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仏教者のことば(11)
立正佼成会会長 庭野日敬

 一日作(な)さざれば一日食(くら)わず。
 百丈懐海禅師・中国(百丈清規)

己に対して妥協せず

 禅宗のお寺では、ただ座禅をしたり、お勤めをしたりするばかりでなく、「作務(さむ)」といって、堂塔・庫裡(くり)の掃除から、庭の清掃、草むしり、食事の準備・世話、野菜作りの労働までを、一山の僧がしなければならないことになっています。
 唐代の名僧百丈懐海(えかい)禅師は、九十五歳の長寿を保った人でしたが、どんなに年を取っても、衆僧に交じってこの作務を続け、一日として欠かしたことはありませんでした。
 ある日、あまりにも老いを深められた師の姿を見かねた弟子たちが、「もう作務をなさる必要はないのではございませんか。わたくしどもがいたしますから、どうかゆっくりな さっていてください」と申し上げました。
 禅師は黙って立ち去って行かれました。ところが、食事どきになって一同が食堂に居並んだのに、禅師の姿が見えません。あちこち捜してみたところ、座禅堂で端然と座っておられました。
 驚いた弟子たちが、「食事の時間でございますが……」と申しますと、禅師は決然として言い放たれました。
 「一日作さざれば一日食わず」
 弟子たちは、自分に対していささかも甘えた妥協をしない禅師の態度に、深く恐れ入ったのでありました。

「するな」と「しない」

 「働かざる者は食うべからず」というのはレーニンの言葉だと伝えられていますが、この「食うべからず」という思想と、「食わず」という思想の大きな違いを、しっかり吟味してみることが大事だと思います。前者は革命家もしくは為政者の思想であり、後者は宗教者の思想です。
 仏の最も基本的な教えとされる七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)の「諸悪莫作(しょあくまくさ)・衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)・自浄其意(じじょうごい)・是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」にしても、「もろもろの悪をなすなかれ」といった命令的なものでなく、「もろもろの悪をなさず、もろもろの善を努め行い、自らその心を浄くする。これが諸仏の教えである」と、すべて自発的になすことを本位としています。
 すなわち、仏教というものは「こうしなさい」と命令するものでもなく、心の持ち方や行動を縛るものでもなく、「こうすれば幸せになるのですよ」と、道を指し示すものなのです。こう考えてきますと、百丈禅師の「一日作さざれば一日食わず」の言葉も、いよいよ光ってきます。
 さて、この言葉は「作務も修行の一部」といった義務的な考えをはるかに超えた、「働くことこそ人間の道であり、働いてこそ人間としての価値があるのだ」という、人間存在の最も基本的な真実をえぐった名言として、千二百年以上たった今日まで、禅家のみならず、一般の人々の胸にもつよく銘刻されているものであります。
 パスカル(フランスの哲学者)は、あたかも百丈禅師の言葉を布演するかのように、次のように述べています。
 「労働を、単に物質の収穫の野を耕す鋤(すき)と思ってはならぬ。それは同時に、われわれの心情の原野を開拓する尊い鍬(くわ)なのである。何よりもまず労働によってわれわれの心身は強められ、心にはびこった種々の邪悪な雑草の根が断ち切られ、そして、そこに幸福と喜悦の種子が蒔(ま)かれて、四時に繁殖し、花を咲かすに到るのである」
 よろず機械・器具に頼って身体を動かすことをしなくなった今日、禅師の言葉と共に、深く味わうべき文章だと思います。
題字 田岡正堂

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