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心が変われば世界が変わる15

心が変われば人生も変わる

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(15)  立正佼成会会長 庭野日敬 心が変われば人生も変わる 見る自己と見られる自己  これまで(心が変わればからだが変わる)ことについてお話ししてきましたが、ここで少し角度を変えて、(心が変われば人生も変わる)ということと、(どうすれば心を変えることができるか)ということについて考えていってみたいと思います。  さて、前々回に(自己の中にもう一人の自己がいる)という真実について少し触れました。この(もう一人の自己)というのは、つきつめていくと、禅の公案にある(父母未生以前における本来の面目)であり、宇宙の大いなるいのちと同体の(仏性)のことであり、たいへん深遠で、にわかにとらえ難い問題となってきますので、そこへ達する入り口として、ひとまず(見られる自己と見る自己)とに分けて考えていくことにしましょう。  芭蕉の句に  馬ぼくぼく我をゑ(絵)に見る夏野哉 というのがあります。芭蕉の乗った馬がボクボクとあまり威勢のよくない音を立てながら、日盛りの夏野を歩いています。芭蕉は心の中で、ずっと離れた場所にもう一人の自分を置き、馬に揺られて旅をしている自分の姿を一幅の絵として眺めてみたのです。  どんな気分の絵として眺めたのか、それは芭蕉に聞いてみなければわからないのですけれども、ただハッキリしていることは、もう一人の芭蕉が(見る自己)となり、現実の自分を(見られる自己)としていることです。  ここでは芸術創作の一手段となっているわけですが、心のこうした働かせ方は、人生にとってもたいへん大事なものなのであります。 人間の人間たる最大の条件  虫や、魚や、鳥や、獣には、心があるとしても、自分の生命を守り、自分の欲求をいちずに遂げようとする本能的な心だけでありましょう。もちろん、人間にもそうした本能的な心は旺盛なのですが、別にもう一つの心があって、その本能的な心を客観的にみつめることができるのです。つまり、(見る自己)が別にあるということです。これが畜生と人間とを分ける最大の条件であって、これがあってこそ人間らしい人間と言えるのです。(良心)という言葉があります。(反省)ということも言われます。それらはつまり、この(見る自己)の働きにほかならないのです。  幕末から明治にかけて豪僧の名が高かった原坦山(たんざん)師は、若いころには昌平黌(江戸幕府の学校)で儒教を学んでいました。そのころ、深い仲だった女に裏切られたのに激怒し、殺そうと思ってその家に行きました。ところが女が留守だったので、帰りを待ちながらフト机の上にあった本をパラパラめくってみると、女色を戒めた文章が目に入りました。それを読んでいるうちに自分の愚かさに猛然たる悔悟の念がわき、そこを飛び出して再び女に近づくことがなかったということです。  じつに危ないところでした。そのまま推移すれば、痴情の果ての人殺しとして死罪は免れず、世の笑い者になったでしょう。  ただ一瞬に(見る自己)が目を覚まして、道を踏み外そうとしている(見られる自己)を正視したおかげで、人生が一八〇度変わってしまったのでした。 見る自己を常に働かすこと  この回心はあまりに劇的なものなので、普通の人間には縁遠い事例のように感ずる人があるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。われわれは、ともすれば何事かに溺れたり、邪まなことに興味を持ったりして、たとえ犯罪のような大それたことはしないまでも、人生の横道に逸れてしまったり、天から与えられた持ち分を伸ばすことなく一生を終わったりする危険な岐路には、日常いつも直面しているのです。したがって、常にこの(見る自己)を働かすか否かが、大小にかかわらず人生の分岐点になるのだ、と知らなければなりません。  伊達政宗は名器といわれる茶碗を愛用していましたが、ある日それを手に取って惚れぼれと眺めているうちに、フト取り落としてしまいました。幸い膝の上に落ちて無事でしたが、政宗はそれを取り上げるや突然庭の石に叩きつけてしまいました。家臣たちが驚き騒ぐのに向かって政宗は「茶碗を落とそうとした時、わたしはハッとした。武将たるものが、わずか茶碗ごときに胆を冷やすとはじつに恥ずかしいことだ。だから、その源を断ったのだ」と笑って言ったそうです。つまり政宗は、とっさに(見る自己)を働かせて、一つの分岐点を無事の道へと切り抜けていったわけです。 (つづく)  笛を吹く天子(東大寺燈籠)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる16

よく生きるためにまず自己を知れ

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(16)  立正佼成会会長 庭野日敬 よく生きるためにまず自己を知れ 仏教は自己を知れとの教え  第十三回に(仮の自己と本来の自己)ということを書きました。第十五回には、(見る自己と見られる自己)について書きました。なぜこのようにしつこく(自己)というものを追求していくかと言いますと、自己を知ることこそ、人生を決定する一大事であるからです。ほんとうに自己を知ることができれば、生きるべき方向もおのずからわかり、ほんとうの生きがいも味わうことができ、したがって、ほんとうの幸福も得られるからであります。  お釈迦さまがバラナシから六十人の弟子たちを伝道に送り出し、ご自分もお一人で王舎城への旅に出られてから間もなく、ある森の中で休んでおられますと、大勢の若者たちがドヤドヤやってきて、「若い女をお見かけになりませんでしたか」と尋ねました。事情をお聞きになりますと、三十人の若者たちが妻を連れて森に遊びに来たのですが、その中の一人は未婚だったので遊女を連れて来ていたところ、遊びに夢中になっているうちに、その遊女が彼らの財物を盗んで逃げてしまったというのです。  それを聞かれたお釈迦さまは、「若者たちよ。その女を探し求めることと、自己を探し求めることと、どちらが大事だと思うか」とお聞きになりました。若者たちはしばらく呆気にとられていましたが、やがて「自己を探し求めることのほうが大事だと思います」と答えました。お釈迦さまは「では、そこに座りなさい」とおおせられ、じゅんじゅんと法を説いて聞かせられました。みんなはたちまち信伏して、弟子入りをお願いしたのでありました。 理論的に考えてもわからぬ  この(南伝・律蔵大品)の記述から見ましても、仏教においてはその初期から(自己を知る)ことを、大切な眼目としていることがわかります。  後世に興った禅宗においても、このことを修行の最大の眼目としており、「父母未生以前における本来の面目如何」という公案がその中心となっています。「父や母もまだ生まれない前の自己の本来の姿(本質)とは何か」というのですから、雲をつかむような話です。夏目漱石の(門)という小説に、主人公の宗助が鎌倉の円覚寺に参禅し、この公案を授けられ、十日間坐禅しながら考えたが、ついにわからぬまま退散したことが書かれています。漱石自身の体験にもとづいたものであることは明らかですが、あの大文豪の、万人にすぐれた頭脳を以てしてもつかみえなかったのですから、これを理論的に考えていったら、だれしもわかりはしないのです。  禅の高僧伝などを読みますと、たとえば庭掃除をしていて箒に飛ばされた小石が竹に当たってカチンと音を立てた、それを聞いたとたんに悟った……などとあり、われわれ普通の生活者にとってはチンプンカンプンです。なぜわかり難いかといえば、このような場合の(本来の面目)とか(本来の自己)とは、宇宙の大生命と同体のギリギリの自己であるからです。そんな深遠な境地は、禅のお坊さんでも、何年何十年と坐禅を続け、修行が熟しきったとき、ある日、豁(かつ)然と悟るのであって、漱石が十日間で悟れなかったのは無理もないのです。 現象に現れた所をつかめ  そこで、われわれ普通の生活者は、そのギリギリの本来の自己については、お釈迦さまの教えをそのままに「自分の本体は仏性なのだ」と素直に信じているだけで、いちおうは十分なのです。そしてもっと普通の意味の、二次的な意味の(自己を知る)ことを、まず考えなければなりません。  (本来の面目)とか(本来の自己)とかは、目にも見えず手にもとらえられない、われわれの本質です。ところが、本質がある以上は、何かの現象として現れないことはないはずです。現れなければ、本来の面目であろうが、本来の自己であろうが、絵に描いた餅と同様で何の価値もありません。  空中にいくら電波が飛び交っていても、ラジオやテレビの受信機でそれをとらえなければ、有って無きに等しいのと同様です。ですから、われわれ普通人は、本質が自分の心身に現象として現れた、そのところをつかまねばならないのです。  たとえば、自分は学問が好きだ、自分は手仕事が得意だ、自分は汗を流して働くのが性に合っている等々、各人各様の性向や才能があります。それも自分の本質の現れにほかならないのですから、さきに述べた(見る自己)を働かせて、それをしっかりとつかむことが(自己を知る)ことであり、よい人生を生きる第一条件なのです。  わかりきったことのようですけれども、案外多くの人が、金銭収入の多寡とか、体面とか名声とかいった外的な条件に心をくらまされて、このわかりきったことから外れて生きようとするために、自らを不幸に陥れているのです。まず自己を知れ……というのは、このように実人生にピッタリ密着した教えなのです。 (つづく)  月光菩薩(東大寺)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる17

劣等感を解消するには(1)

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(17)  立正佼成会会長 庭野日敬 劣等感を解消するには(1) 高い所から自分を眺める  自分自身に劣等感をもちながら、スッキリしない気持で日々を暮らしている人が世の中には多いようです。せっかくの一生を、そんなジメジメした、不透明な心理状態で送るなんて、これほど不幸なことはないと思います。自分自身が不幸であるばかりでなく、そういう気持は周囲の人々にも反映して、なんとなく暗いイヤな印象を与えます。当然の成り行きとして、他人にも好意をもたれず、それがまた劣等感に輪をかけるという悪循環を繰り返すのです。  ここで断っておきたいのは、一時的な自己嫌悪と劣等感とは違うということです。われわれはある物事に失敗したり、つまらぬ言動をしたり、ふと醜い心を起こしたりしたとき、つくづく自分がイヤになることがあります。そういう一時的な自己嫌悪は、健全な精神のはたらきであり、それがあればこそ、人間は人格的にも成長し、生活的にも進歩するのです。それに対して、劣等感というのは何か決定的な様相をもって、いつも心につきまとっている卑屈な感じをいうのです。これがよくないのです。  さて、そのような劣等感を解消するにはどうすればよいか。ここでも、前に述べた(見る自己)をはたらかせればよいのです。この場合(見る自己)をどこに置けばよいかといえば、できるだけ高い所に置くのです。最初の宇宙飛行士が「地球は青い球だった」と言っています。その青い球の上にいる三十数億の人間は、もちろん見えなかったわけですけれども、仮に見えたとしたら、みんな同じような粒々だったでしょう。それほど高く上がらなくても、町外れの山の上から、あるいは四十何階建てのビルの屋上から、地上にいる自分を含めた人間全体を眺めてみるといいのです。そこから見下ろすと美人も不美人も同じです。頭のいい人も悪い人も同じです。大金持ちも貧乏人も同じです。つまり、自分もみんなと同じなのです。このことがハッキリわかれば、劣等感など飛んでいってしまうでしょう。 ものの見方に深浅五眼あり  これは決してゴマカシの見方ではありません。仏さまが衆生を見られる眼をお借りした、正しいものの見方です。仏教では、物事を見る眼に五つの種類があるとしており、これを五眼(げん)といいます。  第一は(肉眼(にくげん))です。現象に現れたものしか見ることができず、それもごく一部しか見ることのできない、視野の狭い、皮相な、近視眼的なものの見方です。  第二は(天眼(てんげん))です。肉眼では見ることのできぬ物事を見通し、見分ける能力で、昔、虫めがねのことを天眼鏡と呼んだのも、ここから出た言葉です。二十世紀の現実に即していえば、鉄も、石も、人間の身体も、目に見えぬ素粒子の集まりと知る……といったていの科学的なものの見方と考えてもいいでしょう。また、事物の表面だけでなく、その奥に隠された真相を見通す眼力と解釈してもいいでしょう。  第三は(慧眼(えげん))といって、天眼よりもさらに深く、宇宙のすべての物事の実相を明らかに見分け、それらをつらぬく理法をも手に取るように知る力です。仏教学上では(諸法の空を知る眼力)だとされています。  第四は(法眼(ほうげん))といってやはり物事の奥底を洞察する眼ではありますが、天眼が科学的な見方であり、慧眼が哲学的な見方であるのに対して、これは芸術的な見方だといえます。芭蕉の「静かさや岩にしみ入る蝉の声」の句のように、自然の生命に直入し、普通の人では感じられぬ真実を魂で感じ取る力です。この句に即していえば、芭蕉自身も蝉の声と共に岩にしみ入っているのです。  最後が(仏眼(ぶつげん))で、これこそが最高のものの見方です。肉眼・天眼・慧眼・法眼を兼ね具(そな)えていながら、すべての物事の底にあるいのちを等(ひと)し並(な)みに見、それらを等し並みに生かしてやりたいという大慈悲をたたえて見るのです。仏さまはこういう眼で一切衆生を見られるのです。つまり、宗教的なものの見方です。 肉眼に惑わされぬことこそ  さて、高い所に(見る自己)を置いて、多くの人の中の自分を眺めてみるというのは、現象にとらわれた(肉眼)から離れて、すべての存在を等し並みに見る(仏眼)に近づく方便にほかならないのです。人間それぞれ、現象の上では美醜あり、賢愚あり、強弱があるように見えますが、その底にある本質は等しく宇宙の大生命から分け与えられた純粋の生命(仏性)です。肉眼に惑わされることなく、この真実を見ることができれば、劣等感などはいっぺんに雲散霧消してしまうのであります。(つづく)  楽人、飛天(薬師寺東塔、水煙部分)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる18

