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仏教者のことば(32)
立正佼成会会長 庭野日敬

 妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁(にごり)にしまぬ蓮(はちす)のごとくにして、決定(けつじょう)往生うたがいあるべからず。
 恵心僧都源信・日本(横川法語)

母の教えにより解脱

 恵心僧都(えしんそうず)源信は大和国の生まれで、十五歳以前に出家し、比叡山の横川(よかわ)で学道に精進し、教義を論ずることにかけては並ぶ者がないというほどになりました。
 ある時、朝廷に招かれて論議に列席し、いろいろな頂戴物をしました。その中からいい物を選んで故郷の母に送ったところ、母はもともと真の道心の持ち主でしたので、「お前の贈り物は嬉しいには嬉しいが、わたしはお前が僧侶として晴れがましい出世を望んではいないのです」という手紙をよこしてきました。
 この思いがけない手紙に強く教えられた源信は、それ以後、ずっと山に籠って修行をし、一生涯、少僧都という低い位にとどまりました。しかし、信仰者としての境地は極度に高まり、その主著『往生要集』は現在でも名著として広く読まれ、また中国にも弘まって、周文徳という僧などは「小釈迦源信如来」と賛歎したほどでした。この母にしてこの子あり。今の世のお母さん方にぜひ知って頂きたいエピソードです。
 さて、『横川法語』は、わが国で最初に書かれた仮名まじりの法話で、主著『往生要集』のエキスともいうべき名短編です。ここに掲げた文章の前後を補って、現代語訳してみましょう。
 「妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり。臨終の時までは、一向妄念の凡夫にてあるべきぞとこころえて念仏すれば、来迎(らいごう)にあずかりて蓮台にのるときこそ、妄念をひるがえしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁にしまぬ蓮のごとくにして、決定往生うたがいあるべからず。妄念をいとわずして信心のあさきをなげき、こころざしを深くして常に名号を唱うべし」

ほとばしる純粋さこそ

 【現代語訳】 仮の存在を実在と思う妄念はもともと凡夫それ自身の心である。妄念のほかに別の心はないのだ。臨終の時まではずっと妄念の凡夫なのだと心得ながら念仏すれば、阿弥陀如来のお迎えを受け蓮のうてなに乗るときにこそ妄念が一転して悟りの心となるのである。妄念の中にいながら唱える念仏は、あたかも蓮の花が泥水の中に生じて濁りに染まないように、必ず浄土に往生することは疑いない。だから、妄念など気にかけず、信心の浅いことばかりを反省して、往生の志を深く持っていつも念仏を唱えることである。
 人間の本質は、宇宙の大生命(仏)そのものなのです。しかし、凡夫は仮の現れである現実の心身が自分であると思い込んでいます。これはまったくやむをえないことだから、それにこだわることはない。その妄念の中からほとばしる純粋な念仏こそ、泥中から生じた蓮の花のように尊いものである……というこの教えは、法華経の行者であるわたしどもにも非常に有り難く頂戴できます。唱題も同じことであるからです。
 読経や、念仏や、唱題の行をしているときにいろいろな雑念が起こってくるのを非常に気にする人があります。信仰者としてたいへんまじめな態度ですけれども、その雑念を気にすることがかえって雑念を増長することになるのです。
 ここに説かれているように、「これが凡夫の地体なのだ」と、サラリと流してしまえば、気が楽になって、かえって読経なり、念仏なり、唱題なりに打ち込むことができるのです。じつに尊い教えだと思います。
題字 田岡正堂

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