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法華三部経の要点94

「徳の行い」は心を浄化する

1 ...法華三部経の要点 ◇◇94 立正佼成会会長 庭野日敬 「徳の行い」は心を浄化する 法惜しみをしない  嘱累品のもう一つの要点は、菩薩たちに仏法の広宣流布を委託されたときに付け加えられた、左のお言葉です。  「所以(ゆえ)は何ん。如来は大慈悲あつて諸の慳恡(けんりん)なく、亦畏るる所なくして、能く衆生に仏の智慧・如来の智慧・自然(じねん)の智慧を与う」  現代文に訳しますと、  「なぜそうするかといえば、如来は大いなる慈悲の心を持っており、何事にしても惜しむ心がなく、また何ものをもはばかることもなく、よく衆生に真実の智慧と慈悲の智慧と信仰の智慧とを与えたいからである」  これらの智慧(次回に詳しく説明します)は、仏さまがわれわれ衆生に与えられるものではありますが、後世の仏弟子であり菩薩であるわれわれとしては、それを仏さまに代わって人びとへ与えなければならないのですから、その場合の心得をしっかり学んでおく必要があるわけです。  まず第一に学ぶべきことは「法惜しみをしない」ということです。仏法を人に説くとき出し惜しみをするようなことは、よもやありますまいが、現実的な技術・技能などを人に教える場合、肝心なところを隠しておきたがる人がなきにしもあらずです。そんな態度は世の進歩・向上を妨げるものですから、何事にしても広い心をもって惜しみなく教え、秘けつを伝えたいものであります。 情けは人のためならず  次に、「畏るる所なくして」ということですが、これは仏法を人に説く場合の大切な心得です。畏れるというのは、普通にいう恐れるということとはちょっと違って、「はばかる」とか「心がひっかかる」という意味です。「はばかる」というのは、この法を人に説けば、嫌われるのではないか、悪く思われるのではないか、バカにされるのではないかなどと考えて、しりごみする気持ちです。  「心がひっかかる」というのは、「こんなことをしていったい何になるんだ」と考えてみたり、「億劫(おっくう)だなあ」という気持ちになって、やはりしりごみすることです。  しかし、人に仏道を説くことは人を幸せにする「徳の行い」なのです。そして、仏さまが喜んでくださる「慈悲の行い」です。そういう行いをすれば、あなた自身の心が知らず知らずのうちに美しくなり、温かになり、なんともいえない、いい気持ちになることは必至です。  とにかく実践することなのです。やってみることなのです。朝日新聞の『天声人語』(二・九・十二)に、ボランティア活動をした山形県小国町の保科智春さんという高校生の報告が紹介されていました。要約するとこういうことです。  「早朝に橋を掃除していると、初めのころ『いやだな』という気持ちだったのがいつしか消えているのに気づいた。そして掃き跡を振り返ると、心が入っていないのが見えた。そこで元に戻って掃き終わったとき、うれしい気持ちがいっぱい詰まったため息が出た。これは人のためにするんじゃないと悟った」  これです。徳の行いをすれば必ずこういう心境になるのです。昔から言うように「情けは人のためならず」なのです。 ...

法華三部経の要点95

法華経は三つの智慧に満ちている

1 ...法華三部経の要点 ◇◇95 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経は三つの智慧に満ちている 仏の智慧・如来の智慧とは  前回に「仏の智慧・如来の智慧・自然の智慧」というのを「真実の智慧・慈悲の智慧・信仰の智慧」と訳しました。これは単に言葉の問題だけでなく、われわれが法華経を学び、そして実践するうえの大切な心得でもあると思われますので、ここに解説しておきましょう。  まず仏の智慧ですが、仏というのは仏陀(ブッダ)の略で、「覚った人」という意味です。何を覚った人かと言えば、宇宙の真理と人生の真実を覚った人です。諸法の実相を見通した人です。仏さまはそのような尊い智慧を惜しみなくわれわれに与えようとなさったわけです。  次の「如来の智慧」ですが、如来というのは「真如から来た人」という意味です。真理そのものである真如の世界から、なぜ汚濁に満ちた人間界に来られたのか。言うまでもなく、さまざまな苦にあえいでいる人間を救いたいという慈悲心からにほかなりません。ですから、如来の智慧というのは慈悲の智慧なのです。 仏性から湧く自然の智慧  次の「自然の智慧」ですが、この自然(じねん)は、大自然とか自然界などという自然(しぜん)とは違って、「自(おの)ずからそのようにある」という意味です。では、自ずからそのようにある智慧とはどんなものかと言いますと、人間の本質である仏性からひとりでに湧き出した智慧のことを言うのです。われわれの利己心から生まれたちっぽけな知恵・才覚でなく、仏性から生じた自然の智慧によって行動すれば、それはひとりでに天地の真理に合致した正しいものになってくるのです。  だれにもそういう智慧は具(そな)わっているのですけれども、いつもはさまざまな心の迷いや汚れ(いわゆる煩悩)によって覆いかくされているのです。が、時たまスーッとひとりでに心の表面に出てくることがあります。どんな時かと言いますと、他の人の美しい行為に感動した時とか、胸を打つような物語を読んだ時とか、自らそのような「徳の行い」を実践した時などです。  信仰および信仰活動には、いま述べたような要素がすべて具わっているのです。経典を読んで心が洗われるような思いをしたり、法座や説法会で他の人の体験談を聞いて感動したり、自ら菩薩行を実践して何とも言えない心の喜びを覚えたりするなどがそれです。ですから、仏性からひとりでに湧き出してくるそのような至妙の心理を、信仰の智慧と言ったわけです。  人間がギリギリのところまで人格を完成し、「諸法実相を知る真実の智慧」と、すべての人を救いへ導く「慈悲の智慧」とを兼ね具えたら、その人を仏と言うのですが、われわれ凡夫がその境地に近づくためには、どうしてもその二つの智慧に感応して自分の身につける「信仰の智慧」を持たなければならないのです。  法華経は、この三つの智慧の教えに充ち満ちたお経ですから、その一応の締めくくりであるこの章で、改めてこの三つの智慧に言及されたのでありましょう。これもこの品の大事な要点です。 ...

法華三部経の要点96

菩薩行こそが最大の供養

1 ...法華三部経の要点 ◇◇96 立正佼成会会長 庭野日敬 菩薩行こそが最大の供養 実例と体験談の大切さ  薬王菩薩本事品に入ります。まえの嘱累品で法華経の「教え」は一段落しました。完結したと言ってもいいでしょう。では、それからあとの第二十三品から第二十八品まではなぜ説かれたのでしょうか。まずその意義を知っておくことが大事だと思います。  われわれ凡夫は、教えを聞いて「なるほど」と理解し、「よし、教えのとおりを実践しよう」と決心します。しかし、日がたつにつれて、ともすれば心がゆるみ、怠りがちになるものです。ですから、折に触れて教えをあらためて噛みしめ、心を励ます必要があるのです。  それについていちばん効果があるのは、信仰によって功徳を得た実例を聞くことです。それを聞くと、「あ、そうだった」「これではいけない」と心を引きしめ、信仰の思いを新しくし、精進の決意を固めるのです。わたくしどものいろいろな会合において体験説法を何より大事にしているのも、そういう理由によるものです。  法華経の第二十三品以降もそういう目的のために説かれているわけです。そこに登場する菩薩はある一つの徳を代表する方々です。お釈迦さまのようにあらゆる徳を成就しておられる方は、あまりにも完全過ぎてわれわれがまねをしようとしても途方に暮れる思いがしますが、ある一つの徳を具足した菩薩の行いならば、われわれ凡夫のちょうどよい目標となるわけです。 献身による菩薩行こそ  さて、第二十三品に登場する薬王菩薩の前世の身(一切衆生憙見菩薩)は「献身」という徳の代表です。  一切衆生憙見菩薩は、日月浄明徳如来という仏さまに仕えて法華経の真理を聞き、修行の結果高い境地に達したのですが、死後再び同じ仏さまの国土に、国王の子として生まれました。たまたまそのとき、仏さまがこの世を去られたのです。菩薩は泣く泣く仏身を火葬に付し、その仏舎利を八万四千の瓶に納め、国中にりっぱな塔を建ててそれをお祀(まつ)りしました。しかし、それでも供養が足りないと思い、自分の両腕に火をつけて燃やしました。その光明に照らされて、無数の人びとが仏道に入る発心をしましたのですが、七万二千年たってそれが燃え尽き、菩薩の両腕がなくなってしまったのです。  人びとは、自分らの導師が不自由な身になられたのを嘆き悲しみましたが、それを見た菩薩は「わたしは両の腕を捨てたけれども、その代わりに永遠不滅の身を得ることができたと信ずる」と言いました。その瞬間、両の腕はたちまち元どおりになってしまいました。  この寓話(ぐうわ)の教えは、ほぼ察しがつくでしょうが、自分の身に火をつけて燃やすというのは、つまり「法のために徹底した献身を行い、労を厭(いと)わず菩薩行を実践することこそ、仏さまへの最大の供養である」ということにほかなりません。そして、「その献身という菩薩行はけっして自分にとってマイナスとなるのではなく、その人に永遠不滅の功徳をもたらすものである」ということで、われわれ菩薩行にいそしむ者への絶大な励ましとなる真実であります。 ...