劣等感を解消するには(2)

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(18)  立正佼成会会長 庭野日敬 劣等感を解消するには(2) 自分が生まれた因縁を思え  劣等感を解消するには、高い所から自分を含めた人間全体をながめてみるとよい……と、前回に述べました。しかし、それでもなおかつ現実の差別感から超越しきれない人もあることと思われます。そのような人は、思い切って現象そのものと取り組んでみることも、逆療法として効果があると思われます。というのは、自分が現象人間としてこの世に生まれてきた因縁について(その因縁の理を知ることによって)一種の諦観に達することです。  その理については、後に詳しく説明いたしますが、簡単に言えば、自分の本体は(魂)であって、肉体は借り物だということです。前の世の人生でまだ純化の修行が完成しなかった魂は、その未完成の状態にふさわしい。言い換えれば、これから続けていく修行にふさわしい父母の肉体を選んで借り、父母が新しい生命を生み出す受胎の瞬間にその新しい肉体に宿るものとされています。ですから、生まれつきの体格や、性質や、能力などがどうあろうとも、それは自分の責任であって、父母の責任ではありません。よく「こんな人間に産んでくれて……」と父母を恨む人がありますが、とんでもない考え違いです。恨むどころか、そのお腹を借りて生まれてきた不完全な自分を、命を削る思いで愛育してくれた父母のありがたさに、手を合わせなければならないのです。  現実の自分が他より見劣りがするようであっても、それは右に述べたような因縁によるものですから、その現実を素直に認めて割り切ることが大切です。 他を愛しつつ美しく生きる  そして、現実の自分にふさわしい仕事に、そして人生のすべてに、全力をあげて取り組むことです。苦しみもありましょうし、悩みもありましょうけれども、その苦しみ悩みに対して、あくまでも誠実な態度で立ち向かい、それを克服していく努力が肝心なのです。それが魂の修行にほかなりません。  また、どんなに苦しい人生の中でも、周囲の人には親切を尽くし、たとえどんな小さいことでも、世のためになることをコツコツと行っていくことを忘れてはなりません。人ばかりでなく、動物・植物にも愛情を注ぎ、(物)の殺生をも慎み、つつましく生きていくことを心がけることです。このような人生は、どんなに華やかな、見かけ上の幸福な人生よりも、ずっと価値あるものであります。そうした生き方こそが、また、魂の純化の修行にほかならないのです。  このような生き方は、やろうと思えばだれにでもできます。どんなに頭が悪くどんなに才能に恵まれない人にもできます。ですから、劣等感に悩む人は、見かけ上の劣等さを逆手にとって、このような真実のこもった、ひっそりとした美しい人生を送ることを心がけるのも一つの生き方だと信じます。 泉への道後れゆく安けさよ  もう一つ、いたずらに他人を羨(うらや)まぬことです。「隣の芝生は青い」という諺がありますが、人間には多少ともそうした見方をする癖があります。隣の芝生が青いと思ったら、自分の庭の芝生にも水や肥料をやったり、こまめに芝刈り機をかければいいのであって、ただ羨むばかりでは、それが高じて嫉妬に変じたり、自らの劣等感をそそる結果になり、いいことは一つもありません。  ドイツにあった話ですが、クンツという労働者が仕事からの帰りに飲食店に寄り、黒パンをかじって貧しい食事をしていると、店の前に高級自動車が止まりました。車中の人は戦争成り金らしく、召使いにビフテキとワインを運ばせて車の中で食べ始めました。クンツが思わず「ああ、おれだって同じ人間なのに、何という惨めさだ」と嘆くと、その人は「そんなに私が羨しいなら、私の身体と財産そっくりと、君の体と財産そっくりと交換しよう」と言い出しました。クンツが半信半疑で突っ立っていると、召使いが主人を抱いて車から降ろそうとしました。見ると、その人は足が二本ともなかったのでした。  人間、多かれ少なかれ、隠れた不幸を背負っているものです。それを知らずにむやみと人を羨むのは不健全な精神です。もちろん、成長と向上の努力は常になしつつも、現在の瞬間瞬間には「私は幸せだ」という感じをもっている人、これこそほんとうに幸福な人なのです。結核で長く闘病生活を続けていた俳人の石田波郷さんが、友人と山道を歩いたときの句にこういうのがあります。  泉への道後(おく)れゆく安けさよ (つづく)  菩薩像(東大寺五重塔・塑像)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる19

何となく自信のもてぬ人に

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(19)  立正佼成会会長 庭野日敬 何となく自信のもてぬ人に 心に不安があれば運は去る  自分の仕事や人生すべてに対して、何となく自信がもてない……と訴える人がよくあります。現代病の一つ、心の病気の一つだと思います。  まず、自分の仕事について自信がもてないなど、そんなはずはないのです。あなたがコンピューターの知識が全然ないのに、その修理をせよと言われたのだったら、それは不可能でしょう。若乃花や北の湖と相撲をとって勝てと言われたらそれは無理というものでしょう。しかし職場におけるあなたの仕事は、それをやり遂げられる能力をもっておればこそ、その役目を与えられているのですから、できないはずはないのです。それなのに何となく自信がもてないというのは、オドオド病という病気なのです。勇気不足病といってもいいでしょう。  ゴルフを例にとりますと、例えば、谷越えのショットをするとき、「谷に落とすんじゃないか」と不安な気持で打つと、決まって落としてしまいます。なぜかと言えば、意識のうちに身体が固くなって腕が縮み、肩が回らないからです。パットをするときも、「どうも入りそうにないな」と思いながらやると、必ず入りません。心がノビノビしていないから筋肉もノビノビせず、リズムも狂ってしまうのでしょう。  人生万事これと同じです。心のもち方は行動に微妙な影響を与えます。従って当然それは結果に現れます。(運)という文字は、車が道の上を転がっていくありさまを表現したものだそうです。(運がいい)というのは、平坦な道をスムーズに転がって行く……ということになりましょう。しかし、いくら道が平坦でも、車の要所要所に油が十分差してなければ、ガタピシして、うまく進んでは行きません。それと同様に、ものごとに当たっていつもオドオドしているならば、必ず行動もガタピシしますから、(運)がよくなるはずはないのです。 時に応じて開き直ること  では、そんな人は心をどう切り替えたらいいのでしょうか。まず、勇気をもつことです。およそ、万事に自信がもてないといった人はおおむね善良で、自省過多で、従って、気の弱い人が多いのです。善良なことも、常に自省することもいいことには違いないのですが、それが度を越せば、やはり「過ぎたるは及ばざるが如し」です。ですから、そんな型の人は、大事な仕事に際しては、「ナニクソ」といった勇気をもって、体当たりしていくことが必要です。全力をふるって体当たりしていけば、必ず道は開けるものです。高校野球の場合など、特にそうしたシーンを見かけるではありませんか。  失敗を恐れてはいけません。もし失敗したら……といった不安をもてば、先ほどゴルフの例を引いて説明した通り、不思議と、それは実際となって現れます。「恐れるものはやってくる」の理です。(運)の理です。反対に、「人生に失敗は付きものではないか。失敗してはやり直し、その上を乗り越え、乗り越えしていく、それが人生ではないか」と開き直って、正面から堂々と事に立ち向かえば、かえって失敗は向こうから退散してしまうものです。(運)が向こうから凹凸道を平らにしてくれるのです。  人生には、時に応じて、こうした開き直りが必要です。開き直りというのは、一面ヤケクソに似たところがありますが、決してヤケクソではありません。理にかなった態度です。目前の状況が八方塞がりのように感じられるとき、その狭い現実の中でやみくもに苦しみ、もがこうとする自分を思い切ってパッと捨て去り、もっと広い世界にいる自分を発見しようとする、正しい心の転換法です。より広い世界を開いて、その中に居直るから、開き直るというのです。そして、この心の操作は、優れた人だけにできるというものではありません。だれにでもできることです。すべての人間に具(そな)わっている、いわば人生の安全弁なのです。 「70年は生きられる」の理  「七十日は生きられないが、七十年は生きられる」という諺があります。ある失敗をし、挫折感にうちひしがれ、もう生きてはおられないと思うことがあるけれども、それはごく短い間(七十日)のことで、いつの間にか立ち直ってしまう。そのうち、またまた他の失敗や挫折に遭って絶望に沈むのだが、それまた忘却の彼方に去ってしまう。こうして、いつしか七十年もの歳月を生きていく。それが人生だ……というのです。目前のことに自信をもてず、いつも不安を覚えている人は、この諺を一日に何度も唱えてみるとよいと思います。(つづく)  菩薩の頭部(アフガニスタン)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる20

