礼をしながら鉢を返すと、さてこれからどこで、どんな修行をしなければならないか……と、ゆっくりとあたりを見渡すのでした。  すると、少しばかり上流の対岸にそびえている一連の岩山が目に入りました。「そうだ、あそこへ行ってみよう」。菩薩はまだよろめく足を踏みしめ踏みしめ、中州の砂の上を歩き始めました。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊15

生かされている思いを実感

1 ...人間釈尊(15) 立正佼成会会長 庭野日敬 生かされている思いを実感 前正覚山から菩提樹下へ  スジャータのささげる乳粥を食べて気力と体力を回復した菩薩は、新しい修行の地を探して対岸にそびえる岩山に登ってみました。  その中腹に格好の洞窟がありましたので、中に入って静座し瞑想に入りました。  すると、しばらくしてから地震が起こり、洞窟内にも小さな落石がありました。菩薩は、ここは修行にふさわしい場所ではないと、すぐ立ち去ろうとしました。そのとき空中から声があって、  「これから西南の方に巨大なピッパラ樹があります。その下があなたの道場です。そこで禅定に入られるとよいでしょう」  と告げるのです。  菩薩はさっそく山を下りたのですが、この山(ガジャ山)、菩薩が正覚(しょうがく=最高の悟り)を得る一歩手前に登ったゆかりの山というので前正覚山と名づけられ、今も聖地の一つとしてチベット僧が寺を建ててそこを守っています。  さて、菩薩は再び川を渡って西南の方へ歩いて行きますと、ゆくてにうっそうとしたピッパラの大樹が見えてきました。――ああ、あれこそ――と直感した菩薩がそこへ行ってみますと、いかにも清浄の気に満ちた静かな場所です。  そのとき十二、三歳の少年が柔らかそうな草を籠いっぱい背負って通りかかりました。瞬間、菩薩はむかしの言い伝えを思い出しました。――過去の聖者たちは草を敷いた上に座って悟りをひらいたそうだ。ちょうどいい――菩薩は少年に声をかけました。  「その草をもらい受けたいがどうかね」  少年はニッコリ笑って、  「よろしゅうございます。どうぞお使いください」  「それはありがたい。そなたの名は何というの?」  「スヴァスティカ(吉祥)です」  「ああ、めでたい名だ。その草は何という草?」  「クシャ(功祚)です」  「いよいよめでたい。ありがとう。ありがとう」  菩薩はピッパラ樹の東側にその草を厚く敷くと、まず木のまわりを三回まわってから木に向かって合掌礼拝し、静かに草の上に座ると、背筋を伸ばし、目を半眼に閉じ、最終的な禅定に入ったのでした。 一本の木にも感謝しつつ  禅定に入る前の菩薩の脳裏には、苦行を中止してからのこれまでの出来事が、一連の大きな意味をもったものとして浮かんできました。乳粥を供養してくれた少女の真心、前正覚山で聞いた空中の声、大きな陰をつくって自分の修行を守ってくれるピッパラ樹、刈ったばかりの柔らかい草を快く布施してくれた少年……みんなみんなわたしの求道心を助けてくれる存在だ。天地のすべてのものがわたしを生かしてくれているのだ……そうした思いが心の底に深く静かに広がっていったのでした。  そうした深層意識があったればこそ、やがてそれが形を成して結晶し、(この世の万物はすべてつながり合い支え合って存在しているのだ)という真実の悟りとなって現れたのでありましょう。  それにしても、禅定に入るまでの菩薩の行動の中でいちばん尊く、いちばん美しいと思うのは、ピッパラ樹のまわりを三回まわって合掌礼拝したことです。これはインドでは貴人に対するあいさつの礼儀だったのですが、それを一本の樹木に対してなされたこと、そこに菩薩の人柄の美しさと真摯(しんし)さがマザマザと現れていると、賛嘆せざるを得ません。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊16