法華三部経の要点97

心の改造によってのみ人類は救われる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇97 立正佼成会会長 庭野日敬 心の改造によってのみ人類は救われる 「後の五百歳」ということ  薬王菩薩本事品の終わりのほうに「我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提(えんぶだい=人間世界全体)に(この教えを)広宣流布して」というお言葉があります。この「後の五百歳」というのは、現代にも関係する仏さまの大事なお言葉ですので、その意味を解説しておきましょう。  『大集経』というお経の中で、お釈迦さまは、「わたしが入滅した後の五百年は、残された仏弟子たちは教えを守ってよく煩悩から解脱するであろう。次の五百年は、禅定に入り、瞑想することによって自力で悟りを得ようとするようになるであろう。ここまでは仏法が正しく行われているので、『正法』の時代と言う。  次の五百年になると、仏教を学問的に研究する風潮が盛んになり、一般の信仰者も経典を読誦することを主な行とするようになる。  次の五百年になると、信者たちは塔や寺を建てお参りすることを本位とするようになる。以上の千年間は仏法が形式化されるという意味で『像法』と言う」と。 人間の心を改造しなければ  ところが、次の五百年、すなわちお釈迦さまが入滅されてから二千年を過ぎたころになりますと、仏教そのものについても宗派争いなどが盛んになり、一般社会においても闘争が激しくなって、仏法はあるいは隠れ没し、あるいは甚だしく損減するようになるというのです。そして、この時代以後を『末法』と名づけられています。  法華経はこの末法の時代においてこそ説き広めなければならぬ教えであると、お釈迦さまは強調しておられるのです。さればこそ、「後の五百歳」ということをこの薬王菩薩本事品で二回、最後の普賢菩薩勧発品で三回も説いておられるのであります。  お釈迦さまのご入滅は紀元前三八三年とされていますから、一九九〇年代の現在は、右の第五の五百年の末期に当たっているのです。まさにそのお言葉通り、個人も、企業を含む各種の団体も、そして国家も、エゴ一本槍となって競争と闘争に明け暮れています。人間同士が奪い合いをしているばかりでなく、人類は大自然をとめどもなく汚染し、破壊しつつあります。  前記の『大集経』には、この末法の世の終末のありさまを次のように述べてあります。  「あらゆる井戸・泉・池などはことごとく涸(か)れてしまう。大地は塩分が強くなり、至る所がひび割れ、裂け、見渡す限り丘だらけになる。山々の木々は焼け焦げ、長い間雨が降らないので、苗も作物もみな枯死し、薬草も枯れつくしてしまう云々」  核戦争が起こればこうなることは必至ですが、よしんば核戦争が起こらなくても、現在のような大自然の汚染。破壊を続けておれば、遠からずこのようになってしまうでしょう。  そうした人類の終末を防ぐには、ただ一つ、人間の心の改造を行うほかに方法はないのです。われわれが法華経精神の広宣流布に懸命になっているのは、せんじつめればそのためにほかならないのです。 ...

法華三部経の要点98

理想を現実化する努力が尊い

1 ...法華三部経の要点 ◇◇98 立正佼成会会長 庭野日敬 理想を現実化する努力が尊い 現実の世界を軽視するな  妙音菩薩品は、理想の世界から現実の世界へ訪れて来た大菩薩についての説話です。  薬王菩薩本事品の説法を終えられたお釈迦さまが、頭の頂上と眉間(みけん)から大光明を放たれますと、はるか彼方(かなた)にある浄光荘厳という世界に妙音という大菩薩がおり、その菩薩がその国の仏さまの浄華宿王智如来に「わたくしはこれから娑婆世界を訪れて釈迦牟尼如来を礼拝し、そこの大菩薩たちとも語り合ってみたいと存じます」と申し上げている光景が見えてきました。  その申し出に対して浄華宿王智如来は「行って来なさい。しかし、娑婆世界はこの国に比べてたいへん汚く、仏さまのお体も小さいために、そこの仏・菩薩や国土を軽んずる気持ちが起こりやすいが、それは大きな間違いだから気をつけなさい」とおさとしになります。なにしろ浄華宿王智如来の身長は六百八十万キロメートルもあり、妙音菩薩でさえ四万二千キロメートルもあり、身は金色に輝いているのですから、この娑婆世界の仏・菩薩とは比較にならないのです。  ところが、その妙音菩薩が霊鷲山に到着すると、お釈迦さまのおん前にひれ伏して礼拝し、ていねいにごあいさつするのです。そして、「多宝如来をも拝したいのですが、世尊のお力でお目にかからせて頂けませんでしょうか」とお願いいたします。お釈迦さまがそのことを多宝如来に伝えますと、たちまち「善哉、善哉。よくぞ釈迦牟尼如来を供養にやってきました」というお言葉がひびいてきました。  まことに神秘的な、不可思議な出来事ですが、じつは、これは「理想」と「現実」との関係を見事に表しているのです。 理想へ向かっての実践こそ  人間だれしも理想というものを持っています。夢といってもいいかもしれません。それがあってこそ、人間はいろいろな面で向上していくのです。ところが、理想とか夢とかはじつに大きく、美しく、はるか彼方にあって、光り輝くような世界です。  それに比べて現実の世界は、汚濁と苦悩に充ち満ちています。そこに住む人間も、理想の世界に比べるとはるかに小さく、コセコセしています。ですから、もしある人が理想の世界にばかりのめり込んでしまえば、ひどい厭世観(えんせいかん)にとらわれて自殺にまで追い込まれかねません。  ですから、この世に生きているかぎり、理想はどんなに大きく持っても、現実をないがしろにしてはならないのです。そして、現実を理想に向かって一歩ずつでも近づかせる努力を怠ってはならないのです。  お釈迦さまは、もともと真理そのものである真如、つまり理想の世界からこの世に来られたお方です。ですから如来(真如から来た人)と申し上げるのです。お釈迦さまも理想世界からこの現実世界に来られたお方ですが、妙音菩薩と違うところは、苦しみ悩むこの世の人間たちを救うために一生をかけて努力なさったことです。その実践こそが尊いのであって、妙音菩薩がその前にひれ伏して礼拝したのはそのゆえである、と解さねばなりますまい。  つまり、「現実から目を背けるな」ということと、「実践を第一とせよ」ということが、この品の要点であるといっていいでしょう。 ...

