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仏教者のことば(52)
立正佼成会会長 庭野日敬

 この世の人は
 だれも煩悩にしばられている
 この世の煩悩を解き放そうと
 あなたは長い間慈悲にしばられていた
 生死流転のおそろしさを知ってはいるが
 慈悲の心にとめられて あなたはやはり この世にとどまっていたあなたと大慈悲とどちらへ先にお拝をしようか。
 マートリチェータ・インド(百五十讃)

長い間慈悲に縛られて

 マートリチェータは、およそ二世紀ごろに出たと推定される仏教詩人です。この「百五十讃』は釈尊のお徳を百五十の短詩によってたたえたもので、当時の人々が好んで誦した讃仏歌です。ここに掲げたのは、その五八・五九詩です。
 人間は、肉体と頭脳と魂によって構成されていて、死ねば肉体と頭脳は消滅し、魂だけが広い意味の霊界へ行くといわれています。完全に浄化された魂は、その霊界でも上部のいわゆる浄土に行き、苦に満ちたこの世には再び帰って来ないとされていますが、釈尊の前世の身である菩薩は、数知れぬ徳行を積み、とうのむかしに浄土の人となるべきなのに、自ら進んで何度もこの現世にお生まれになりました。「釈迦従来八千遍」といわれるほどです。
 それはなぜか。もちろん、苦の衆生を救うためです。さまざまな煩悩に縛られ、追いまくられて自ら苦を作っている人間たちを、なんとかその煩悩から解脱させようという大慈悲からです。そのことを「あなたは長い間慈悲にしばられていた」と表現してあるのが胸を打ちます。
 仏陀は自由自在の人です。その自由自在な人が縛られていた。やむにやまれぬ慈悲心のために縛られていた。一寸先はどうなるか分からぬ生死流転の娑婆世界に慈悲の心に止められてとどまっていた。そういうあなた(仏陀)と、あなたの大慈悲と、どちらを先に礼拝しようか……とマートリチェータは賛嘆しているのです。この素朴な賛嘆、この純粋な帰依、これこそが信仰の原点であると思います。

自分自身には無慈悲

 ついでに、とくに現代のわれわれの胸にこたえる、いくつかの詩を選んで紹介しましょう。
 一一 親切に動機はなく
  愛情に理由もない
  あなたは友なき人の友
  身内なき人の身内だった。
 世の孤独な人たちは、どうかこの詩を常に口ずさんで頂きたい。あなたにも仏という友、仏という身内がおられるのです。
 二〇 為し難い行為を為さずに
  得がたい境地は得られぬ
  だからこそ 自分のことはかまわずに
  あなたは努力をつづけてきた。
 『無量義経・徳行品』の結びに「能く諸(もろもろ)の勤め難きを勤めたまえるに帰依したてまつる」とあるのを思い出します。われわれ凡夫も、楽ばかりしていては価値あるなにものをも生み出すことはできますまい。心に銘刻すべき言葉だと思います。
 六四 あなたの身体に住む慈悲は
  他人を恵むが自分の身体を恵まなかった
  主よ あなたの慈悲は
  あなた自身には無慈悲だった。
 まことにそのとおりで、王子の身として生まれながら、死ぬか生きるかの修行をなさり、悟りを開かれてからも、四十五年間あの酷熱のインド亜大陸をハダシで歩いて布教されたのでした。八十歳になって老いさらぼえても、絶え間ない背痛に堪えつつ布教の旅を続けられました。そしてついに、家族に囲まれた憩いのわが家では死なれなかったのです。これが拝さずにおられましょうか。
題字 田岡正堂

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