阿摩羅識に合致した菩薩の魂

1 ...人間釈尊(16) 立正佼成会会長 庭野日敬 阿摩羅識に合致した菩薩の魂 悪魔が攻撃してきた  菩薩がピッパラ樹のもとで禅定に入っている夜半に、この欲界(欲望を離れることのない者の住んでいる世界)に大きな勢力を持つ魔王が手を替え品を替え悟りの邪魔をしたことが、どの仏伝にも述べられています。  まず若くて美しい自分の娘たちをやって誘惑させます。しかし、菩薩は少しも心を動かさず魔女たちをやさしく諭しましたので、かえって菩薩の立派さに感服してしまい、父のもとへもどって「ムダな反抗はおよしなさい」といさめます。  怒りたけった魔王は、今度はおどろおどろしい怪物たちをやって苦しめようとします。しかし、菩薩は恐れもしなければ、敵意もいだきません。怪物たちはむなしく引き返してしまいました。  そこで魔王は戦法を変え、ずる賢い知恵をはたらかせ、問答のペテンにかけて菩薩の精神を引きずりまわそうとしました。しかし、これも失敗に終わりましたので、絶望した魔王は気を失って倒れてしまったのです。  この魔王の攻勢の順序を日常的な事象に置き換えて考えてみますと、まず物質的・肉体的な欲望への誘惑をこころみ、つぎに暴力によって脅迫し、最後に知的なワナにかけて理性を混乱させようとしたのです。現代のわれわれの周囲には、これとそっくりなことが起こっているわけです。 降魔の二つの解釈  さて、夜半に菩薩を襲った悪魔を降伏させた事実については、二つの解釈が考えられます。  第一は、見えざる世界にこうした魔、すなわち心魔があるけれども菩薩は強い精神力によってそれを寄せつけなかった……という解釈です。つまり、次のようなわけです。  ――座禅のような精神統一の行を適当な指導者なしで行えば、誤ってただポカーンとした恍惚境に入ることがある。そうした精神の空白状態の場合に憑依(ひょうい)することが往々にして起こる。  菩薩の場合も、まだ十分な三昧境に入りきらぬ時そうした憑依が起こりかけたのではないか。幸い菩薩はそれまでに十分な修行を積んでいたために、見事にそれらの悪霊らを撃退し、かえって聖者たるの自信を得たのではないか――と。  第二は、深層心理学的な解釈である。  ――人間の表面の心(顕在意識)の下には底知れぬ隠れた心(潜在意識)が存在している。それは、表面に近いほうから末那識(まなしき)・阿頼耶識(あらやしき)・阿摩羅識(あまらしき)の三層から成っている。  いちばん上にある末那識は、自己中心の心情を引き起こすもので、すべての煩悩の根源である。その奥にある阿頼耶識はあらゆるものごとから受けた印象をそのまま貯蔵し、一切の心作用の原因となるものである。いちばん底にある阿摩羅識は宇宙の大生命に直結する清浄無垢の魂である。つまり仏性です。  さて、禅定に入った菩薩の心がまだ澄み切らぬうちはその末那識からさまざまな迷妄がわき上がって精神をかき乱した。菩薩は冷静にその迷妄の一つ一つを吟味し、しょせんそれらが空(くう)であることを悟った。それが(降魔)である。  そうすることによって潜在意識の底の底までが清まり、菩薩の魂はついに阿摩羅識に合致してしまった。宇宙の根源と合致してしまった! それが仏の悟りの境地である――  この第二の解釈のほうが現代人には納得できるのではないかと思われます。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊17

宇宙の全存在の実相を実感

1 ...人間釈尊(17) 立正佼成会会長 庭野日敬 宇宙の全存在の実相を実感 この世の実相は光明だった  それは十二月八日の朝まだきでした。  深い紺青の空に金星がキラキラと輝いていました。その神秘的な光明を見た瞬間に、宇宙の全存在の実相がアリアリと見えてきました。それは何ともいえず美しく光り輝く状態だったのでしょう。  そのうち夜が明けてきました。静かにあたりを見わたしてみますと、すべての風景が昨日までとは打って変わっているのです。空も、森も、山も、川も、すべてが光り輝いています。野良へ出て行く村人も、たきぎ拾いをしている農婦も、尊く輝いているのです。  天地すべてのものが清らかで、美しく、完全な調和の姿でした。ああ、これがこの世の実相というものか! 菩薩は長い間うっとりと大いなる歓喜にひたっていたのでした。 悟りの内容は何だったか  世尊(すでに仏の悟りを得られたのですから、これからは世尊・仏陀とお呼びしなければなりません)は、うっとりした大歓喜の心境からわれに返られると、こうつぶやかれたといいます。  「奇なるかな。奇なるかな。一切衆生ことごとくみな如来の智慧・徳相を具有す。ただ妄想・執着あるを以ての故に証得せず」  ――不思議だ。不思議だ。一切衆生はみんな仏と同じ智慧と徳との姿をそなえている。ただ残念なことに、仮の現れである自分の体(からだ)が自分自身だという妄想をもち、その仮の現れに執着しているために、本来の自分というものが証(さと)れないでいるのだ――  これです。これが仏教の源流なのです。後世の人はこの(如来の智慧・徳相)を(仏性)の一語に凝縮しました。そして八万四千の法門といわれる仏の教えは、つまるところその仏性を覆いかくしている妄想・執着を取り除くという一点に帰着する、と要約したのでした。  世尊ご自身も、ピッパラ樹の下に座したまま、そのことについての瞑想・思索の跡をじっくりと振り返ってみられました。  最後の禅定に入られてから、まず心中に確立した真理は(縁起の法)だったでしょう。縁起の法というのは(存在の法則)です。万物・万象はどのように存在するのか。――此れあれば彼れあり。此れ生ずれば彼れ生ず。すべては相依相関して存在し、生滅する――  ――宇宙間のあらゆる物象はこの法則によって発生し、存在し、消滅する。したがって、人間にとって最大の問題である生・老・病・死の苦も、その他のもろもろの憂悲苦悩(うひくのう)も、この法則によれば必ず解決できるものなのだ――  この悟りに基づいてさらに思索を重ね、憂悲苦悩の原因である妄想・執着の発生の順序を悟られたのが(十二因縁)の法門であり、その解決の道を見いだされたのが(四諦)(八正道)の法門だったのでした。  仏の悟りを得られてから七日の間はピッパラ樹(その下で菩提を成ぜられたので菩提樹と呼ばれるようになった)のもとの金剛宝座に座したまま、静かにその悟りをかみしめておられましたが、やがて宝座から立ち上がられると、東の方へ数十歩の間をゆっくりと往復しながら七日間瞑想を続け、その経行道(きょうぎょうどう)の東端からさらに七日の間じっと菩提樹をみつめておられたのでした。  いまもブッダガヤ大塔にお参りしますと、その場所に純白の小さな塔が立っています。観樹塔と名づけられています。七日の間ここから菩提樹をみつめておられた世尊のみ心には正覚を成ずるまで仏身を守護してくれた菩提樹に対するしみじみとした感謝がこめられていたのです。  思うだに美しくも尊い情景です。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊18

