1347 件中の 881 件目~ 900 件目を表示

法華三部経の要点74

我身命を愛せず但無上道を惜む

1 ...法華三部経の要点 ◇◇74 立正佼成会会長 庭野日敬 我身命を愛せず但無上道を惜む 仏に生かされていればこそ  勧持品の後半は、多くの菩薩たちが「世尊の滅後に法華経の教えを説きひろめます」とお誓いする力強い言葉に終始しています。まず、こう申し上げます。  「世尊、我等如来の滅後に於て、十方世界に周旋往返(しゅせんおうへん)して、能く衆生をして此の経を書写し、受持し、読誦し、其の義を解説し、法の如く修行し、正憶念せしめん、皆是れ仏の威力ならん。唯願わくは世尊、他方に在(ましま)すとも遙かに守護せられよ」  この一節に、後世の法華経行者のなすべきことが尽くされています。そして、われわれ立正佼成会会員はそのとおりのことを実践しているという自負と自信を持っていいと思います。とくに「十方世界に周旋往返し(この世のあらゆる場所に何べんも行き来して)」というくだりは、立正佼成会が国中のあらゆる所ばかりでなく諸外国へも実質的な広宣流布を行っていることを宣(の)べているものと言ってもいいでしょう。  もう一つここのくだりで注目すべきは「皆是れ仏の威力ならん」という一句です。法華経は「自力」を重んずる努力主義の教えだといわれています。たしかにそれに違いありませんが、しかし、一面では、すべての衆生が仏さまに生かされていることを強調し、仏さまに帰依し恋慕渇仰(れんぼかつごう)することによってそのご加護を受けることをも力説しているのです。いや、宗教の信仰であるかぎり、神仏の存在を無視した「自力」のみの教えがあるはずはなく、「自力」の最右翼である禅宗でも、道元禅師などは「わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえ(家)になげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき云々」と言っておられます。  法華経でも、ここにあるとおり、われわれがなすあらゆる菩薩行は自分でやっているようでも、すべて仏さまのお力によるものだと説いているのです。 これぞ法華経行者の合言葉  この品の後半にある偈は、「勧持品二十行の偈」といわれ、日蓮聖人がここに述べられていることがひとつ残らず自分の身の上に現れてきたことによって「自分こそ末法の世に法華経を説きひろめる使命を持って生まれてきた者だ」という自覚を得られたということでも有名です。その中に次の一句があります。法華経にある数々の名句中の名句といってもいいでしょう。  我身命(しんみょう)を愛せず 但(ただ)無上道を惜む  「わたくしどもは命さえ惜しいとは思いません。ただ仏さまのお説きになったこの無上の教えに触れることのできない人がひとりでもいることが何より惜しいのでございます」  法華経に生き、法華経に死ぬ者の烈々たる心情です。人間よほど長生きしてみたところで百歳そこそこです。その一生を、ただ利己の欲のため、名誉のため、快楽のため、権勢のためにあくせくして過ごしてしまうのは、なんというもったいないことでしょう。  たとえただ一人でもいい、仏道に導いて幸せにしてあげる。ただ身のまわりの一隅でもいい、世の中を明るくし平和にする。それこそが、この世に生まれてきたことの真の意義です。ましてや、仏さまのお使いであるという意識をハッキリ持てば、一人でもこの教えに触れぬ人がいるかぎりジッとしてはおれぬという烈々たる意欲がわいてくるはずです。その意欲をそのまま実行に移して完全燃焼させることこそ、人間として最高の生き方と言っていいでしょう。  「我身命を愛せず 但無上道を惜む」。一日に何度でも、思い出すごとに口ずさむべき、法華経行者の合言葉であります。 ...

法華三部経の要点75

法華経伝道者の身の振る舞い

1 ...法華三部経の要点 ◇◇75 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経伝道者の身の振る舞い いつも柔和で落ち着いて  安楽行品に入ります。この品は、文殊菩薩が「後の世においてはどんな心がけでこの法華経を説いたらよろしいのでしょうか」とお尋ねしたのに対して、(一)身の振る舞い(身安楽行)・(二)言葉の使い方(口安楽行)・(三)心の基本的な持ち方(意安楽行)・(四)伝道者としての誓いと祈り(誓願安楽行)の四つに分けてこまごまとお教えになった章です。まず初めに、  「若し菩薩摩訶薩忍辱の地に住し、柔和善順にして卒暴ならず、心亦驚かず、又復法に於て行ずる所なくして、諸法如実の相を観じ、亦不分別を行ぜざる、是れを菩薩摩訶薩の行処と名く」  とお説きになります。この一節に、誓願安楽行を除く(一)(二)(三)の基本が尽くされていますので、このくだりを解説しておきましょう。現代語に意訳しますと、こういうことです。  「もし法華経の伝道者が、いつも忍耐づよい境地におり、柔和な心を持ち、我(が)を張らずに正しい理によく従い、挙動に落ち着きがあり、つねに『すべてのものごとはもともと空である』という実相を観じて現象(法)にとらわれることなく、と同時に、目の前にある現象は起こるべくして起こったものであることをも認識して、現実を無視した判断や対処をする過ちをおかす(不分別を行ずる)こともないならば、それが菩薩としての正しいあり方である」  この一節の前半はまことにそのとおりで、できればいつもニコニコしていて、立ち居振る舞いがゆったりしており、怒りを表にあらわしたりせず、人に親しまれるような態度でおればいいわけです。  ところが、後半が問題です。つねに「空」を観じていることは普通の人にはなかなか難しいことです。ですから、こうすればいいのです。「空」の教えから導き出され、それを現実に即して説かれた「諸行無常(すべての現象は変化する)」という真理と、「諸法無我(すべての人・すべての物は相互依存、すなわち持ちつ持たれつで存在している)」という真理をつねに心に置いておればよいのです。これならば、自分も納得できるし、人をも納得させることができると思います。 利益を求める心を持たず  さて、この一節のあとに、いろいろな地位や職業の人に近づいたり親しくしたりするなということが説かれていますが、二十世紀の今日においては事情がたいへん違ってきています。そういえば、前の「勧持品二十行の偈」に法華経の行者がさまざまな迫害に遭うことが説かれていますが、日蓮聖人の時代まではそうであっても、現在はまったくそんなことがありません。時代の変化です。  こういった変化があることは、「諸行無常」の真理に説かれているとおりですから、経文の一語一句にこだわることなく、どんな地位の人であろうが、どんな職業の人であろうが、どしどし近づき、親しくし、仏道に導かなければなりません。  ただ、ここのくだりに「是の若(ごと)き人等 好心を以て来り 菩薩の所に到って 仏道を聞かんとせば 菩薩則ち 無所畏の心を以て 悕望(けもう)」を懐(いだ)かずして 為に法を説け(こういう人たちが素直な気持ちでやってきて、仏道について聞こうとするならば、なにものをも恐れはばかることなく、自信を持って、しかもなんら求める心を持たずに法を説きなさい)」と断り書きがしてあることを見落としてはならないのです。  ここのくだりでは「求める心を持たず」ということが特に大事であって、物質を求める心はもちろんのこと、偉く見てもらおうとか、名誉を得たいとか、そういった私心など一切いだくことなく法を説かなければならないのであります。 ...