法華三部経の要点99

孝行は人類の将来の幸せのため

1 ...法華三部経の要点 ◇◇99 立正佼成会会長 庭野日敬 孝行は人類の将来の幸せのため 釈尊は孝を大いに説かれた  妙音菩薩品に、うっかりすると見過ごしやすい大事な言葉があります。それは、妙音菩薩がお釈迦さまにごあいさつして申し上げた言葉にある「(衆生の中には)父母に孝せず、沙門を敬わず、邪見不善の心にして五情を摂めざることなしや不(いな)や」とある、その「父母に孝せず」です。  父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)という孝行を説いた有名なお経が中国で出来た偽経であることや、総じて仏教経典が漢訳されたときに孝行を重んずる思想が加えられたことなどから、ほんらい仏教はあまり孝行を重視しないように誤解している向きがありますが、右のあいさつの言葉からも、むかしのインドでも孝行が普遍の人倫だったことがよくうかがわれます。  原始仏教経典にもそれがよく現れています。たとえば、法句経の三三二番に「母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい」とあり、南伝増支部経典には「母と父とは梵天ともいわれ、先師ともいわれる。子らの供養すべきもので、また子孫を愛する者である。だから実に賢者は食物と衣服と座床と塗身と沐浴と洗足とを以て父母に敬礼し尊敬せよ。このように父母に仕えることを以て、この世でもろもろの賢者がかれを称讃し、また逝かばかれは天上に楽しむ」(中村元先生訳による)とあります。  お釈迦さまは親孝行の大切さを大いに説いておられるのです。 孝行は本来楽しいもの  もっと留意すべきは、お釈迦さまが親孝行を身をもって実践されたことです。たとえば、おん父上の葬送のとき自ら棺をかつがれたことと、そのときおおせられたお言葉は、後世のわれわれの胸にひしひしとこたえるものがあります。  浄飯王般涅槃経によりますと、「後の世の人びとが凶暴になって父母の養育の恩に報いない不孝の者が出る心配があるから、それらの衆生に範を示しておくために、わたしも父上の棺をかつごう」とおおせられ、棺の前部をお釈迦さまと難陀が、棺の後部を阿難と羅睺羅がかついで野辺の送りをされたのでありました。思うだに尊い、厳粛な光景ではありませんか。  なお、お釈迦さまご自身が入滅なさるとき、いわゆる北枕(きたまくら)にして臥床(がしょう)されたのは、北の方に当たるカピラバストのご両親に絶対に足を向けてはならぬという尊敬の念から発したものとされています。この一事を見てもお釈迦さまがいかに徹底した孝心の持ち主であられたことがわかります。  父母のことを思い、父母を大事にするのは人間自然の心情です。まさに、さきにあげた法句経の「楽しい」というお言葉のとおりです。  ところが、戦後この自然の心情が薄れ、親をないがしろにする風潮が生じてきました。親をないがしろにする気持ちは、先祖を敬わない気持ちにつながり、そして子孫を大切にしない気持ちにもつながります。これは人類の未来のためにゆゆしい一大事です。  立正佼成会で親孝行と先祖供養を説くのは、決して「過去」を大事にするばかりのものではありません。それが人類未来の幸せにもつながるからであります。 ...

法華三部経の要点100

あなたも観世音菩薩になれる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇100 立正佼成会会長 庭野日敬 あなたも観世音菩薩になれる 三十三身に示現の観世音  法華経は努力主義の経典です。仏さまを供養し、その教えを学び、修行を重ね、それと同時に世の多くの人々の幸せのために菩薩行を実践することを信条としています。  ところが、二十五番の観世音菩薩普門品だけはまったく趣が異なります。観世音菩薩のみ名を唱えただけでもさまざまな世間の苦から救われると説かれています。一見、絶対他力の法門のように思われます。  しかし、絶対他力の思想ではないのです。あとのほうに、観世音菩薩は、あるいは大王の身となり、あるいは一庶民の身となり、婦女子の身ともなり、子供の身ともなり、三十三の身を現じて人々を救われるのだ、とあるように、われわれの住んでいる現実の社会に即して考えるとき、結局は仏法の根本法である縁起、そして諸法無我の真理にもとづく「持ちつ持たれつ」の思想に落ちつくものなのであります。  つまり、「世間にはいたる所に観世音菩薩がおられるのだ。また自分自身も観世音菩薩になろう」ということです。このことは、この品を学び進んでいくうちによく納得できるはずです。 智慧と慈悲を兼ね具えて  観世音菩薩はどのような徳を持った菩薩でしょうか。そのみ名によく表れています。観世音というのは「世の中の音を明らかに観(み)る」という意味です。音を聞くというのでなく、音を観察するとなっているところにたいへん奥深い意義があるのです。  音というのはものが振動するときに出るものですから、世音というのは世の中の揺れ動きということです。また、人間の発する音でいちばん重大なのは声であり、言葉でありますから、人間の声や言葉には心の揺れ動きが如実に表れるのです。つまり観世音菩薩は、世の中がどういう原因で揺れ動いているか、人間の心が何に悩んでいるか、苦しんでいるか、何を願っているか、祈っているかを明らかに見通されるお方なのです。  もちろんただ見通してジッとしておられるのではありません。ずっとあとの偈に「真観・清浄観 広大智慧観 悲観及び慈観あり」とあるように、現実の世界をありのままに観察し、それも澄み切った見方で観、そこから生ずる広大無辺な世界観を持ち、そうした世界観を持てばおのずから湧(わ)いてくる慈心(すべての衆生を幸せにしてやりたいという心)と悲心(衆生の苦しみを抜いてやろうとする心)の持ち主が観世音菩薩なのですから、社会の混迷や人間の苦しみを見ればその救済のためにただちに発動される、それが観世音菩薩のお徳にほかなりません。  このことは、われわれの実生活のうえに置き換えて考えてみるとよくわかるはずです。  一家の父または母として子供たちを立派に育てていくには、子供たちの心や体の中に入りこんだように、その状態を見通さなければなりません。この子の体には何の栄養が不足しているか。この子の体力はどこが足りないか。この子はどんな天性を持っているか。この子は何を苦しみ、何を求めているか。そういう声なき声をよく聞き分けて、それに応じた食事をつくってあげる。生活指導をする。精神指導をする。しつけをする。しかも親らしい親ならば、自分に必要な時間や労力などを犠牲にしても、その子の幸せのために尽くすでしょう。これが観世音菩薩の精神にほかなりません。  職場やその他の団体において、長と名のつく立場にいる人でも同じです。部下の性格・能力だけでなく、それぞれの人の声や、声なき声を聞き分けて、それにふさわしい指導をすれば、その一人一人が幸せになるばかりでなく、仕事全体も順調に発展していくでしょう。こういう上司も観世音菩薩にほかならないのです。 ...