五比丘より先に在家の信者

1 ...人間釈尊(18) 立正佼成会会長 庭野日敬 五比丘より先に在家の信者 最初の信者は商人だった  世尊は悟りを開かれてから四十九日の間菩提樹下やあたりの林の中で静かに悟りの喜びをかみしめておられましたが、その間にいろいろなことが起こりました。  第二週目に一人のバラモンが通りかかり、問答をしかけました。  「あんたはバラモンでもないのに、そんな姿をしている。どうしてだい」  世尊は答えられました。  「バラモンとは生まれによるものではない。その人の徳性によってバラモンと呼ばれるかどうかが決まるのだ」  傲慢なそのバラモンは、フフンと鼻で笑って行ってしまいました。世尊の第一番目の弟子となるべきチャンスを、傲慢さのゆえに逃がしてしまったのでした。  そのチャンスをつかんだのはタプッサ、パッリカという二人の旅の商人でした。成道されてから七週目のことです。何台もの牛車に商品を積んで林の中を通っていますと、先頭の牛が急に立ち止まって動こうとしません。不思議に思っていますと、林の神が現れてこう告げたというのです。  「心配することはない。ゴータマ・ブッダという尊師がこの林の中におられる。四十九日のあいだ何も召し上がっておられない。行って麦菓子と蜜団子を差し上げなさい。そのお布施は長年月の間そなたたちに利益と安楽をもたらすだろう」  二人はさっそく世尊をさがし出し、麦菓子と蜜団子をご供養しました。世尊は石の鉢でそれをお受けになり、召し上がってくださいました。二人は世尊の両足に額をつけて礼拝し、  「尊いお方よ。わたくしどもは世尊と世尊の教えに帰依いたします。どうかわたくしどもを在俗信者としてお認めください」  世尊はおうなずきになり、人間としての生き方をわかりやすくお説きになりました。二人は喜びを満面に現しながら、ふたたび世尊の両足を拝しました。  「よろしい。そなたたちが仏と法に帰依したことを認めます」  出家修行者としてお弟子となったのは(初転法輪)のときの五比丘ですが、それより先に在家の者がまず信者になったこと、これは後世のわれわれにとって大いに考えさせられる事実です。 次に女性が在家信者に  右の事実は『五分律』巻十五に明記してありますが、つづいて女性の信者も現れたことが述べられています。  世尊はかつて六年のあいだ苦行されたウルヴェーラーの村に托鉢され、セナーニーというバラモンの門前に立たれました。すると、その家の娘(先に、苦行をやめた菩薩に乳粥を供養した)スジャータはただちに仏鉢を受け取り、おいしい食物を盛ってご供養しました。世尊はそれをお受けになりますと、  「そなたが仏に帰依し、法に帰依することを許します」  と仰せられました。これが女性の信者としてのナンバー・ワンです。  その後、世尊はたびたびこの家に托鉢され、四人の姉妹みんなに同じ許しを与えられました。  のちに僧伽(サンガ)が出来てからは、三自帰(帰依三宝)が仏教信者としての証(あかし)となりましたが、この時期まではまだ(仏)と(法)への二自帰だったわけです。  それにしても、お釈迦さまとその教えに帰依する真心を表した最初の人間が商人だったこと、その次が四人の女性だったことは、大変重要な事実です。のちにお説きになった六波羅蜜の教えの最初に(布施)をあげられたこととも思い合わせて、大きな示唆を感じとらざるを得ません。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊19