成功への方向づけを心に

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(20)  立正佼成会会長 庭野日敬 成功への方向づけを心に うまくいく有様を想像せよ  前回に、自分の仕事や人生に自信をもてない人のために、二、三のアドバイスをいたしましたが、今回はもっと積極的な方法を伝授したいと思います。前回に、「八方塞がりの人は開き直れ」とアドバイスしましたが、では、開き直ったら具体的に心をどういう方向にもっていくのか……ということが問題になりましょう。  前に述べたゴルフの例に即して言うならば、自分の打ったボールがフェアウエーのいい場所へ飛んで行くありさまを心に描くのです。あるいは、パットがスーッとカップの中へ吸い込まれて行くさまを心に描くのです。そうすると、不思議にうまくいくものです。仕事についても、人生万事についても、同じことが言えます。まず心の中に、うまくいったその場のありさまをアリアリと想像し、できればそこまでいくあらましの筋道を描いてみてから、事にとりかかり、あとは無心に体当たりしていけばいいのです。  つまり、心を成功の方へ方向づけておくことが肝心なのです。心に成功へのレールを敷いておくのです。レールを敷けば、その上を走るのはごく自然のことで、外れるほうがおかしいのです。もちろん、人生のものごとにはいろいろ複雑な要素がありますので、自らの心の迷いや、外からの力によって、脱線することが往々にしてあります。しかし、とにかく大勢としては、成功の方へ進んでいくことに間違いはないのです。  ですから、小さな脱線など気にすることはないのです。脱線したら、またレールの上に乗り直して、トコトコ走り続けたらいいではありませんか。前にも述べましたように、「七十日は生きられないが、七十年は生きられる」のです。 ほんとうの楽観的な生き方  こういうのを(楽観的な生き方)と言います。ほんとうの楽観というのは、けっしてチャランポランではありません。無軌道ではありません。常に成功への軌道を心に描き、その軌道の上を明るくノビノビと進んでいく。ときどき脱線しても、絶望したり挫折したりはしない。また軌道を敷き直し、その上に乗って生きていく。これがほんとうの楽観的な生き方です。いつまでもナヨナヨしない、執着しない態度です。  その(心に敷く軌道)は、できるだけ確かなものでなくてはなりません。頼りになるものでなくてはなりません。できれば、失敗するたびに敷き直すのでなく、確固とした地盤の上に敷かれた永久的なものでありたいものです。そうすれば、失敗しても、脱線しても、「自分にはこの軌道があるのだ。再びその上に乗っかればいいのだ」という安心感がありますから、こんな心丈夫なことはなく、こんな幸せなことはありません。そのような確固とした、永久的な、頼りになる(心の軌道)があるものでしょうか。あるのです。(宗教の信仰)がそれにほかなりません。 法華経の教えこそ大軌道  私共が信奉している法華経は、じつは、そのような(ほんとうの楽観的な生き方)を万人にさせるための確固たる大軌道なのです。羅針盤なのです。それを支える地盤は「すべての人には平気な仏性がある」という真実です。その地盤の上に「歴劫修行によってすべての人が仏の境地に達せられる」という軌道が敷かれています。これほど心丈夫な、希望に満ちた軌道がありましょうか。  信解品第四をごらんなさい。家出して迷いの世界を放浪していた典型的な脱線者である窮子も、いつしか仏の敷かれた軌道に乗って仏の家に近づき、そこでの長い長い修行の結果、ついに仏の後継ぎとなったではありませんか。  化城諭品第七をごらんなさい。非常に困難な人生の道をたどる旅人たちが、一時は絶望に陥って引き返そうとしたのに、賢明なリーダーの導きによって、とにもかくにも軌道の上を進んで行ったために、ついには宝のありかにたどりついたではありませんか。  「心を成功の方へ方向づけをしておくことが肝心である」と、さきに述べました。その方向づけがしっかりした不動のものであれば、それを(信)というのです。道というのです。そして、その(信)が固ければ固いほど、成功は保障されるのです。信仰というのは、このように、けっして日常生活から離れたものではありません。人生に密着したものなのです。人生を幸せな、明るい方向へ導くレールにほかならないのです。 (つづく)  天人の頭部(アフガニスタン)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる21

一念三千とは何か

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(21)  立正佼成会会長 庭野日敬 一念三千とは何か 大本は空の理に発する  これまでに、心が変われば体も変わる、健康も変わる、顔つきも変わる、人生も変わることについて、いろいろお話ししてきましたが、ここで、なぜそうなるかという真理の大本になる大原理について説明しておきたいと思います。  仏教では、われわれが住んでいるこの世のあらゆる現象(諸法)は、宇宙の唯一の実在である(空(科学的に言えば根源のエネルギー、宗教的に見れば、宇宙の大生命))の発現であると説きます。  ただ、仏教で、そう説いているというだけでなく、二十世紀に発達した原子物理学や理論物理学などからしても、それが、まさしく真理であることが裏づけられつつあるのです。(ここで、それを詳しく紹介する余裕はありませんが、志ある方は、たとえば、山本洋一工学博士著『根本道理の書』・大法輪門発行とか、世界的理論物理学者の松下真一氏著『法華経と原子物理学』・光文社発行などを、ひもといてみられるのも面白いでしょう)  この真理によれば、われわれのまわりに広がっている万物・万象は、一見、別別の存在のように見えますけれども、本来は、ただ一つの宇宙の大生命であり、その大生命は宇宙全体にスキマもなく、満ち充ちている実在なのですから、万物・万象は、本質的には密接につながっており、お互いに関係し合い、融通し合っているわけです。したがって、同じ大生命の発現である物も心も別々の存在ではなく、渾然(こんぜん)として一体のものなのであります。このことを仏教では、(色心不二・しきしんふに)(物心一如・ぶっしんいちにょ)と申します。  こう考えてきますと、(心を変えれば、物も、健康も、境遇も変えることができる)ということは、理論的に確かに成り立つのであります。 一念の中に全宇宙がある  今から約千四百年前に、(小釈迦)といわれた中国の名僧天台大師が、表現の仕方こそ違え、法華経の真理にもとづいて、これと同じような世界観・人間観を説かれたのが、ほかならぬ一念三千の法門なのです。それは、大師が法華経の精神と、教義と、実践方法とを体系的に説かれた三大著『摩訶止観』・『法華玄義』・『法華文句』の中の『摩訶止観』巻五上にあるもので、主文は次の通りです。  夫れ一心に十法界を具し、一法界に又十法界を具す、百法界なり。一界に三十種の世間を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千は一念の心に在り。若し心無くんば巳みなん。介爾(けに)も心有らば即ち三千を具す。 この(一心)とか(一念)とかには、ほかに深い意味もありますが、ひとまず(われわれ人間の一瞬の心)と解しておいてください。また、三千種の世間というのは――なぜ三千という数字ができるのかはあとで説明しますが――つまり宇宙全体ということです。そこで「此の三千は一念の心に在り。若し心無くんば巳みなん。介爾も心有らば即ち三千を具す」というのは、現代語に意訳すれば、「この無限大の世界は、人間の一瞬の心の中にある。もし心がなければ、無いのと同然であろう。たとえ極微、一瞬のものであろうとも、そこに心がある限り、その中には宇宙全体が具わっているのである」ということになります。 心と物とどちらが先か  この文章から見ますと、「まず心があってこそ物の世界も存在する」つまり「心が主であって物は従である」と説いておられるように見えますが、そうではないのです。それは続いて説かれている次の文でも明らかです。  亦一心前(さき)に在り、一切の法(万物・万象)後に在りと言わず、亦一切の法前に在り、一心後に在りと言わず。  「心が在ってこそ、物も存在するのだ」という唯心論でもなく、「物が先にあるからこそ、心もそれを感じたり、それについて考えたりするのだ」という唯物論でもないというのです。どっちが先でもあとでもなく、主でも従でもなく、心と物とは一如であり、相即するものだというのです。  たいへん難しい理論のようですけれども、冒頭に述べた(空)の理を思い出してみれば、容易に理解できることと思います。石でも、鉄でも、人間でも、すべての現象はただ一つの実在である宇宙の大生命が造り出したものであり、それも、それぞれの理由があればこそ造り出したわけですから、それぞれの存在には宇宙の大生命の意志がこめられているわけです。  石にも、鉄にも、人間にも、宇宙意志という(心)がこめられているのです。ですから、物が先とか心が先とかいうのでなく、全く(物心一如)なのであります。(つづく)  幼児の布施部分(ガンダーラ出土)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる22

人間の心に入り乱れるもの

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(22)  立正佼成会会長 庭野日敬 人間の心に入り乱れるもの  さてそれでは(三千)という数字がどうしてできるかを説明しましょう。数学をひと通り学んだ人は、もう知っておられるでしょうが、読者の中には初心の人もおられることと思いますので、煩を厭(いと)わず解説していくことにします。通達している人も、復習のつもりで読んでいってください。 「一心に十法界を具す」とは  まず「一心に十法界を具し」とありますが、この十法界とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏という十の世界を言います。前の六つは迷いの世界で、六道・六趣または六凡と言います。普通の人間は、この六つの世界をグルグル回りながら生きているわけで、それを(六道輪廻(りんね))と言います。後の四つは悟りの世界で、四聖と言います。人間のほんとうの幸福は六道輪廻から離れて、この四聖の世界へ入ってこそ得られるものとし、仏教とはつまるところ、六道から四聖へ上昇する道を教えるものと考えていいのです。 心の中にある四つの悪趣  さて、その六道とはどんな世界か。  (地獄)とは、心が怒りに占領されている状態を言います。怒り狂っている時は、すべての人が敵に見え、すべての人に迫害を受けているような錯覚を覚えます。そこで、前後の見境いもなく自らの怒りを周囲にぶっつけ、人を傷つけ、事態をますます悪化させます。たとえ怒りをこらえていても、ガンガン頭痛がし、手足はブルブル震え、精神的にも肉体的にもたいへんな苦痛を覚えます。いずれにしても、怒りは、自他を共に不幸へ陥れるものです。このような状態が(地獄)なのです。  (餓鬼)とは、貪り欲する心がとめどもなく起こってくる状態です。貪る心が強ければ、仮に欲しいものが得られても、もっとたくさん欲しい、もっと上のものが欲しいと、止まることがないのです。お金や物質だけではありません。名誉に対する貪欲もあれば、権力に対する貪欲もあります。他人の愛情や奉仕をむやみに求める貪欲もあります。こういう人は、満足するということがありませんから、いつも心の中は欲求不満でイライラし、しかも一言一行が賎しくなり、恥も外聞もなくなります。この状態を(餓鬼)というのです。  (畜生)というのは、ただ本能のおもむくままに、衝動的に、やりたいことをやる、人間としての知性のない愚かな状態です。人間以外の動物は、自分の生命を維持し、自分の種族を残すためには、他から奪ったり、他を殺したりしても平気です。人間にも、衝動的に悪事を犯したり、しかもなんら反省の色もなく平然としている人がいますが、その点ではトリやケモノと同様で、人間として全く情けない状態と言わなければなりません。これを(畜生)というのです。  (修羅)というのは、利己的な闘争心です。何事も自分本位に考え、それを押し通すためにはどんな無理でもする、という気持です。人間同士がみんなそういう気持になれば、必ず対立が生じ、衝突が起こります。その最大のものが戦争です。戦争こそ、人間にとって最も不幸な、悲惨な、愚かしい状態ですが、これはもともとエゴとエゴとの角突き合いから起こることを、再認識したいものです。 人間界に在ることの有難さ  (人間)というのは、以上の四つの悪心をある程度もってはいるけれども、自制心によって、それをほどほどに抑え、バランスのとれた生き方をしている状態です。だから(平正(びょうしょう))という別名があります。この(人間)という言葉は、法華経から出たもので、たんなる(人)という意味ではなく、もともとは(人の住む所)(世間)という意味でした。人は孤立して生きているのでなく、人と人との間に生きるものだ、という真実が、この語の中に深く込められているのです。  (天上)というのは、歓喜の世界です。歓喜といっても、信仰によって得られるような魂の喜びではなく、物質や肉体に即した感情の喜びです。つまり、迷いの上に一時的に出現した仮の喜びですから、何かイヤなことが起こったり、何かのきっかけで悪心を起こしたりすれば、たちまち地獄道へでも修羅道へも落ちこむ可能性があるわけです。  しかも凡夫の六道から四聖の世界へ上るには、天上界からではなく、人間界からであるとされているのです。その意味は、考えればすぐわかることです。  物質や肉体に即した歓喜の状態にある時は自己反省もなく、向上心もなく、いわゆる有頂天の状態にあるからです。それに対して、苦悩や失意や挫折感のある人間界では、「これでいいのか」「ここから脱け出すにはどうすればいいか」といった反省・解脱・向上の心がわいてきますから、かえって真の幸福と真の歓喜をつかむチャンスがあるわけです。  ですからわれわれは、いま人間界に在ることを心からありがたく思い、いまのこの人生を大切に、魂の修行に励まなければならないのであります。 (つづく)  仏頭(ガンダーラ出土)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる23