法華三部経の要点76

和顔をもって法を説け

1 ...法華三部経の要点 ◇◇76 立正佼成会会長 庭野日敬 和顔をもって法を説け 批判についての慎み  法華経布教者の言葉の使い方(口安楽行)については、まず次のように説かれています。  「楽(ねが)つて人及び経典の過(とが)を説かざれ。亦諸余の法師を軽慢せざれ。他人の好悪長短を説かざれ」  現代語に訳するとこうなります。「好んで人の欠点を掘り出したり、経典のあら探しをするようなことがあってはならない。また、教えを説く他の人たちを軽べつする気持ちを持ってはならない。他人のよしあし、長所・短所などをあげて批判することも避けなければならない」。  同じ法華経を説く他の人々に対してはもちろんのこと、仏教の他の宗派の人々や、他の宗教に対してもこのような心がけを持っていなければなりません。  批判ということも大切です。しかし、それは、政治とか、外交とか、技術とか、産業とか、文化とかいった現実的な問題において大切なのであって、信仰というその人ないしその民族の魂に深くしみ込んでいるものは批判の対象外のものなのです。もしそのタブーを犯すようなことがあれば、必ずそこに無用の争いが巻き起こり、その争いは根が深く、どこまで拡大するかわかりません。  人を批判したり、訓戒したりする場合も、その人の本質にかかわる言葉は絶対に慎まなければなりません。「大体おまえは頭が悪いよ」とか「あんたって冷たい人なんだから」といった言葉は、相手の胸にグサッと突き刺さり、いつまでも消えません。  批判や訓戒は、行為のうえに現れた事実そのものに即すべきです。よくない行為をした本人は、その事実を自分自身よく承知しているのですから、その行為についてしかられたり、注意されたりしても、余計な恨みをいだくことはないのです。この点よくよく心得ておきたいものです。 方便なくして人は導けない  口安楽行の積極面については、次のように説かれています。  「若し比丘 及び比丘尼 諸の優婆塞 及び優婆夷 国王・王子 群臣・士民あらば 微妙の義を以て 和顔にして為に説け 若し難問することあらば 義に随つて答えよ 因縁・譬諭をもつて 敷演し分別せよ 是の方便を以て 皆発心せしめ 漸漸に増益して 仏道に入らしめよ」  じつに細やかなご指導です。まず和顔を以て説けとあります。終始おだやかな態度で、できればニコニコ顔で説法しなさいというのです。  それも「微妙の義を以て」とあります。仏法の本義は、奥の深い、いわく言い難い微妙なものです。その深い内容を、だれの胸にもしみ入るように、わかりやすく説きなさい、というのです。その具体的な方法は次の一節に述べられています。  「もし難しい質問をしてくる者があったら、必ず仏道の本義にもとづいて答えよ。ただし、その本義を、あるいは実例(因縁説)をあげたり、譬えを引いたり(譬説)、さまざまな方法でおしひろめて説くことである。このように相手の機根にふさわしい方便を用いて、仏道に入ろうという心を起こさせ、その心をだんだんと強めるように指導して、いよいよ本格的に仏道に入るように仕向けることである」  この方便(たくみな手段)ということこそが大事なのです。法華経の二つの柱の一つとして「方便品」という章が設けられているほど大切なものです。この方便を身につけるには、何はともあれ人を導いてみることが第一です。試行錯誤もいろいろとありましょう。案外うまくいくこともありましょう。そうした体験の積み重ねによってこそ、ほんとうの方便が身につくのです。付け焼き刃は役に立ちません。とにかくお導きの実践こそが最高の道なのです。 ...

法華三部経の要点77

衆生とも仏さまとも一体感を持つ

1 ...法華三部経の要点 ◇◇77 立正佼成会会長 庭野日敬 衆生とも仏さまとも一体感を持つ 一切衆生への大悲の心とは  第三の、法華経布教者の心の持ち方(意安楽行)の教えですが、細かいご指導としては偈の最初にある「若し是の経を説かんと欲せば 当に嫉(しつ)・恚(ち)・慢・諂誑(てんのう)・邪偽の心を捨てて 常に質直の行を修すべし」という一説にまとめてあります。嫉はねたみ、恚は怒り、慢はおごり、諂はへつらい、誑はこじつけ、邪はよこしまな心、偽はいつわりの心です。このような心を持つことなく、つねに誠実で素直な精神で法を説きなさい、というのです。  もっと根本的な心の持ち方について、次のような名句が説かれています。  「当に一切衆生に於て大悲の想を起し、諸の如来に於て慈父の想を起し、諸の菩薩に於て大師の想を起すべし」  すべての衆生に対しては大きな哀れみの心を持ち、その苦しみを見てはわが身の苦しみと感ずるような心根(こころね)がなくてはならない。もろもろの仏に対しては、自分のやさしい父であるという気持ちを持たなければならない。もろもろの菩薩に対しては、自分の大切な先生であるという思いを持たなければならない……というのです。  これはもはや「理」でもなく「義」でもありません。心情の問題です。情緒の問題です。この一切衆生というのは、人間ばかりでなく、あらゆる動物をも、植物をも含みます。むかしの仏教修行者は、道を歩くときも小さな虫を踏まないように気をつけました。飲み水を漉(こ)す布をいつも持ち歩いていましたが、それは不純物を飲まないためではなく、水の中にいる小虫を飲み込んで殺さないためでした。二十一世紀を迎えようとする現在にこそいよいよそうした自然の生物に対する心づかいが必要になってきたのではないでしょうか。 仏さまと一体になってこそ  「諸の如来に於て慈父の想を起し」というのも、仏教徒にとって大切な心情です。仏さまを、何か自分を管理している厳しい存在のように思うのは間違いです。そのように思って身をつつしむのもいちおうはいいことでしょうが、それでは仏さまと対立していることになり、ほんとうの帰依とは言えません。仏さまをやさしい父のように思い、寿量品にあるように恋慕渇仰すればこそ、仏さまとの一体感が生じます。仏さまにしっかり抱かれているのだという思いが生じます。そうなったときにこそ、仏さまの生かす力が心身いっぱいに充ち満ちてくるのです。仏教徒ならではの法悦の境地であります。  「諸の菩薩に於て大師の想を起すべし」の菩薩というのは、同じ法華経を行ずる諸先輩はもちろんのこと、他の宗教の指導者の人びとを含むと考えなければなりません。教義や信仰の所作こそ違え、世の人びとを幸せにすることを願い、その手段に思いをこらすことは、どの宗教でも同じなのですから。  ここで思い出すのは、吉川英治先生の言葉です。  「自分以外の人はすべてわが師である」  こういう謙虚な心を持ち、触れ合うすべての人からなんらかの教えをくみ取ろうという積極的な気持ちを持っておられたからこそ、数々の名作を生み、国民的文豪と呼ばれるほどになられたのでありましょう。  いずれにしても、この「当に一切衆生に於て大悲の想を起し、諸の如来に於て慈父の想を起し、諸の菩薩に於て大師の想を起すべし」の一節は、みなさんぜひ暗記してほしいと思います。そして、時に応じてこれを暗誦していただきたいものと思います。 ...