成道後の二つの決意

1 ...人間釈尊(19) 立正佼成会会長 庭野日敬 成道後の二つの決意 恭敬の対象は(法)のみ  お釈迦さまはブッダ(覚りをひらいた人)となられてからもやはり人間であった。神になられたのではなく、やはり人間であった。これが後世のわれわれにとっては大変ありがたいことです。そこに人間仲間としての懐かしさも生じ人間の生き方の最高の手本としておん跡を辿っていきたいという気持ちも起こるのです。  雑阿含経・尊重経によりますと、覚りをひらかれたあとの瞑想の中で、ふとみ心をかすめたのは「恭敬(くぎょう)する相手のいないのは苦しいことである」という思いでした。畏れ敬い、帰依する相手があれば、それを心の依りどころとし、手本として生きることができる。そのような相手がいないのは、なんとなく不安である。心細いことである。そういう、いかにも人間らしい思いでした。  そしてお釈迦さまは、そのような相手はいないものかといろいろと思いめぐらしてみられましたが、どうしてもそれがみつかりません。そこで、熟慮のあげく、次のような決意に達せられたのです。  「わたしが恭敬し、奉事するのは(法)しかない。わたしを目覚めさせた正法しかない。法こそがわたしの依りどころである」  これは、ひらかれた正覚の上に加わった(第二の覚り)と言ってもいいでしょう。  また、南伝相応経典六・一によりますと、やはり成道後の瞑想の中で、次のように考えられたといいます。 説法の決意が人類を救う  「わたしの覚った真理は深遠で、難解で、頭脳による思考の域を超えている。世の人々は身のまわりのものごとに執着し、その執着を楽しんでいる。そのような人々に、わたしが覚った(縁起)の道理などとうていわかるものではあるまい。わたしがこの道理を人に説いたとしても、わたしは疲労するばかりだ。憂慮するばかりだ」  そして、積極的に人々に説くことはすまいと考えられた。そのとき、梵天(世界の主とされていた神)がそのみ心の中を知って、このように嘆いたといいます。  「ああ、この世は滅びる。ああ、この世は消滅する。正しい法を覚った人が、何もしたくないという気持ちに傾いて、説法しようとは思われないのだ」  そして梵天はお釈迦さまの前に現れ、「どうか世の人々のために法をお説きください」としきりに懇願し、ついに説法の決意をして頂いた……と仏伝は伝えています。  中村元博士はこのことについて、次のように述べておられます。(『ゴータマ・ブッダ』二一八ページ)  「梵天が説法に踏み切らせたということは、当時最高の神が勧めたということによって説法開始を権威づけたのであろう。ここで注目すべきことは他の多くの世界宗教におけるように最高の神が命じたのではない。人格を完成した人間であるブッダに命令を下し得るものは何も存在しない。決定する者は人間自身なのである」  この解説のように、おそらくお釈迦さまご自身の心中の「説こうか、説くまいか」という二つの意向の葛藤(かっとう)にご自身が決断を下されたのでしょう。「説かなければ覚りは完成しない」これがお釈迦さまの第三の覚りだったということができます。そしてこの第三の覚りがあったからこそ、後世のわれわれは仏教という無上の宝を得ることができたのです。  もし二十世紀のいま仏教がなかったら、梵天の「ああ、この世は滅びる。この世は消滅する」という嘆きが事実となる公算が大いにあります。思えば、この説法の決意こそは人類生き残りのための重大極まる決意だったのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊20