法華三部経の要点101

七難を逃れるとは

1 ...法華三部経の要点 ◇◇101 立正佼成会会長 庭野日敬 七難を逃れるとは 観世音菩薩の慈悲と智慧  普門品の初めのほうに、観世音菩薩を念ずれば火難・水難・風難・剣難・鬼難・獄難・賊難の七難から逃れることができると説かれています。観世音菩薩は透徹した慈悲と智慧の持ち主であることを前提とし、そして前回に説いた「われわれも観世音菩薩になろう」という念願に即して、この七難から逃れるということを現実に生活のうえで考えてみましょう。  火というのは煩悩の火です。人間だれしも煩悩を持っています。それがほどほどのものであるうちはいいのですが、怒りとか怨(うら)みとか妬(ねた)みとかの炎となって燃え上がると、自分自身を苦しめるばかりでなく、他人をも傷つけ、社会をも混乱させます。ですから、煩悩の火が燃え上がろうとしたときは、観世音菩薩の真観・清浄観・広大智慧観を思い出せばよいのです。そうすれば、身を焼く火難から逃れられるばかりでなく、「煩悩即菩提」の教えのとおり、煩悩によって悟りを得ることもできるのです。  次の水難ですが、人間の心は誘惑に対して、弱いもので、うっかりすると金銭に溺(おぼ)れ、酒に溺れ、異性に溺れ、名誉欲に溺れ、権勢欲に溺れ、虚栄心に溺れます。そういった誘惑にかかりそうだと気づいたとき、観世音菩薩の名号を唱えれば、心は正しい道(中道)へ立ちかえり、その難から逃れることができるわけです。  第三の風難ですが、人生の航海は順風のときばかりとはかぎりません。いつ、どこで、逆風や暴風に見舞われるかわかりません。そんな時、しっかりした心のよりどころを持たない人はただもう慌てふためいたり、失意のどん底に陥ったりします。ところが、久遠実成の仏さまのお使いである観世音菩薩の広大な慈悲と智慧を思い出せば、その逆風がかえって人生の試練であることに気づき、勇気をもってそれを乗り切ることができるでしょう。 心を切られても傷つかない  第四の剣難ですが、身体に受ける難はどんな聖者でも受けるときは受けるのです。お釈迦さまも提婆達多の投げおろした岩石が足に当たっておびただしく血を流されたことがあります。イエス・キリストも十字架にかかって殺されました。マハトマ・ガンジーも一ヒンズー教徒にピストルで撃たれて亡くなりました。  提婆達多によって傷を負わされたとき、お釈迦さまは仕返しをしようとする弟子たちを制止して静かに名医耆婆(ぎば)の手当てを受けられました。イエス・キリストも、最後の瞬間には「神よ、み心のままに」と言い、従容として死につきました。ガンジー翁は、担架で運ばれるとき、もう口もきけなくなっていましたが、両手で静かに施無畏(観世音菩薩の徳の一つ。次回に説明)の印を結んでおられたのです。  ですから、身体的な難を逃れられるかどうかは、人間の本質的な価値から見れば問題ではないのです。問題は、心を切られて傷つくかどうかということです。他の人の憎悪に切られ、侮辱に切られ、いわれなき非難に切られ、怨みに傷つき、怒りに傷つき、挫折に傷つくかということです。そのようなとき、観世音菩薩の広大な慈悲と智慧を思い起こせば、そのような精神的暴力を超越してしまうことができるわけです。 ...

法華三部経の要点102

観世音菩薩のような人になりたい

1 ...法華三部経の要点 ◇◇102 立正佼成会会長 庭野日敬 観世音菩薩のような人になりたい 恐れなき心を施すお方  観世音菩薩を念ずることによって逃れられる七難の第五は鬼難ということになっています。鬼難というのは、悪霊などに取り憑(つ)かれて正気を失うことです。観世音菩薩を念ずればそういった鬼難から逃れられるというのは、つまり、真実の智慧と大いなる慈悲を持とうと決じょうしておればそのような邪悪なものは近寄り難く、よしんば近づいてもひとりでに撥(は)ねのけられてしまう、というわけです。  次は獄難。牢獄(ろうごく)に閉じこめられているということは、心の自由自在が束縛されていることにほかなりません。人間の最大の願望は完全な自由ということです。しかし、「人」とか「物」とか「自然」を束縛の対象としているかぎり、未来永劫それから逃れることはできません。自分の心さえ真実の智慧と、大いなる慈悲をもてるようになれば、周りがどうあろうと自由自在の身となれるわけです。  最後の賊難ですが、これはわれわれから物的なものを奪い去る苦境・苦難を言います。最大の賊難は死ということです。凡夫はそういった賊難に遭えば、あるいは意気消沈し、あるいは狼狽(ろうばい)し、あるいは恐怖におののきます。  ところが、観世音菩薩の真実の智慧と大いなる慈悲を思い起こせば、そういった物的な変化は実体のない、例えば海上に生ずる波のようなもので、われわれの本質である永遠のいのち(仏性)は確固として揺るぎないものであることに思い至り、大安心を得ることができるのです。  ですから、あとのほうに「是の観世音菩薩は、怖畏急難の中に於て能く無畏を施す。是の故に此の娑婆世界に、皆之を号して施無畏者とす」とあるように、観音さまは畏れない心を施すお方であるとされているのです。 雨ニモマケズは観音思想  観音さまの代表的なお徳は、この「施無畏」ということのほかにもう一つ「大悲代受苦」ということがあります。それは、「人々の苦しみを自分が代わって受ける」という献身の精神に満ちた慈悲の実践です。宮沢賢治の有名な『雨ニモマケズ』の詩は観世音菩薩を歌ったものと言ってもいいでしょう。  「東ニ病気ノコドモアレバ 行ツテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ」というのは、大悲代受苦にほかなりません。  「西ニ死ニサウナ人アレバ 行ツテコハガラナクテモイイトイヒ」というのは、そのまま施無畏です。  高名な思想家・谷川徹三氏が、これは明治以降の日本における最高の詩であると評しておられましたが、この詩が全篇「観音思想」に貫かれていることを、とくと見直したいものです。 ...

法華三部経の要点103

真理を活用される観世音の実践力

1 ...法華三部経の要点 ◇◇103 立正佼成会会長 庭野日敬 真理を活用される観世音の実践力 手に目のある千手観音さま  観世音菩薩は、澄み切った眼で世の動きを明らかに観察し、「普門示現」といわれるようにあらゆる所に現れて人びとを救済される実践の菩薩です。  そのことは千手観音さまの像によく現れています。その千の手(たいていの像は四十二本だけ造られていますが)には、病気を治す道具や福を授ける象徴物などさまざまな道具を持っておられます。しかも大事なことは、それぞれの手に目がついていることです。まさに千手観音さまは、その目で衆生の現実の苦しみや心に願っていることを見通され、その手で実際にお救いになるのです。  看護婦などというその「看」という字は、「目」と「手」を組み合わせて作られた会意文字です。この文字が、はからずも千手観音さまの手と目に合致していることに、尊い示唆を感ぜずにはおられません。われわれ法華経行者は、常に世の不幸な人びとに智慧の「目」を向け、そして慈悲の「手」によってその苦しみを救ってあげることに力を尽くさねばならない。そのことを千手観音さまの像容が示し、看の字が示しているのです。 首飾りを二仏に捧げたのは  さて、これまでは法華経全体の教相に即して、この普門品を「われわれも観世音菩薩になろう」という教えとして解説してきましたが、もっと素朴な、観世音菩薩の霊験を信ずる受け取り方が一般的であることは否めません。そして、そのような素朴な観音信仰による不可思議な功徳を受けた実例も数々あることも否定できません。  しかし、不可思議と見える観世音菩薩の救済力も、もともとは仏さまの大智慧に基づくものであることは、無尽意菩薩が尊敬と感謝の意を込めて捧げた首飾りを、観世音菩薩は直ちに半分を釈迦牟尼如来に、半分を多宝如来に捧げたことに象徴されています。  観世音菩薩としては、「わたくしの力ではございません」と謙遜(けんそん)して二仏に差し上げられたのでしょうが、われわれから見ますと、真理そのものである多宝如来と、その真理を現実に即して説き分けられた釈迦牟尼如来と、それを衆生救済のために活用される観世音菩薩の実践力と、この三つの相乗作用を示していることは歴然としています。そして、末端にあるその実践力こそが人びとを幸せにする決め手であることを、ここのくだりの行間から読み取らねばならないと思うのです。  もう一つ、ここのくだりで見過ごしてならないのは、無尽意菩薩が首飾りを供養しようとしたのに観世音菩薩が受け取るのを断られたとき、無尽意菩薩が「どうぞ、わたくしをあわれと思ってこれをお受け取りください」と嘆願したことです。  ここに、供養とか布施というもののほんとうの精神があるのです。現在でもそうですが、インドをはじめとして、ミャンマーでも、タイでも、スリランカでも、出家修行者や宗教団体に布施する際、「する」というのでなく、「させて頂く」という精神がありありと見受けられます。布施し、供養することによって、身に功徳を積ませて頂くという考えかたです。  われわれ日本人も、この無尽意菩薩の心を心としたいものであります。 ...

