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佼成新聞1964年10月16日お会式

大聖堂落成記念、第15回お会式は秋晴れのもと大聖堂を中心に17万4千人を集め、はなばなしく展開された。

佼成新聞1965年09月10日お会式

お会式特集、庭野会長法話「意義と心構え」。おまつり行事ではない。お会式の歴史を紹介。

佼成新聞1966年10月14日お会式

第17回本部お会式は、はじめて青年の手で行なわれた。六千人の参加者たちは、導き、広宣流布に全力をあげようと、青年部の決意を示した。

佼成新聞1967年10月20日お会式

第18回本部お会式は、二万人が集いぬけるような秋空のもと大聖堂で行われた。激増する交通量などの諸条件から万灯行進が中止され、お逮夜法要が中心となった。

佼成新聞1971年10月15日お会式

第22回本部お会式は、五年ぶりに街頭行進が復活し、秋雨がパラつく中、三万人が参加した。

佼成新聞1977年10月21日お会式

広宣流布の決意を込めた総勢約四千人の万灯行進は、旧本部から大聖堂までの沿道を埋め尽くした約十七万人の市民に法華経行者の心意気を示した。

佼成新聞1987年10月16日お会式

庭野会長法話(要旨)お逮夜法要から「堂々と法華経を説く事こそ私たちの使命」

佼成新聞1989年10月20日お会式

2年ぶり、平成年次初、第二の草創期幕開けを記念するにふさわしい盛大なお会式万灯行進が繰り広げられ、参加者は法華経広宣流布の誓願を新たにした。

佼成新聞1991年10月18日お会式

当日は、台風21号による強風に見舞われたため、万灯行進は急きょ普門館大ホールで挙行となった。

佼成新聞1998年10月16日お会式

教団創立60周年のお会式は、海外からも約三百二十人が参集し、総勢七千人の万灯行進は沿道の市民に法華経行者の心意気を強くアピールした。10月第一日曜日に日程が変更された。

佼成新聞2000年10月06日お会式

「お会式・一乗祭」概要発表、今年から名称を変更。日蓮聖人の遺徳を偲び、本会会員の大導師である「開祖さま」を慕う行事として「お会式・本部万灯行進」の名称を変更して実施。

佼成新聞2000年10月20日お会式

庭野開祖のご入寂から一年、「お会式・一乗祭」と名称が改められ、日蓮聖人の遺徳を偲ぶとともに、庭野開祖に対する追慕の念を行進に託し、菩薩行実践の誓願を新たにする機会となった。

佼成新聞2008年10月12日お会式

教団創立70周年、「お会式・一乗祭」から「お会式・一乗まつり」に名称が変更された。日蓮聖人の遺徳を偲ぶとともに、法華経の一乗精神に基づき、「人を救い、世を立て直す」との一念で生涯を貫いた庭野開祖を追慕・讃嘆し、…