法華三部経の要点78

法華経を説きひろめることが最高の人生

1 ...法華三部経の要点 ◇◇78 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経を説きひろめることが最高の人生 大慈・大悲の心を持とう  第四の「誓願安楽行」についてはこう説かれています。  まず「仏法が忘れ去られようとする末の世において法華経を受持する菩薩は、在家・出家の人びとに対して、その人びとの幸せを願う大きな心(大慈)を持たなければならない」とあります。これはもう解説の要はないでしょう。  次に「みずからの人格完成ばかりのために仏法を学び、世の人のために仏法をひろめる努力をしない人(菩薩に非=あらざ=る人)に対しては、どうしてでもその人を救いたいという大きなあわれみの心(大悲の心)を起こして、つぎのように決意しなければなりません」とあります。  それはどういう決意かといいますと、「このような人たちは、仏の方便・隨宜の説法(それぞれの人と場合に即したケース・バイ・ケースの説法)の真意が法華経に集められ、結晶されて説かれていることを知らないのだ。それを聞こうともしないし、したがって覚えることもない。尋ねようともしないし、したがって信ずることもない。しかし、たとえ今はこの法華経の教えを聞かず、信ぜず、理解しなくても、もし自分が最高の悟りを得たならば、どんな土地にいようとも、神通と智慧の力をもってそのような人たちを導き、この教えにはいらせずにはおかない」という決意であるべきだ……というわけです。 「入信即布教者」これぞ菩薩  この誓願の中でひとつ気になるのは、「もし自分が最高の悟りを得たならば」という前提です。当時はそれぐらい法華経を理解し布教するというのは難しかったのでしょう。見宝塔品に「須弥山(しゅみせん)を手に取って他の世界へ投げるよりもこの法華経を説くことは難しい」というような「六難九易」の法門が説かれているぐらいですから。  しかし、現在は事情がたいへん違ってきています。とくに大乗相応の国といわれている日本では、聖徳太子このかた人びとの魂の底に法華経精神が深く沈んでいますし、また一般に教養のレベルが高くなっていますから、それほど難事ではなくなっています。また、法華経のくわしい解説書も市販されていますし、その他の文書布教の媒体もそろっています。ですから、昨日法華経に触れた人でも、ほんとうにその教えに感動を覚えた人ならば、今日からでもそれを人に伝えることも可能になってきました。ですから、当時と違って「入信即布教者」――これが現代の菩薩の条件であることを、ここであらためて知ってもらいたいと思います。  最後に、以上の四つの安楽行を成就する人は、神々が必ず守護されるであろうと説かれています。とくに「人あり来って難問せんと欲せば、諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護し、能く聴者をして皆歓喜することを得せしめん」という一節、これはわたし自身がつねに体験してきた事実です。菩薩である会員の皆さんも、しばしばそういう実感を得られていることと思います。ほんとうにありがたいことです。  とにかく、至上の真理の教えである法華経を説きひろめることこそが人生の最も価値ある行いであることを、ここで再認識いたしましょう。 ...

法華三部経の要点79

佼成会会員は現代の地涌の菩薩

1 ...法華三部経の要点 ◇◇79 立正佼成会会長 庭野日敬 佼成会会員は現代の地涌の菩薩 人間の教化は人間の手で  従地涌出品に入ります。  世尊が安楽行品の説法を終わられますと、この娑婆世界以外の国土から来ていた菩薩たちが、「わたくしどもは世尊の滅後もこの地にとどまりまして、この教えを説きひろめたいと存じますがいかがでしょうか」と申し上げます。  それをお聞きになった世尊は、「お志はありがたいが、その必要はありません。この娑婆世界にはずっと昔から無数の菩薩たちがおり、法華経を説きひろめる役目はその人たちがやってくれますから」とお答えになります。その瞬間、大地に無数の割れ目ができ、そこから、ほとんど仏に近いような吉相を具えた菩薩たちが無数に湧(わ)き出してきたのです。その菩薩たちは、一人で一千万人の弟子を引き連れている者もあれば、百万人から一万人までの弟子を従えている者もあり、千人ないし百人、あるいは五人・四人・一人の弟子を連れている者もありました。  その中の指導者格である上行(じょうぎょう)・無辺行(むへんぎょう)・浄行(じょうぎょう)・安立行(あんりゅうぎょう)という四大菩薩が世尊の前に進み出てごあいさつを申し上げますと、世尊はずっと前からの知り合いのように親しそうにそれにおこたえになりました。  その様子を見ていた弥勒菩薩をはじめとする娑婆世界の菩薩たちは不思議でたまりません。弥勒菩薩が「いったいこのりっぱな菩薩方はどういう因縁の方々でしょうか」とお尋ねしますと、世尊は「わたしが悟りを開いてから教化した者たちで、これまで娑婆世界の下の虚空に住していたのである。しかも、さらに真実のところを言えば、はるかな昔からわたしが教化してきた者たちなのである」と答えられます。いよいよわからなくなりました。  これもお釈迦さまの一つの方便で、次の寿量品で仏の本体を明らかにされるその前提としてこういう不思議なことをおおせられたわけなのです。仏さまそのものについては寿量品までの宿題として、大地から湧き出してきた菩薩とはどんな人たちであるかをあらまし説明しておきましょう。 大地を潜り抜けてこそ菩薩  世尊は「この菩薩たちは娑婆世界の下の虚空に住して悟りの境地を楽しんでいた者たちである」とおおせられています。ということは、法華経の根底である「空」の悟りに安住し、その悟りを人間世界救済のために発動せずにいた人たちのことなのです。たとえば、「人間の本質は平等な仏性である」ということを心底から悟ってはいるのだけれども、内にその悟りを楽しみ、どの人を見てもそんな気持ちで眺めているだけの、円満ではあるが行動力に欠けた人です。  ところが、どんな聖者でも、賢者でも、そうした内心の悟りに安住しているうちは、世の中を救う力とはなりえません。どうしてもいっぺん大地をくぐり抜ける必要があるのです。すなわち、現実社会の生活を体験し、煩悩の汚れと濁りの中であえいでいる大衆の中に飛び込み、その苦しみ悩みにジカに触れてみる必要があるのです。これが地涌の菩薩にほかなりません。立正佼成会会員の皆さまも、まさにこの地涌の菩薩なのであります。  つまり、この世ではじめて仏法に触れたようですが、じつは過去世において仏さまの教えを聞いており、その仏縁によってまたこの世でも法華経に遇いたてまつったのです。「はるかな昔からわたしが教化した者たちである」というお言葉は、このように受け取っていいと思います。 ...

法華三部経の要点80

釈尊は今も生きておられる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇80 立正佼成会会長 庭野日敬 釈尊は今も生きておられる 求めればどこにでも示現  方便品第二と共に法華経の二本の柱の一つとされている如来寿量品第十六に入ります。なぜそんなに大切な章であるかといいますと、ここで仏さまの本体を初めてハッキリと示されるからです。当時のインドの大衆は、仏さまといえば現在法を説いてくださっている釈迦牟尼世尊とばかり思っていました。ところが、じつはそうではなく、世尊が入滅されるということは、根本の真理(真如)そのものである法身の仏(本稿66回参照)と一体になられることであり、必要とあらばいつでもどこにでも示現してわれわれを教化してくださるのだということを、ここでハッキリとお説きになったのです。   このことは、現実のわれわれにとってじつにありがたいことです。釈迦牟尼世尊は今も生きておられて、われわれが熱烈にその教化を求めれば必ず救いの手を差し伸べてくださるというのですから。そのことは「衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に一心に 仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜まず 時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず」という偈文によって明らかです。          この霊鷲山というのはインドの特定の山ではなく世界のあらゆる場所であることは、これも偈文の「餘国に衆生の 恭敬し信楽する者あれば我亦彼の中に於て 為に無上の法を説く」によって明らかです。  このことが寿量品の要点の第一であり、このことを心の底から信じられれば、ほんとうにこの上ない救いを得られるのであります。 仏様の分身に会う有り難さ  この霊鷲山がインドのある特定の山だけをさすのでないのと同様に、世界中の至る所に示現されるお方もまた特定の応身仏としての釈迦牟尼世尊だけなのではなく、法身仏となられた釈迦牟尼世尊の分身であるさまざまな仏さまであることにも留意しなければなりません。見宝塔品に「釈迦牟尼仏の所分の身の百千万億那由他恒河沙等の国土の中の諸仏、各各に説法したまえる」とあるように、お釈迦さまの分身は十方世界のあらゆる所で法を説いておられるのです。それが寿量品の要点の第二です。  わたし自身の信仰体験からしても、法華経に導いてくださった新井助信先生も釈迦牟尼世尊の分身だったに相違ありません。また、わたしの宗教協力の精神をいよいよ確固たるものにしてくださった教皇パウロ六世もやはりそうでありましょう。  そのほか、清水寺の大西良慶師、比叡山の山田恵諦師、中国佛教協会会長の趙樸初師、アメリカのユニテリアン・ユニバーサリスト協会会長グリーリー博士、イギリスのカンタベリー大主教だったラムゼー師等々、わたしにとっての釈迦牟尼世尊の分身は数えきれないほどです。佼成会の信者さんの体験説法を聞いていて「ああ、この人もやはり仏さまの分身だなあ」と感ずることがしばしばあります。  現世で触れ合った方々だけでもこのとおりです。ましてや、前世に、前々世に、長い長い過去世に会いたてまつることのできた分身仏は、経文にあるように無量百千万億でありましょう。こう考えてきますと、自分の身の幸せをつくづくとかみしめざるをえません。皆さんも、どうかこのことに深く思いを致して頂きたいものです。 ...