四聖も別世界ではない

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(23)  立正佼成会会長 庭野日敬 四聖も別世界ではない われわれも声聞・縁覚  今度はいよいよ(四聖)の世界に入りましょう。(聖)といえば、何かわれわれ凡夫とはかけ離れた存在のように感じられますが、そうではなく、たとえ凡夫の身でも、信仰心を起こして仏の教えを求めるようになれば、もう(聖)の仲間入りをしたことになるのです。この記事を熱心に読んでおられるあなたは、少なくとも今の瞬間においては立派な(声聞・しょうもん)なのであります。  (声聞)というのは、梵語シュラヴァカの訳で、文字通り((仏の)声を聞く人)という意味です。もともとは、釈尊のお弟子として直接その教えを聞いた人々を指したのですが、後世になってからは、仏の教えを学ぶことによって煩悩から解脱しようと努力する修行者を指すようになりました。現在では、書籍などによって仏の教えを学ぼうとしている人も、やはり声聞といっていいのです。いわば(学習主義の仏教者)が声聞なのです。  (縁覚・えんがく)は、梵語のプラティエーカーブッダ(音写して辟支仏・びゃくしぶつともいう)を訳したものですが、(独覚)と訳した方が正しいという説が有力です。つまり、自らの精神生活の体験によって悟りを開こうとする修行者で、昔のインドには独り林間に籠って苦行したり、瞑想したりする人がたくさんありました。(縁覚)という言葉は、そのような修行者は、身辺のさまざまな変化(例えば、木の葉が秋風に散ったというような)を縁として覚る……というところからつけられたといわれています。いずれにしても、縁覚とは(体験主義の修行者)と言っていいでしょう。われわれが静かに座って瞑想したり、一心に読経したりして、我のない澄み切った心境になった時、少なくともそのひと時においては、われわれもまさしく縁覚なのであります。 菩薩は行動と奉仕の仏教者  (菩薩)というのは、梵語のボディサットヴァの略で、(悟りを求める人)という意味です。といえば、声聞も縁覚も悟りを求める人なのに……という疑問もわきましょうが、もともと菩薩というのは、釈尊の前世の身の呼称として用いられ、またその連続として、悉達多(シッダールタ)太子が出家されてから仏の悟りを得られるまでの修行中の身をこうお呼びしたのです。ところが、いわゆる大乗仏教が興起してから、その派の人たちが「われわれも仏と成りうる身だ」という信念から、自分たちの通称として用い始めたのが(菩薩)という言葉だったわけです。  同じく悟りを求めるにしても、声聞や縁覚は自分自身の解脱が目標です。ところが菩薩にとっては「仏となって一切衆生を救おう」というのが目標です。こういう心を菩提心というのですが、声聞や縁覚とはここが違うのです。従って、この修行方法も、声聞が主として聞法・学習であり、縁覚が主として瞑想・座禅であるのに対して、菩薩は、そのような修行に加えて、世間の人々の救済と教化に挺身するのです。実際に人々を教化しつつ、救済しつつ、そうした行動を通じて自らの悟りをも深めていくわけです。いわば(行動主義の修行者)であります。(奉仕主義の仏教者)といってもいいでしょう。  ですから、もしわれわれが悩み苦しんでいる人に「仏さまの教えに入ってごらんなさい」と手引をしたり、自分が理解している限りにおいて仏の教えを説いてあげたり、あるいは自らの財物や時間や労力を割いて、その場その場の苦しみを救ってあげたり、または多くの人々の福祉や社会の向上のために奉仕したりする時、われわれは間違いなく菩薩なのです。ですから、菩薩といっても、決して凡夫とかけ離れた存在ではありません。ただ違うのは、「仏となって一切衆生を救おう」という菩提心が確立しているか否か、そして、人々への教化・救済の行動が徹底・一貫しているか否か、そこのところだけなのです。 法身の菩薩とはどんな方か  なお、観世音菩薩・普賢菩薩、虚空蔵菩薩・地蔵菩薩などのように、ほとんど仏と同様に帰依・尊崇されている菩薩方がおられます。これら諸菩薩は、すでに仏の悟りを得、仏の資格を具えておられるのに、自ら仏と成ることを拒否して菩薩の地位に留まり、自由自在に娑婆世界に現れて衆生済度に活動される、いわば奉仕主義の権化であると申し上げてもいいでしょう。実際にこの世に出られた方を、行基菩薩とか日蓮大菩薩などと尊称するのも、同じような意味からであると考えていいでしょう。                    (つづく)  仏の頭部(ハッタ出土)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる24

仏とはどのような存在か

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(24)  立正佼成会会長 庭野日敬 仏とはどのような存在か 人間としての仏陀は一人  (仏(ぶつ))というのは、梵語のブッダの音写である仏陀の略で、元の意味は(悟った人)ということです。宇宙のギリギリの実相を見極め、天地の法則を悟り、その真理に即して「人間はどう生きねばならないか」という大道を発見した方をいうのです。  こういう意味の仏陀は、過去世にもたくさんおられたのだ、と釈尊はお説きになっておられます。ご自身も前世において多くの仏に仕えて法を聞いたとおおせられ、例えば法華経の常不軽菩薩品にご自身のことを「諸の善根を種え、後に復千万億の仏に値いたてまつり、亦諸仏の法の中に於いて是の経典を説いて、功徳成就して当に作仏することを得たり」とあります。しかし、われわれ現世の人間から見れば、歴史上実在の人物としての仏陀は、釈尊がただおひとりです。そして、その教えだけが今も残っているのです。ですから、人間として仏となられた方(応身の仏)といえば、お釈迦さまのことだと考えてさしつかえないわけです。 釈迦牟尼如来は今もいます  そのお釈迦さまは、二千五百年も前に入滅なさいました。一部の仏教学者は、「人間は死んだらまったく空に帰し、何物も残らない。霊魂も残らない」と説きます。しかし、われわれ法華経の信奉者は、如来寿量品で「而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く」とおおせられていることを信じます。釈迦牟尼の身も魂もまったくは消滅して空に帰し、如来残っているのは、その完全な人格への追慕と尊い教えへの帰依だけであるとはどうしても考えられません。  それでは、今はどのような身になっておられるのでしょうか。それを考えて考えて考え詰めていきますと、どうしても「尊い霊的存在としてこの三界に遍満しておられるのだ」という結論に達せざるをえません。霊的存在として常住しておられればこそ、「時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず」ることもあれば、「諸のあらゆる功徳を修し 柔和質直なる者は 即ち皆我が身 此にあって法を説くと見る」こともあるのです。  われわれは学者ではありません。信仰者です。人間の形として想像できる霊的存在のお釈迦さまが、今も確かにいらっしゃり、いつでもわれわれを見守っていてくださることを信じます。そう信じればこそ、「悪いことはできない」と身を慎しんだり、事あるごとに「どうすれば仏さまのみ心にかなうだろうか」と真剣に考えたり、切羽詰まったときは「み心のままになさってください。お任せいたします」と我を投げ出すことによって、救いを覚えたりするのです。われわれの心と声が必ず仏さまに届くと信じればこそ、「南無久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」とお唱えするのです。  これは、阿弥陀如来を信ずる人も、観世音菩薩を信ずる人も、イエス・キリストを信ずる人も、聖母マリアを信ずる人も、みんな同様です。信仰は理くつではありません。霊的存在としてそのような方が必ずわれわれの周囲に実在されると信じればこそ、信仰は成り立ち、そして救われるのです。  なお、仏教では、そのような尊い霊的存在は、法華経如来寿量品に「慧光照すこと無量に 寿命無数却 久しく業を修して得る所なり」とあるように、長い長いあいだ修行を積まれ、無数の人びとを救われた功徳の報いとしてそのような身となられたのですから、これを(報身の仏)と申し上げます。 根源の仏は宇宙の大生命  仏さまの身には、これまでに述べてきた(応身の仏)と、(報身の仏)と、もう一つ(法身の仏)という考え方があります。これは人間としてお生まれになった身でもなく、人間の形として思い浮かべることのできる霊的存在でもなく、その根源である宇宙の大生命をいうのです。万物・万象を造り、生かし、働かせている大いなるいのちです。もちろん目には見えません。形もありません。始めもなく、終わりもなく、大いなる光明体・生命体として万物を存在させておられるので、仏教では(久遠実成の本仏)とも申します。  これが万物・万象の根源であるからには、人間の根源も(久遠実成の本仏)です。人間は間違いなく本仏の分身なのです。ですから、われわれも本来は純粋で、清浄で、光り輝くようないのちそのものなのです。ところが、それが具象化して形体をもつ生命体となってから(とくに人間に進化してから)自ら生み出したさまざまな煩悩によって、その本来の姿(これを仏性という)を覆いかくし、そのために苦しんだり悩んだりしているわけです。  お釈迦さまは、人間として生まれながら、こうしたもろもろの煩悩を断ち切り、仏性を完全に顕現された方です。そして、無数の人をお救いになり、尊い数えを万世にお残しになりました。したがって、入滅されて霊界に入られるや、根源の大生命と合致する一大心霊となられたはずですが、しかし、衆生済度の本願のために、今でも報身仏として娑婆世界のわれわれのまわりにいてくださっているのです。ありがたいことです。  こういうわけで、仏さまの身を応身仏・報身仏・法身仏と三つに分けて説明してきましたが、元をただせば一体であることは言うまでもありません。このことを(三身一体)というのです。(つづく)  伎芸天立像頭部(秋篠寺)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる25