佼成新聞2014年10月12日お会式

大聖堂建立50周年、「お会式・一乗まつり」。51周年の門出をかみしめ約7000人が降りしきる雨の中、マトイや万灯を中心に勇壮な行進を繰り広げた。

佼成新聞2018年10月21日お会式

教団創立80周年を祝し、約7000人が参加。本部班では、28年ぶりに女子マトイが編成され例年以上に活気に満ちた行進を展開した。

人間釈尊1

師の生き方の現実に学ぶ

1 ...人間釈尊(1) 立正佼成会会長 庭野日敬 師の生き方の現実に学ぶ  はじめに 仏伝を学ぶことの意義  仏教の開祖釈迦牟尼世尊を、後世の仏伝作者たちはあまりにも神格化したきらいがあります。  それぐらいお釈迦さまが偉大だったからでしょうけれども、しかし、神格化してしまうと、われわれとお釈迦さまとの間の距離がますます開いてしまいます。とてもついて行けない存在だと思いこんでしまいます。それではかえってお釈迦さまのご本意にそむくことになりましょう。  お釈迦さまは、「衆生を我れと等しからしめんがために法を説く」とおっしゃっておられます。すべての人間が自分と同じように、この世の実相を見極めて、苦の中にありながら苦を超えて、自由自在な、本当の意味で幸せな人間になってほしい……というのがその本願なのです。  そういう本願のために法をお説きになったのであり、われわれ衆生としては、その教えを学び、教えの通りを実践していくことがもちろん第一の道ですけれども、師と弟子との関係というものにはもう一つ大切な要素があります。それは(師の生き方の現実に学ぶ)ということです。理論でもなく、教説でもなく、師の日常生活における言葉の端(はし)々、身の振る舞いの一つ一つから、直接的な感化を受けることです。  学ぶというのは(まねぶ)から起こった語だといわれています。真似をすることです。子が親の真似をする。弟子が師の真似をする、それが学ぶことの原意であり、これこそが修行とか教化とかの原点であると言っていいでしょう。いま教育の荒廃が大問題となっていますが、その最も大きな原因は、(生徒が教師にまねぶ)という(学ぶ)の原点が、ある意味では消滅し、ある意味では大きく歪(ゆが)んでしまっているところにあると、私は考えているものです。  さて、われわれ仏教徒にとって最大の師であるお釈迦さまは二千五百余年も前にこの世を去られ、われわれの眼前にはいらっしゃいません。従って、(師の生き方の現実に学ぶ)ためには、すなわち師の日常生活における一言一行から直接的な感化を受けるためには、どうしても仏伝を読むよりほかに道はないのです。それが、いま改めてこの稿を起こす理由にほかなりません。 人間であられた釈尊を  幸いなことに、お釈迦さまは実在の人物でした。そして、二十九歳で出家なさるまでは世俗の人間としてお暮らしになりました。結婚もされ、子供もお持ちになりました。仏陀となられたのも、ある日突然、神がかりになって天の啓示を受けられたなどというのでなく、自らの瞑想により、思索により、つまり自らの努力によって覚りをひらかれたのです。  そして仏陀となられてからも、やはり一人の人間として、あらゆる困難に耐えて辛抱強く布教の旅を続け一人の人間としてすべての人に細(こま)やかな愛情を傾け、現実の迷いから救い、幸福へと導いていかれたのでした。  このことが後世のわれわれにとって何よりの救いです。お釈迦さまが人間であられたこと、そのことが、はるかに矮小(わいしょう)ではあるけれども、同じく人間であるわれわれにとって、大いなる励ましなのです。  そういう意味合いをもって、仏陀となられる前も人間であり、仏陀となられた後も人間であられたお釈迦さまのご一生の足跡を、人間らしい懐かしさをこめて、これからたどっていくことにいたしましょう。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊2