まず一人を導こう

1 ...人間釈尊(20) 立正佼成会会長 庭野日敬 まず一人を導こう 手はじめに旧師と旧友を  「世の人々のために法を説こう」と決意されたからといって、直ちに「多くの大衆を相手に」などと考えられたのではありません。極めて地道に、「だれかこの法を理解してくれる人はないか。まずその人に話してみよう」と考えられたのです。  最初に頭に浮かんだ相手は、旧師アーラーラ・カーラーマでした。あの人にこそと考えられたけれども、すでに死亡していることがわかりました。それならばと、やはり旧師のウッダカ・ラーマプッタを思い浮かべられましたが、これまた、もうこの世にはいないことがわかったのです。  そうなると、次に考えられるのは、かつて苦行を共にした五人の修行者です。五人は、菩薩が苦行をやめたのを見ると、その地を離れてどこかへ去ってしまったのでした。世尊は天眼(てんげん)をもってその行方を探してみられると、ヴァラナシの鹿野苑にいることがわかりました。ヴァラナシは今のベナレスで、当時から仙人や修行者たちの集まる宗教の一大中心地だったのです。  世尊は、思い立つとすぐ出発されました。ブッダガヤからヴァラナシまでは三百キロ以上離れています。その道のりをハダシで歩いて行かれたのです。おそらく十日ぐらいの旅だったでしょう。その熱意にはただただ頭が下がります。 三度拒否されても諦めず  鹿野苑に着かれたのは夕方近くでした。午後のめい想を終えた五人の比丘は、大きく枝を広げたニグローダ樹の下に集まって、くつろいでいました。昼間の暑熱も少しおさまり、木陰にはひんやりした空気が流れていました。  「あ、あれはゴータマではないか」  突然、憍陳如(きょうじんにょ)が西の方を指さしながら言いました。  「えっ。ゴータマ?」  「そうだ。違いない」  「ぼくらに気づいたようだ。こっちへやって来る。だけど、あれは苦行を途中でやめた落ちこぼれだ。敬意を表するのはやめようぜ」  「そうだ。食べ物だけはやってもいいが……」  五人の相談は一決しました。ところが、世尊が目の前に近づいて来られると、全身から光明を発するようなその尊いお姿に打たれて、じっとしてはいられなくなりました。だれからともなく立ち上がり、礼拝して迎え、衣鉢を受け取り、足を水で洗って差し上げたのです。  「ゴータマよ」  ある一人がこう呼びかけました。すると世尊は厳かに宣言されました。  「もうわたしをゴータマと呼んではいけない。わたしはすでに仏陀となったのです。すでに不死を証得したのです。これをあなた方に説いてあげよう」  五人は、法を聞くことだけは拒否しました。三度もそうおっしゃったのに、三度とも拒否しました。しかし、拒否されればされるほど世尊の教化の熱意は燃え上がってきました。その熱意に打たれて、五人の抵抗の気持ちは次第に砕けていき、ついにその夜半、世尊が覚られた正しい生き方の道を、人間として初めて聞くことができたのです。これを初転法輪(しょてんぽうりん)と言います。  それにしても、お釈迦さまのような方でも、  第一に「まず一人を導こうとお考えになったこと」。  第二に「わずか五人を教化するために三百キロもの道を十日もかかって歩いて行かれたこと」。  第三に「三度拒否されても諦めず、ついに教化を果たされたこと」。  この三つは二千五百年後の布教者であるわれわれにとって絶大なる手本であると思います。よくよくかみしめねばならぬ事実です。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊21

初めてサンガができた

1 ...人間釈尊(21) 立正佼成会会長 庭野日敬 初めてサンガができた 初転法輪の内容は  鹿野苑における五比丘への説法で何を説かれたか。いろいろな説を総合してみますと……。  まず「官能の赴くままに欲望の快楽にふけるのはもちろんよくないが、あまりにも身を苦しめる修行も本当の悟りを得る道ではない。この二つの極端を離れて(中道)を行くことが大事である」と説かれました。  次に「この世は苦の世界であるが、苦の原因をつきとめその原因を取り除けば必ず苦は滅することができるのである」ということと、「その(苦を滅する道)は、ものごとを正しく見、正しく考え、正しく語り、正しく行為し、正しい生活をし、正しい努力をし、正しく思念し、正しいめい想をすることである」ということを、微に入り細にわたって懇々と説き聞かせられました。いわゆる(四諦)(八正道)の法門です。  そのとき突然、憍陳如(きょうじんにょ)が「阿若!(あにゃ=解った!)」と叫びました。その叫びにコダマが響き返すように、お釈迦さまは「阿若憍陳如(悟った憍陳如)!」と仰せられました。それから、これが彼の終生の呼び名となってしまったのです。  ついでに述べておきますが、のちの憍陳如は、寛容で情深く、教化力もすぐれていましたので、教団中でも最上座にありました。けれども、謙虚な人柄でしたので、舎利弗や目連のような年少気鋭の実力者たちがときたま憍陳如に気兼ねをするような様子を見せますので、自ら一歩退いて、そうしたニューリーダーたちに思うぞんぶん活躍させたといいます。  さて、憍陳如に続いて、あとの四人の比丘たちも次々に悟りをひらき、阿羅漢(すべての煩悩を去り世の人に尊敬されるに値する人間)の境地に達したのでした。  さきに、二人の商人や四人の女性が世尊の教えに帰依したことを述べましたが、そのとき説かれたのは、「布施の利益(りやく)」「戒(良い生活習慣)の大切さ」「善行をなせば天国に生まれること」などであって、世尊が悟られてブッダとなられた(法)そのものではなかったのです。そのような(法)を聞き、それによって悟りを得たのは、じつにこの五人の比丘が最初だったのです。 仏・法・僧の三宝が確立  しかし、このときの説法においても、その後四十年ほどにわたって繰り広げられた無数の説法においても、奥の奥の真実まではお説きになりませんでした。なぜかといえば、お弟子たちの境地がそれを完全に受け入れられるまでに達していなかったからです。そしてご入滅を前にした法華経の説法において、初めて奥の奥の真実を明らかにされたのです。  さて、その法華経の方便品に、鹿野苑の説法につき次のように仰せられています。(諸法寂滅の相は、言を以て宣ぶ可からず。方便力を以ての故に、五比丘の為に説きぬ。これを(初)転法輪と名づく。便(すなわ)ち涅槃の音(こえ)、及以(および)阿羅漢・法僧差別の名あり)。  ここにありますように、このとき初めて涅槃(ねはん=究極の安らぎ)に至る道が説かれ、阿羅漢という言葉(音)がこの世に現れ、そして仏道修行者の集団である僧伽(サンガ)が生まれ、(仏)と(法)と(僧)との区別とそういう三つの名称(三宝の名)が生まれた……ということは、仏教史上の大きなイベントでありました。  【仏伝が編年史(年次を追った歴史)的に説かれるのは、菩薩の生い立ちから成道後せいぜい王舎城へ到達されるまでと、入滅を前にされた最後の旅のありさまだけです。ですから、これからこの稿も、順序を追った記述ではなく、人間釈尊をしのぶ逸話やイベントを自由に取り上げていきたいと思います】 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊22