仏を見たいという願い

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(25)  立正佼成会会長 庭野日敬 仏を見たいという願い 対象の実在を信じなければ  私共素朴な信仰者としては、霊的存在としての仏さまが、確かにわれわれの身の回りにいらっしゃることを信ずる……と前回に書きました。こうした確信がなければ、仏教も単なる哲学であり、あるいは道徳の教えに過ぎず、われわれの魂を根底から揺り動かし、人生を変える強い力とはならないでしょう。  竹中信常博士(大正大学教授)も、その近著『仏教―心理と儀礼―』の(見仏の心理)という章の中で、次のように述べておられます。  「いかなる宗教といえども、それが宗教であるためには、そこに信仰対象として何等かの形での神的存在がなければならず、信仰度の深まりは信仰対象の実在性を強める」  「古来、仏教は理性の宗教と呼ばれているが、その半面に実在論的な信仰をもつことは、そのこと自体、仏教が生きた信仰実質を尊重したからであり、またそれゆえにこそ、生活経験と密着した宗教としての生命を持続したのである」  「このように、信仰対象の実在ということは、宗教にあっては至重の事柄であり、哲学的証明による実在の把握より、自己の生々しい体験として感覚的にこれをとらえることが、信仰教化にどれだけ有効であるか論を要しない」(傍点庭野) 仏を見んと欲する篤信者  古来の熱心な信仰者は、この最後の引用文にあるように、信仰対象の実在を自己の生々しい体験として感覚的にとらえることを一つの念願としていました。それは、法華経寿量品の「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜まず」、観普賢経の「普賢菩薩の色身を見んと楽(ねが)わん者、多宝仏の塔を見たてまつらんと楽わん者、釈迦牟尼仏及び分身の諸仏を見たてまつらんと楽わん者云々」等、仏典の至る所に無数に見ることができます。  現在でも天台宗の行者は、それを自らの信仰の証(あかし)の一つとして願っているようで、作家の瀬戸内寂聴さんが出家して六十日間の行を終えたあと『文芸春秋』(昭和48・8)に寄せられた(荒行の比叡をおりて)という文章の中にも、そのことが明らかに記されています。「音にきこえた三千仏の礼拝は無我夢中のうちにやりとげてしまった。過去仏千体、現在仏千体、未来仏千体の名をとなえながら、五体投地礼を三千回するのである。朝の五時から夕方の六時過ぎまで続けて、ようやく終る頃、仏が見えると聞いていたが……」瀬戸内さんはついに見ることができなかったそうです。 見なくても起こる信とは  しかし、その瀬戸内さんも、六十日目には次のような体験をされたのでした。「いよいよ結願の日最後の護摩火が、いきおいよく火の粉をはじきながら天井をめがけて火竜のようにかけのぼったとき、思わず胴震いして涙がふきこぼれてきた。二ヵ月の行中、私はついに仏を見ることはなかったが、その一瞬、我身即本尊、本尊即我身の観想が炎の中に凝縮し、火炎を背負った青黒(しょうこく)の不動明王の中にわが身がすいこまれて行く経験をした」。  これも非常に尊いことで、神人合一というか、仏とわれとの合体というか、そういう境地を感覚的に生々しい体験されたわけです。信仰というものは理屈ではなく、体験の世界であることが、こういう告白からもよく納得されることと思います。そして、修行した人ならば、「なるほど、そういうこともあり得るだろう」と、素直にうなずけるはずです。  前記の竹中博士の著書の中に、明治初年の有名な思想家・綱島梁川(りょうせん)の次のような言葉が引用されています。難しい文語体なので口語に意訳しますと、  「われわれが神を信ずるといいながらも、内心を顧みて、どことなくその信念が充実していないように感ずることがあるのは、目(ま)のあたり神を見たことがないからではあるまいか」……まことに、その通りだと思います。いわゆるインテリ信仰者の心の底にある嘆きでありましょう。次に、  「まだ神を見たことはなくても(信)は起こる。しかし、そうした(信)も、幾分か見たものが根底となっているのではなかろうか」とあります。見ないものを信ずるその(信)も、見たに準ずる心的経験を根底としているのだ……という意味だと思います。瀬戸内寂聴さんの結願の日の体験もそうでしょうし、親鸞上人が、たとえ師のおおせに従って念仏して地獄に落ちようともかまわない……というほど法燃上人を信じ切ったのも、やはり、師の中に間接的に仏を見たからにほかならないといえましょう。(つづく)  仏の頭部(パキスタン)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる26

仏を見、神を見る

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(26)  立正佼成会会長 庭野日敬 仏を見、神を見る 錦戸新観師の尊い体験  目(ま)の当たり神仏のお姿を拝したり、お声を聞いたりしたという体験は、古往今来無数に伝えられています。どの時代にも、どの民族にも、どの宗教の信仰者にも、いや、格別の信仰をもたない者にも、共通して同じようなことが起こるということは、否定し難い客観性をもつものだと思います。よく言われるように、自己暗示による幻覚などばかりでないことは、私の身辺に起こった数多くの事実によっても、自信をもって断言できます。それらの事実は(庭野日敬自伝)にいろいろ述べましたので、ここで繰り返すのをやめ、他の方々の体験を二、三紹介することにしましょう。  私共の会の大聖堂に祀られている本尊(久遠実成釈迦牟尼世尊像)や、同じく法輪閣に安置されている(十一面千手観音像)を謹刻された錦戸新観師は、たんなる彫刻家ではなく、ほんとうの意味の信仰をもった方でありますが、その錦戸師は次のような尊い経験をもっておられます。  昭和二十四年三月、不動明王像を制作して日展に出品することを発表された師は、「不動尊は無相の法身、虚空同体」とお経に説かれているその意味を体得しようと思い立ち、出家修行にも等しい荒行を始められました。毎朝午前三時に起床、水を浴びて身を清め、(般若心経)百遍、(不動経)を百遍読誦されました。また、毎月十五日には、栃木県栃木市出流町にある出流山満願寺に参拝し、その境内にある(大悲の滝)に打たれて祈念されました。 真っ白い姿の不動明王が…  こうして三ヵ月が過ぎた六月の十五日、滝に打たれる荒行のあと、本堂でご本尊の千手観音の前に端座・瞑目して、(般若心経)と(観音経)を読誦されました。すると、お数珠をサラサラと揉んだとたんに、どうしたことか、まだ新しいお数珠がパッと切れて、玉があたりに飛び散ったのでした。師は「滝に打たれたため糸が弱くなったのだろうか」と思ったり、「わたしの願いが間違っているというお示しなのか」と不安になったりされましたが、そういう気持を振り切ってふたたび瞑目して読経を続けられました。  そのうち、読経をしながらフト目を開けると、すぐ前に灯されているロウソクが、風もないのにフッと消えてしまったのです。「まるで刀で切り払ったような感じでした」と師は語っておられます。またまた言い知れぬ不安が生じ、身の細るような感じに迫られましたが、そうした弱い心を抑えつけ、勇気を奮い立たせて読経を続けられました。そのうち邪念が消え、三昧の境地に入って行ったある瞬間、一秒の何分の一かの一刹那に、真っ白い姿の不動明王が、まるで電光のように師の全身をつらぬいたのでした。師は「ああ、ありがたい。これが感得というものか」と、何ともいえぬ法悦に打たれ、全身が明るく輝き立つ思いがした、ということです。  こうして、二年後に不動明王像は完成しましたが、芸術的な美のみを対象とする日展当局者は、師の信仰一途の制作を完全に理解することができませんでした。師は、それを機に(鑑賞のための仏)を制作することをスッパリとやめ、(信仰するための仏)の謹刻に生涯を捧げる決意をされたのでした。 何気なく拝んでいた神仏が  格別の信仰をもたなかった人の見仏・見神の例を、それもごく最近の生々しい体験を紹介しましょう。カンボジアの外交官夫人だった内藤泰子さんが、革命政権の大虐殺の地獄の中から脱出しようとし、途中で、夫と二人の子を失い、ボロボロになりながらも奇跡的に生還されたのは、周知の通りです。  泰子さんは、きょうは死ぬか、あすは殺されるか、という極限状況の中で、何とか生き残って日本に帰りたい、そして亡き夫や愛児のお弔いをしたいと、日夜神や仏に救いを求め続けられたといいます。すると、優しいお顔をされた観音さまが、白い雲に乗って何度となく夢の中に現れ、絶望の底から救ってくださったというのです。内藤さんを救出に行ったNHKの取材班島村矩生記者にもこう語っておられます。「地獄としか言えない生活でしたから、自分でも奇跡だと思います。神を信じない方にはわからないでしょうが、今度という今度は神があると思いました」。  そして、その手記『カンボジア わが愛』に、こう書かれています。「成田に着いた翌日、浅草の観音さま、人形町の道了さま、巣鴨の地蔵さまにお礼参りした。信心をしたことのない私なのに、観音さまは夢に何度が出てきて私に力づけてくださった。道了さまと地蔵さまは、小さいころ母に連れられてお参りしたことがある。本当に苦しいとき、知らず知らず私は手を合わせ、お願いをしていた。そして無事に生きることができた」。  「苦しい時の神頼み」でも、その願いがひたすらであり、一心こめたものであれば、よくよく噛みしめてみる必要があると思います。(つづく)  仏頭(アフガニスタン)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる27

仏の霊光に救われた話

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(27)  立正佼成会会長 庭野日敬 仏の霊光に救われた話 七面山の女神に呼ばれる  神や仏が実際に顕現される場合は、たいていの場合一瞬の出来事です。長くても数秒、数十秒という短い時間です。ですから、それを信じない人々から、幻覚とか錯覚とかで片づけられてしまうのです。ところが、ここに、少なくとも数十分のあいだ、仏の霊光に導かれて七面山の登山を成し遂げた。という希有な実例がありますので、紹介させて頂きます。  京都の小原弘万(おはら・ひろかず)さんという方は、般若心経を昭和五十二年八月までに百六十万遍も読誦し、また心経の豆本を作っては無料で配布され、そうした自行と利他行の功徳によってさまざまな神力(じんりき)を身につけられた現代の尊者ですが、その著『心経ひとすじ』に次のような体験を発表しておられます。  小原さんがまだ若いころ、ある発明に没頭しておられた時、その行程中に発する毒ガスに当てられて倒れ、長い間病臥する身となられました。高熱の続いたある日、妙な夢を見ました。白衣で白い鉢巻きをされた女神が、燃え盛る火をちぎっては投げ、ちぎっては投げておられるのです。不思議なことに、夢が覚めたその日から、長い間の高熱が下がってしまったのです。  ところが、ちょうどそれに符節を合わせたように、久しく会わなかった心経一筋の老行者が突然来訪され、「小原を連れて七面山へ来い」という神のお告げを受けたと言われるのです。小原さんも、じつは私もこんな夢を見たと話されると、それならばどうしても行かねばならぬということになりました。その行者さんは何十日かの断食行を終えたばかりのフラフラの状態、小原さんも高熱が下がったばかりの身、しかも、二人ともまだ七面山には登ったことがなかったのです。二人とも般若心経の信仰者でこそあれ、日蓮宗とは何の関係もなかったのです。それなのに、吉祥天女の権現であり、身延山久遠寺の守護神である七面大明神の神示を受けたのですから、初めから不思議なことだったわけです。 暗黒の足元を照らす霊光  早速二人は出発したのですが、身延は激しい雨でした。しかも、フラフラの老行者さんの腰を、これも病気上がりの小原さんが押しながら登るのですから、道はなかなかはかどりません。『般若心経ひとすじ』にはこう書かれています。  「お題目を唱えることの大きらいなこの行者さん、『南無妙』だけを唱え、あとは私に唱えろ、と命ずるのである。『ナムミョ』と、もたれ掛かって行者、『ホーレンゲーキョ』と押す私。奇妙なコンビの歩みは遅々として進まず、遂に日はトップリと暮れてしまった。もちろん夕刻までには完全に登れる予定だったが、休み休みのフラフラ二人。足元は暗くなり、やがて寸前も見えなくなった。登るに登れず、下るに下れず、激しい雨はパンツまでビッショリである」  まさに進退きわまる、その時でした。驚くべき不思議が起こったのです。暗黒の足もとが、直径一メートルぐらいの円形に、鈍(にぶ)い光ではあるが、小石が見えるくらいに照らし出されたのです。二人は抱き合って喜びました。期せずしてほとばしり出たのは、般若心経でした。声は声とならず、泣きじゃくりながら唱え終わりましたが、行者は続いて「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と、初めて声高らかに唱え続けたのでした。小原さんも、もちろんそれに和されたのでした。 霊光はずっとついて回った  ところが、その光は、一瞬だけの現象ではなかったのです。原文には、こう書かれています。  「足元の円形の光は、進むに従って付いて回った。これが信じてもらえるだろうか。しかもこの光には暖かさがあった」「心経と題目を交互に唱えつつ、遂に目的の地に着いた。この光は一体何だったのかしら」  その疑問は、後日、般若心経百万遍を読誦し終わってから、解決されたのだそうです。それについて次のように書かれています。  「この光こそみ仏の霊光なのである。私自身、日々献燈を忘れず、神社仏閣にお参りした時、まず献燈を心掛けており、来客に対しても献燈させ、また勧めているが、私はこの献燈の光が、死後暗黒の世界を通る時、『再現して足元を照らす』と信じているのである」  法華に凝り固まっている人は、ともすれば法華三部経以外のお経を排除する傾向がありますが、それが誤りであることは、このエピソードによっても明らかでありましょう。般若心経一筋のお二人が、そろって七面大明神に呼び寄せられ、このような霊験を頂かれたのです。み仏は一つ、み仏の八万四千の教えも、巻き戻せば一つに収まるのです。(つづく)  東大寺・広目天像  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる28