法華三部経の要点81

衆生ほんらい仏なり

1 ...法華三部経の要点 ◇◇81 立正佼成会会長 庭野日敬 衆生ほんらい仏なり 仏の世界は常住不滅  寿量品のもう一つのありがたさは、仏さまの世界の常住不滅とその美しさ安楽さを説き示してくださっていることです。すなわち、偈の中にこう仰せられています。  「衆生劫尽きて 大火に焼かるると見る時も 我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり 園林諸の堂閣 種種の宝をもって荘厳し 宝樹花果多くして 衆生の遊楽する所なり」  「劫尽きて」というのはこういうことです。古代のインドでは、一つの世界が成立し、継続し、破壊し、次の世界が成立する経過を四つに分けて考えていました。  成劫(じょうこう)――地球のような天体が成立し、そこに植物や動物などの生命あるものが生まれる時期。  住劫(じゅうこう)――その世界が大体そのままの形を保って続いていく時代で、現在はその時代に当たります。  壊劫(えこう)――破壊期です。まず生命あるものが死滅してゆき、つぎに大地がこわれ、一切が無に帰する時期。いま地球はこの心配をかかえています。  空劫(くうこう)――形あるものが一切なくなった時代。  この空劫が終われば、また成劫が始まり、住劫・壊劫・空劫と続き、こうして宇宙は永遠に新生と死滅を繰り返していく……というのです。そこで、前述の偈を現代文に訳せば「衆生の目から見れば、この地球が現在のような状態で存在する時代が終わって世界全体が大火に焼かれてしまうと見える時代が来ても、仏の国土は安穏で天上界の者や人間界の者がいつもたくさん集まって住み、楽しい生活を送っているのである。美しい花園もあれば、静かな林もあり、美しい建物がたくさんあり、それらは光り輝く宝玉によって飾られている。美しい木々には花が咲き乱れ、実が豊かにみのっており、その下で衆生が何の憂いもなく遊び楽しんでいる」。  不安と恐怖に充ち満ちたいまの世の中においても、この偈をよくよく味わえば、なんともいえない安らかな思いがわき上がってくることでしょう。その大安心が胸中に常住するようになれば、寿量品の説く至高の境地にはまだ達し得ないにしても、信仰者ならではの法悦の中に生きていくことができるでしょう。 われわれの本質は仏と共通  それでは、寿量品の説く至高の境地とはいったいどんなことでしょうか。それは、この現実の世界に現れた「応身の仏」釈迦牟尼世尊は、宇宙の大生命ともいうべき久遠実成の釈迦牟尼世尊(本仏)の示現にほかならず、その本仏こそ、不生不滅の永遠の存在であるというギリギリの真実を完全に悟ることです。  ところで、振り返ってわれわれ衆生の身の上を考えてみますと、われわれも仏になりうる仏性を持っているわけですから、われわれの本質であるその仏性も、やはり仏さまと同じく不生不滅であるということになります。それが法華経全体を貫く真実であることを、ここで改めてかみしめたいものです。 ...

法華三部経の要点82

寿量品の究極は自由自在の人となること

1 ...法華三部経の要点 ◇◇82 立正佼成会会長 庭野日敬 寿量品の究極は自由自在の人となること われわれの仏性も不生不滅  前回に、われわれ衆生が仏さまと共通の不生不滅の仏性を持っているという真実について述べました。といえば、いかにも畏れおおい気がしますが、それはわれわれが「仏」という名にこだわり、仏といえばすぐ応身の仏のお釈迦さまを思い出すからでしょう。  ところが、この寿量品で明らかにされたように、仏というもののギリギリのところは、久遠実成の本仏にほかならないということなのです。 本稿49回にくわしく書きましたように、この宇宙は、百五十億年前のビッグバンによって生成したというのが定説となっていますが、その時に飛び散った放射線からさまざまな元素が生じ、それがさまざまに結び合って諸物質となり、もろもろの生命体となったわけです。  では、そのビッグバンを起こしたのは何かというと、それはもはや科学的に証明できるものではなく、学者たちもお手上げの状態です。ある学者によれば、それは宇宙意志ともいうべきものだというのです。宇宙意志といえば一種の「心」です。「根源のいのち」といってもいいでしょう。そういう存在を、ある民族は「神」と呼び、ある民族は「天」と呼びました。われわれ仏教徒はそれを「久遠実成の本仏」と呼んでいるわけです。  これも第49回の処で書いたことですが、一九八七年二月十四日に大マゼラン星雲中に発見された超新星の光の分析をしたところ、その元素の配列が人間の体を構成している元素の構成比と全く同じであることがわかったそうです。このことからも、人間が宇宙の星々と共通のいのちを持っており、宇宙の大生命ともいうべき久遠本仏の分身であることがわかるでしょう。  ですから、前回で解説したように「衆生劫尽きて大火に焼かるると見る時」も、本仏さまの国土は安穏なのです。つまり、不生不滅であり永遠のものなのです。  したがって、その分身であるわれわれの本質の仏性も不生不滅で永遠のものなのです。現象としてあらわれている肉体は滅んでも、根源のいのちである仏性は滅びるということがないのであります。 久遠本仏の水中にいるわれら  このことを心底から悟ることができれば、心はつねに自由自在であり、肉体や環境がどんなに変化しようと、泰然としておられるのです。徳川時代の名僧・白隠禅師は法華経によって悟りを開かれた方ですが、その著『坐禅和讃』の中でこううたっておられます。  衆生本来仏なり  水と氷のごとくにて  水をはなれて氷なく      衆生の外に仏なし  まことにこのとおり、われわれは久遠本仏という水の中に浮かんでいる氷のようなものなのです。氷だから水とは別物だと思っているのですが、じつは同じ水なのです。その真実を、ここで静かにかみしめたいものです。 ...

法華三部経の要点83

身辺のマイナス現象をもプラスに

1 ...法華三部経の要点 ◇◇83 立正佼成会会長 庭野日敬 身辺のマイナス現象をもプラスに 「他事を示す」とは何か  寿量品には重要な句がいろいろあります。その中でも特に大切なものの一つはこれです。  「如来の演(の)ぶる所の経典は、皆衆生を度脱せんが為なり。或は己身を説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す」  衆生を迷いから解脱させるためには、まず仏について説くのにもいろいろな説きかたをするのだ……というのです。あるときは、仏の本体(己身)について説くこともあれば、あるときは特定の相をとって現れる仏(たとえば阿弥陀如来や薬師如来等)について説くこともある。また仏は、あるときは仏の身(己身)として現れることもあれば、いろいろな聖人・賢人(他身)として出現することもある……というのです。  次の己事と他事については諸説がありますが、「仏の救いをそのままの形(己事)で示すこともあれば、マイナスの形(他事)を示して救いの手を差し伸べることもある」と解するのがいちばん実際的だと考えます。  たとえば、こういうことです。食中毒を起こせば発熱・吐き気・腹痛・下痢といった症状が現れます。すると、さっそく薬を飲んだり、医者にかかったりしてそれを治すでしょう。もし、なんらの症状も起こらなければ、腸内のサルモネラ菌なり病原大腸菌なりがドンドン増え、ついに死に至るに相違ありません。ですから、発熱・吐き気・腹痛・下痢というイヤな症状が起こればこそ助かるのであって、このようなのが他事の救いなのです。 「他事」をも素直に受け取れば  この「他事」はわれわれの暮らしの中によく起こってきます。大は政治・外交から、小は事業の経営や家庭内の問題まで。  たとえば外交問題の場合、諸外国からさまざまな非難を浴びたり、無理難題とも見える要求をつきつけられたりすることはしょっちゅうです。  その場合、ムキになって反発したり、敵対行動あるいは報復行為をしたりすれば、そこから事はコジれてきて、どうにもならぬ事態になってしまう恐れが十分にあります。ですから、一歩踏みとどまって、自国が過去になした行為や現在の政策にわがままや過ちがないかを反省すれば、そこから互譲と融和の道が開けてくるでしょう。  事業の経営にしても、業績が不振に陥ったのをきっかけに、目が覚めたようになって方針を改め、人事を刷新し、生産性を高め、かえって従前より繁栄におもむいた例はたくさんあります。これも「他事」の救いにほかなりません。  家庭の問題にしても、子供の登校拒否とか、主人の浮気とか、姑と嫁の葛藤(かっとう)といった悲しむべき事態が起こったとき、親なり、夫なり、妻なり、姑なり、嫁なりが、心の誤りに気づいてそれを直したために、以前よりはるかに温かい家庭となった例は、立正佼成会には数え切れないほどあります。  とにかく、この「他事を示す」ということの意味をしっかりと悟れば、それがあなたの人生にどれほどの幸せをもたらすか、計り知れないものがありましょう。 ...