親子の絆の究極はここに

1 ...人間釈尊(22) 立正佼成会会長 庭野日敬 親子の絆の究極はここに 父子再会の結果は  シッダールタ太子が王城を捨てて出家された夜は、一子羅睺羅(ラゴラ)が生まれてから七日目でした。ヤシュダラ妃は羅睺羅に添い寝してスヤスヤ眠っておられました。太子はせめて羅睺羅を抱き上げて最後の接吻を与えようと思われましたが、妃が目を覚ましてはいけないと、心を鬼にしてそのまま城外へ出られたのでした。  太子が仏の悟りを得られてから三年(一説には五年)後、一度故郷へ帰られました。まず城外のニグローダの林に居を定め、翌朝城内に入って一軒ごとに托鉢されました。それから王宮に入り、久しぶりに浄飯王と対面し、父王を喜ばされたのでした。その折、「元の太子が町の庶民たちに食を乞うことはやめてくれないか」と言われましたが、「出家修行者の法ですから」とそれだけはキッパリ拒否されました。  七日目の朝のことです。世尊はいつものように大勢の弟子たちと共に町を托鉢しておられました。  ヤシュダラ妃は城の窓から幼い羅睺羅にその様子を見せて、  「ごらん。あの沙門たちの中で目立って立派な大沙門こそが、そなたの父上ですよ」  羅睺羅はかわいい目を見張り、  「わたしはお父さまを知りません。わたしの知っているのは老王だけです」  「いままで話したことはなかったけれど、あの大沙門が父上なんですよ。あの方の所へ行って『遺産をください』と言いなさい」  羅睺羅はチョコチョコと駈け出して行き、  「お父さま。お父さまのそばにいるとわたしはうれしい」と言って、いつまでも近くに立ち、世尊を仰ぎ見ているのでした。  世尊が食事をすませてニグローダの林へ戻ろうとされると、母君から言われたとおり、  「お父さま。遺産をください」  と言い、どこまでも後を追って行きます。やがて林に入られた世尊は舎利弗に向かって、  「舎利弗よ。羅睺羅を出家させてもらいたい。そなたが和上となって教育をよろしく頼む」  と仰せられました。そして目連が羅睺羅の髪を剃り、舎利弗が戒師となって出家の儀式をすませてしまったのです。  ヤシュダラ妃の言われた(遺産)とはどんな意味だったか、それは永遠の謎です。しかし、世尊がただちに羅睺羅を出家せしめられた理由は明白です。法による心の安らぎという不滅の財宝を与えようとの親心だったのです。 父も子も「なし終わった」  まだ五つか六つの子供が出家させられたことは、いかにも痛々しく感じられますが、それは凡慮の感傷であって、もし羅睺羅がカピラバスト国の王となっていたとしたら、後世のわれわれの精神になんらの感動も与えることなく歴史の空白へ消えてしまったことでしょう。  思えばお釈迦さまこそ父らしい父であったのです。真に子を愛する慈父であり、厳父であったのです。その真実は、ご臨終に駈けつけた羅睺羅に対する最後のお言葉にしみじみと込められています。  「羅睺羅よ。悲しみに心を乱してはならない。わたしは父としてそなたになすべきことをなし終わった。そなたは子として父のためになすべきことをなし終わった。いまわたしは涅槃(ねはん)に入るが、やはり永遠にそなたとは父と子である。少しも悲しむことはないのだよ。一切諸法は無常である。この無常を離れて解脱を求めるがよい」  父と子の絆(きずな)の究極はこのような精神性にこそあると知るべきでしょう。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊23

