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仏教者のことば(4)
立正佼成会会長 庭野日敬

 苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせ南無妙法蓮華経とうちとなえいさせ給え。これあに自受法楽にあらずや
 日蓮聖人・日本(四条金吾殿御返事)

苦も楽も実体なきもの

 これは日蓮聖人が在家の愛弟子四条金吾に与えられたお手紙の中にある一節です。
 奥の奥を探ればたいへん深遠な世界観にもとづいているのですが、それをさらりとした分かりやすいことばで言い表されているところに、何ともいえぬ味わいがあり、聖人の温かく優しいお人柄もしのばれる一文です。
 「人生に苦はつきものだから、苦に遭った場合は素直にそれを受け取ることだ。あわてふためいたり、くよくよすることはない。苦といっても、ほんとうは実体のない仮の現象でいつかは必ず消えていってしまうものなのだから……」。これが「苦をば苦とさとり」の真意です。
 「楽しいことに出会ったときも素直にそれを受け取って楽しめばいいのだ。ただし、それに執着してはならない。楽というのも実体のない仮の現象だから、時のまに過ぎ去ってしまうものだ。それを承知の上で楽しむこと」……これが「楽をば楽とひらき」です。
 この「苦・楽ともに実体のないものだ」というのが、法華経の諸法実相の悟りなのです。と同時に、「実体のないものが現象として現れるのも抜き差しならぬ事実だ」というのも、やはり法華経の説く真実なのです。
 この両面の真実を悟りきって、苦に対しても楽に対しても心騒がず、悠々として処する人生態度こそが、「法華経に南無する」ことにほかなりません。ですから、「苦楽ともに思い合わせ南無妙法蓮華経とうちとなえいさせ給え」とおおせられたのです。この「い=居」の一字を見逃してはなりません。常に、いつも、南無妙法蓮華経と唱えていなさい……という勧めなのです。

自受法楽が最高の楽

 こういう人生態度は、つまり天地の真理のままに生きることですから、最も高い意味で人生を楽しむことになるのです。それを「自受法楽」と言います。「自受法楽」というのは、もともと自分の悟った境地を自分で味わう楽しみを言います。お釈迦さまは、菩提樹の下で悟りを開かれてから、二十一日間その地にとどまられて、ご自分の悟りをじっとかみしめておられたと伝えられますが、それほど次元の高い「自受法楽」ではなくても、われわれでも何か一つの悟りを得れば、そのような精神の楽しみを味わうことができるはずです。
 われわれは、あまりにも身のまわりに起こる一々の現象に、損だ得だといって心を引きずりまわされます。境遇の変化に一喜一憂します。そうして一生を過ごすのは、せっかくこの世に得たいのちをムダにするものではないでしょうか。何か一つ人生のシンになる悟りを得て、自受法楽したいものではありませんか。
 有名な栄養学者の川島四郎博士は今年(一九八三年)卒寿(そつじゅ・数え年九十歳)を迎えられましたが、連日三つの大学で教鞭を取り、夏休みには必ずアフリカの奥地に旅して原住民の食生活を研究しておられます。数年前奥さまを亡くされ、研究室で独り暮らしをしておられるのですが、先日テレビの『徹子の部屋』に出られたとき、「わたしは朝五時半に起きるのですが、起きるとすぐ鼻歌が出るんですよ」と語っておられました。
 九十歳で起き抜けの鼻歌には、いささか驚きました。一つの仕事に打ち込んだ数十年の生活から得られた一種の「自受法楽」の境地だと、感心しました。あなたも、この世に生を受けたからには、何か一つの「自受法楽」を得たいとは思いませんか。
題字 田岡正堂

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