法華三部経の要点84

信仰の功徳は人生全体に及ぶ

1 ...法華三部経の要点 ◇◇84 立正佼成会会長 庭野日敬 信仰の功徳は人生全体に及ぶ 仏寿無量を知る真の功徳  分別功徳品に入ります。この品は、前の如来寿量品で説かれた「仏の本体は、宇宙の万物を生かしている宇宙の大生命ともいうべき久遠実成の本仏であり、無量の寿命をもたれて常にわれわれと共にいてくださるのだ」という真実を心底から悟ることができた信仰者が得る功徳を十二項目に分け(分別し)て説き、併せて信仰者の心がけについて説いた章です。十二に分けて詳しく説いた功徳については『新釈法華三部経七巻』で読んで頂くとして、ここでは現代のわれわれにふさわしく、わかりやすくまとめてみましょう。  まず第一に、仏さまが無量の寿命をもたれていて、いつもわれわれと共にいてくださることを確信することができれば、「ああ、ありがたい」という喜びがわき起こってくるはずです。この喜びこそが信仰者でなくては得られない功徳なのです。  さらに進んで、仏さまのご寿命が無量であれば、その仏さまと本質的に同じである自分の仏性も、無量の寿命をもっていることを理解することができます。仏寿無量という真実は、そこまで読み切って初めて無限の功徳となるわけです。  ところが、自分ひとり内なる心にそのような功徳を得ても、世の中の多くの人びとが相変わらず迷いの中にあって我(が)の角突き合いをしているのでは、その争いは必ず自分の身にも及んでくるわけで、結局はほんとうの幸せを得ることはできません。ですから、自分がつかんだ真実を一人でも多くの人のために説き、その幸せをおすそ分けしなければならないのです。 身体にも生活にも現れる  さて、この「分別功徳品」の後にも、「随喜功徳品」「法師功徳品」と、信仰の功徳について説く章が続いています。したがって、ここで功徳ということについてあらまし考えておくことにしましょう。  心に得る功徳については先に述べた通りですが、心が変われば身体にも影響がないはずはなく、人生全体にも変化が起こることも常識からしても理解できることです。  身体に及ぼす影響は、近年大いに発達した「心身医学」が臨床的に証明していることで、心配事があれば食欲がなくなり、恐怖を覚えれば心臓がドキドキするぐらいはだれにもわかることですが、心とは一見なんの関係のなさそうな目の病気や皮膚疾患やぜんそくやじんましんなどでも、その原因が精神作用にあることの多いことが実証されています。  また、信仰生活に入って心の持ち方が変われば、自分の仕事や生活に対する態度も変わり、人生そのものが上向きになりますから、物質的にも恵まれるようになるのはごく自然な成り行きです。  伝教大師がいみじくも言われたように「道心に衣食(えじき)あり」なのです。  以上に述べたような功徳は、信仰の結果として自然に現れてくるものですから、素直にありがたく受け取ればよいのです。なにも「信仰は心だけの問題だから、その他の功徳は一切不要だ」などとこだわることはないのです。 ...

法華三部経の要点85

入会したらすぐ布教者に

1 ...法華三部経の要点 ◇◇85 立正佼成会会長 庭野日敬 入会したらすぐ布教者に 感動あってこそ進歩がある  隨喜功徳品に入ります。隨喜というのは、教えを聞いて感激し、歓喜し、心の底から「ああ、ありがたい」と思うことです。この感動こそが信仰の出発点でもあり、また究極のゴールでもあって、信仰は感動に始まって感動に極まると言ってもいいでしょう。  実生活においても、感動することのない人は、おおむね向上の意欲に欠け、広い意味での成功のきっかけをつかむことの少ない人です。また「ありがたい」と感ずることの少ない人は、たいてい心が狭く、利己的で、ひとに嫌われて寂しい一生を送る傾向が多分にあります。  反対に、何事につけても「ありがたい」「ありがたい」と言い言いして暮らす人は、それだけでも幸せな人であり、境遇はどうあろうとも、心豊かな一生を送る人なのです。江戸末期の国学者橘曙覧(たちばなのあけみ)の歌に「たのしみは朝おきいでて昨日まで無(なか)りし花の咲ける見るとき」とか「たのしみはまれに魚(うお)煮て児等(こら)皆がうましうましといひて食う時」などというのがあります。日常の何でもないようなものごとにも楽しみを覚え、ありがたいと感じる人の典型ともいうべきでしょう。お互いさま、こうありたいものです。 まず「教え」に触れること  さて、隨喜功徳品の要点は「五十展転」の法門に尽きると言っていいでしょう。お釈迦さまはこうお説きになっておられます。  「もしある人が説法の座で法華経の教えを聞いて『ああ、ありがたい』という喜びを覚え、他のだれかに、自分の力でできる程度でいいから、いま聞いたばかりの話をしてあげたとしよう。それを聞いた人もまた同じような隨喜の心を起こし、同じように他の人に伝えたとしよう。こうして五十回も転々と伝えられたとして、その五十番目の人も『ああ、ありがたい』という感動を覚えたとしたら、その五十番目の人の得る功徳は、大富豪が一生のあいだあらゆる布施を行ったために得る功徳に、はるかに勝る価値があるのである。ましてや、最初に説法の座でこの教えを聞いて他の人に伝えた人の功徳となると、まことに無量無辺なのである」と。  立正佼成会において、「今日入会したら、明日から布教者になりなさい」と説き、創設以来それが実践されている根拠は、じつにここにあるのです。そして、実際に無量無辺の功徳としての救いが実現しているのです。  つぎに、隨喜にまでは至らなくても、説法の座でほんの少しの間この法華経の教えを聞いただけでも、その功徳は大きく、また、説法会であとから来た人に、身をずらして座らせてあげただけでも、その功徳はじつに大きいのだ……と説かれています。  これらはつまり、「縁」というものの大切さを言ってあるのです。われわれはすべて仏性を持っているのですが、縁あってその仏性が目を覚まさなければ、救いに達することができません。ですから、何よりもまず教えに触れることが大事なのです。  われわれは幸いにしてその縁に触れることができました。そのありがたさを一人でも多くの人に分けて差し上げなければ仏さまに申し訳ないのです。この品の結論はそこにあると知るべきでしょう。 ...