十界互具が一念三千の中心

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(28)  立正佼成会会長 庭野日敬 十界互具が一念三千の中心 悪人にも菩薩心はある  さて、ここで(一念三千)の本文にもどりましょう。  「夫れ一心に十法界を具し、一法界に又十法界を具す、百法界なり」とあります。われわれの日常の心の在り方を省みてみますと、地獄(怒り)・餓鬼(貪欲)・畜生(愚癡)・修羅(闘争)の心が、次から次へと湧いてきます。しかしそれを何とか自制し、コントロールしておおむね人間(平正)らしく生活しています。また、時には歓喜に満たされ、得意の状態(天上)になることもあります。声聞以上の(聖)の境地に上るひと時もあることについては、その項で説明した通りです。ここまでは、まずわかりやすい論理でしょう。  ところが「一法界に又十法界を具す」となると難しくなります。右の十界の一つ一つに、それぞれ十界が具わっているというのです。今、地獄界にいる人も完全に地獄界にいるのではなく、仏心もあれば菩薩心もあるというのです。それは何となくわかります。人殺しの大悪人でも、わが子は無性に可愛く、子のためなら自分の身はどうなってもいい……という気持になります。無償の愛、つまり仏の慈悲を心のどこかに具えている証拠です。 仏にも悪の因子はある  ここまではわかりますが、仏界にも地獄その他の十界が全部具わっているとなると、ちょっと問題です。仏に地獄・修羅・餓鬼・畜生の心があるとなれば、お釈迦さまの尊い人格を傷つけるものとして憤激する人もありましょう。ところが天台大師は、法華経をつらぬく精神の上に立って、これまでの仏教者が考え及ばなかった、あるいは考えても言うをはばかったであろう、この真実を断固として喝破したのです。  法華経の基本となる精神は(人間平等)ということです。あらゆる人間は、その根源においては平等な存在だというのです。しかし、現実においては、下は極悪人から上は仏まで、千差万別の人間像が見られます。なぜそのような違いがあるのか。これに対する答えを天台大師は(摩訶止観)巻五に簡明直截に説いておられます。  闡提(せんだい)は修善を断じ、但(ただ)性善(しょうぜん)の在るあり、如来は修悪(しゅあく)を断じ、但性悪の在るあり  闡提というのは、ひと口に言えば最低・最悪の人間のことですが、「その闡提も性質としては善はもっているのだ。ただ善を修する(行う)ことが全くないだけのことなのだ。仏は性質としての悪はもっておられるのだが、その悪を行われることが全然ないのだ」というのです。  実に理性に徹した達見です。感情的に闡提を排撃することもなく、仏(応身の仏)を神格化して絶対視することもない平等な人間観です。これによって、われわれ凡夫も性質としてもっている善を行動化しさえすれば、菩薩にも仏にもなれるのだ、ということがハッキリとわかり、明るい希望をもつことができるのです。  また「如来にも性悪は在る」というのも、ありがたいことです。もしお釈迦さまの心に悪の因子が全然なかったとしたら、悪というものはどんなものかおわかりにならず、人間のもつ悪の種々相に対する理解もありえなかったでしょう。したがって、それらの悪を断ずる方途も考えられなかったはずです。ところが、ありがたいことに、お釈迦さまはそうではなかったのです。その徳と慈悲は、赤ん坊のような天真らんまんなものではなく、すべての悪や煩悩をも手にとるように承知された上で、それらを包容しながら人間を善へ導いていくという、大きな智慧の働きにほかならなかったのです。 どの世界へも行ける可能性  お釈迦さまは、妻もめとり、子も成し、凡夫としての体験を豊富にもっておられます。そうした一人の凡夫が修悪を断じて仏となられた、その血のにじむような長い歩みは、そのままわれわれにとって生きた手本になります。そして、その教えも、通りいっぺんの概念的なものではなく、一つ一つに体験の汗と膏(あぶら)がしみこんだ教えなのです。だからこそ、その通りに行じていけば、万が一にも間違いはないのです。安心して随順していけるのです。  さて、地獄から仏までの十の世界に、それぞれ地獄から仏までの十の世界がお互いに具わっているというこの真実を(十界互具)といい、十掛ける十は百で(百法界)というわけです。これが(一念三千)の中心となる思想です。すなわち「人間はどの世界へもおもむく可能性をもっている」という断定なのです。自分にもこのような可能性があることをシミジミと思えば、地獄・修羅・餓鬼・畜生道へ落ちないように自制自重する心がひとりでに生じ、また、菩薩界・仏界にでも必ず上れるのだという希望と勇気が、油(ゆう)然と湧いてくるのを覚えるではありませんか。(つづく)  興福寺・五部浄像  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる29

万物・万象はどう変化するか

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(29)  立正佼成会会長 庭野日敬 万物・万象はどう変化するか 十如是は現象の実相を解明  十界の中にそれぞれ十界が具わっているという(十界互具)については、前回までに説明しましたが、それらの心と物の相即した世界は片時として固定してあるものではなく、諸行無常の理の通り、常に変化してやまないものであります。では、それらの世界はどのようにして在り、どのように変化するかという(諸法の実相)を解明したのが、法華経方便品に出てくる(十如是)の法門です。  如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等。  現代語に意訳しますと、「すべての現象には、それぞれもちまえの姿・形(相)があり、もちまえの性質(性)があり、もちまえの構造―空の集まり方―(体)があり、もちまえの潜在エネルギー(力)があり、その潜在エネルギーが発現して作用(作)を起こすときは、然るべき原因(因)と、その原因を助長する条件、(縁)とによって、然るべき結果(果)を生み、それは周囲に然るべき影響(報)を残すものである。それらの変化は、見かけは千差万別に見えるけれども、実相においては、初め(本)から終わり(末)まで一貫して等しく宇宙意志にもとづく宇宙法則につらぬかれているのである。(本末究竟等)」ということになります。 物心一如は生化学からも  このままでは難しそうな理論ですので、わかりやすい卑近な例を引いて説明しましょう。  朝顔は赤・白・青・紫などのラッパ型の花を咲かせます。これが朝顔のもちまえの相です(如是相)。相のあるものには、その相を現す本になるもちまえの性質(如是性)があります。ある朝顔には白い花を、ある朝顔には赤い花を咲かせる性質があります。  ところが性質というものは、そのものの本体から生じたものです。本体といっても元はただひといろの(空)なのですが、宇宙意志があるものを造り出すときは、(空)にそのもの特有の構造を与えます。朝顔の種子を割ってみても、なんら赤い色素も青い色素もありませんが、それぞれの種子には赤なら赤、青なら青の花を咲かせる遺伝子がちゃんと存在しているのです。  その遺伝子の本体が、DNA(デオキシリボ核酸)という螺旋状の高分子構造をもつ極微の存在であることは、今日ではもはや常識となっています。このDNAは(物)であるとも言えますが、自分自身にちゃんと記憶をもち、その記憶にもとづいて命令を発して蛋白質を合成させるというのですから、(心)であるとも言えるわけです。仏教でいう(物心一如)が、こうした現代の生化学からも裏づけられようとしているのです。ともあれ、ものの性質(性)は、宇宙の大生命がそのものを造り出す時に与えた特有の構成にもとづくものであって、この構成を(如是体)というわけです。  次に、(体)のあるものは必ずもちまえの潜在エネルギーをもっています。朝顔の種子には、発芽して成長する力を秘めています。これが(如是力)です。(力)は、機会があれば発現していろいろな作用を起こします。朝顔の種子に潜む(力)は、発芽して、つるを伸ばし、葉をつけ、花を咲かせます。こうしたもちまえの作用を(如是作)というのです。 一貫して宇宙意志による  そういう作用を起こさせるのは、元の元を探れば宇宙の大生命の意志による、ある原因であります。これを(如是因)と言います。ところが、宇宙の物象は一つとして独立しているものはなく、必ず他の物象と複雑に関係し合って存在し、変化するもので、ある原因にそれを助長する周囲の条件が加わってこそ、ある結果を生ずるのです。朝顔の種子について言えば、適当な土壌と、水分と、温度等です。このような条件を(如是縁)というのです。このような(縁)の助長によってそれにふさわしい発芽という結果が生ずるわけです。これを(如是果)と言います。また、結果は、たんにそれが生じたということだけでなく、他に対する何らかの影響を残すものです。たとえば、朝顔の花が咲いたのを見て人々が「美しいな」と感ずることなどがそれです。ある結果にふさわしいその影響を(如是報)というのです。  ところで、これまでに見てきた変化は現実世界では複雑微妙にからみ合っていて、人間の智慧では判別し難い面も多々あるのですが、その実相においてはハッキリしており、初め(本)から終わり(末)まで一貫して、宇宙の大生命の意志とその法則にもとづくものであることに変わりはありません。このことを(本末究竟等)というのです。  さきに(十界互具)であるから十掛ける十で(百法界)であることを言いましたが、その百法界はいま述べた(十如是)の法則によって変化しますので、百掛ける十は千で、千種類の世界が展開することになります。これを(百界千如)と言います。もう一息で三千ということになりますが、それは次回に説明いたしましょう。(つづく)  仏頭(アフガニスタン)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる30

