仏教者のことば(6)
立正佼成会会長 庭野日敬
二つの芦束は相依ることによって立つ
サーリプッタ・インド(相応部経典一二・六七)
世に独立の存在はない
釈尊教団で智慧第一といわれたサーリプッタ(舎利弗)が鹿野苑に住んでいたときのことです。同信の友であるマハー・コッティカ(摩訶拘絺羅)が、ある朝訪ねてきて、むずかしい質問をするのでした。
「友よ。わたしはかねがね思いあぐねていたのだが、いったい老死というものは自己がつくるのであろうか。他のなにものかがつくるのであろうか。それとも、原因がなくて生じたのであろうか」
サーリプッタは答えました。
「友よ。老死は自己がつくるものではない。他のなにものかがつくるのでもない。原因がなくて生じたものでもない」
さあ、いよいよ分からなくなりました。分からぬままにマハー・コッティカは「生」についても、「執着」についても、「愛」についても同じ質問を繰り返しましたが、サーリプッタの答えは同じでした。そこでマハー・コッティカは、
「どうもあなたの言うことはのみ込めない。どう考えたら理解できるのかね」
と聞きました。するとサーリプッタは答えました。
「それならば、譬えによって説こう。ここに芦の束があるとしよう。芦の束は一つでは立つことができない。二つが相依ることによって立つことができる。そして、一つを取り除くと、他の一つは倒れてしまうだろう。この世のすべての現象も、心の中の思いもすべてそのとおりなのだ。独立して存在しているものは一つもない。他のものとの関係によってこそ成立しているのだ。だから、一つ一つのことをいくら考えても解決はできない。すべて他との関係性にもとづいて考えなければならないのだ」
そこで、マハー・コッティカは自分の視野の狭かったことを悟り、ものの見方の根本が分かって、大いに喜んで帰りました。
助け合い補い合って……
これは、もちろん釈尊が唱導し始められた「縁起の法」であり、「諸法無我」の原理でありますが、舎利弗の巧みな譬喩によって、なるほどと納得することができたのです。わたしがこの話を取り上げたのも、宗教上の話をするときに譬喩と実例が、どんなに大事であるかを知って頂きたかったからです。
理論的に、哲学的に、いくら精緻な説明を述べ立てても、相当な教養ある人でさえなかなか納得できないことを、一つの譬喩を説き、一つの実例を挙げることによってスーッと分かってもらえることが多いのです。
例えば、関係性ということについての一つの実験を示しましょう。三本のビール瓶もしくはジュース瓶と、三本のフォークを用意してください。そして、瓶をフォークの長さより少し遠く離して三角形をつくるように立ててください。そこで、その三本のフォークを瓶の上に乗せる工夫をするのです。
瓶と瓶との距離がフォークより長いのですから、一本ずつ乗せようとすれば絶対に乗るはずはありません。ところが、三本のフォークの先を矢車のように組み合わせて乗せると、見事に乗ります。「結び合う」ことの大切さが、この実験でもよく分かりましょう。人間それぞれ短所を持っています。完全な人はまずありません。しかし、足りない同士がたくみに結び合えば、不可能なようなことでもできるのです。世の中を順調に動かしていくこともできるのです。舎利弗の説いた「二つの芦束」も、こう受け取りたいものです。
題字 田岡正堂
立正佼成会会長 庭野日敬
二つの芦束は相依ることによって立つ
サーリプッタ・インド(相応部経典一二・六七)
世に独立の存在はない
釈尊教団で智慧第一といわれたサーリプッタ(舎利弗)が鹿野苑に住んでいたときのことです。同信の友であるマハー・コッティカ(摩訶拘絺羅)が、ある朝訪ねてきて、むずかしい質問をするのでした。
「友よ。わたしはかねがね思いあぐねていたのだが、いったい老死というものは自己がつくるのであろうか。他のなにものかがつくるのであろうか。それとも、原因がなくて生じたのであろうか」
サーリプッタは答えました。
「友よ。老死は自己がつくるものではない。他のなにものかがつくるのでもない。原因がなくて生じたものでもない」
さあ、いよいよ分からなくなりました。分からぬままにマハー・コッティカは「生」についても、「執着」についても、「愛」についても同じ質問を繰り返しましたが、サーリプッタの答えは同じでした。そこでマハー・コッティカは、
「どうもあなたの言うことはのみ込めない。どう考えたら理解できるのかね」
と聞きました。するとサーリプッタは答えました。
「それならば、譬えによって説こう。ここに芦の束があるとしよう。芦の束は一つでは立つことができない。二つが相依ることによって立つことができる。そして、一つを取り除くと、他の一つは倒れてしまうだろう。この世のすべての現象も、心の中の思いもすべてそのとおりなのだ。独立して存在しているものは一つもない。他のものとの関係によってこそ成立しているのだ。だから、一つ一つのことをいくら考えても解決はできない。すべて他との関係性にもとづいて考えなければならないのだ」
そこで、マハー・コッティカは自分の視野の狭かったことを悟り、ものの見方の根本が分かって、大いに喜んで帰りました。
助け合い補い合って……
これは、もちろん釈尊が唱導し始められた「縁起の法」であり、「諸法無我」の原理でありますが、舎利弗の巧みな譬喩によって、なるほどと納得することができたのです。わたしがこの話を取り上げたのも、宗教上の話をするときに譬喩と実例が、どんなに大事であるかを知って頂きたかったからです。
理論的に、哲学的に、いくら精緻な説明を述べ立てても、相当な教養ある人でさえなかなか納得できないことを、一つの譬喩を説き、一つの実例を挙げることによってスーッと分かってもらえることが多いのです。
例えば、関係性ということについての一つの実験を示しましょう。三本のビール瓶もしくはジュース瓶と、三本のフォークを用意してください。そして、瓶をフォークの長さより少し遠く離して三角形をつくるように立ててください。そこで、その三本のフォークを瓶の上に乗せる工夫をするのです。
瓶と瓶との距離がフォークより長いのですから、一本ずつ乗せようとすれば絶対に乗るはずはありません。ところが、三本のフォークの先を矢車のように組み合わせて乗せると、見事に乗ります。「結び合う」ことの大切さが、この実験でもよく分かりましょう。人間それぞれ短所を持っています。完全な人はまずありません。しかし、足りない同士がたくみに結び合えば、不可能なようなことでもできるのです。世の中を順調に動かしていくこともできるのです。舎利弗の説いた「二つの芦束」も、こう受け取りたいものです。
題字 田岡正堂