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お会式 追い込み
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お会式 品川教会万灯行進
【写真】
お会式 万灯行進少年部
【写真】
お会式 目黒教会 子ども万灯
【写真】
人間釈尊8
【機関紙誌】
絶対平和の世界への憧れ
人間釈尊8
絶対平和の世界への憧れ
1
...人間釈尊(8) 立正佼成会会長 庭野日敬 絶対平和の世界への憧れ 不自由の中で真の自由を 王宮におけるシッダールタ太子の生活は、じつに不自由なものだったようです。もちろん物質的には何不自由もない暮らしでした。前(第三回)に述べたように、三つの宮殿を与えられ上等の衣服を着、多くの侍女たちにかしずかれていました。宮殿内にいるときも、侍女たちが白い傘蓋(さんがい)を頭上にさしかけていましたし、庭を散歩するときもやはり傘蓋をさしかけて、昼間なら暑い日光が、夜ならば夜露が当たらないようにと、細心の注意を払っていました。 けれども、前に記したような、雨季の四カ月間は侍女たちに囲まれて一歩も宮殿の外に出たことがないといった生活が、精神的にはどんなにうっとうしいものだったかは、容易に察することができます。 雨季以外のいい季節にも、父の浄飯王のさしがねで、外出はなかなか許されなかったようです。それは、実社会のさまざまな苦難や悲劇などを見聞して若い胸を痛めないようにという配慮からだったのでしょう。 しかし、青年太子の鋭い直観や深い思索は、そうした束縛などに抑圧されるようなものではなかったのです。かえってそうした不自由が人間の真の自由を求める心をかき立てていったに違いありません。 人間はなぜ戦争をするのか 王舎城は七重の堀に囲まれ、七重の城壁をめぐらし、その間には騎象の軍、騎馬の軍、戦車の軍、歩兵の軍が七重に配備され、ひしひしと王宮を守っていました。 そのうえ、浄飯王も、太子も、毎晩寝所を変えたといいます。暗殺を避けるためだったのです。 物質的にはどんなに贅(ぜい)を尽くしていても、これが人間らしい生活といえるでしょうか。昼も、夜も、外敵に対して(あるいは内敵にも)せんせんきょうきょうとし、心の安まる暇もない。それが人間のほんとうの生き方でしょうか。そうした思いが青年太子の胸を絶えず去来していたことでしょう。 さらに考えられるのは、――おびただしい軍象や軍馬を飼い、それよりももっと多い兵士たちを養っていくためにはたいへんな費用がかかる。その費用はどこから出ているのか。もちろん人民から取り立てる租税からである。人民たちはその租税を納めるために、朝から晩まで汗水たらして田畑で働いている。病気になっても医者にかかることができず、道端に倒れ苦しんでいる者を見たこともある。 なんというムダであろうか。侵略さえなければ、戦争さえなければ、人民たちはもっと豊かに、もっと安楽に暮らしていけるはずだ。大国であるコーサラ国やマガダ国の人民にしても、やはり同じなのであろう。 いまは戦争がないけれど、いったんそれが始まれば、敵味方にかかわらず多くの人が死に、傷つき、そのために家族も悲しみ、苦しむ。軍費はますますかさみ、それを補うために租税はますます過酷になり、人民たちは二重も三重もの苦しみを背負わなければならない。 それなのに、人間はなぜ戦争をするのか。戦争は果たして多くの軍象・軍馬を飼い、多くの兵士たちを養っておかねばならぬものか。人間はどうしてこんな愚かなことをするのだろうか――。 このような疑問が若い太子を思い悩ませ、と同時に、争いのない、戦いのない、絶対平和の世界へのあこがれが抜きさしならぬ切実さでその胸にわき上がってきたであろうことは、容易に推察できます。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊9
【機関紙誌】
新しい精神世界への希望
人間釈尊9
新しい精神世界への希望
1
...人間釈尊(9) 立正佼成会会長 庭野日敬 新しい精神世界への希望 インドにおける出家の事情 人間が熟慮に熟慮を重ねた一大事を決行するには、内的にせよ外的にせよ、あるふんぎりが必要です。シッダールタ太子が、かねてから思い定めていた出家を決行するにも、それがあったようです。それは一子ラーフラ(羅睺羅)の誕生です。 そのころのインドでは――富裕な上流階級に限ってのことですが――一生を四つの時期に分けて過ごす風習がありました。 第一は学生(がくしょう)期で、少年時代には師の家に住み込み、学問(主として宗教聖典)を学びました。それがすむと家に帰って結婚し、ふつうの家庭生活を営みます。これを家住期といいます。そして、男の子に恵まれ、その子が成長すれば、父は財産をその子に譲り、森に入って質素な宗教生活に入ります。