法華三部経の要点104

陀羅尼とは神秘の言葉

1 ...法華三部経の要点 ◇◇104 立正佼成会会長 庭野日敬 陀羅尼とは神秘の言葉 なぜ陀羅尼は梵語のままか  陀羅尼品は、これまた異色の一章です。陀羅尼とは梵語のダーラニーのことで、その意味はあとで詳しく説明しますが、密教では呪陀羅尼を、病気や災害を除く力を持つ神秘的な言葉(=真言)として特に尊重し、現在ではその「真言」が陀羅尼を代表するようになっています。わが国にも弘法大師が開かれた真言宗という大宗派があることは周知のとおりです。  さて、この品は法華経のこれまでの説法に感激した菩薩・諸天・鬼女たちが「この教えと、この教えを信ずる人びとを必ず守護いたします」と、強い言葉で誓言し、守護のための神呪(陀羅尼)を説いた章で、ほとんどがその神呪で満たされています。  それらの神呪は全部梵語を音写したものですが、それは中国の翻訳者(この場合、鳩摩羅什)が翻訳しないほうがよいと判断したからなのです。仏教経典を中国語に翻訳した人びとは、次の五つの場合は強いて翻訳せず、原語の音に似た漢字を当て(音写し)て、わざと原語のまま残したのです。  一、インドにあって中国にない動植物や、伝承の中の鬼神などの名。法師功徳品に出てくる多摩羅跋香(たまらばっこう)・多伽羅香(たからこう)など、また、たびたび出てくる迦樓羅(かるら)・緊那羅(きんなら)などがそれです。  二、一つの語に多くの意味が含まれているので、一語に翻訳すると原意が十分に尽くされないもの。たとえばダーラニーには「聞いた教えを心に保って忘れない力」という意味もあり、「あらゆる悪(不幸をふくむ)を止め、あらゆる善(幸福をふくむ)を進める力」という意味もあり、「それを唱えれば仏の世界へ直入できる神秘の言葉(真言)」という意味もあります。この品の場合の陀羅尼は、第二の意味が主ですが、第三の意味も多分にふくまれています。それで陀羅尼を「総持真言」とも訳したのです。  三、神秘的な言葉。これを翻訳すれば、その奥深い神秘性が減損され、またその音韻に含まれる不可思議な力が失われるというわけで、この陀羅尼品の神呪がそれです。  四、むかしからの習慣に従ったもの。たとえば阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)などがそれです。  五、翻訳すれば真の意味を失うもの。仏陀・菩提などがそれです。 陀羅尼品の神呪は神々の名  陀羅尼品の陀羅尼は、ほとんどむかしのインドの神々の名、もしくは異称の列挙であり、その神々への呼び掛けでありますから、つまりは「言葉の力によって仏・菩薩や諸天への感応を求める」ということになりましょう。仏教の本義とはずいぶん離れているようですが、しかし、陀羅尼の霊験は、じっさいにわたしも数多く経験してまいりました。  なぜそのような霊験をもっているかは、この経典が成立した古代インドと現代の日本とはあまりにもかけ離れているために、まったく不明です。 ...

法華三部経の要点105

信仰の奇跡とは人格が変わること

1 ...法華三部経の要点 ◇◇105 立正佼成会会長 庭野日敬 信仰の奇跡とは人格が変わること 子が父を正法に導いた  妙荘厳王本事品は、最高の親孝行とはどんなことかを言外に説いた、じつに大事な一章です。それは、はるかむかしにおられた妙荘厳王という国王と、その后(きさき)と、二人の王子の物語にことよせて説かれています。  后と二人の王子は仏法に帰依し、通達していましたが、王はほかの教えに心酔していましたので、なんとかして仏法のありがたさを知らせてあげたいと思っていました。二王子の師である雲雷音宿王華智仏という仏さまが法華経という至上の教えをお説きになることを聞き、ぜひ父の王をも誘って聴聞に行きたいと思い、母の后に相談しました。すると后は「父上の心を動かすには、おまえたちが奇跡を現してみせるほかはない」と言うのです。  そこで王子たちは父王の前に行き、空中に飛び上がって空の上を歩いたり、地の中に自由自在に潜ったり、さまざまな不思議を見せました。父王は驚いて「おまえたちはだれにそんな神通力を習ったのか」と聞きますと「法華経という教えをお説きになる雲雷音宿王華智仏という仏さまです」と答えます。王は「その仏さまにわたしもお目にかかってみたい」と言い出しました。  王子たちは大喜びしましたが、この機会をのがさず出家してずっと仏さまのみもとで仏道修行をしたいと母の后にお願いし、許されます。こうした二王子の熱意と后の理解あるはからいによって、王は、自分ばかりでなく、大臣たちをも、女官たちをも、そして多くの国民をも引き連れて仏さまのみもとへ参りました。そして、みんな仏法に帰依したのでありました。 自分が変われば人も変わる  この品には四つの要点があると思います。その第一は、二王子が演じた奇跡というのは、仏法を学び、信じて行ずることによって、人格が一変し、したがって日常の行いがすっかり変わったことを意味するのだ、ということです。  ひとを仏法に導くには、それを説いてあげるのももちろん大切なことですが、身をもってする実証がいちばんの決め手となります。自分が変わってみせることです。とくに、家族や職場の人を導くにはこれを欠いてはならないのです。いわゆる「後ろ姿で導く」ことであります。この説話にはそういった教えがこめられているのです。  第二の要点は、王の信仰が、大臣たちや、女官たちや、国民にまでも感化を及ぼしたということです。こういう指導的立場にある人が正しい信仰に入った場合、その影響はじつに計り知れないものがあるのです。  信仰はもともと個人の自由で、政治とか権力とかが介入すると不純なものになります。しかし、衆に尊敬されている指導者が正法の信仰に入ったために多くの人たちが自然とそれに感化されていくということは、けっして不純なことではなく、きわめて正しい影響といわなければなりません。  ですから、多くの人の上に立つ人は、どうか正しい信仰を身につけてほしいものです。もちろん、それを部下に押しつける必要はありません。正法の信仰によって生ずる人徳が自然と人びとを感化するからです。 ...