太子に影響与えた実母の死

1 ...人間釈尊(2) 立正佼成会会長 庭野日敬 太子に影響与えた実母の死 カピラバスト国とは  お釈迦さまのお人柄をしのぶためには、やはりそのお生まれになった土地、お育ちになった環境を知っておくことが必要でしょう。  お生まれになったカピラバストは、インドの北部にあり、いまはネパール領内に入ってしまいましたが、肥沃(ひよく)な平原が広がり、北には一年中清らかな雪をいただくヒマラヤの峰々を望む、気候温和なところです。  父親が浄飯王(じょうぼんのう)その兄弟が白飯、斛飯(こくばん)、甘露飯と、その名に(飯)と字がついていることでわかるように、米作が盛んな国で、釈迦族は比較的豊かな暮らしの農耕民族でした。  また、中村元博士の《ゴータマ・ブッダ》(中村元選集・第四巻)に、((釈迦族が富んでいたのには)その外に、この地方はガンジス河平原の諸国と山地とを媒介するのに都合のよい土地であり、確かに商業的な利点が与(あずか)って力があったに違いない)と書かれていることにも注目すべきでしょう。  こう見てきますと、カピラバスト国は現在の日本に似かよったところがあるようで、不思議な親近感を覚えざるを得ません。似かよったところは、まだまだあります。  その国は、いわゆる専制王国ではなく、最高執政官による一種の共和制がしかれ、民主的な色彩の濃い国でした。首都のカピラバストには当時としては珍しい公会堂があり、前記の《ゴータマ・ブッダ》にはこんな記述があります。  (たまたま一人のバラモンがそこ(公会堂)に至ったところ、そこでは数多の釈迦族の諸王と諸王子が高い座に坐してめいめいくすぐり、笑いさざめき、戯れていたので、そのバラモンは自分を嘲笑したのだと解した。(中略)このように釈迦族の雰囲気は全体として自由主義的であり、当時としては進歩的改革的であった。このような精神的雰囲気のなかから仏教が出現したのである) 誇り高き国の太子として  カピラバストはそのような比較的豊かで暮らしやすい国でしたが、なにしろ小さな国で、東にマガダ国、西にコーサラ国という当時のインド亜大陸の二強国に挟まれており、当時のインドでもやはり、何かといえば兵を出して他国を侵略したり合併したりしていましたから、カピラバストはつねにそういった対外的な不安をかかえていたのでした。 それにもかかわらず釈迦族は、民族的な誇りを高く持ち、頭がよくて勇気もあり、周囲からはむしろ傲慢(ごうまん)とさえ見られていたのです。  そのような国の王スッドーダナ(浄飯王)とその妃マーヤー(摩耶)夫人との間に、長い間待望していた王子が生まれました。父王はたいへんに喜び、シッダールタと命名しました。シッダールタというのは(すべての望みを成就するもの)という意味で、のちに中国では悉達多(しっだった)という字を当てました。よく意を尽くした音写です。  ところが、生母のマーヤー夫人は、産後の経過がよくなかったのでしょう、わずか七日後に亡くなられました。それで夫人の妹のマハー・プラジャーパティー(摩訶波闍波提=まかはじゃはだい=後に女人として一番目の仏弟子になった人)が王の後妻となり、太子を養育することになりました。実母と少しも変わらない愛情を注いで育てましたので、太子は何不自由なく成長しました。  しかし、実母を失ったのはなんといっても寂しいことだったに違いありません。このことは太子のその後の歩みに大きな影響を与えたようであります。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊3

内に秘めた逞しさ

1 ...人間釈尊(3) 立正佼成会会長 庭野日敬 内に秘めた逞しさ 贅をつくして育てられたが  シッダールタ太子が誕生したとき、ヒマラヤに住む高名なアシタという仙人がたまたまカピラバストに来ていました。浄飯王はアシタ仙人を呼んで人相を見てもらいました。仙人は、  「このお方は、家におられれば転輪聖王(てんりんじょうおう)となり、出家をされればブッダとなられるでありましょう」  と予言しましたが、言い終わるとうつむいてハラハラと涙をこぼしました。王が――何か不吉な相でもあるのか――とただしたところ、  「いいえ、そうではございません。わたくしの寿命はもうあまり長くなく、このお方がたぐいなき法を説かれるのを聞くことができないのが悲しいのでございます」  と答えました。仏伝には、後世につくられた伝説がたくさんありますが、この予言は事実あったことのようです。  父王としては、せっかく生まれた後継ぎに出家などされてはたまらないので、世俗の生活の楽しさを心身に刻みこませるために、最大限の努力をはらったのでした。釈尊の言行を忠実に伝えている《中阿含経》の一一七《柔軟経》に次のように青少年時代の思い出を語られています。  「わたしはたいへん優しく柔軟であった。わたしの父の邸には蓮池があり、ある所には青蓮華、ある所には赤蓮華、ある所には白蓮華が植えてあったが、それはただわたしを喜ばせるためであった。わたしの衣服はすべてカーシー(今のベナレス)産の最上等のものであった。わたしのために三つの宮殿があり、一つは冬のため、一つは夏のため、一つは雨季のためであった。雨季の四ヶ月はその宮殿において女だけの伎楽に取り囲まれていて、決して宮殿から下りたことはなかった」 優しくて内気な少年  こうした父王の心遣いにもかかわらず、太子はともすれば物思いに沈む、あまり元気のない少年でした。右の思い出の中にある(柔軟)ということを中村元博士は(身が柔弱であり、きゃしゃであった)と注釈されています。  これを読めば、これまでの仏伝が太子は武術や競技においても抜群であったと述べているのと対比して、軽い失望を覚える人があるかもしれませんが、わたしはかえってこのほうに真実性が濃く、しかも釈尊のお人柄への仰慕の念が高まるのを感じます。  近代・現代の人物を眺めてみても知的な方面ですぐれた業績をなしとげた人には、「幼少年時代にわたしは弱虫だった」と述懐する人が数多く見受けられます。むしろ、そんな人のほうが主流を占めているのではないでしょうか。  肉体的にも幼少時にあまり頑健でなかった子は、(柳に雪折れなし)の例えもあるように、どこかに順応性のある生命力を持っており、成長するにしたがって意外な健康体となり、かえって長寿を全うする例が多いようです。 また、優しくて内気な子も、精神的にはシンの強いところがあって、表面の弱虫の奥にたくましい辛抱強さを秘めているものです。外から来る不利な物事を忍びこらえ、内から発する悩みをもジッと受け止めながら、しだいに精神的に成長していくものです。  シッダールタ太子は確かにそのような少年だったと思われます。そうでなければ、人間存在の真実をつきとめようという願いから、王子としての地位をキッパリと打ち捨てて一介の修行者となることもなく、六年のあいだ死ぬか生きるかの修行に耐えることもなかったでしょう。  このことを、現代に生きるわれわれは、もう一度ジックリ考えてみる必要があると思います。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊4