その際、妻は子に扶養を託してもいいし、一緒に森の生活をしてもいいことになっていました。これを林住期といいます。最後の第四期は遊行(ゆぎょう)期といって、髪やひげを剃り、鉢と杖と水瓶だけを所有物とし、すべての執着を捨てて乞食(こつじき)の生活をするのです。 もちろん、すべての上流階級人がこのとおりしたわけではありませんが、それが理想的な一生のパターンとされていたわけです。 現代のわれわれから見れば、最後の遊行期などはとうてい考えられもしないもののようですけれども、よくよく吟味してみますと、「人生の後半期には特に精神生活を重んじよう」という点において、大いにうなずけるものがあります。 ともあれ、釈尊をはじめ宗教的偉人がインドに輩出したのは、こうした土壌が背景にあったことは知っておいていいことでしょう。 若者らしい気迫の出家 さて、多くの仏伝は、一子羅睺羅が誕生したその日に太子が出城されたと伝えています。前述の古代インドの風習から考えて、跡取りが生まれたことが太子の出家決行のふんぎりになったものとして納得がいきます。 中国の儒者や日本の国学者たちは、太子が家族を捨てて出家したことを非難し、仏教排斥のひとつの理由としました。しかし、それは不当な非難であって、太子はそのような無責任な方ではなかったのです。当時のインドの風習に従って、家住期をとどこおりなく終えたうえで、心おきなく出家されたものと思われます。 心おきなく……とはいっても、人間である以上、家族への微妙な愛情は断ち切りがたいものがあったでしょう。そのことは、次のようなことからも察することができます。 渡辺照宏博士によれば、太子はいよいよ出家の決心を決めると父王の居間に行き、ハッキリとその意志を伝えました。父王はそれを聞いて「何でも望みをかなえてやるからとどまってくれ」と頼みましたが、どうしてもその固い意志をひるがえさせることはできなかったのでした。 義母のマハープラジャーパティと妻のヤショダラー妃に対しては、出家の意志など絶対に漏らしませんでした。父には打ち明け、母と妻には秘し隠しにしていた……その理由は容易に察することができます。男性の愛情と女性の愛情の差異をよく心得ておられたのでしょう。 しかし夜半、愛馬カンタカにまたがって城を出る太子の心中には、家族に対する感傷などほとんどなかったものと思われます。新しい精神世界へ挑戦する烈々たる気迫と大いなる希望に胸はいっぱいに膨らんでいたことと推察されます。 それこそが青年の青年たるゆえんであり、大いなるものを打ち立てる人の首途(かどで)にふさわしい姿であるからです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊10
【機関紙誌】
心に誓った“無上の悟り”
人間釈尊10
心に誓った“無上の悟り”
1
...人間釈尊(10) 立正佼成会会長 庭野日敬 心に誓った無上の悟り 出城、歴史的瞬間! 夜の深い闇に閉ざされたカピラバスト城は、警備の兵士さえ寝静まり、物音ひとつしません。空には無数の星がきらめき、南十字星が空低く斜めにかかっています。 中庭には、ひそかに命を受けた馬手のチャンダカが、太子の愛馬カンタカを引いて待っていました。 スラリと背が高く色白の美丈夫シッダールタ太子は、軽やかなカーシー産の衣服を着け、胸には瓔珞(ようらく)、腕には宝石をちりばめた腕環をはめた、凛々しい王子の姿のままです。 無言で深く頭を下げるチャンダカに、黙ってうなずいた太子は、ひらりと愛馬にうちまたがります。チャンダカに手綱を引かれた白馬カンタカは静かに歩み始めました。 父王の命令で固く閉ざしてあった城門も音なく開き、昼夜の別なく警戒していた兵士たちに発見されることもなく――仏伝によれば、天上から下ってきた神々のはからいによったとされている――太子は城外に出ました。そのとき心のうちに固く誓ったといいます。 「無上の悟りを得ないうちは、二度とこの門をくぐらない」と。 まことに歴史的な一瞬でした。この瞬間から世界の精神世界に大きな変革がきざしたのです。そして、二十世紀末の今日、地球と人類の危機を救うただ一つの道といわれる正法の芽が、この城門を出る一歩から萌(も)えはじめたのだ……と思うとき、いまさらのようにその瞬間の尊さに深い感慨を覚えざるを得ません。 ただ一人東方をさして 夜のしらじら明けに、マイネーヤという所に着きました。ここで太子は身につけていた装身具をすべて取り外し、その一つの摩尼珠(まにしゅ)をチャンダカに渡し、これを大王に差し上げるように命じました。そして、 「大王にこう申し上げてほしい。『わたしは世間的な欲望はなく、天国へ生まれたいとも思いません。一切衆生が正しい生き方を知らず、生死輪廻(しょうじりんね)に苦しんでいるのを見て、それを救うために出家するのです。