仏教者のことば(14)
立正佼成会会長 庭野日敬
聖者、人を駆(か)るに教網(こうもう)三種あり、いわゆる、釈・李・孔なり。浅深隔て有りと雖も竝(なら)びに皆聖説(せいぜい)なり。
弘法大師空海・日本(三教指帰巻上)
大学を中退して出家
『三教指帰(さんごうしいき)』は、大師がまだ空海をも名乗らない、出家以前二十四歳の時の作です。それなのに、空海の著述といえば、すぐこの書の名前が出るほど有名であり、広く読まれ、かつ後世に大きな影響を残した名作です。
空海は讃岐(さぬき・今の香川県)の生まれですが、幼時より秀才の誉れが高く、十八歳で時の都長岡京にある大学に入り、勉学に励みました。そこへ留学させた家族の望みは、立派な官僚に出世させることにあったらしいのですが、たまたま一人の仏教僧に巡り会ったのが縁となって、仏教に打ち込み、大学を中退して、阿波の山中や、土佐の室戸崎などで猛烈な修行に精進しました。
そうしているうちに、出世とか名誉とか財産とかに対する欲望がなくなり、同時に、貧しい人や、身体の不自由な人を見ると心から同情する気持が起こり、そういう人たちを救うために出家しようという決心をしたのでした。
すると、家族や親戚の人々は、「社会に対する義務を果たすことが君にも忠であり、親にも孝ではないか」と言って反対しました。「そのときわたしはこう考えた」と、『三教指帰』の序文に書いてあるのが、ここに掲げた言葉です。その前後を補わなければ真意が尽くされませんので、原文と現代語訳を付け加えましょう。
宗教の帰する所も同じ
「物の情(こころ)一ならず、飛沈(ひちん)性異(こと)なり。是の故に聖者、人を駆るに、教網三種あり、いわゆる、釈・李・孔なり。浅深隔て有りと雖も竝びに皆聖説なり。もし一つの羅(あみ)に入りなば、何ぞ忠孝にそむかん」
【現代語訳】 鳥が空を飛び、魚が水に沈むように、いろいろな存在の性情は一つではない。人間もやはり同じである。だから、人間を救う網として、釈尊の教えもあり、老子(李)の教えもあり、孔子の教えもある。浅い深いの違いはあるにしても、すべて聖なる教えである。だから、その一つの教えの中に入り込めば、忠孝に背くことはないはずである。
この「すべて聖なる教えである」という一句に注目しなければならないと思います。万教同根ということを、若年にして早くも見抜いておられたらしい大師の宗教者としての素質の素晴らしさには、驚くほかはありません。
この『三教指帰』は戯曲風に書かれており、空海の親戚の一人の遊蕩児について、甲の人は孔子の教えによって批判し、乙の人はその教えを老子の教えの立場から批判し、丙の人はそれをまた釈尊の教えによって批判し、ついに釈尊の教えが最上であるという結論に達するわけです。それは、これから仏教によって出家しようとする空海としては当然のことだったでしょうが、各宗教に対する理解はじつに深いものがあります。
この大天才が官僚となれば、間違いなく大臣にまで出世したでしょうが、あえて出家したことは後世の日本人にとってどれだけ幸いだったかわかりません。宗教の救いを、庶民の生活の上に実現された数々の事実や伝承は、永久に日本人の魂に残るでありましょう。
このことは、在家の仏教者であるわれわれにとって最大の手本です。宗教は人間の魂を救うのが究極の目的ですが、その方便としてまずその現実生活を救うことを忘れてはならないと思います。その点において、すべての宗教は同根であると同時に、帰する所も同じであると確信します。
題字 田岡正堂