人間釈尊(40)
立正佼成会会長 庭野日敬
金糸刺繍の衣と弥勒菩薩
摩訶波闍波提手作りの衣
前回にお釈迦さまの衣について書きましたが、そのついでにぜひ触れておきたいエピソードがあります。
太子を育てた養母の摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)は、太子が出家されたのち、いつかはお役に立つこともあろうかと、一条の衣を作りました。自分で糸を紡ぎ、自分で織った上等のものでした。漢訳には、「金縷黄色衣(こんるおうじきえ)」とありますから、おそらく金糸で刺繍がしてあったものと思われます。
お釈迦さまが仏陀となられてから数年後に故郷に帰られたとき、郊外の林中にそれを持って訪れ、
「これはわたくしが作ったものです。どうぞお納めください」
と申し出ました。世尊は、
「わたしが受け取るわけにはいきません。教団に寄進なさるがよいでしょう」
と申されます。しかし摩訶波闍波提は、
「世尊に着て頂くために作ったものです。どうぞ、どうぞ、お受けください」
と懇願してやみません。お傍にいた阿難が、
「世尊。摩訶波闍波提さまは、世尊を二十九年もお育てになったお方ではございませんか。それに、今は在家の信者として、三宝に帰依し、五戒を守ってお暮らしになっておられます。どうかその真心をくみ取ってあげてくださいまし」
と、とりなしました。世尊もそれに動かされ、いちおうご自分への寄進としてお受けになり、あらためて教団へ寄付されたのでした。
着ると三十二相が現れた
教団に寄付はされたものの、だれがそれを着るかということが問題になりました。立派すぎると言って、だれも着たがりません。
やむなく世尊が決じょうをお下しになりました。
「弥勒比丘に着用させよ」と。
法華経序品で、文殊菩薩が弥勒に、
「そなたは前世にもろもろの善根を植えたために無数の諸仏に会いたてまつり、供養・恭敬・尊重・讃歎した身である」と告げていますが、その因縁によるものでしょうか、生まれつき人並みすぐれた尊貴な風格と慈悲心の持ち主でした。
バラナシの大臣の家に生まれ、親戚にあたるバラモン学者の家で育てられたのですが、その学者の命令でお釈迦さまのもとに参って法を聞き、たちまち感動して出家・入門したのだそうです。
お釈迦さまが金縷黄色衣をこの人に着せようとなさったことには、深い意味がこめられているように推察されます。
というのは、弥勒をご自分の後継者(教団の後継者ではなく、衆生済度の仏として)と思い定めておられたからです。当時は比丘の身分でしたけれども、内面的にはすでに菩薩であり、しかも補処(ふしょ=釈迦牟尼仏の代わりになる)の菩薩だったわけです。
お釈迦さまは、こう予言しておられます。
「弥勒は、わたしの入滅後五十六億七千万年後に兜率天から娑婆世界へ下生して仏となり、衆生を救済するであろう」と。
弥勒比丘がこの衣を着るようになってから、一般の人々もその予兆を見ることができました。これを着て托鉢に出ると、仏と同じような三十二相がその身に現れ、全身が黄金のように輝き、人々はその姿に見とれて、食物を差し上げるのを忘れるほどだったといいます。
それにしても、世尊は万人を平等に愛されたのですが、しかし、それぞれの人間の特質を見分けられる眼がおそろしく的確だったことは、このエピソードからもうかがわれます。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎
立正佼成会会長 庭野日敬
金糸刺繍の衣と弥勒菩薩
摩訶波闍波提手作りの衣
前回にお釈迦さまの衣について書きましたが、そのついでにぜひ触れておきたいエピソードがあります。
太子を育てた養母の摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)は、太子が出家されたのち、いつかはお役に立つこともあろうかと、一条の衣を作りました。自分で糸を紡ぎ、自分で織った上等のものでした。漢訳には、「金縷黄色衣(こんるおうじきえ)」とありますから、おそらく金糸で刺繍がしてあったものと思われます。
お釈迦さまが仏陀となられてから数年後に故郷に帰られたとき、郊外の林中にそれを持って訪れ、
「これはわたくしが作ったものです。どうぞお納めください」
と申し出ました。世尊は、
「わたしが受け取るわけにはいきません。教団に寄進なさるがよいでしょう」
と申されます。しかし摩訶波闍波提は、
「世尊に着て頂くために作ったものです。どうぞ、どうぞ、お受けください」
と懇願してやみません。お傍にいた阿難が、
「世尊。摩訶波闍波提さまは、世尊を二十九年もお育てになったお方ではございませんか。それに、今は在家の信者として、三宝に帰依し、五戒を守ってお暮らしになっておられます。どうかその真心をくみ取ってあげてくださいまし」
と、とりなしました。世尊もそれに動かされ、いちおうご自分への寄進としてお受けになり、あらためて教団へ寄付されたのでした。
着ると三十二相が現れた
教団に寄付はされたものの、だれがそれを着るかということが問題になりました。立派すぎると言って、だれも着たがりません。
やむなく世尊が決じょうをお下しになりました。
「弥勒比丘に着用させよ」と。
法華経序品で、文殊菩薩が弥勒に、
「そなたは前世にもろもろの善根を植えたために無数の諸仏に会いたてまつり、供養・恭敬・尊重・讃歎した身である」と告げていますが、その因縁によるものでしょうか、生まれつき人並みすぐれた尊貴な風格と慈悲心の持ち主でした。
バラナシの大臣の家に生まれ、親戚にあたるバラモン学者の家で育てられたのですが、その学者の命令でお釈迦さまのもとに参って法を聞き、たちまち感動して出家・入門したのだそうです。
お釈迦さまが金縷黄色衣をこの人に着せようとなさったことには、深い意味がこめられているように推察されます。
というのは、弥勒をご自分の後継者(教団の後継者ではなく、衆生済度の仏として)と思い定めておられたからです。当時は比丘の身分でしたけれども、内面的にはすでに菩薩であり、しかも補処(ふしょ=釈迦牟尼仏の代わりになる)の菩薩だったわけです。
お釈迦さまは、こう予言しておられます。
「弥勒は、わたしの入滅後五十六億七千万年後に兜率天から娑婆世界へ下生して仏となり、衆生を救済するであろう」と。
弥勒比丘がこの衣を着るようになってから、一般の人々もその予兆を見ることができました。これを着て托鉢に出ると、仏と同じような三十二相がその身に現れ、全身が黄金のように輝き、人々はその姿に見とれて、食物を差し上げるのを忘れるほどだったといいます。
それにしても、世尊は万人を平等に愛されたのですが、しかし、それぞれの人間の特質を見分けられる眼がおそろしく的確だったことは、このエピソードからもうかがわれます。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