法華三部経の要点106

最高の親孝行と最高の先祖供養

1 ...法華三部経の要点 ◇◇106 立正佼成会会長 庭野日敬 最高の親孝行と最高の先祖供養 父母にも法を説かれた釈尊  妙荘厳王品の第三の要点は、そこに登場する二王子のように、親を仏法に導き、あるいは親に仏法を説くことが孝行の最たるものであるということです。妙荘厳王は、子に導かれて仏道に入り、出家したことによって、王位にある時は絶対に得られなかった大安心の境地に達することができました。その精神的な幸せこそ人生最高の幸福なのです。  親に法を説くことは、お釈迦さまが範を示してくださっています。亡き母上の摩耶夫人に対しては、その在所の忉利天に登って三ヵ月にわたって教化されたのです。  父上の浄飯王には、その臨終に際してなされた説法がじつに感動的です。お釈迦さまがヴェーシャリ国の重閣講堂におとどまりのとき、七十九歳になられる浄飯王がご病気との知らせがあったので、阿難・羅睺羅・難陀を連れて故郷に帰られました。  病室に入られたお釈迦さまは静かに父王の手を取られ、「父上、すべてのものは移り変わるもので、それはとうてい免れることはできませんから、けっしてお悲しみになってはなりません。それに、父上はすでに心の垢(あか)を除かれた清浄の身であられ、善根を積んでおいでですから、来世の安楽は疑いありません。どうか心安らかにおいでになってくださいませ」と、懇々とお説きになりました。浄飯王は「ああうれしい。わたしは幸せだ。幸せだ」とつぶやきながら安らかに息を引き取られたのでありました。 出家すれば九族が天に生ず  第四の要点は、二王子も妙荘厳王も出家されたとありますが、ここで、出家は大きな親孝行であると同時に、最高の先祖供養でもあることを知っておいていただきたいと思います。  南伝の小部経典の長老偈経に「智慧の豊かなる者が家に生まれ出家すれば、その者は七代の父母を浄める」と説かれています。七代の先祖の霊を安らかにするというのです。それを受けて中国や日本では「一人出家すれば九族天に生ず」という定型的説明が成立しました。九族というのは、祖父母の祖父母・曽祖父母・祖父母・父母・自己・子・孫・曽孫・玄孫のことで、出家すれば、この九族を天に生まれ変わらせ、安らかに暮らさせるというのです。  現代においては厳密な意味の出家修行者はたいへん少なくなりました。また、世の中全体を幸せにするには、人間の大多数を占める普通の生活をしているものがめざめなくてはどうにもならぬことが歴然としてきました。それゆえ、わたしは普通の生活をしながら、いささかの他への献身を行いながら人びとを仏道にみちびく人びとを「在家の出家」と呼ぶことにしています。立正佼成会会員のみなさんは、まぎれもなくその「在家の出家」にほかなりません。りっぱな菩薩なのです。  いろいろとご苦労もありましょうが、あなた方はこの世の浄土化という聖業の推進者であると同時に、あなた方の先祖から子孫までを天に生ぜしめるという功徳を積む身であります。これほどの先祖供養はなく、これほどの親孝行はなく、これほどの子孫孝行もないのです。 ...

法華三部経の要点107

法華経は実践によって完成する

1 ...法華三部経の要点 ◇◇107 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経は実践によって完成する 最後に登場の普賢菩薩  妙法蓮華経の最終章である普賢菩薩勧発品に入ります。この品は、東方の宝威徳上王仏の国から法華経を聞きにやってきた普賢菩薩がその教えに感激し、「のちの世にこの教えを受持する者があれば必ずそれを守護しましょう」と申し上げますと、お釈迦さまも「普賢菩薩と同じような行をなす者をわたしも守護しよう」とおおせられ、末世の法華経行者を励まされる章です。  法華経の初めのほうでは、菩薩の主役は「智」の文殊菩薩でした。中ほどでは「慈」の弥勒菩薩でした。そして、最後の結びで普賢菩薩が登場するのはなぜかといえば、真理を知る智慧にしても、一切の生きものに対する慈悲にしても、それを現実の生活に実践して初めてそれが救いとなり、幸せをもたらすのです。そこで、法華経のしめくくりとして「行(ぎょう)」の普賢菩薩が登場するわけです。  普賢菩薩は、六本の牙(きば)を持つ白い象に乗って出現されます。それはどんな意味を持つかといえば、象は目的地に向かって歩くとき、ゆくてをさえぎる樹木があればそれを押し倒し、岩石があれば足で転がし、まっしぐらに進んで行きます。  また、六本の牙というのは六波羅蜜を象徴しているのです。ですから、法華経行者が六波羅蜜を行ずるときに現れるさまざまな邪魔や障害をものともせず不退転の勇気をもってそれを乗り切っていかねばならないことを、この象の姿が象徴しているわけです。 法華経行者に守護を  といえば、普賢菩薩はいかにも実践を要求する「力」の象徴だけのように考えられるかもしれませんが、と同時に、たいへん慈悲深い菩薩でもあるのです。普賢菩薩を梵語ではサマンタバドラといいます。サマンタは「あまねく一切に」という意味、バドラは「幸福な」という意味です。それで、中国語には「遍吉(へんきつ=あまねく一切のものに吉祥を与える)」と訳されています。つまり、われわれを力づけ励まし、法の実践を勧めることによって、幸福をもたらしてくださる菩薩なのです。  その普賢菩薩がはるか東方の宝威徳上王仏の国から霊鷲山に来至して、如来の滅後においてはどうすれば法華経を身につけることができるのでしょうかとお尋ねしました。すると、お釈迦さまは、諸仏に護念せられ、もろもろの徳本を植え、正定聚(しょうじょうじゅ=正しい信仰に心を定めた仲間)に入り、一切衆生を救う心を起こすことであるとお答えになりました。これを「四法成就」の法門といい、非常に大切な教えですから、次回以降に詳しく解説しましょう。  そこで普賢菩薩は、「後の五百歳の末法の世にこの経典を受持する者があれば、わたくしはその者を守護し、修行を妨げる者をしりぞけ、また一句一偈でも忘れた所があればそれを思い起こさせてあげましょううんぬん」とお誓いするのです。普賢菩薩のすぐれた神通力で守護されたむかしの法華経行者の話は、さまざまな古典に述べられています。 ...

法華三部経の要点108

法華経のしめくくりは四法成就(一)

1 ...法華三部経の要点 ◇◇108 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経のしめくくりは四法成就(一) 護られているという確信  普賢菩薩勧発品最大の要点は、「四法成就」ということです。経文にはこうあります。  「仏、普賢菩薩に告げたまわく、若し善男子・善女人、四法を成就せば如来の滅後に於て当に是の法華経を得べし。一には諸仏に護念せらるることを為(え)、二には諸の徳本を植え、三には正定聚に入り、四には一切衆生を救うの心を発(おこ)せるなり。善男子・善女人、是の如く四法を成就せば、如来の滅後に於て必ず是の経を得ん」  この場合の「法華経を得る」というのは、法華経に遇うという意味よりも、法華経をほんとうに自分のものにし、ほんとうの功徳を得るという意味のほうが強いのです。そして、そのための条件が次の四つのことがらだというのです。  一、自分はもろもろの仏さまに護られ、たいせつに念(おも)われているのだという確固たる信念を持つこと。  これは、一言にしていえば、信仰の確立です。それがなければ、どんなに教理的に法華経を理解しても、大安心の境地に生きることはできません。順調なときは心配なく暮らしていても、何かトラブルが起こったり、逆境に陥ったりした場合、ともすればあわてふためいたり、挫折してしまったりします。つねに自分は諸仏に護念されているのだという確信を持っている人は、「これも仏さまのおぼしめしによる試練だ」と、あるいは「反省の機会を与えられたのだ」というふうに受け取り、前向きに対処しますから、マイナスをプラスに転ずることができるのです。 善い行いを積み重ねる  二、日常生活のうえにいろいろな善い行いを積み重ねること。  徳本というのは、徳を持つようになる本(もと)となるものという意味で、善い心です。その善い心を植えるというのは、つまり善い行いをすることにほかなりません。  普通には、善い心があってこそ善い行いができるのだと考えられていますが、そうとは限りません。人まねですることもあるし、周囲からの影響であまり気が進まないながらすることもあります。  もう一つ大事なことは、第一条にある「諸仏に護念されている」という信念を持っていますと、「仏さまが見ていらっしゃるのだから」という意識によって自分を励ましつつ善い行為ができるようになることも多いのです。  ところが、善い行いをすると、あとでなんともいえないような快い気持ちになります。そういう経験をたびたび味わっていますと、だんだんと自ら善い行いをするようになるのです。つまり、善い行いから善い心が育つわけです。  善い心が育てば、ひとりでに善い行いをするようになり、善い行いをすればますます善い心が育つというわけで、そこに素晴らしい循環が生まれ、その循環が無数にくりかえされるうちに、人格完成という理想の境地に近づいていけるのです。そのことを、法華経の終章であるこの品で「諸の徳本を植え」という一語にしめくくってあるわけです。 ...

