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仏教者のことば(5)
立正佼成会会長 庭野日敬

 仏は常に在(いま)せども、現(うつつ)ならぬぞあわれなる
人の音せぬ暁に 仄(ほの)かに夢に見えたもう。
 作者不詳・日本(梁塵秘抄巻ニ)

仏への恋慕渇仰の思い

 平安時代の後期に、今様(いまよう)という歌謡が盛んに作られ、盛んに歌われました。その中には珠玉のような文学的価値のあるものが数多くあります。その輝かしい民間の作品を徹底的に整理して後代に伝えようとなさったのが、後白河法皇であり、その勅撰によって成立したのが、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』です。
 ここに掲げた今様は、極端に言えばその書全巻中の白眉というべきもので、今われわれが読んでも、しんしんと胸に泌み入る深い信仰の思いが込められています。現代語に意訳しますと……「仏さまが、いついかなる所にもいらっしゃることは、よくよく承知しているのだけれども、現実に目の当たり拝することができないのは悲しいことだ。ただ、何の物音もしない暁のころに、ほのかに夢の中に現れたもうばかりである」。
 信仰は理屈ではありません。合理を超えたものです。法華経の如来寿量品に「恋慕渇仰」ということばがあります。宇宙の大生命たる久遠の本仏の実在は、教義的には理解でき、それが相(すがた)のない存在であることも分かっていながら、あたかも生ける人に対するように恋い慕う気持はおさえきれぬものがあります。ですから、「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜まず」ということになるのです。
 ここまで思いつめるのが、ほんとうの信仰というべきでしょう。信仰においてばかりでなく、人生のさまざまな問題においても、真剣に思いつめることがどんなに大事なことか、どんなに尊いことかを、改めて考え直してみる必要があると思います。
 この「仏は常に在せども」の今様が、仏教の信仰者でない人々にも深い感銘を与え、愛唱されている事実は、人間の奥底にあるこのようなひたむきさ、真剣さに引かれる心理に根差しているのではないかと考えられるのです。

思いつめる心の美しさ

 亀井勝一郎さんも、その著『思想の花びら――もの思う人のために――』の中で、こう述べておられます。
  もし単純に、「然り、私は信仰をもっている」と答えたら、それは傲慢というものだろう。同様に、「否、私は信仰などもたない」と答えたら、それは怠慢というものだろう。前の場合は自ら断定すべきことではないからであり、後の場合は、考えつめるという経験の拒否を示すことになるからである。(傍点筆者)
 「単純に」という語に傍点をつけたのは、いい加減な、上撫でした程度の信仰しか持っていないのに、「信仰を持っている」と断言するのは増上慢である……と解釈するからです。「考えつめる」という語に傍点をつけたのは、人間とは何か、どうして生きているのか、という問題を深く深く考えつめていけば、どうしても宗教に突き当たらざるをえないからです。だから亀井さんも、そこまで行かないのは人間としての怠慢だと決めつけておられるのです。
 いずれにしても、この今様は、何度口ずさんでも、美しくも尊い共感を覚えざるを得ません。宇宙に遍満してわれわれを生かしている実在を、ひたむきに思いつめながら、それを見ることを得ない悲しさ。しかし、せめて夢に見ることによって慰められるいじらしい心。いかにも人間的ではありませんか。
題字 田岡正堂

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