事の一念三千でなければ

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(30)  立正佼成会会長 庭野日敬 事の一念三千でなければ 百界千如が三世間に展開  物と心の相即する世界が一千種に変化するところまで前回に述べました。その一千種の世界は、衆生世間・国土世間(器世間)・五蘊(ごうん)世間という三つの世界に展開するから、千掛ける三は三千となり、いよいよ三千という数字に到達するわけです。  (衆生世間)とは、いろいろな生命体が寄り集まって造っている世界、つまり(もろもろの生命体が持ちつ持たれつして存在する関係の場)と解釈していいでしょう。  (国土世間)とは、それらの生命体の住む場所、つまり地球上の自然界および全宇宙を指します。  (五蘊世間)というのは、人間のからだと心がすべての存在を把握する五つの仕方をいいます。(蘊)というのは集まりという意味で、五蘊とは色・受・想・行・識を言います。その(色(しき))というのは(物の集まり)を言います。人間で言えば、肉体を指します。(受)というのは、(感覚の集まり)です。見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触ったりする、そうした感覚をひっくるめたものです。(想)というのは、(判断の集まり)です。感覚したものを「これは美しい」、「これはうまい」といったふうに判断して受け取る心作用を言います。(行(ぎょう))というのは、(意志の集まり)です。判断したものを行為に移す心の働きです。美しいと感じたらジッと眺めていたいと思い、うまいと感じたらもっと食べたいと意欲する、そうした意欲によって行為を生ずるのですから、(行)というのです。(識)というのは(経験と知識の集まり)です。と言っても、人間としてこの世に生まれてからの経験と知識ばかりでなく、はるかな過去世、前世からの記憶が潜在意識に残っているのまでも含む、そしてわれわれのあらゆる生きざまを決定し、動かしていく複雑な記憶の集まりをいうのです。ひっくるめて(五蘊世間)とは、(物と心とがかかわり合う場)と解していいでしょう。  こういう三つの世間に、一念の中の千種の世界が展開するので、(一念三千)というわけです。 一に全体があり全体は一  こうして(一念三千)の理論が出来上がったわけですが、田村芳朗文学博士はその著(仏教の思想第五巻)の中で、次のように結論づけられています。  「一念と三千の関係はただ『心は是れ一切の法、一切の法は是れ心』といわれるものである。具体的に言えば、極微の一念に三千の宇宙万有が包含され、みなぎり、三千の宇宙万有に極微の一念が透徹し、みなぎるということである。天地万物が一つになって一物の中に存し、また一物の力がひろがって、天地万物の中に存するということである。宇宙一切物は一物に関係し、一物は一切物に関係している」  たいへん難しい理論のようですが、つまり、人間を含めたこの世の万物・万象は、一見別々の存在のように見えても本は一つであり、密接につながっており、したがってわれわれの一念の中には宇宙全体がチャンとあるわけです。これが一念三千の理論であり、いわゆる(理の一念三千)であります。 (事)でなければ救われぬ  ところが、このような高邁な世界観を聞いても、ただそれを理論として知り得ただけではほとんど何の役にも立ちません。その理論を自分の心のもち方や実際の生きざまに当てはめ、行為に生かしてこそ真の価値が発揮されるのです。しかも、自分自身から始めて、家庭・社会・国家・人類の在り方へと及ぼしていってこそ、己の運命をも変え、人類の運命をも修正していくことができるのです。一念三千のそうしたはたらきを(事の一念三千)と言います。(理)の抽象性や普遍性に対して、(事)というのはそれを実際に生かす具体性と、それぞれの事態に即した特殊性を言うのです。  では、実際問題として、一念三千の理をどのようにして実人生に生かせばいいのか……ということが最後の課題となります。  ところが、一念と言っても、喜び・怒り・悲しみ・楽しみ・恨み・妬み・羨望・侮蔑といった(表面の心)ばかりではありません。その奥にかくれた広大な潜在意識・深層心理という世界があり、われわれが表面の心を善くしようと一生懸命に努力しても、このような(かくれた心)が深い所からいろいろな悪作用を及ぼしますので、なかなか思うようになりません。ただ信仰のみがそれを清めることができると私は信じているものですが、次回からはこの(かくれた心)とはどんなものか、なぜ信仰がそれを清めることができるのか、ということをつぶさに研究していくことにしましょう。(つづく)  誕生仏頭部(東大寺)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる31

無意識の世界とは

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(31)  立正佼成会会長 庭野日敬 無意識の世界とは 自分では気づかぬ心がある  元巨人軍の名監督・川上哲治さんが、よくベンチで貧乏揺すりをしていたことは有名です。たいてい自軍の戦いぶりが思わしくない時でした。私共も、何かイライラすることがあると、われ知らず手を振り動かしたり、指で机をトントン叩いたり、無意味な行動をします。また、ひどく恥ずかしいことがあると、思わず顔を赤くします。なぜでしょうか。  目のすぐ前に小さな虫が飛んで来ると一瞬目をつぶります。生まれてから今まで目に虫が入って痛い思いをしたことなど一度もないのに、思わず目をつぶります。なぜでしょうか。  赤ちゃんに乳の飲み方をだれも教えはしません。それなのに、生まれたばかりの赤ちゃんがチャンとお母さんの乳首をくわえ、それを舌で巻き込むようにして上手に乳を吸い出します。どうしてそれができるのでしょうか。  トカゲや、サンショウウオや、アオダイショウや、ヤマカガシなどは、毒もなければ噛みつきもしないのに、見るからに気味が悪く、いやらしく感じます。「何も害はしないから大丈夫だよ」と自分自身に言い聞かせてみても、近寄るのがなんとなく怖いものです。なぜでしょうか。 無意識の世界は底無し  われわれが、物事をハッキリと感じたり、知ったり、考えたりする心、すなわち自分でとらえることができ、自分で左右することのできる心(表面の心)を(顕在意識)もしくは単に(意識)と言いますが、その意識の奥に、われわれが自分でとらえることのできない、自分では気のつかない心(かくれた心)の世界があり、これを心理学では、(潜在意識)とか(無意識)とか呼んでいます。  今あげたいくつかの例のように、自分では意識しない行動を思わず知らずやってしまったり、だれにも教わらぬことができたり、表面の心では「怖がることはないのだ」と知っていても、やはりヘビやトカゲが怖い等々は、すべてこの(無意識)のはたらきなのです。  なにしろ、この(無意識)は広大無辺な心の世界であって、自分がこの世に生まれてから経験したことを残らず覚えているばかりでなく、先祖代々の人々が経験したことまで、そこに沈んでいるのです。もっとさかのぼって考えますと、人間がまだムシとかサカナのような生物だったころから、だんだん進化して哺乳類になり、ついに人間になるまでの長い長い間に経験したことも、すべて、この無意識という心の奥に蓄積されているというのです。ですから、学者に言わせると、現在のわれわれがヘビやトカゲなどを気味悪く、恐ろしく感じるのは、何万年も前にそういったハチュウ類の巨大なものが地球上にはびこっていて、人間の祖先がそれらにいじめられた記憶が、無意識の奥に残っているからなのです。 無意識まで清めなければ  この無意識という不思議な心は、心の奥の奥に溜ってジッとしているのではなく、時に応じて表面の心へ浮かび上がってくるのです。それも、良い記憶や、快い経験などが浮び上がってくるのだったら、われわれの感情を美しくし、善い行動を起こさせ、あるいは立派な芸術作品を生み出す原動力になったりするのですが、反対に、暗い、残虐な、あるいは恐怖の記憶などが浮かび上がってくると、われわれの表面の心を濁らせ、かき乱し、あるいは悪い行為へと走らせてしまいます。  ムシでも、サカナでも、トリでも、ケモノでも、自分が生きていくためには、また自分の種族を維持するためには、どんなわがままでも、どんな残忍なことでも平気でやります。他のものの食物を横取りしたり、雌を奪い合って闘争したり、あげくの果ては相手を殺したり、仲間を食ったりします。ホトトギスなどのように、ウグイスの卵を巣からけ落として、そこへ自分の卵を産み、ウグイスの親に育てさせるといった、悪賢いことさえするのです。  われわれも、人間に進化するまでの長い長い間、ずっとそうしたことをやってきたのです。人間にまで進化し、だんだん文化が進み、秩序ある社会を営むようになると、そんな利己一本やりのことばかりやってはおられませんので、法律その他の規則をつくり、また倫理・道徳といった共通の戒めも自然にでき、意識してわがままな欲望や悪の衝動を抑えるようになってきました。  しかし、心の底にある無意識の世界では、相変わらず我執と利己心が大きな勢力を占め、それが時に応じてウゴメき出してきますので、人間世界にはやはり紛争や苦悩が絶えません。ですから、人間が本当に救われるためには、どうしてもこの無意識の世界まで清めなければならないのです。そのためにはどうすればよいか。次回からそのことについて考えていくことにしましょう。(つづく)  仏頭(唐時代)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる32

無意識の世界を清めるには

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(32)  立正佼成会会長 庭野日敬 無意識の世界を清めるには まず表面の心を清める  意識の世界(表面の心)と無意識の世界(かくれた心)との間には、いつも往来があります。特に、その境目とされている識閾(しきいき)のすぐ下あたり、つまり無意識の浅い部分との交流は激しくもあり、容易でもあります。青少年時代によく歌った歌は、何十年来すっかり忘れていても、何かのキッカケですぐ思い出して歌えるのも、そういったはたらきです。  ですから、無意識の世界を清めるには表面の心を清めるのが、第一の方法です。生きものを殺生せず、正しくものごとを考え、寛容と、謙虚と、ありのままということを本位として生活することです。さらに積極的に、良い書を読み、美しい音楽や美術を鑑賞し、人に親切を尽くし、些細なことでもいいから多数の人のために奉仕することです。そうした良い経験は、確実に無意識の世界に刻みつけられますから、かくれた心も浅い部分から次第に清められていくわけです。かくれた心の浅い部分が美しくなってくれば、時に応じて表面の心に浮かび上がってくる思いも、美しいものが多くなってくるわけです。普通に(人格の向上)というのは、これをいうわけです。 降魔から成道への過程  ところが、無意識の深い部分となると、そう簡単には清められません。前回にも述べましたように、人間がまだ下等な生物だった時代からこのかたの、まったく自己中心の、わがままな、残忍な心がドロドロと沈んでいるのですから、そこまで清めるためには、どうしても宗教の力が必要なのです。  仏教に即して言えば、まず人間の本質は光り輝く(仏性)である。宇宙の大生命と同体の聖なる存在であることを知ることです。そして、その(仏性)の結晶である仏さまを朝夕礼拝し、お経をあげ、それを毎日毎日続けることによって、聖なる心を大量に、繰り返して、無意識の世界に浸み込ませることです。  坐禅も有力な、直接的な手段です。前(第十六回)にも申しましたように、禅の修行の最大の眼目は(父母未生以前における本来の面目を知る)ことですが、それはつまり、自分の本質が仏性であることを、たんに頭の上で知るのでなしに、魂の底にしっかりとつかむことなのです。しかし、そこまで到達するのがなかなか容易でなく、うっかりすると無意識の底にウゴメク魔性に惑わされてとんでもないことになりかねません。ですから、坐禅は必ずいい指導者の下でしなければならないのです。  成道寸前のお釈迦さま(厳密に言えば菩薩)が、坐禅をなさっている最中に魔の大軍に襲われたことは、仏伝に明らかです。初めに若く美しい女たちがやってきて、誘惑をこころみましたが、菩薩はやさしく諭(さと)して引き返させました。次はさまざまな怪物の軍勢がやってきて、脅迫と暴力で屈服させようとしましたが、慈悲に満ちた菩薩の徳には敵しかね、スゴスゴと退散しました。最後に魔王がやってきて、問答のペテンにかけて頭脳を混乱させようとしましたけれども、菩薩は正しい理によってそれを論破してしまいました。  こうしてスガスガしい精神的勝利を得た菩薩は、ふたたび深い禅定に入り、明星のキラメく十二月八日の明け方、ついに仏の悟りを得られたのでありました。 懺悔の効用はここにも  この魔の大軍というのは、じつは無意識の底に沈んでいる悪心の群れだったと言われます。菩薩だったからこそ、それらをすべて克服されたのですけれども、普通の人だったら気が狂ったかもしれません。(だから坐禅・催眠・その他直接無意識の世界にはたらきかける行は、よい指導と正しい方法によらねばならないのです)。ところで、渡辺照宏博士の(新釈尊伝)によりますと、魔軍の方から襲ってきたのではなく、菩薩がわざわざそれを魔界から呼び出されたのだそうです。しかも、やって来た魔軍を力ずくで屈服せしめたのでなく、慈悲と智慧によって無力化せしめたわけです。これは、非常に重大なことで、ここに宗教のはたらきの典型があると思います。  私ども凡夫は、自分の無意識界の奥に潜む魔軍を自らの意志で呼び出すなどという霊力はもち合わせておりません。ただ、それに近いことは私共でもできます。それは懺悔ということです。これまでに積んできたもろもろの悪業や、心に起こした数々の悪心を、可能な限り思い出し、仏さまの前に、あるいは信頼する指導者の前に、洗いざらいさらけ出すのです。  そうすれば、表面の心ばかりでなく、無意識の世界もある程度まで洗い清めることができるのです。懺悔したあと、他では味わうことのできぬスガスガしさを覚えるのは、そのせいなのです。  そこで、ひとりでにわき上がる歓喜の思いに乗って、仏さまを礼拝し、賛嘆し、お経をたくさんあげ、唱題を繰り返し唱え、説法を一心に聞き、仏書をも熱読するといった宗教的な行を続けていくならば、無意識の世界がますます清まっていくのは必至です。これこそが、宗教ならではのはたらきなのであります。 (つづく)  ギリシャ人の仏供養者(パキスタン)  絵 増谷直樹 ...