師弟の信頼ここに極まる

1 ...人間釈尊(23) 立正佼成会会長 庭野日敬 師弟の信頼ここに極まる 釈尊が半座を分けられた  祇園精舎の昼さがり、お釈迦さまは新しくサンガに入ったばかりの比丘たちに法を説いておられました。  そこへよれよれの衣を着た、髪もひげもぼうぼうに伸びた年配の比丘が入ってきました。比丘たちはちょっと振り返ったばかりで、みすぼらしいその比丘に席をあけてあげる者は一人もいませんでした。  その比丘は、じつは大長老の摩訶迦葉だったのです。摩訶迦葉は長い間舎衛城外の林の中でただ一人、座禅と瞑想の生活を送っていたのですから、新入団の比丘たちはだれもその顔を見知ってはいなかったわけです。  摩訶迦葉は、平然として末席にすわりました。はるかにそれを見られたお釈迦さまは、声をかけられました。  「おお、迦葉か。よく来た。さあ、こちらへ来なさい」  迦葉はそれでも末席にすわったままです。お釈迦さまは高座のご自分のお席の半分をあけて、  「さあ、この半座にすわりなさい。そなたとわたしと、どちらが先に出家したのであったかな」  そのお言葉を聞いて新入の比丘たちはびっくりして――原典・雑阿含経巻四五には(身の毛がよだつほど驚いた)とある――乞食同然のその見知らぬ比丘をまじまじと見るのでした。なにしろ仏さまが半座を分けてそこにすわるようにおっしゃるということは、つまりご自分と同格に見ておられることになるのですから。  摩訶迦葉は、  「世尊よ、世尊はわたくしの師でございます。わたくしは世尊の弟子でございます」と答えると、進み出て世尊のみ足を拝し、退いて一隅に座しました。  それにしても、お釈迦さまが弟子に半座を分けようとなさったのは空前絶後のことであって、どれぐらい摩訶迦葉を信頼しておられたかの絶大なる証(あかし)でありましょう。  法華経の見宝塔品に、多宝如来が釈迦牟尼如来に半座を分け、並んですわられたことが述べられていますが、それは同格の仏と仏、この場合は師と弟子です。師弟の信頼ここに極まれり、と言わざるを得ません。 自然と教団の統率者に  お釈迦さまが入滅されてから一週間後のことです。摩訶迦葉はお釈迦さまの一行に合流しようと、多くの比丘たちを引きつれて、パーヴァーとクシナガラの間の街道を進んでいました。  そのとき、クシナガラの方角からやってきた一人の異教徒が「あなた方の師は亡くなられましたよ」と告げました。一同はがくぜんとし、声をあげて号泣する者もいました。  そのとき一人の年老いた比丘が、  「悲しむことはないよ。われわれはいま解放されたのだ。これまで『こんなことをしてはいけない。こんなことはしてよい』と圧迫されていたが、これからは自由になるのだ」  と放言しました。こんな不届き者も大きなサンガの中にはいたのです。  それを聞いた摩訶迦葉が色をなして怒り、はげしく叱責したことは言うまでもありません。  そのとき大迦葉は、――こういう人間がほかにも出てくるかもしれない。サンガ全員を集めて亡き世尊のみ教えを確かめ合う必要がある――と考えました。そして一年後に自ら主宰してそのような集会を開きました。それがいわゆる第一回の結集(けつじゅう)です。  こうして大迦葉は、自然と事実上の教団の統率者となったのでありました。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊24

以心伝心の妙境

1 ...人間釈尊(24) 立正佼成会会長 庭野日敬 以心伝心の妙境 迦葉を出迎えられた世尊  前回にお釈迦さまと摩訶迦葉との間の深い信頼関係について述べましたが、このお二人の魂の交流はお互いが全く未知の間柄だったときに芽生えたという不思議な事実があります。  摩訶迦葉は王舎城に近い村の生まれで、生家は財力においては国王のビンビサーラ王にもまさるくらいの大富豪だったといいます。そういう家に生まれ、何不自由のない身分でありながら、小さいときから出家の志を持っていたのです。やはり前世からの因縁があったのでしょう。  両親は、せっかくの男の子に出家されてはたまらないと思い、むりやりに嫁を持たせたのでしたが、その嫁がまた強い求道の志を持つ女性だったのです。二人は結婚後も夫婦とは名ばかりで、お互いに励まし合って精神的向上を目指す生活を十二年間も続けました。  そして、ある日ついに意を決し、二人はそろって出家したのでした。夫の迦葉は王舎城の方へ、妻のバドラーはコーサラ国舎衛城の方へ、別れ別れに求道の旅へ出かけました。  さて、霊鷲山におられたお釈迦さまは、迦葉が王舎城に向かって旅して来ることを予知され、十キロぐらいの途中までわざわざ出迎えに出られたのです。迦葉が道端の一本のニグローダ樹の前を通りかかりますと、全身から黄金色の光を発した、見るからに尊げなお方が端座しておられます。迦葉は瞬間的に――ああ、このお方こそわが求める師である――と直感しました。と同時にお釈迦さまのほうでも、  「迦葉よ。よく来られた。ここにすわられるがよい」  と声をかけられました。お二人の歴史的な出会いは、こうした以心伝心の妙境のうちに遂げられたのでした。 禅宗第一の祖師となる  お二人の以心伝心には、「拈華微笑(ねんげみしょう)」という有名な話があります。  お釈迦さまが霊鷲山で大勢の比丘を集めておられたとき、大梵天王が黄色い花一輪を捧げて説法をお願いしました。お釈迦さまはその花を受け取られると、それをグッと聴衆のほうへ差し出されました。みんなは何を言い出されるだろうかと、シーンと静まり返っていたのですが、一言も発せられません。  世尊は黙ったまま大勢の比丘をひとわたり見回されましたが、摩訶迦葉と視線が合ったとたんに迦葉はニッコリ微笑しました。世尊は満足そうにおうなずきになり、次のように仰せられたのです。  「我に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)、涅槃妙心(ねはんみょうしん)、実相無相、微妙(みみょう)の法門あり、不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)、摩訶迦葉に付嘱(ふぞく)す」  このお言葉の意味は大体次のとおりです。  「わたしには一切の悟りを秘めた正しい智慧の蔵がある。すべての現象の奥に大調和のすがた(涅槃)を見る言うに言われぬ安らかな心、それは宇宙の実相を明らかにとらえる智慧ではあるが、決まった形式を持ったものではない(無相)、それは言葉でも文字でも教えられない(教外別伝)ものである。この微妙な教えを、摩訶迦葉よ、そなたに一任します。これをよく護り、後世に伝えなさい」  禅宗では、無言の説法を無言の微笑で受け取ったこのやりとりを非常に大切にし、摩訶迦葉を世尊の悟りを伝える第一の祖師としているのです。  今日の社会には情報がはんらんし過ぎて、魂と魂が的確に交流するこのような人間関係が失われつつあるのは残念でなりません。師弟の間でも、家族の間でも。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊25