法華三部経の要点86

法華経は世間万事の指針

1 ...法華三部経の要点 ◇◇86 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経は世間万事の指針 菩薩の四無畏について  法師功徳品には、前の隨喜功徳品に登場する人よりさらに信仰が進んだ五種法師(受持・読・誦・解説・書写の五つの行を積極的にそして持続的に行う人)が目や耳や鼻や舌や意(こころ)に受ける功徳の極致を説いてあります。超人的な能力とも思われる機能を持つようになることが述べられていますので、われわれとは直接関係のないことのように思う人もおりましょう。しかし、われわれは、こうした記述の奥にある「心が変われば環境も変わる」という真実をくみ取らなければなりません。それが、こうしたお経文の受け取り方の第一義なのです。そういうことから、この品では、その中にある重要な語句の解説にとどめることにしましょう。  まず、眼の功徳の項の偈にある「無所畏の心」という語です。「おそれはばかることがない」という意味で、古来「菩薩の四無畏」として次の四ヵ条があげられています。  一、学んだ教えをすべて記憶しておれば、どんな人に法を説くにもおそれはばかることがない。  二、医師が患者の症状に応じて薬を処方するように、相手の性質や、教えを受け取る能力や、何を求めているか等々をよく見極めれば、心配なく法を説くことができる。  三、法の根本をよく心得ておれば、相手からどんな質問を出されても正しく答えることができる。だから、堂々とした気持ちで法を説くことができる。  四、法華経は広大無辺の教えだから、解釈の仕方でさまざまな疑問が出てくる。それらの疑問にはっきりした断定をくだすことができれば、おそれはばかるところなく法を説くことができる。  ただし、この四ヵ条は菩薩としての理想の境地ですから、初心の人は前の「五十展転」の法門にあったように「力に隨って」法を伝えていけばよいのです。そうした実践を重ねているうちに自然と法が身につき、こうした自由自在な布教者になることができるわけです。 説くことすべて正法に合致  もう一つの重要な語句は、意の功徳の項にある「若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん」です。現代語に訳せば、「もしその人が、日常生活についての教えや世を治めるための言論や、産業についての指導などを行っても、それらはおのずから正法に合致するであろう」というのです。  まさにこれは法華経の要点中の要点であり、名句中の名句であると言っていいでしょう。  法華経精神をしっかりと身につけておれば、例えば子供の教育について質問を受けても、「子供は仏さまからの預かりものだ」という真実にのっとってその指針を示しますから、大筋において誤ることなく答えられましょう。  また、例えば湾岸戦争後の外交や経済政策を論ずる場合も、譬諭品にある「諸苦の所因は 貪欲これ本なり」という教えにのっとれば、決して道を踏み違えることはありますまい。  このように、現実の世法に生かされるところが法華経のありがたさなのです。また、こうして世法の上に生かさなければ、法華経の真価は発揮されないものと知らなければなりません。 ...

法華三部経の要点87

仏性を認め合い拝み合ってこそ

1 ...法華三部経の要点 ◇◇87 立正佼成会会長 庭野日敬 仏性を認め合い拝み合ってこそ 人を礼拝した常不軽菩薩  法華経は文学性においても、最高の仏教経典だと言われていますが、その中でも常不軽菩薩品は最も迫真の感銘深い章であると言っていいでしょう。というのは、そこに登場する主人公がいかにも人間臭く、それを取り巻く人々もごく普通の凡夫たちだからであります。話はこうです。  はるかなる昔に、一人の菩薩比丘がありました。(ただ「比丘」といわず「菩薩比丘」といってあるところに注目)。その菩薩比丘は、町や村で人に会うごとにその人を拝み「わたしはあなたを敬います。けっして軽んじません。あなたは必ず仏になる人だからです」と言うのでした。  拝まれた人の中には心の曲がった人もいて、「何だと。おれを軽んじないだと。余計なお世話だ」とか「わしが仏になるんだって……うそもいい加減にしろ」とか、怒って言い返す人もいました。中には、腹を立てて石を投げつけたり、棒でたたこうとする人もありました。しかし、常不軽は、さっさと逃げて、遠くのほうから相変わらず「わたしはあなたを軽んじません。あなたは仏になる人ですから」と合掌して言うのでした。 法華経の二つの大事な骨格  ところが、この菩薩が病気にかかってまさに死に至ろうとした時、虚空から響く真理の声を聞き、それによって寿命を増益(ぞうやく)しました。それからというものは、いまの法華経と同じ内容の教えを多くの人に説きました。前に常不軽を迫害した人々も、その教えを聞いて、ようやく仏の悟りを得ようという志を起こしました。  常不軽菩薩はやがて死を迎えましたが、そののち何度も生まれ変わってはその世その世で仏に遇(あ)いたてまつり、そのつど法華経の教えを聞き、しかもそれを人々のために説きましたので、数え切れぬ生まれ変わりの後、ついに仏となることができました。  ここまでお話しになったお釈迦さまは、あらたまった口調でこうおおせられたのです。「その常不軽菩薩はほかでもない。わたしの前世の身であったのだ。わたしはたくさんの仏のもとでこの法華経を学び、受持し、読誦し、人のために説いたがゆえに、仏の悟りを得ることができたのである」と。  この前世物語の中に、法華経の大事な二つの骨格がハッキリと浮かび上がらせてあります。  その第一は、「すべての人の仏性を拝め」ということです。これこそが菩提心を育てる――現代的に言えば人格完成を目指す――ための大道なのです。人の仏性を認め、それを礼拝すれば、心はおのずからエゴから離れ、清らかにしかも温かになってくるからです。  第二に、「但(ただ)礼拝を行ず」は、その大道の出発点にしか過ぎず、さらに進んで法華経の教えを学び、そして人のために説くことが大事だということです。そうして世の多くの人がお互いの仏性を認め合い、拝み合うようになってこそ、この世にほんとうの平和が生まれるからです。  この「仏性の拝み合い」こそは、倫理・道徳の域をはるかに超えた、地球上すべての人間関係を美しくし、和やかにする究極の道なのであります。 ...

法華三部経の要点88

仏教は徹底した平和主義である

1 ...法華三部経の要点 ◇◇88 立正佼成会会長 庭野日敬 仏教は徹底した平和主義である 信念を貫くために逃げる  常不軽品にもう一つ大事な要点があります。それは「衆人或は杖木・瓦石を以て之を打擲すれば、避け走り遠く住して、猶お高聲に唱えて言わく、我敢て汝等を軽しめず、汝等皆当に作仏すべしと」ということです。  走って逃げるのを卑怯だとか弱い行為だとか思う人があるかもしれませんが、それは大きな間違いです。自分の主義主張をどこまでも貫き通すには命を惜しまなくてはなりません。生き抜かなくてはなりません。  常不軽菩薩がその典型なのです。逃げ走っても、信念は曲げませんでした。あいかわらず「わたしはあなた方を軽んじません。あなた方は仏になる人ですから」と言って拝みました。そういった態度こそが、ほんとうの意味の強い態度であります。 脈々と伝わる平和主義  そうした常不軽菩薩の生き方に、お釈迦さまの徹底した非暴力による平和主義が象徴されていることも見逃してはなりません。法句経に「怨みは怨みをもって報いれば、ついに消えることはない。怨みを捨てるとき、それが消えるのである」という不滅の名句が説かれていますが、お釈迦さま自身がそんなお方だったのです。たとえば、提婆達多がお命を狙って未遂に終わったとき、弟子たちがいきり立って仕返しをしようとしたとき、それをキッパリとお止めになったばかりか、法華経で「わたしが仏の悟りを得たのは、提婆達多という友人のおかげである」とまでおおせられています。  そのご精神は弟子たちにも脈々と伝えられていて、たとえば常随の侍者阿難の最期などに、それをまざまざと見ることができます。  阿難は年を取ってからマガダ国を去ってビシャリ国に移り住もうとしました。ところが、マガダ国のアジャセ王は阿難のような高徳の人に去られたのが寂しくてたまらず、自ら兵をひきいてその後を追いました。  追いついたときはすでに阿難はガンジス河の中流の舟の上でした。そして、対岸にはビシャリ国の軍が阿難を出迎えに来ていました。それを見た阿難は、このままビシャリ国に行っても、あるいはマガダ国へ引き返しても、必ず戦争になると見て取りました。そこで、平和を念じた阿難は、船上で自ら命を絶ったのでした。じつに悲しくも尊い最期でした。両軍は戦うどころではなく、号泣しながら共に遺体を火葬にし、その灰を二つに分けて持ち帰ったといいます。  仏教の徹底した平和主義の伝統は現代にも生き生きと残っています。一九五一年(昭和二十六年)、サンフランシスコで開かれた対日講和会議の席上で、セイロン(いまのスリランカ)代表のジャヤワルデネ氏は前出の法句経の名句を朗唱し、セイロンは日本に対して賠償を求める意思はないと演説されました。満場に万雷の拍手が起こり、しばらく鳴りやまなかったといいます。権謀術数のみの場と思われる外交の舞台にも、すべての人にある仏性が自然と顔を出した、じつに美しいシーンだったのです。 ...