心が変われば世界が変わる33

最深部の無意識は人類共通

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(33)  立正佼成会会長 庭野日敬 最深部の無意識は人類共通 仏教で説く心の構造  これまでは、主として無意識の底に沈む暗い心を取り上げてきました。これは仏教でいう末那識(まなしき)に当たるものです。仏教では心の世界の構造をどう見ているかといいますと、代表的なのは(八識)という考え方です。八識というのは眼(げん)・耳(に)・鼻・舌・身・意の六識に、末那識・阿頼耶識(あらやしき)を加えた八つの心のはたらきです(大乗仏教では、第九識として阿摩羅識を加えますが、これは真如・仏性そのものですから、ここでは触れません)。  はじめの五識は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚によって外界のものごとを感じ取るはたらきであり、意というのは、感じ取ったものごとを「美しい」とか、「好きだ」とか判断したり、「これをやろう」とか「これはやるまい」などと意志したりする心のはたらきをいいます。以上の六識は、われわれがハッキリ意識することのできる心で、いわゆる表面の心です。  末那識・阿頼耶識は、無意識の世界です。まず末那識ですが、仏教では、これが一切衆生妄惑の根本であると説かれているのです。すべての生きものは、もともとは宇宙の大生命であり、清らかな光明そのものだったのですが、これが一定のからだを持つ生命体となってこの世に現れたとたんに、自分のからだにとらわれ、そのからだを保ち、殖やすことに懸命になってしまったのです。そのためには、前(三十一回)にも述べたように、どんなわがままでも、残忍なことでもやってきました。この自己中心の無意識的な心が末那識です。人間のいわゆる煩悩もここから起こり、ここにしみついているわけです。 阿頼耶識は万有の根源  阿頼耶識というのは、(一切万法顕現の原因としての潜勢力)と定義づけた人もおられるように、宇宙万物の存在の根源をなしている宇宙意志ともいうべき心をいうのです。万有を蔵するというので(蔵識)とも名づけられ、万有発生の種子であるとして、(種子識・しゅうじしき)とも呼ばれます。  心の世界はおよそつかみ難いものですが、この阿頼耶識ともなれば、いよいよ難しく、説明しようにも的確な仕方がなく、それをつかまえる方法も軽々には述べられません。ただ、次の二つの事例をつなぎ合わせると、なんとなく領得できるように思います。  発明王エジソンが、死ぬ少し前に、次のような言葉を残しています。  「着想は宇宙空間から来る。途方もなく、信じられない……と思うかもしれないが、それは事実だ。考えは空間から浮かび出るのだ」  文化勲章受賞の数学者・岡潔博士は、その名著(春宵十話)に次のように書いておられます(他の著書にも何度か引用しましたが、あまりにも貴重な体験だけに、経典の金言と同様、何十回繰り返し、引用してもよいと信じます)。  「七、八番目の論文は戦争中に考えていたが、どうもひとところうまくゆかなかった。ところが、終戦の翌年宗教に入り、なむあみだぶつをとなえて木魚をたたく生活をしばらく続けた。こうした或る日、おつとめのあとで考えが或る方向へ向いて、わかってしまった。この時のわかり方は、以前のものと大きくちがっており、牛乳に酸を入れたように、いちめんにあったものが固まりになって分れてしまったふうだった。それは宗教によって境地が進んだ結果、物が非常に見やすくなったという感じだった」  発明とか数学とかいえば、まったく理性のみの所産だと考えられがちです。表面の心で理詰めに詰めていって、ある結果に到達するもの、と考えるのが普通です。ところがそうではなく、理詰めの前や後に、あるいはその中間にポッカリあいた無意識のエアポケットがあって、そこから貴重なアイデアがひらめいてくるものだということは、お二人の証言によって明らかだと思うのです。 阿頼耶識によき形を与える  スイスの有名な心理学者・ユングは、無意識の世界を分けて、個人的無意識と普遍的無意識としています。普遍的無意識というのは、ある家族にはみんなに共通する潜在意識があり、ある文化圏に属する人間(たとえば、東洋文化の中にいるアジア人)にも共通の潜在意識があり、もっと深く探れば、人類全体に共通の潜在意識があるというのです。  この普遍的無意識ということは、すでに世界の学者の間に認められている説ですが、これを阿頼耶識と同様に解釈している学者もいます。たとえば、アメリカのE・ホルムス博士は、普遍的潜在意識は、抽象的で、形のない状態における(心)であり、それは潜在的エネルギーであって、形をもつものに形づくられるように身がまえているのだ……と説明しています(西岡旻佐子訳(心の科学)2による)。この(身がまえている)という表現は、まことに説得力があります。エジソンや岡博士は、この身がまえていた普遍的無意識を素直に飛び出させ、それによき形を与える、なにものかをもっておられたのでありましょう。(つづく)  婦女形(法隆寺五重塔塑像)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる34

心の通じ合いの不思議

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(34)  立正佼成会会長 庭野日敬 心の通じ合いの不思議 だれにもある心の通じ合い  きょうはあの叔母さんが遊びに来られるような気がする……なんとなくそんな思いが念頭をかすめた。すると、案の定ヒョイと訪ねてこられた……そのような経験は、だれにもあるでしょう。二、三人で、ある人のことを話し合っているとき、当の本人がフラリと現れて、「噂をすれば影だなあ」と笑ってしまう……そんなこともよくあります。永年の夫婦仲ならば、夫が「今夜あたりスキヤキで一杯やりたいな」と考えながら帰宅してみると、チャンとその用意ができていた、というような経験もあるはずです。  たいていの人は「偶然の一致さ」と軽く一蹴してしまいますが、少しでも(心)の問題に関心のある人だと、「いや、何かあるぞ」という疑問を起こすはずです。正しい疑問です。確かに「何かある」のです。むかしはこのようなはたらきを(虫の知らせ)とか(以心伝心)という言葉で片付けていましたが、現代になってから学問的に研究され、そうしたはたらきの実在が証明され、テレパシー(遠隔感応)と名づけられました。  最初の実験者はアメリカのデューク大学にいたライン博士夫妻で、+≋☆□○の五つの図形を書いたカード(ESPカードという)を用意し、実験者がそのカードを一枚ずつ取り上げて図形を見ると、意識に与えられたその刺激を、別室にいる被実験者が心に感じ取って図形を言い当てるという実験です。これを何千回と繰り返すことによって、その的中の確率の上から、偶然ばかりでなく、遠隔感応という心のはたらきがあることを証明したのでした。 心は肉体を離れて活動できる  これが始まりで、音声とか、言葉とか、表情とか、といったようなものを通さず、冥々のうちに人と人との間に心の伝達が行われること、心霊が肉体とは独立に活動することが科学的に実証され、こんな問題には懐疑的な学者でさえ、それを承認するようになりました。  現在では、宇宙船と地上との交信にテレパシーを利用しようという研究さえ始まっているそうです。聞くところによりますと、超能力研究の盛んなソ連で、約三千五百キロ離れたモスクワとシベリアのノボシビルスクの間でESPカードを使ってテレパシーの実験をしたところ、ある超能力は二十枚全部を言い当てたといいます。  私はなにもこのような超能力を称揚したり、奨励したりするつもりはありません。ただ、人間にはだれにも、強弱の差こそあれ、このような能力をもっていることを知ってもらいたいのです。心を変えることによって人を変え、境遇を変える(一念三千)の理も、このような能力があればこそ成り立つのです。  冒頭にあげた心の通じ合いの事例は、あなたにもそんな覚えがあるでしょう。ということは、あなたにもそのような能力がある証拠です。その能力を少しでも強め、善い方向へ使うようにすれば、あなたの周囲の人々の幸せを増し、あなた自身をも高めることができるのです。  (善い方向へ使う)とわざわざ言ったのは、世の中にはときたま強い念力をもつ人がいて、そんな人が「あんな奴死んじまえ」などと人を呪う心をもてば、てきめんに相手が不幸に陥るという実例があるからです。  (善い方向へ使う)というのは、人の幸せを念ずることです。もちろん言葉や行動によってその不幸から救ってあげようとする努力も大切です。しかし、実際問題として、言葉や行動によってその不幸から救ってあげようとする努力も大切です。しかし、実際問題として、言葉や行動だけでは及びもつかぬ場合がしばしばあります。また、頑固な人はかえってそれに反発し、寄せつけぬこともあります。  そんなときは、「仏さま、どうかあの人を幸せの道へ導いてください」と心から祈ってあげるほかありません。そうした祈りは、一念三千の理によって必ず通ずるのです。もし、通じなければ、あなたの(心の力)がまだ微弱であるからなのです。 念力は(行)によって強まる  言論や実際行動によって人を救い、世を明るくする努力は信仰者でなくてもできます。そうした表面に現れる努力の底に、祈りの力、心霊の力が加わってこそ、信仰者と言えるのです。その意味で、(心の力=念力)を強めることはやはり大切なのです。  それならば、心の力を強めるにはどうしたらいいのか。行(ぎょう)よりほかに方法はありません。  無心になって唱題する。読経三昧に入る。さらに進んでは、水垢離をとる。滝に打たれる。あるいは、端坐して一心に仏を念ずる、そうした行を積めば積むほど、念力というものは強まっていくものです。  むかしから、聖者と言われる人は今で言う超能力者でした。お釈迦さまも、イエス・キリストもそうでした。しかし、一般の信仰者はそこまで行かなくてもいいのです。ただ、心の力を少しでも強くし、人を幸せにしてあげたいという祈りが相手に通じ、相手を動かすことができるように努力することは、大乗の信仰者としては不可欠の条件でありましょう。(つづく)  ガンダーラ仏  絵 増谷直樹...