魂の修行は一生のもの

1 ...人間釈尊(25) 立正佼成会会長 庭野日敬 魂の修行は一生のもの 自殺した出家修行者は  ある日、釈尊教団に痛ましい事件が起こりました。それはゴーティカという比丘が刀によって自殺したのです。  そのときお釈迦さまは王舎城を取り巻く山々の一つ毘婆羅(びばら)山の石室におられ、ゴーティカは反対側の仙人山の洞窟にこもって、ただひとり修行をしていたのでした。  ゴーティカは非常にまじめで、一途(いちず)な性格の人でした。坐禅・瞑想の行を長いあいだ続け、ついに解脱(げだつ)の境地に達したのですが、しばらくのうちにまた煩悩がわき起こり、心をかき乱したのでした。  そこで再び懸命の修行に入りました。次第に心が澄み渡り、また解脱の境地に達しました。しかし、それも長続きせず、またまた心は迷いの黒雲に覆われるのです。このようにして、七度目の解脱を自証したとき――もはやこれ以上退転することがないよう、この澄みきった心のままに死のう――と決心したわけです。  その付近の欲界を支配していた悪魔は、急いでお釈迦さまのもとへ行って彼の心境を告げ、自殺を思いとどまらせるよう進言しました。が、その間にゴーティカは自殺を遂げてしまいました。お釈迦さまは、  「悪魔は人の心に放逸を吹きこむ存在であり、自分の支配下からゴーティカが脱出するのを嫌って、わたしの所へやって来たのだ。しかし、ゴーティカはすべての愛欲を断除したまま涅槃に入ったのである」  とおおせられました。  そして、多くの比丘たちを引き連れてゴーティカが住んでいた洞窟へ赴かれました。すると、彼の遺体の周りには黒い煙のようなものが立ちこめています。  お釈迦さまは、  「あの煙を見よ。悪魔がゴーティカの魂をとりこにしようと探し求めている姿である。しかし、どう探し求めようとも彼の魂をとらえることはできないであろう」  とおおせられ、ゴーティカに記別(仏になるという保証)を授けられました。(これはお釈迦さまの言動と初期の教団のありさまを、比較的忠実に記録した雑阿含経巻三三に明記されており、事実あったことと思われます) 布教行で救われる  ここで絶対に誤解してならないのは、一般の自殺そのものをお認めになったのではないということです。ゴーティカの場合は、純粋に(魂)の問題なのです。人間の理想的な死は、いささかの濁りもない澄み極まった魂をもってあの世へ移行することです。ですから仏教では、そのような死を(無餘涅槃(残りかすのない完全な安らぎの境地))と呼んでいるわけです。  この話は――人間は死ぬまでが修行だ。おのれの至らぬところをサンゲしては心と行いを改めていくことの連続だ――という事実を、マザマザと印象づけるために伝え残されたのではないかと思われます。  ところで、ゴーティカは出家修行者ですから、独座の修行で無餘涅槃にまで行きついたのですが、普通の生活をしながら仏道を求める者(菩薩)は、とてもそういうわけにはいきません。そこでお釈迦さまは六波羅蜜をお説きになったのです。とりわけその第一に(布施)をお置きになったのです。  他のために親切をつくす。人を救うために法を説く。社会のために奉仕する。そういう行いを続けているうちに魂は次第に清められ、煩悩がかえって菩提に変わっていく――と説かれたのです。ここが大乗仏教のありがたいところなのであります。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...