仏教者のことば(8)
立正佼成会会長 庭野日敬
人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。
兼好法師・日本(徒然草・九三段)
死が来るのを忘れて
兼好法師は、鎌倉末期の歌人であり、随筆家でもありました。僧侶といっても、何寺にも何派にも属せぬまったくの自由人でしたから、その随筆集『徒然草・つれづれぐさ』でも、思ったままをざっくばらんに言い、ユーモアもあれば、皮肉もあり、読んでこれくらい面白い中世文学はないといっても過言ではありますまい。
ここに掲げた一句は、もとより仏教思想に根ざしたものですが、自分自身の解釈によって鋭く人生の機微と仏教の神髄の接点を衝いているところに、深い味わいがあります。しかし、その思想はこの一句だけには尽くされていませんので、この後に続く文章をも紹介しておきたいと思います。
「人、死を憎まば、生(しょう)を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがわしく外の楽しびを求め、この財(たから)を忘れて、危うく他の財を貪るには、志、満つ事なし。生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり。もしまた、生死(しょうじ)の相にあずからずといわば、実(まこと)の理を得たりというべし」(新仮名と新送り仮名採用)
「現代語訳」 人間死が恐ろしいならば、生を楽しまなければならない。命のある喜びを日々楽しまなくてどうするのだ。愚かな人は、この楽しみを忘れて、ご苦労千万にも(いたづがわしく)外側に楽しみを求め、生というこの宝を忘れて、危なっかしくも他の宝を貪ろうとばかりしているが、その欲求が満たされることなどありはしない。生きている間に(真の意味で)生を楽しまず。死に臨んで死を恐れるなんて、そんな理屈に合わぬことはないではないか。人がほんとうに生を楽しまないのは、死を恐れないからである。いや、死を恐れないのではない。死が近くにあるのを忘れているのだ。ところで、もし生死という相対的世界を超越している人があれば、その人こそほんとうに天地の道理を心得ていると言っていいだろう。
生死を超越した生き方
この現代語訳を読んで頂けば、大意は分かって頂けると思いますが、念のためにすこし解説を加えましょう。
ここにある「生を楽しむ」というのは、精神的な楽しみを指すのです。本業に精を出すにも「これが社会の進展に役立つのだ」という信念と喜びをもってし、そのほか、学問でもよい、芸術でもよい、信仰でもよい、社会奉仕でもよい、平和活動でもよい、とにかく魂の喜びを覚えるような仕事をして生きがいを感ずることをいうのです。これは、やろうと思えばだれにでもできるのです。
それなのに、愚かな人はそのような精神的な楽しみを忘れて、外側の物質的な財や楽ばかりを求めて、あくせく一生を過ごし、死の間際になって金も物もあの世に持って行けないことがわかり、「死にたくない。もっと生きていたい」と苦悩するのです。さて、最後の一節「生死の相にあずからず云々」ですが、これは、生死を超越し、生に執着せず、死をも恐れず、自由自在に生きる最高の人生を言っているのです。われわれ凡人はそこまでは行きつけそうにはありませんが、しかし、ほんとうの意味で「生を愛して」生きていけば、いつかは自然と到達できる境地だと、私は信じています。
題字 田岡正堂