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仏教者のことば(24)
立正佼成会会長 庭野日敬

 この地上を全部牛の皮で覆うならば、自由にどこへでも跣足(はだし)で歩ける。が、それは不可能である。しかし自分の足に七寸の靴をはけば、世界中を皮で覆うたと同じことである。
 河口慧海・日本(山田無文『手を合わせる』より)

無文老師を育てた言葉

 河口慧海(かわぐちえかい)師は、チベットが現在のように中国の領土ではなく、きびしい鎖国をしていて無断で入った者は容赦なく殺されるという世界の秘境だったころ、日本人として初めてその地に入り、チベット仏教を研究、その文献を多数持ち帰った先覚者でありました。わたしが尊敬してやまない山田無文老師が学生のころ、慧海師は東京の本郷に、雪山精舎というサンガを結んで、チベット仏教を講義しておられました。
 山田少年は、法律家にさせたいという父上の意を受けて東京に遊学したのですが、精神的なものに強く引かれるたちで、中学の物理や化学の時間には、下を向いてひそかに法華経を読んでいました。当時ほとんど暗記するほどに読んだ『論語』にある「人民の訴訟を聞き、正しく裁いてやることは、自分も人と同じようにできるだろう。しかし、自分の願うところは、訴訟などの起こらない平和な社会をつくることである」という意味の一句が、山田少年の魂を大きく支配していたのでした。
 学校の勉強には身を入れなかっために、中学はやっと卒業したものの、一高を受験しては不合格、一年浪人して八高を受けてもダメでした。
 そういった時代に、友人の誘いで河口師の雪山精舎で仏教の講義を聞くようになりましたが、そのテキストにあったのが、右に掲げた文章です。これは、最も印象深い前半だけを抜き出したものですが、後半まで読まなければその意味は分かりませんので、全文を引用しましょう。
 「この地上を全部牛の皮で覆うならば、自由にどこへでも跣足で歩ける。が、それは不可能である。しかし自分の足に七寸の靴をはけば、世界中を皮で覆うたと同じことである。自分の心に菩提心をおこすならば、すなわち人類のために自己のすべてを捧げることを誓うならば、世界は直ちに天国になったにひとしい」

前半の譬喩が感動を

 このことばが、山田無文老師の一生を決定したのです。その時の心境を『手を合わせる』に、次のように書いておられます。
 「そうだ、この道だ。直ちに浄土を成就し、直ちに自己を完成し、今日ただいま自己も世界も救われる道。この道よりほかにわたくしの行く道はない、とわたくしは確信した。一切人類のために自己のすべてを捧げる、と心に誓う、それだけでよいのだ。それなら自分にでもできる。今でもできる。わたくしは心に誓った。自分の幸福も、自分の心身も、自分の一生も、自分のすべてを、今日から人類に捧げますと、心に堅く誓った。するとどうであろう。すべてを捨てた心の明るさ、すべてを捧げた心の豊かさ、わたくしはかつてない幸福感に満たされて、歓喜躍如とした」
 この文を読んでいただけば、わたしの解説など少しも必要ではないでしょう。しかし、一言だけ付け加えておきましょう。それは、もし山田青年が、河口氏のこのテキストの後半だけ読んだとしたらこれだけの感激、これだけの回心を起こしただろうか……ということです。
 前半の巧みな譬喩があってこそ、グッと魂に響くものがあったはずです。その意味で、あえて前半だけを表題に掲げたのです。お釈迦さまが法を説かれるのに、盛んに譬喩を用いられたことも、さこそと思い出されます。
題字 田岡正堂

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