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仏教者のことば(39)
立正佼成会会長 庭野日敬

 弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。
 親鸞上人・日本(歎異抄)

仏さまと膝をつき合わす

 阿弥陀如来は、前世に法蔵菩薩として修行しておられる時代に、五劫という長い年月をかけて、どうしたら一切衆生を浄土に救うことが出来るかを思いめぐらされたのだそうです。親鸞上人は、その法蔵菩薩の長い長い思索も、ああ、わたし一人のためだったのだ! と実感されたのです。常識的にみれば、なんというエゴイスティックな、独りよがりの考えだろう……と思われるかもしれませんが、信仰の思いの極まったところでは、そうなるのが真実なのです。
 人間は一時に二つ以上のことを考えることは出来ません。もしそんなことをしようと思ったら、心がバラバラに散って定まらず、何ひとつ成就するものではありません。「一時には一事に精神を集中する」、これでなくてはならないのです。相撲取りでも、野球のバッターでも集中力の足りない者は、けっしていい成績をあげることは出来ません。
 ましてや信仰の世界においては、仏さまと一対一になることが何よりも肝要なのです。いま仏さまと膝をつき合わせている。仏さまがわたしの頭を撫(な)でていてくださる。仏さまのいのちがわたしの合掌の指先から全身へ流れ入っている。ああ、有り難い……こういう実感を惻々(そくそく)と覚えるとき、そこに大歓喜が生じ、魂の救いが生まれるのです。
 これは純粋な信仰者なら必ず経験する心理であって、八宗の高祖といわれるナーガールジュナ(龍樹菩薩)もこう言っています。
 仏はひとり我がために法を説きたもう。
 余人のためにはあらず。

人を救うのも一対一から

 現実に人を救うにも、やはり同じようなことが言えましょう。お釈迦さまは、あらゆる人間にこの世の実相を悟らせることによって、一人残らず苦しみ悩みから救ってやりたい、という誓願を持っておられたわけですが、その現実の手段は、もちろんたくさんの出家・在家の人を集めての説法もありましたけれども、むしろ一対一の教化の場合が多かったのです。
 子を失って半狂乱になっている母親、釈尊を罵り土を投げかけるバラモン、邪教に迷わされて人殺しを続ける男、病身に絶望感を覚えている老人等々、例を挙げれば限りはありませんが、とにかく縁あって巡り会った人を一人ずつ一人ずつ救っていかれたのです。
 一九七九年度のノーベル平和賞を受賞されたインドのマザー・テレサさんは、こう言っておられます。
 「わたしは目の前に現れた一人を幸せにするために全身全霊を捧げます」
 「わたしは、ある人の世話をします。そして、もし出来るなら、他のもう一人の世話をします」
 「キリストは目に見えませんから、キリスト自身に愛を表すことは出来ません。でも、他の人はいつでも目に見えます。もしキリストが目の前にいらしたらしてさしあげたいと思うことを、その人のためにするのです」
 目の前にいるかわいそうな人にあらん限りの愛を注ぎ、その人を助けるためにあらゆる努力をする。それが積もり積もって九千人もの孤児を救われたのです。
 このように、神や仏と一対一となって信仰を集中し、現実に人を救う場合も一
対一で救う。これが信仰というものの原点であり、親鸞上人のこの言葉も、そのように受動・能動両面から受け取らねばならないと思います。
題字 田岡正堂

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