法華三部経の要点109

法華経のしめくくりは四法成就(二)

1 ...法華三部経の要点 ◇◇109 立正佼成会会長 庭野日敬 法華経のしめくくりは四法成就(二) 正しい信仰者の集団に入る  「四法成就」の法門をつづけます。  三、正しいことに決定(けつじょう)した者の集団に入ること。  仏法では、人間の集団を三つに分けて、正定聚(しょうじょうじゅ)・邪定聚(じゃじょうじゅ)・不定聚(ふじょうじゅ)としています。  正定聚というのは、正しい教えを信ずる人びとの団体をはじめ、いろいろな社会奉仕のボランティア団体などがそれです。邪定聚というのは、暴力団とか、犯罪者の仲間といった、悪いことを目的とした者の集まりです。極端な破壊思想を持つ者の集団もこれに当たります。不定聚というのは、以上の二つの集まりに入っていない普通の人びとをいいます。その人たちは、正定聚・邪定聚のどちらへもおもむく可能性を持っているわけです。  われわれ信仰者も正しい信仰者の団体に入らなければならないことを、この「正定聚に入り」という一条に明らかに示されています。なぜでしょうか。信仰というものは個人個人の心の中の問題であることは確かですが、しかし、ひとり孤立して信仰し、法を求めていますと、往々にして独善に陥ったり、疑惑を生じたり、懈怠の心が起こったりしがちです。  そんなとき、同じ信仰に決定している仲間がいますと、お互いに相談し合ったり、教え合ったり、励まし合ったりして、逸脱や退転の危機を逃れることができるからです。  また、そうした危機が生じなくても、いつも仲間が集まって一緒に法の話を聞いたり、それぞれの信仰体験を話し合っていると、お互いの心がしっかりと結び合って、信仰の力が二倍にも三倍にもなるからです。  ましてや、不定聚の人びとを正しい信仰に導くことによって、あまねくこの世を寂光土化していこうという活動、いわば「信仰の社会化」という展開になりますと、どうしても集団の力というものが不可欠になります。お釈迦さまが、阿難が「よい仲間を持つことは仏道の半ばぐらいの価値があると思いますが」と申し上げたのに対して「半ばではない。仏道の全部だ」と答えられたのは、おそらくそういった意味であったろうと思われます。 全人類と共に救われよう  さて、最後に次の一条があります。  四、すべての人間を救おうという大きな志を持つこと。  自分ひとりが信仰によって救われても、社会全体がよくなり、人類全体がよい心を持つようにならなければ、結局は自分も幸せにはなれないのです。いつ強盗が押し入ってくるかわからない。いつ路上で暴漢に襲われるかわからない。  ですから、自分だけが悟り、自分だけが救われるというのでは、ほんとうの成道ではないのであって、自他共に救われることによってこの世に理想的な平和国土を建設するというのが、大乗仏教思想の根本なのです。  この「四法成就」の法門は、お釈迦さまのみ心を拝察するならば、「いままでいろいろ難しいことを説いたけれども、それを実践するにはつまりこれだけを心がけておればいいのだよ」と平易にまとめてくださったのであろうと思われます。法華経の教えの深遠さに少々たじろぎ気味だった人たちも、これをうかがって、なにか新しい勇気のわき起こる思いをすることでしょう。 ...

法華三部経の要点110

懺悔なくして宗教なし

1 ...法華三部経の要点 ◇◇110 立正佼成会会長 庭野日敬 懺悔なくして宗教なし 同信の人への懺悔の尊さ  仏説観普賢菩薩行法経に入ります。このお経は、お釈迦さまが法華経をお説きになったのち、ビシャリ国の大林精舎で説法されたもので、懺悔(サンゲ)ということが徹底して説かれているために一名「懺悔経」とも呼ばれています。  懺悔とは、自分の心の罪や行いの過ちを「ああ悪かった」と反省し、それを告白することを言います。それには二つの段階があります。一つは、同信の人や指導者に対し、言葉に表して告白することです。もう一つは、目に見えぬ神仏に向かって、自らの至らなさを悔い、心身の行いを改めることを誓うことです。  このお経には、おおむね第二の懺悔について説かれていますが、第一の懺悔もたいへん大切なことです。現実の問題として、初信の人にとっては、目に見えぬ神仏に向かって懺悔しても心が洗われたように清まる実感はなかなか得られません。それに対して、生きた人間に己の罪や過ちを思い切って打ち明ければ、心に溜っていた醜いものが洗いざらい排出されたような、なんともいえない清々しさを覚えるものです。  その気持ちこそが尊いのです。その清々しさは、心から「我」がすっかり吐き出されて空(から)っぽになった状態です。そうして空っぽになればこそ、そこへ真理がどんどん入りこむことができるのです。また、神や仏に帰依する真心もそのあとを埋めることができるのです。醜いものが充満しておれば、そのような尊いものは入って来られませんから。  「懺悔なくして宗教なし」という言葉は、そこのところを喝破しているわけです。 普賢菩薩を観ずるとは  さて、このお経は、題名の通り、普賢菩薩を観ずることがその大部分を占めています。観というのは、精神を統一し、智慧をいっぱいに働かせて、仏や、法や、そのほか宇宙・人生のさまざまな事象を観察し、思索し、そして悟りを開くことに努めることをいうのです。  といっても、そういうことは一般のわれわれにはたいへん難しいことですので、仏教では普通の人間にもできる方法(観法という)を教えています。それは、具体的ななにものかに心を集中し、それを見つめ、一心に念ずることです。普賢菩薩を観ずるというのも、そういった観法の一つです。  普賢菩薩は、理・定(じょう)・行をつかさどる菩薩とされていますが、表面的には「行」を象徴する菩薩です。われわれ在家の信仰は「行の菩薩」と観ればそれで十分だと思います。  われわれは法華経を学び終えて、宇宙と人生の実相を知り、新しい勇気をもって再出発しようとしています。しかし、日常生活の実情はどうかといいますと、往々にして汚い欲や悪い念を抑えきれぬこともあり、自己本位に陥って、法華経の神髄である「他を幸せにする行い」を怠りがちになります。  ですから、ここで普賢菩薩を観ずることによって懺悔の心を起こし、改めて心を清め、動揺を静め、徳を積む行いの実践へとおもむかなければならないのです。法華経の結経(けつぎょう=結びの経)としてこのお経が説かれたのは、そういう理由によるものであります。 ...

