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仏教者のことば(12)
立正佼成会会長 庭野日敬

 色は匂へど散りぬるを わが世たれぞ常ならむ 有為(うゐ)の奥山今日越えて 浅き夢見じ 酔(ゑ)ひもせず
 作者不詳・日本

命と引き換えに半偈を

 だれ知らぬものもない「いろは歌」です。しかし、この四十七文字の中に仏教の深遠な教義が歌いこめられていること、およびその教義の内容は案外よく知られていません。
 その教義というのは、『涅槃経本有今無偈論』にある「諸行無常 是生滅法 生滅滅己 寂滅為楽」の四句の偈です。この偈については、次のような物語が伝えられています。
 むかしヒマラヤの山に雪山童子という求道者が住んでいました。その青年は、世のすべての人をほんとうに幸せにする真理を求めて、あらゆる苦しい修行を重ねましたが、どうしてもそのような教えに巡り会うことができませんでした。あるとき山中で瞑想していますと、「諸行は無常なり、是れ生滅の法なり」と説く声が聞こえてきました。ああ、これこそ自分が求めていた真理である!と、声のしたほうを振り返ってみると、そこには恐ろしい羅刹(らせつ=悪鬼)が立っていました。
 「今の偈をお説きになったのは、あなたですか」と、童子は尋ねました。「そうだ」と羅刹は答えます。「今の偈は半分だと思います。あとの半偈をぜひ教えてください」と童子は懇願しました。「おれはいま腹が減ってたまらない。教えてやったらおれに食われてくれるか。それなら教えてもいいが……」と羅刹は言います。童子は「その尊い教えを聞けたら、あなたに食べられても本望です。どうかお願いします」。それを聞くと羅刹は唱えました。「生滅を滅し巳(おわ)りて、寂滅を楽と為す」
 童子は大いに喜んで、その偈の全部をそこいらじゅうの木の幹といわず、石の壁といわず、後の世の人のために書きつけ彫りつけました。そして、羅刹に食われるために、傍らの高い木の上から身を投じました。ところが、地上に叩きつけられる直前にフワリと受け止められたのです。受け止めたのは帝釈天でした。童子の求道心がほんものであるかどうかを試すために羅刹に身を変えていたのでした。その童子こそはお釈迦さまの前世の身だったと、ジャータカ(前世話)は伝えています。

対立の世界からの超越

 さて、「いろは歌」の「色は匂へど散りぬるを わが世たれぞ常ならむ」というのは、昨日まで美しく照り映えていた花が、今日はすでに散ってしまっているように、人間を含めたこの世の物象に恒常なものは一つもないのだ(諸行無常)。これが現象世界の変化の法則なのだ(是生滅法)という意味です。
 「有為の奥山今日越えて」というのは、有為とは生滅無常のものごとをいうのですから、そうした変化してやまないものを不変のものと思い込んで執着する煩悩の奥山から今日こそ抜け出して……という意味です。それが「生滅滅巳」です。生滅の世界を超越し切った境地です。
 そうすることによって「寂滅為楽」の心境に達することができるわけです。生・滅という対立した二つの現象にとらわれていると、得とか損とか、利とか害とか、苦とか楽とか、生とか死とか、そういった相対的なものごとに心を引きずり回され、ほんとうの心の平安を得ることはない。もうそんな浅はかな夢は見るまい(浅き夢見じ)。一時の喜びに酔うこともしないぞ(酔ひもせず)。そんなものに煩わされない絶対的境地(寂滅)こそが、ほんとうの大安心(楽)というものだ……という悟りであります。
 「いろは歌」にはこんな奥深い教えが込められているのです。
題字 田岡正堂

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