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仏教者のことば(13)
立正佼成会会長 庭野日敬

 衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて
 水をはなれて氷なく 衆生の外(ほか)に仏なし
 白隠禅師・日本(坐禅和讃)

二十六年目の法華経

 白隠禅師は、徳川五大将軍綱吉の時代に世に出られた名僧中の名僧です。十五歳で自ら進んで出家し、十六歳のとき、初めて法華経を読みましたが、神秘的な不思議な光景や、おとぎ話のような譬えばかりが述べられていて、中身がないように感じ、すっかり失望して、それ以来手にしたことがありませんでした。
 ところが、修行を積んで一寺の住持となった四十二歳の秋、ふと思い出して法華経を取り出し、読んでみました。そして譬諭品第三にさしかかり、「今この三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」とあるのを読んだとき、全身全霊にズシンとこたえるような衝撃を覚え、瞬間に法華経の神髄を悟ることができました。そして、感激のあまり声をあげて号泣した……と自ら語っています。
 その後の禅師の思想が、法華経に根底を置くものになったことはいうまでもありません。ここに掲げた『坐禅和讃』の冒頭の句もそうであり、これに続く数句、
 (一)衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 譬えば水の中にいて 渇を叫ぶが如くなり (二)長者の家の子となりて 貧里に迷うに異(こと)ならず
 も、やはりそうです。(一)は寿量品第十六の「我常に此に住すれども 諸の神通力を以て 顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見ざらしむ」の裏返しであり、(二)は信解品第四の「長者窮子の譬え」そのままであります。

氷は溶ければ水となる

 さて「衆生本来仏なり」ということは、仏法の神髄中の神髄です。仏には三つの身があるといわれていますが、究極的にはこの宇宙のすべてのものを存在せしめている唯一の大生命をいうのです。人間もその大生命の一つの現れですから、本来は清浄無垢の、自由自在な存在なのです。それが「衆生本来仏なり」の意味です。
 ところが、人間はこの真実をすっかり忘れてしまい、自分の現実の身体を自分の本体だと思い込んでいるのです。ですから、身体の欲するものをあれこれと追い求め、それが思うようにならないために、悩んだり、苦しんだり、また、他を悩ませたり、苦しめたりしているわけです。
 しかし、幸いにして人間だけはほかの衆生と違って、発達した精神というものを持っており、自分の真実の本体を知る可能性を秘めているわけです。ですから、二千五百年前にそれを悟られたお釈迦さまの教えをしっかりと学び、素直にそれに従って心の持ち方を改めれば、現実の不自由な世界にいながら、自由自在な気持で生きることができるわけです。
 ここには仏を水に譬えてあります。水は柔らかで、自由自在で、どんな形にもなり、流れたりよどんだりしながら魚介類を育て、土にしみ込んでは草木を茂らせます。しかし、その水が凍って氷となれば、固くて、冷たくて、他を寄せつけぬ形相を持ち、生物を傷めたり、殺したりします。これが凡夫のありようなのです。
 元は同じH2Oでも、水と氷とはこれほど違います。仏と衆生との違いもこれと同様だというのです。ですから、本来の姿に返りたいと思ったら、仏法によって自分の心を温め、溶かしていけばいいのです。そうしてまずエゴに冷たく固まった心をほぐせば、それだけでも角(かど)がとれて円くなります。さらに修行を積んで水のような自由自在の心を持つようになったら、それこそが人間の理想の境地だ……というのが、この句の真意であると思います。
題字 田岡正堂

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