仏教者のことば(3)
立正佼成会会長 庭野日敬
径寸十枚、是れ国宝に非ず、一隅を照らす、此れ即ち国宝なり。
伝教大師最澄・日本(山家学生式)
灯の持つ不思議な力
比叡山を興した伝教大師は、国民の指導者を養成する目的で『山家学生式・さんげがくしょうしき』という学則を作りました。その冒頭にあるのが有名なこの一文です。現代語に訳しますと、「直径が一寸もあるような大きな宝玉が十枚あろうとも、それは国の宝とは言えない。道心をもって世間の一隅を照らす人こそが国の宝なのである」ということです。
この「一隅を照らす」という一句は、表現はへりくだっているようでも、非常に力強い響きをもってわれわれの胸に迫ります。
わたしが生まれ育ったのは、越後の山奥の小さな村ですが、用があって町へ行っての帰りに夜の雪道を何キロも歩いて疲れきったころ、村外れの家の灯が一点ポツリと見えてきます。それが目に入ると、何とも言えない喜びと安らぎを覚えたものでした。
村の人間でもそうですから、まして他国からやってきた人が吹雪の中で道に迷い、必死になって歩いているとき、一軒の人家の灯を発見したとしたら、どんな思いがするでしょうか。その家の人は、自分の家のランプはいろりにあたっている自分一家だけを照らしているとしか思っていません。いや、そんな意識さえないのです。ところが、その明かりは障子を通して遠くの人々の目にも入ります。そして、ある人にはそこはかとない安心感を覚えさせ、ある人々は生命の救いをさえ与えるのです。一隅を照らしているはずの一点の灯、それはこのように尊いはたらきを持っているのです。
一つの灯を世界の灯へ
われわれはすべて人生の旅人です。あるときは山坂の苦しみにあえぎ、あるときは荒野に行き暮れることもあるでしょう。そのようなとき、仏道を求めてやまない不動の心を持った人に出会い、その人の明るくも力強い生きざまに接したとすれば、どれぐらい大きな希望を与えられることでしょう。
仏道を求めることは、まずもって自分自身を高めるためです。しかし、そのひたむきな一心の姿は、周りの人々に何らかの影響を与えずにはおきません。ある人はその言行の正しさに胸を打たれ、ある人はその風格の清らかさに畏敬の念を抱き、ある人はその人間的な思いやりに言い知れぬ親しみを持つようになるでしょう。
そのような人の身体からは見えざる後光がさし、その後光が周りの人々の心を照らすのです。これが「一隅を照らす」ことにほかなりません。そして、照らされた人がその感化を受けて自ら発光体となり、一隅を照らす人となり、そうした発光体が次から次へと増えていけば、日本の社会は隅から隅まで明るくなること必至です。さればこそ伝教大師が、「一隅を照らす人こそ国の宝である」と述べられたのです。
灯というものは、たとえ最初は小さいようでも、無限の発展性を持っています。『四十二章経』の第八章でお釈迦さまは「一つの炬火(かがりび)の所へ数千百人の人が、おのおのたいまつを持ってきて、火をつけて帰り、それで炊事をしたり、明かりにしたりしても、その炬火は元のままである。福もまたこのようなものである」とおおせられています。
願わくは、われわれ一人一人がその炬火になりたいものです。そして、その火を次から次へ転々と無数の人に分けてあげたいものです。そのようにして日本の国全体を明るくすれば、世界中の人々が今どき珍しいその現象に引きつけられ光を求めて集まってくるでしょう。
それが日本という国の理想の姿ではないでしょうか。
題字 田岡正堂
立正佼成会会長 庭野日敬
径寸十枚、是れ国宝に非ず、一隅を照らす、此れ即ち国宝なり。
伝教大師最澄・日本(山家学生式)
灯の持つ不思議な力
比叡山を興した伝教大師は、国民の指導者を養成する目的で『山家学生式・さんげがくしょうしき』という学則を作りました。その冒頭にあるのが有名なこの一文です。現代語に訳しますと、「直径が一寸もあるような大きな宝玉が十枚あろうとも、それは国の宝とは言えない。道心をもって世間の一隅を照らす人こそが国の宝なのである」ということです。
この「一隅を照らす」という一句は、表現はへりくだっているようでも、非常に力強い響きをもってわれわれの胸に迫ります。
わたしが生まれ育ったのは、越後の山奥の小さな村ですが、用があって町へ行っての帰りに夜の雪道を何キロも歩いて疲れきったころ、村外れの家の灯が一点ポツリと見えてきます。それが目に入ると、何とも言えない喜びと安らぎを覚えたものでした。
村の人間でもそうですから、まして他国からやってきた人が吹雪の中で道に迷い、必死になって歩いているとき、一軒の人家の灯を発見したとしたら、どんな思いがするでしょうか。その家の人は、自分の家のランプはいろりにあたっている自分一家だけを照らしているとしか思っていません。いや、そんな意識さえないのです。ところが、その明かりは障子を通して遠くの人々の目にも入ります。そして、ある人にはそこはかとない安心感を覚えさせ、ある人々は生命の救いをさえ与えるのです。一隅を照らしているはずの一点の灯、それはこのように尊いはたらきを持っているのです。
一つの灯を世界の灯へ
われわれはすべて人生の旅人です。あるときは山坂の苦しみにあえぎ、あるときは荒野に行き暮れることもあるでしょう。そのようなとき、仏道を求めてやまない不動の心を持った人に出会い、その人の明るくも力強い生きざまに接したとすれば、どれぐらい大きな希望を与えられることでしょう。
仏道を求めることは、まずもって自分自身を高めるためです。しかし、そのひたむきな一心の姿は、周りの人々に何らかの影響を与えずにはおきません。ある人はその言行の正しさに胸を打たれ、ある人はその風格の清らかさに畏敬の念を抱き、ある人はその人間的な思いやりに言い知れぬ親しみを持つようになるでしょう。
そのような人の身体からは見えざる後光がさし、その後光が周りの人々の心を照らすのです。これが「一隅を照らす」ことにほかなりません。そして、照らされた人がその感化を受けて自ら発光体となり、一隅を照らす人となり、そうした発光体が次から次へと増えていけば、日本の社会は隅から隅まで明るくなること必至です。さればこそ伝教大師が、「一隅を照らす人こそ国の宝である」と述べられたのです。
灯というものは、たとえ最初は小さいようでも、無限の発展性を持っています。『四十二章経』の第八章でお釈迦さまは「一つの炬火(かがりび)の所へ数千百人の人が、おのおのたいまつを持ってきて、火をつけて帰り、それで炊事をしたり、明かりにしたりしても、その炬火は元のままである。福もまたこのようなものである」とおおせられています。
願わくは、われわれ一人一人がその炬火になりたいものです。そして、その火を次から次へ転々と無数の人に分けてあげたいものです。そのようにして日本の国全体を明るくすれば、世界中の人々が今どき珍しいその現象に引きつけられ光を求めて集まってくるでしょう。
それが日本という国の理想の姿ではないでしょうか。
題字 田岡正堂