法華三部経の要点89

すべては一に発し一に帰す(1)

1 ...法華三部経の要点 ◇◇89 立正佼成会会長 庭野日敬 すべては一に発し一に帰す(1) 信仰の対象はただ一つ  如来神力品は、釈迦牟尼仏をはじめとする諸仏が不思議な神力を現される神秘的な情景に終始していますが、じつはその中に法華経をつらぬく重要な真理と、世界の未来のあるべき真実のすがたが秘められているのです。その重要な真理というのは「すべては一つ」ということであり、そのあるべき真実のすがたというのは「現在はバラバラのように見えるものも、未来においては一つに帰する」ということであります。  まず、お釈迦さまが広くて長い舌をお出しになりますと、その舌は梵天という天界まで届いたというのです。これを「出広長舌(すいこうちょうぜつ)」といい、仏さまのお説きになる教えはすべて真実であり、究極永遠の真理であり、しかも究極の真理に二つはないということを象徴しているのです。  法華経の前半では、お釈迦さまは現実世界の仏としての立場から、人間の生き方についていろいろと教えてくださいました。ですから、法華経の前半を「迹門(しゃくもん・迹仏としての仏の教え)」と呼びます。そして人びとはお釈迦さまを仏としてあがめ、帰依していました。  ところが、後半になると、ご自分の本体は宇宙の大生命ともいうべき久遠実成の本仏であり、現実の自分はその本仏がこの世に迹(あと)を垂れたもうたすがたであるとお説きになりました。そうすると、どちらの仏さまを帰依・礼拝の対象としたらいいかと迷う人があるかもしれません。そこで、この品であらためて「迹仏と本仏は別な仏ではない」ということを示されたわけです。ですから、この「出広長舌」という神力には「二門信一」という深い意味がこめられているのです。 根本の真理はただ一つ  つぎに、「毛孔放光(もうくほうこう)」といって、お釈迦さまの全身からさまざまな色の美しい光が射(さ)し出ると、十方世界が隅から隅まで明るくなった……とあります。  これは、仏法の光明はさまざまな色(方便)として現れるけれども、もともとは一つの真理(一法)から出たものであり、それぞれが人と場合に応じて迷いの闇(やみ)を破るものであるということです。ちょうどプリズムで分解すれば七色に分かれる太陽光線も、もともとは無色の光であるようなものです。具体的に言えば、仏教の教えはすべて諸法実相という真理から出ているのであります。ですから、この「毛孔放光」という瑞相は「二門理一」という意味がこめられているのです。 教えの帰する所はただ一つ  つぎに、釈迦牟尼仏をはじめとする諸仏がいっせいにせきばらいをされたとあります。これを「一時謦欬(いちじきょうがい)」といいます。謦欬は教えを説くことを象徴するもので、それが同時に行われたというのは、現実に説かれる教えはさまざまに違っても、その根本の教えは一つであるということです。法華経に即していえば、迹門も本門も結局は同じ教えを説いているということで、これを「二門教一」といいますが、もっと広義に解釈すれば、世界中にさまざまな宗教があるけれども、正しい宗教であるかぎりすべて同じ教えから出たもので、万教は同根であるということです。 ...

法華三部経の要点90

すべては一に発し一に帰す(2)

1 ...法華三部経の要点 ◇◇90 立正佼成会会長 庭野日敬 すべては一に発し一に帰す(2) 教えの目的はただ一つ  つぎに、釈迦牟尼仏をはじめとする諸仏がいっせいに指をパチンとはじかれた、とあります。これを「倶供弾指(くぐだんじ)」といいますが、インドでは「承知しました」と承諾し、約束するしるしにパチンと指を鳴らす習慣があるのです。ですから、一切の諸仏が「みんなと一緒にこの教えを説きひろめよう」と約束されたわけです。  一切衆生の幸せを思う慈悲心からこの約束をなさったわけですが、そのような慈悲心は「自他一体感」の極致にほかなりません。自他一体感があってこそ、心の底から他を愛(いとお)しむことができるのです。ですから、この「倶供弾指」は「二門人一(人はすべて一体)」の精神をこの世に説きひろめようと約束なさったわけです。 教えを顕現するものは一つ  諸仏がいっせいに指を鳴らしてこの約束をなさると、天地は感動して六種に震動した、とあります。というのは、ほんとうに感動すれば、それを実際の行動に現さずにはいられなくなる、ということの象徴です。  では、その実際の行動とは何かといえば、それは菩薩行にほかなりません。法華経前半の迹門(しゃくもん)では、どちらかといえば理論的に菩薩行をおすすめになり、後半の本門においては、自他一体感を深めることによってひとりでに菩薩行におもむかざるをえないように導かれています。帰着するところは同じです。  ですから、「六種地動」というのは、「二門行一」すなわち法華経の教えをこの世に顕現するには、ただ一つ、菩薩行よりほかにはないのだというわけで、これを「二門行一」というのです。 人間の機根は一つになる  さて、これからがいちだんと大事なところに入ります。というのは、これから現される神秘的な現象は、未来の人間と人間世界のあるべき真実のすがたについて述べられたものだからです。しかも、仏さまは実現不可能なことをおっしゃったり、示したりされることはないのですから、これらはじつに重大なことであり、ありがたいことなのであります。  まず、人間界・天上界等のあらゆる生あるものが、釈迦牟尼仏や多宝如来をはじめとする一切の諸仏がいっしょに集まっておられる光景をまざまざと見ることができた、とあります。これを「普見大会(ふげんだいえ)」といいます。曼陀羅(まんだら)という仏画があるのをご存じと思いますが、あの曼陀羅が普見大会の象徴だといっていいでしょう。  さて、これは、現在は教えを受け取る能力(機根)が人によって相違があるけれども、未来においては精神の進化が進み、すべての人が等しく真理を悟ることができるようになる、というのです。そのことを「未来機一」といいます。 ...

法華三部経の要点91

すべては一に発し一に帰す(3)