志を遂げるまでは再び帰ることはございません』と」 そして、瓔珞や腕環などの装身具は、義母マハープラジャーパティとヤショーダラー妃に渡すようにと命じました。 チャンダカに対しては、兄のような優しみを込めて、 「よくやってくれたね。お前のおかげで、わたしの年来の望みがかなえられた。ほんとうにありがとう」 と礼を言い、冠につけてあったひときわ光り輝く宝石を手渡して、 「さあ、これを取っておくがよい。これをわたしと思い、いつもわたしが傍らについていると思って安らかに暮らすのだよ」 と、温かい言葉をかけるのでした。 チャンダカは、ただただ涙に暮れるばかりでしたが、ふと、自分が太子の出城の手引きをしたことを責める気持ちが起こり、 「ご主人さま、大王や皆さまのお嘆きを思いますと、わたくしは川の泥の中に沈んでいくような思いでございます。もう一度考え直してお帰りになっては……」 と申し上げましたが、それが徒労であったことは言うまでもありません。太子は自ら剣を抜いて、まげに結っていた黒髪をバッサリと切り落とし、ただ一人朝日のさす東のほうへ林を抜けスタスタと歩み去って行ったのでした。 じつに颯爽とした姿でした。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊11
【機関紙誌】
ビンビサーラ王との出会い
人間釈尊11
ビンビサーラ王との出会い
1
...人間釈尊(11) 立正佼成会会長 庭野日敬 ビンビサーラ王との出会い 見知らぬ若い修行者 王舎城は昼近くなっていました。 名君ビンビサーラ王は、いつものように城の外壁の望楼から人民たちの暮らしの様子を眺めていました。 と、托鉢を終えたらしい見知らぬ若い修行者がすぐ下の通りを静かに歩いています。スラリとした長身は姿勢が正しく、色白の顔は輝くように澄み、いかにも気品に満ちていました。 王は傍らの侍臣たちに尋ねました。 「おまえたち、あの修行者を知っているか」 「いいえ、見たこともない人です」 「ごらん。誠に美しく、気高く、清らかで、目を下に向けて歩いている。並の人ではない。かの人を追え。どこに住んでいるか突き止めて来い」 (目を下に向けている)のに気づいたのはさすがに炯眼(けいがん)で、当時のすぐれた修行者は、地を這う小さな虫を踏み殺すことがないように、常に前方の地面を見つめながら歩いていたのです。 いまどの仏像(如来像)を拝しても、やはり目を半眼にしてやや下を向いておられます。一切衆生をいとおしむ大慈悲のみ心がその半眼に表れているのを知るべきでしょう。 さて、家来たちはさっそく城を出て、修行者の跡を追います。修行者は相変わらず静かに歩を進めながら、王舎城の町を巡る五山の一つパンダヴァ山に登って行きます。そして、その中腹にある洞くつへ入って行くのでした。 城に帰った家来たちがその旨を報告しますと、王は、 「よし、わたしはあの人に会いに行く。すぐ馬車の用意をせよ」 と命じました。 重臣たちは――どこのだれともわからぬ若者に会うために、大王がわざわざお出かけになるとは――と意見しましたが、王は耳をかそうともしません。 聖なる約束が交わされた 王はパンダヴァ山のふもとで馬車を降り、険しい坂道を登ってくだんの洞くつに達しました。入り口近くに端座している若い修行者に丁寧にあいさつし、その身分を尋ねます。修行者は答えました。 「わたくしはカピラバスト国の太子であったゴータマと申します。思うところがあって出家した者です」 「そうでしたか、やっぱり……。少し話をしたいが、どうですか」 「結構です。どうぞお座りください」 二人はすぐ打ち解けてさまざまな話を交わしましたが、やがて王はこう切り出しました。 「あなたはまだ青春に富み、どんなことでもできる人だ。わたしはあなたに精鋭な軍隊と多くの財産を分けて上げましょう。そして二人でマガダ国をますます繁栄させようではないですか。あなたも、そうして大いに人生を楽しんではどうです」 修行者は即座に答えました。 「お志は有り難いが、お断りいたします。わたくしはもろもろの欲望には憂いがつきまとうことを見て、すべてを捨てて出家した身です。そして人間最高の境地を求めて励もうとしています。その修行をむしろ楽しんでいるのです」 王はあきらめざるを得ませんでした。 「わかりました。だが、あなたが最高の悟りを得られたならば、ぜひこの町へ来て教えを聞かせてください。ぜひとも……」 「はい。お約束しましょう」 王はなにか心が洗われたようになって山を下りて行きました。 後に劇的に展開されるビンビサーラ王と釈迦牟尼世尊の深い交わりは、この会見がそもそもの端緒だったのです。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊12
【機関紙誌】
新しい求道の旅へ…
人間釈尊12
新しい求道の旅へ…
1