小さな胸に慈悲の芽生え

1 ...人間釈尊(4) 立正佼成会会長 庭野日敬 小さな胸に慈悲の芽生え 食い食われる世界を見て  シッダールタ太子がまだ少年だったころのことです。春の年中行事の一つとして、農耕始めの鋤(すき)入れ式が行われ、浄飯王も恒例によって多く家臣たちと共に出席し、太子もそれを見学しました。  王宮の中で、激しくからだを動かすこともなく、静かに暮らしていた太子は、暑い太陽の下で固い土をあえぎあえぎ掘り返していく農民たちの汗にまみれた苦しそうな表情を見て、――ああ、こういう人たちもいるのか――と、幼い胸を痛めました。  そのうち、もっと衝撃的な光景を見ました。掘り返された土の中にいたミミズや、地虫がクネクネと身を動かしているのを、周りの林から飛んできた小鳥たちがついばんで容赦なく食べてしまうのです。五、六羽の小鳥たちがそれを繰り返していると、どこからともなく大きなワシがサッと舞い下りてきて小鳥の一羽を押さえつけ、バタバタするのを鋭いツメでつかんで飛び去って行きました。  いたたまれなくなった太子は、その場を離れ一本の木の下に座り込み、ジッと物思いにふけりました。――生きている虫を、小鳥たちが殺す。その小鳥をワシが殺す。なんという痛ましいことか。無情なことか――。  太子が見えなくなったので、父の王をはじめ家族たちが捜しに行きますと、太子は一本の木の下で瞑想にふけっていました。その姿が何ともいえず神々しくて、父の王も思わず手を合わせて礼拝したといいます。 西洋的理論・東洋的心情  西洋的な理論からいいますと、虫を小鳥が食べ、小鳥を猛禽類が食べるのは、いわゆる(食物連鎖(しょくもつれんさ))でごく自然なことをしています。現実的には確かにそのとおりです。  しかし、そういう割り切りかたをしますと、そこから弱肉強食の思想が生まれます。強いものは弱いものを思いのままに使い、収奪し、搾取するのが当然だとの考えです。  そういう考えがエスカレートすると、強い国は弱い国を圧迫し、侵略し、あるいはそれから物資や富を絞り取ってもかまわない、強い民族は弱い民族を力でネジ伏せ、抵抗するなら皆殺しにしてもいいのだ――という無慈悲な思想に行きついてしまいます。  それに対して、虫を小鳥が食べ、小鳥をワシが襲うのを見て、――ああ、かわいそうに――と感ずるのが、東洋的な心情です。慈悲の心です。  そういう心情から、――虫も自分の命を生きている、小鳥も自分の命を生きている、ワシも自分の命を生きている、みんな等し並に命を持っている、もともとはみんな平等なのだ、万物は平等な存在なのだ、それなのになぜ?――という疑問が生まれてきます。  このような疑問から出発して、目の前に見る現実の奥にある実相の世界を究めようとする思索に入っていく。そうした深い思索から仏教というものが生まれたと考えられるのですが、木の下に座って瞑想している少年シッダールタの胸にそういった思索のごく小さな芽生えがあったことは、容易に想像されます。  仏伝を読みますと、不思議なことに、太陽が移動しても木の影は動かず、いつまでも直射日光から少年太子を護っていた、その奇跡に人々は驚いて思わず伏し拝んだ……とあります。実際にはありえないことでしょうが、何となくわれわれの心に響くものがあります。将来ブッダとなるべき人の物思いがすでに現実世界を超えたところまで入り込んでいた……そういった尊い思いの象徴を、奇跡として表現したのではないでしょうか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...

