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仏教者のことば(31)
立正佼成会会長 庭野日敬

 念仏の機に三品(ぼん)あり。上根は、妻子を帯し家に在りながら、著(じゃく)せずして往生す。
 一遍上人・日本(一遍上人語録)

仏法は心にあるのだ

 時宗の開祖一遍上人は伊予(愛媛県)の豪族の出だけあって、どこか激しい気性を持っておられたようで、その言行には世間のおもわくなどはばからぬ、堂々たるところがありました。
 この言葉にしても、「念仏者の素質には上中下の三種がある。最上は、妻や子があり、家で普通の生活をしていながら、それに執着せずに極楽往生する人である」という意味です。この後に「自分は下根の者であるから、一切を捨ててしまわなければ、臨終のときにいろいろな事に執着して往生しそこなうだろうと思うから、このように出家して行をするのだ」と言っておられます。
 ある人が「経典には俗生活を棄てるのが上々であるとありますが、それと相違するのではありませんか」と聞いたところ、「いや、一切の仏法は心のありようについて説いてあるのだ。外に表れた姿のことを言ってあるのではない」と答えられました。よくよく味わうべき言葉だと思います。
 一遍上人は十歳で母を失い、十三歳のとき九州太宰府に行き、法然上人の孫弟子に当たる聖達というお坊さんについて出家し、そこで十二年間修行しました。そして、どういうわけか郷里に帰って俗人の生活に返り、愛人と同棲しましたし、子供もできました。そして、再び出家して旅に出るときは、その愛人は小さな娘と共に尼となってその後について行きました。しかし、その母娘は紀州の熊野で捨てられてしまいました。このように、一遍上人の前半生は聖と俗が入り混じっており、その俗を一つ一つ捨てていってきびしい聖の世界へ入って行かれたように思われます。

身を捨てても風は寒い

 聖の世界に入っても、一遍上人の救いの対象は一般大衆でありました。何も難しいことは説かず、「念仏を唱えなさい」と教えるだけでした。また、鐘を叩き、念仏を唱えながら輪になって踊るという念仏踊りをさせました。当時の僧侶たちは仏教の品位を落とすといって非難しましたが、庶民はそれによってひとときの法悦を味わうことができましたので、たしかに仏教の本義ではないにしても、救済の方便の一つだったといえましょう。
 こうして上人の後半生は、日本国中を遍歴しながらの大衆教化に明け暮れたのでした。上人の徳を慕う人々は、そのあとについて旅して歩きました。当時は、野盗が各地に出没して、旅人もずいぶん襲われたのですが、上人の一行だけは、一度もそんなことがありませんでした。全国の盗賊仲間に「あのご上人の一行に手を出してはならない。そんなことをしたら制裁を加えるぞ」という禁戒がゆきわたっていたのだといいます。それぐらい、上人は一般庶民に、とりわけ下層階級の人々に慕われていたのでした。
 一遍上人は中年のころ、心地覚心という禅僧に禅を学びましたが、なかなか印可(覚ったという証明)を与えられませんでした。ところが、師のもとを離れて一年後にふたたび訪れ、
 すてはてて身はなきものとおもいしにさむさきぬれば風ぞ身にしむ
 という歌を呈したところ、初めて印可を下されたといいます。身を捨て去っているつもりでも、寒くなれば風が身にしみる……つまり、それが人間のありのままであって、そのありのままに徹したところが認められたのでしょう。とにかく一遍上人は、われわれ在家の信仰者の心にしみじみと通ずるものを持った方でありました。
題字 田岡正堂

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