法華三部経の要点111

懺悔が仏性を磨き上げる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇111 立正佼成会会長 庭野日敬 懺悔が仏性を磨き上げる 懺悔を聞く人の心得  前回には「懺悔なくして宗教なし」ということについて述べました。実際その通りで、キリスト教のカトリックにおいても、教会の中に特別な個室が設けられてあって、そこで信者さんと神父さんが一対一で懺悔が行われるのです。初期仏教団における修行者たちの懺悔は公開的なものでした。一ヵ月に二回、新月と満月の夜に行われる布薩(ふさつ)という集会で、係の比丘が戒律の個条を一つ一つ読み上げていくうちに、もしその個条に触れる罪を犯したという自覚を持つ者があったならば、ただちに申し出るのです。内心のひそかなる罪をもすべてさらけ出し、仏陀もしくは長老比丘による指導を受けたのでした。  なお、われわれは法座その他において、ひとの懺悔を聞く立場になることがしばしばありますので、その場合の心得について、初期仏教教団に確立されたものがありますから、参考のために紹介しておきます。  一、時に応じて語る。  懺悔を聞く人は、それぞれの人に応じ、場合に応じ、適切な指導を与えるべきで、教条主義に陥らないことだ、というのです。いわゆる万億の方便が大切だということです。  二、真実をもって語る。  万億の方便を用いるといっても、それはあくまでも正法に根差したものでなければならないのです。  三、柔軟に語る。  声を荒らげて叱責(しっせき)したりせず、穏やかな調子で、優しく話し、相手が「なるほど」と心から納得できるように指導しなければならない、というのです。  四、利益(りやく)のために語る。  相手がそれによって正しい悟りを得、向上し、救われるように……という目的ばかりを思って話すべきで、そのことに心を集中すれば必ず適切な指導ができるものです。  五、慈心をもって語る。  相手に対する深い愛情をもって対さなければならないというのです。当然のことのようですが、ともすれば自分を偉く見せたいというような不純な気持ちが混じることがありますから、それを戒めてあるのだと思います。 仏性を磨き上げるために  人間はすべて平等に仏性を持っていることは法華経の教えによってハッキリ理解できました。いわば、それは仏性の発掘でした。しかし、発掘したばかりの宝石はまだ泥土にまみれていて、本当の輝きはありません。どうしてもその泥土を洗い落とさなければ、尊い宝石の真価は現れてこないのです。その泥土を洗い落とす第一の段階が、同信の人たちに対する懺悔です。それだけでもたいへんな結果が出ることは、立正佼成会五十数年の歴史が実証しています。  ところが、その段階では満足せず、さらにその宝石に磨きをかけたい人があります。泥土は洗い落としても、まだまだ宝石の表面には曇りや傷がありますから、それに磨きをかけ、曇りや傷の部分を取り除けば、いよいよ持ち前の燦然(さんぜん)たる輝きを発するようになるからです。それが、会員綱領にある「人格完成」の境地ですが、それを目指す第二段階の懺悔が、この観普賢菩薩行法経に説かれる「神仏に対する懺悔」にほかならないのです。 ...

法華三部経の要点112

実相を思念することが最高の懺悔

1 ...法華三部経の要点 ◇◇112 立正佼成会会長 庭野日敬 実相を思念することが最高の懺悔 肉体へのとらわれから離れる  これまでに、懺悔の第一段階と第二段階について説明してきました。ところが、このお経を読み進んでいきますと、そうした常識的な懺悔を超えた、深遠な、しかもきわめて直截的(ちょくせつてき)な行法が説かれているのです。  それはずっと後のほうにある次の偈です。  「一切の業障海は 皆妄想より生ず 若し懺悔せんと欲せば 端坐して実相を思え 衆罪は霜露の如し 慧日能く消除す」  現代語に意訳しますと、こういうことです。「人間のすべての行為の過ちも、それから生ずる心身のさまざまな障害も、ありもしないことをあると思う誤った考えから生ずるのである。だから、ほんとうに懺悔しようと思うならば、静かにすわって、すべてのものごとの実相を深く思念することである。そうすれば、もろもろの罪というものは、朝日の前の霜や露のようにたちまち消えてしまうのである」というのです。  では、その「すべてのものごとの実相」を深く思念するためにはどうすればいいのでしょうか。それには「自分の本質である仏性は宇宙の大生命ともいうべき久遠の本仏さまと同質なのである。そういう仏性をもつ自分は宇宙の大いなるいのちと同質の存在なのである」ということを確信することです。  そして、そういう尊い存在なのに、「自分がこのような罪を犯したのは、ありもしないものをあるとして妄想し、そういうものに執着していたからなのだ」と悟る。これこそが最高の懺悔だというのです。 真の懺悔とは積極的なもの  お釈迦さまは、この世に存在する生きとし生けるものは、お互いに関係し合って存在しており、不要なもの、無用なものは何ひとつない。だから、人間どうしはもちろんのこと、動物とも植物とも、ひいては全環境とも仲良く大調和して生きていかねばならない、と教えられました。  そのことと、この最高の懺悔のあり方を考え合わせますと、この世の現実が大調和しないのは一人一人が、ありもしないものをあると考えてそれに執着し、妄想によってものごとを見、考え、行動するからである。したがって、ほんとうに幸せな理想社会をつくろうとするならば、すべてのものごとの実相を正しくとらえて、自分中心ではなく大調和めざして、その時その場所に一番ふさわしい行動を積極的にとっていくことであるとも、この一偈で教えられていると、わたしは思います。  また、このお経の初めのほうで、阿難・摩訶迦葉・弥勒の三大弟子がお釈迦さまに「どうすれば、煩悩を断ぜず五欲を離れずに心身を清め、諸罪を滅除することができましょうか」と質問しています。その質問に対するお答えとしてこのお経が説かれたわけですが、その最終的結論が「端坐して実相を思え」という一句であると考えていいでしょう。  いずれにしても、懺悔といえば、いかにも消極的なイメージを感じがちですが、そうではなく、自分の存在というものに対するほんとうの自信と、人生に対する大きな勇気を奮い起こす、明るく積極的なものであると知るべきでしょう。 ...

法華三部経の要点113

観普賢経の重要な言葉(一)

1 ...法華三部経の要点 ◇◇113 立正佼成会会長 庭野日敬 観普賢経の重要な言葉(一) 真の慈悲は大乗の精神から  このお経には、見逃してはならない重要な言葉がたくさんあります。その中でも最も重要だと思われるものについて簡単に解説しておきましょう。  方等経典は為(こ)れ慈悲の主なり。  「方」というのは正しいということ。「等」というのは平等ということ。大乗の教えは、中道の道理が方正であり、また、すべての人間がその本質においては平等であることを説くものですから、方等経典というのは大乗経典の別名なのです。  ところで、大乗経典の核心となる真実は、すべての人が平等に仏性を持っているということです。もっと掘り下げていえば、人間以外の動物も、植物も、無生物もすべて、もともとは久遠実成の本仏に生かされている平等な存在である、ということです。  このことを心の底から悟ることができれば、すべての人間・動植物・無生物、つまり全環境に対する愛情が、おのずからわいてこざるを得ません。そのような広大な愛情を慈悲というのです。  そういった慈悲は、大乗の教えをしっかりと学ぶことによって生ずるのですから、まさに方等経典は慈悲の主であるわけです。  身は為れ機関の主 塵の風に随つて転ずるが如し 六賊中に遊戯(ゆけ)して 自在にして罣礙(さわり)なし  現代語に訳しますと「人間の心身は、いろいろな働き(機関)をするものであるが、その働きが周囲の事情によってどうにでも変化することは、まるでチリが風に飛ばされるようなものである。その中には、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)のわがままな欲望が、思う存分に暴れ回っているのである」というのです。  凡夫の心身のありさまをまったく如実に、文学的に表現してある名句です。そして、そのすぐあとに、そういった心身の混乱をおさめるには「大乗経を誦して 諸の菩薩の母を念ずべし」と説いてあります。菩薩の母というのは、万人・万物に対する平等な慈悲心のことです。 「信」がここまで極まれば  今日方等経典を受持したてまつる、乃至失命し設(たと)い地獄に堕ちて無量の苦を受くとも、終(つい)に諸仏の正法を毀謗(きほう)せじ。  現代語に訳しますと「今わたくしは大乗の教えを受持いたします。万一そのために命を落とすことがありましょうとも、あるいはまかり間違って地獄に落ちて無量の苦しみを受けることがありましょうとも、ぜったいに諸仏の説かれた正法をそしるようなことはいたしますまい」。  信心の一念はここまで徹底したものでなくてはなりません。目前の現世利益だけを目的として信仰している人は、なにか不都合なことが起こればすぐ疑惑を起こしたり、退転したりするものです。そうしたレベルにとどまっている人は結局救われない人なのです。  親鸞上人も「たとい法然聖人にすかされ(欺され)まいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」とおっしゃっています。これは、教えに対する「信」でもあり、それを教えられた師に対する「信」でもあります。「信」の極致といっていいでしょう。 ...