人間釈尊5

「四門出遊」に見る太子の心

1 ...人間釈尊(5) 立正佼成会会長 庭野日敬 「四門出遊」に見る太子の心 もののあわれを感ずる人  少年シッダールタ太子はある日、郊外にある外苑に遊びに行こうと馬車に乗って出かけました。その途中、王宮内では見たことのない人間に出会いました。汚れた白髪がそそけ立ち顔も手もしわだらけでやせこけ、腰は曲がり、杖にすがってヨロヨロと歩いています。  お供の者に、「あれは何者か」と尋ねますと、「老人でございます」との答え。「老人とは何か」と聞けば「人間は生まれてから長い年月がたちますと、みんなあのようになるのです」と答えます。太子は何とも言えぬ悲しい気持ちになりました。もう遊びどころではありません。そのまま馬車を引き返させました。  それからしばらくして、また外出することがありました。すると、道ばたに倒れている人がいます。真っ青な顔で、苦しそうにうめき声をあげています。「あれは何者か」と家来に尋ねますと、「病人でございます」との答え。「病人とは何か」「体の調子が良くない者でございます。人間はたいていあのようになるのでございます」。太子は深く心を痛め、また馬車を引き返させました。  またあるとき外出しますと、白い布で全身を巻いた人間をタンカに乗せて担いで行くのを見ました。顔色は土のようで、身動きひとつしません。「あれは何者か」「死んだ人でございます」「死ぬというのはどんなことか」「息をしなくなり、魂が飛び去ってしまうことでございます」。  「死んだ者はどうなるのか」と聞きますと、「ごらんのように町の外へ運ばれ、寒林に捨てられます。しばらくのうちに肉は腐り、白骨ばかりが残るのでございます」「だれでも死ななければならないのか」「生まれた者は必ず死ななければなりません」  「そうか……」。悲痛の思いにうなだれながら、太子はまた宮殿へ引き返してしまいました。  ところが、ある日また外出しますと、じつに素晴らしい様子の人に出会いました。粗末な衣を着ていますが、その眼は澄み、顔色は端正で、これまで一度も見たこともない尊い相好をしています。「あれは何者か」と問えば「沙門という修行者です」との答え。太子は思わず馬車から降りてあいさつし、いろいろと質問しました。その沙門は、  「わたくしは、在家の生活をしておりましたころは、老・病・死を恐れ、心の安まるときもありませんでした。そこで出家して修行を積み、ようやくすべての苦悩から抜け出すことができました」と話します。  それを聞いた太子は、にわかに顔を輝かせ、「ああ、それこそわたしが求めていた道だ」と、力強く言い放ったのでした。 深くみつめ、考える人  以上の会話はだれにもわかるようにやさしく書かれておりますが、これは、幼・少年時代から壮年期に至るまでの太子の見聞や内的経験を一連の出来事としてまとめた(四門出遊)という物語で、これが太子の出家の素因となったものとされています。作り話のようですが、出家された動機の真実を示しているといえましょう。  この仏伝を読んでつくづくと感じ入ることは、太子が人一倍(もののあわれを感ずる人)であったと同時に、(ものごとを深く見つめ、深く考える人)であったということです。  もののあわれを感ずるというのは、美しい魂の持ち主であるということです。ものごとを深く見つめ、深く考えるというのは、すぐれた知性の持ち主である証拠です。最近のウキウキした暮らしに慣れ切った日本人には、どうやらこの二つの心が失われているように思われます。(心の時代)に入りつつあるという今日、われわれが回復しなければならないのはこの二つの心ではないでしょうか。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...