1 ...法華三部経の要点 ◇◇91 立正佼成会会長 庭野日敬 すべては一に発し一に帰す(3) 妙法蓮華経という題名  その時、諸天善神が、「一切の衆生よ。釈迦牟尼仏がこの妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念という至高の教えをお説きになったことを心の底から喜び、その教えに帰依しなければならない。そして釈迦牟尼仏を礼拝し、供養申し上げねばならない」と呼びかける声が虚空から聞こえてきました。これを「空中唱声(くうちゅうしょうしょう)」と言います。  その中の「妙法蓮華」というのは、蓮の花が泥水の中から生じてあの清らかで美しい花を咲かせるように、一般大衆の苦に満ちた生活の中から生まれ出た至高の尊い教え、ということです。梵語からの直訳によりますと、法華経の題名は、『正しい教えの白蓮』となっていますが、単に正しいだけではなく、言うに言われぬ美しさ、尊さを持った経典ですので、中国語に訳した鳩摩羅什は「妙法」と冠したのです。実に名訳と言うべきでしょう。  「教菩薩法」というのは、菩薩を育て上げる教えということです。菩薩とは、これまで何度も説明しましたように、自らも悟りを求めると同時に、他の人々の幸せのために奉仕し、教えを説き広める在家信仰者のことです。法華経はそうした実践を本位とする経典であって、お釈迦さまが方便品で「私は菩薩を教化するためにこそ法を説くのである」とおっしゃったのは、実に決定的な宣言なのであります。 未来、教えは一つに帰する  「仏所護念」というのは、もろもろの仏が最高の教えとして念じ護っておられる教えということです。このことを忘れてはならないのです。これを忘れてしまえば、法華経は単なる哲学的な、道徳的な人生訓に終わり、心の底の底から救われて大安心に達する宗教的エネルギーに欠けたものになってしまいます。  法華経の締めくくりである勧発品で、法華経を本当に身につける条件を示された「四法成就」の法門の第一に、「一には諸仏に護念せらるることを為(え)」とお説きなったのも、そのことについて念を押されたものと思われます。  さて、この「空中唱声」は何を意味するかと言いますと、「未来教一」といって、「人類がそれぞれの宗教によって正しい信仰実践の道を歩んでいけば、必ず一つの真理、すなわち法華経に説かれる真理に帰着するであろう」と言っているのにほかなりません。  世界的な大宗教と言われるものは、その発生や、教義や、信仰の所作にはいろいろと違いがありますけれども、根本の真理は一つであるということを、すべての宗教の信仰者が悟るようになる、ということなのです。  WCRP(世界宗教者平和会議)の根本理念もそこにあるのです。どの宗教も、つまるところはすべての人間が幸せになり、平和な暮らしをすることを理想としているわけですから。従って、われわれが海外に布教する時も、法華経そのものを押しつけるのでなく、法華経精神を体得してもらうことを本義とすべきでありましょう。 ...

法華三部経の要点92

すべては一に発し一に帰す(4)

1 ...法華三部経の要点 ◇◇92 立正佼成会会長 庭野日敬 すべては一に発し一に帰す(4) 未来、人類は一つ心になる  「釈迦牟尼仏を有り難く思って礼拝せよ」という虚空からの声を聞いた宇宙のあらゆる生あるものはいっせいに合掌し、娑婆世界に向かって「南無釈迦牟尼仏」と唱えた、とあります。これを「咸皆帰命(かんかいきみょう)」といいます。咸(ことごと)く皆お釈迦さまの教えに帰依するということです。  お釈迦さまが説かれた教えは絶対の真理です。どの宗教の人も「なるほど」と思い「そのとおりだ」と納得せざるをえません。すでにそのことは始まっており、世界各国のすぐれた宗教者たちがそのように言明することをわたしはこの耳で聞いています。  一般の人々はまだそこまで進んではいませんが、未来においてはすべての人が必ずそうなるとここに述べられているわけです。そうなると地球上には悪人もいなければ、愚か者もいなくなり、それぞれ違った個性を持ちながらも、りっぱな人格をそなえ、正しい生活をするようになりましょう。ですから、「咸皆帰命」とは「未来人一」のことであるとされているのです。 すべての行為が仏心に合致  つぎに、虚空からさまざまな宝ものが降ってきて、地上に達する瞬間にただひといろの美しい帳(とばり=幕)に変じて諸仏を覆った、とあります。このことを「遙散諸物(ようさんしょもつ)」といいますが、この瑞相(ずいそう)は、宇宙のあらゆる生あるものが釈迦牟尼仏をはじめとする諸仏を供養もうしあげたということです。  供養には、仏前にお花や供え物を上げる利供養と、礼拝・読経などをする敬(きょう)供養と、身体をつかって仏さまの教えを実践すること、つまり菩薩行という行(ぎょう)供養とがありますが、仏さまがいちばんお喜びになるのは行供養であることは言うまでもありません。すべての宝ものがただひといろの美しい帳に変じ諸仏を覆ったというのは、この行供養の象徴にほかなりません。  ですから「遙散諸物」とは、現在は人々の行いが善悪さまざまであるけれども、未来においてはすべての行いが仏さまのみ心にかなった菩薩行になるという点において一致するということを述べたもので、これを「未来行一」といいます。 地球上が一つの仏土となる  そうなると、十方世界には区別がなくなり、ひとつづきの仏土となってしまう、とあります。これを「通一仏土」といって、未来のすべての人が一つの正しい法のレールにのって、完全に調和のある世界をつくることができるということから、「未来理一」をあらわしているとされています。  現在航空機の発達によって世界のほとんどの地が一日の航程に縮まり、通信機器の発達によって、地球の反対側のものごとも瞬時に知ることができるようになりました。そして、ある地に大地震などがあれば、他の国々からその日のうちに救護・医療のための人員が送られるようになりました。  ベルリンの壁が消えたことに象徴されるように国と国との区別もしだいになくなり、EC(欧州共同体)やASEAN(東南アジア諸国連合)などいろいろな国が協力してものごとを処理するようになりました。  これらのことからみれば、一歩一歩「世界は一つ」になりつつあります。つまり、「通一仏土」ということが、少しずつではあるが実現しつつあるということができましょう。 ...

法華三部経の要点93

菩薩行には言い知れぬ喜びがある

1 ...法華三部経の要点 ◇◇93 立正佼成会会長 庭野日敬 菩薩行には言い知れぬ喜びがある お釈迦さまの大事な委託  嘱累品に入ります。嘱というのは委嘱という熟語もありますように、ある仕事を任せる、頼むという意味ですし、累というのはわずらいとか面倒事という意味ですから、この品は、お釈迦さまがたくさんの菩薩たちに、「仏の悟りを後世に伝えるという一大事を頼みたい。面倒だろうが、どうかこの法を一心に説き広めて、広くあらゆる衆生を幸せにしてもらいたい」と、お頼みになる章です。  それも、ただ言葉でお頼みになっただけでなく、右のみ手をもって多くの菩薩たちの頭をなでながら、そう仰せられたのです。頭をなでることは、インドでは「あなたに任せます。しっかり頼みますよ」という信任と激励の意味を込めた動作なのです。  こうしてお釈迦さまの絶大な信頼による委託を受けたのですから、菩薩たちは大いに感激して「世尊のお言葉通り、間違いなくいたします。どうぞご心配くださいますな」とお答えするのです。それも三度も繰り返して申し上げます。三度も繰り返すのは、固く固くお誓いする真心の現れです。  そこでお釈迦さまは、安心なさったのでしょう、十方から来集しておられた分身の諸仏に「どうぞご自分のお国にお落ち着きください。多宝仏の塔も元通りになられますように」と仰せられるのでした。聴聞の大衆は、言い知れぬ感動を覚えながら去って行きました。  ここで法華経の説法に一段落がついたわけです。すなわち、仏さまの本体である久遠実成の本仏を説く「本門」が完結したのです。そして、法華経のドラマの「理想(虚空)の場」がここで幕を閉じ、再び霊鷲山に降りて、「現実(地上)の場」が改めて展開されるわけです。 困難を克服する喜び  この品の第一の要点は、お釈迦さまの委託を受けたのは当時の菩薩たちばかりでなく、後世のわれわれも同じ委託を受けているのだということです。  法華経を説いて人を仏道に導くのは、実際問題としてそうたやすいことではありません。しかも、普通の生活をしながらその聖業にたずさわるには、いろいろな困難を伴います。だからこそお釈迦さまは「面倒だろうが、よろしく頼む」と仰せられているのです。  われわれ法華経を信奉する者は、片時もこのありがたい委託を忘れてはならないのです。あるいはその委託の実践にいささかの苦を覚える人もありましょうが、その時、お釈迦さまが当時の菩薩たちに与えられたこのお言葉を思い出せば、また新しい勇気がわいてくるはずです。  そうして、苦としてしまう心や懈怠の心を押し切って菩薩行に励めば、いつしかそのマイナスの思いを克服し、そこに何ともいえぬ喜びが生じてくるのです。人間というものは、もともとそういうふうにできているのです。  ノーベル文学賞受賞のインドの大詩人・タゴールもこう言っています。「人間の自由は、苦痛から救われるところにあるのではなく、その苦痛を愉悦の一要素に変えるところにある」と。 ...