...人間釈尊(12) 立正佼成会会長 庭野日敬 新しい求道の旅へ… 二人の高名な師に就いたが 菩薩(もはや太子ではなく、衆生を救う道を求める修行者ですから、今後こう呼ぶことにします)は、都の付近にはすぐれた宗教家や哲学者がいるので、そうした師を求めて王舎城に来たのでした。 第一に就いた師はアーラーラ・カーラーマという名高い仙人でした。非常に深遠な境地に達した人でしたが、菩薩はその指導によって短時日のうちに師と同等の境地に達しました。仙人は、――ここにとどまって一緒に弟子たちを指導してくれないか――と懇請しましたが、菩薩は辞退しました。 なぜならば、師の教えは(教え)というよりは師弟一対一の研さんによって得られる特殊な境地であって、とうてい多くの大衆を現実の苦しみから救うことなどできないものだったからです。 次に訪れたのは、これまた高名なウッダカ・ラーマプッタという仙人でした。ここでもしばらくのうちに師と同等の高い境地に達し、――共に弟子たちを指導しよう――と誘われましたが、やはり自分が出家した本来の目的は達成できないと見定め、そのもとを去りました。 菩薩は考えました。――もうこうなったら自分自身の修行と思索によるほかはない――。そう決意して新しい求道の旅へと出発したのです。 菩提の地は美しかった 王舎城から西南の方へ徒歩の旅を続けていた菩薩は、ガヤ山という小さな山に突き当たりました。なんとなく心ひかれた菩薩は、その山に登り頂上を極めてみると、北方の眼下に緑の平野が開け、ネーランジャナー河の青々とした流れを挟んで、美しい林や村々が点々と望まれます。 一本の樹の下に座ってその平和な風景を眺めているうちに、この地こそ自分が修行するのにふさわしい土地ではないか……という思いがきざしてきました。山を下りてあたりを歩きまわってみますと、村人たちはいかにも淳朴(じゅんぼく)そうで静かな生活をしていますし、川の水は清らかですし、林に入ると物音ひとつ聞こえず、木々の精ともいうべき香ぐわしい空気が漂っています。 「よし、ここだ!」 菩薩は林の中の平らな地を選んで草を敷き、禅定の場としました。と、そのとき思いがけないことが起こったのです。ラーマプッタ仙人の所で相弟子だった五人の修行者が突然木々の陰から現れてきたのです。 「ゴータマよ」 「おお、あなた方は……」 「そうです。ぼくらは長い間、師の下で修行してきましたが、どうしても師の教えられるような境地に達することができませんでした。それなのに、後から来たあなたはほんのしばらくの間にそれを達成された……」 「しかも、それにも飽き足らず、さらに高い境地を目指して立ち去って行かれた」 「だからわれわれは――あの人と一緒に修行しようじゃないか――と相談して、こっそり後をつけてきたのです。邪魔はしませんから、どうかおそばで修行させてくださいませんか。お願いします」 菩薩はしばらく考えていましたが、やがて無言でうなずきました。 五人は喜んで、それぞれに林の中に自分の場をしつらえ、そこに落ち着きました。 この五人の修行者こそ、のちに仏の悟りを得られた釈尊が初めて法を説いて教化された、いわゆる五比丘にほかなりません。 法華経序品の最初に出てくる阿若憍陳如(あにゃきょうぢんにょ)もその一人ですし、のちに舎利弗がその端正な相貌を見て驚き、それが舎利弗入門のきっかけになった阿説示(あせつじ)もその一人です。縁というものの、なんという意味の深さでしょう。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊13
【機関紙誌】
健康な中にこそ真の悟りが
人間釈尊13
健康な中にこそ真の悟りが
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...人間釈尊(13) 立正佼成会会長 庭野日敬 健康な中にこそ真の悟りが 物凄い苦行の連続 ウルヴェーラーの林中での菩薩の修行は実に言語に絶する苦行でした。南伝中部経典の獅子吼大経に、釈尊が舎利弗に当時の思い出を詳しく語っておられるくだりがあります。増壱阿含経巻二十三にもほとんど同じ内容のことが語られています。その主要なところを抜粋してみますと……。 「舎利弗よ。わたしは一日に一食をとり、あるいは二日に一食をとり、七日に一食をとり、このようにして、半月に一食をとるまでに至った。 わたしは、あるいは野草を食し、あるいは草の根を食し、あるいは木の実を食し、あるいは生米を食し、あるいは子牛の糞を食した」 「わたしは、あるときはいばらの上に臥し、あるときは板に打ち込んだ釘の上に臥した。長い間逆さまに立ったままでいたり、一日中直立したままでいたり、足を十字にしてうずくまっていたりした」 「わたしは、墓場に捨てられたボロを着て過ごした。あるいは木の皮や木片をつづったものを着て暮らした」 「わたしは墓場に行き、骸骨を寝床にしてその上に寝たこともあった。そのとき牧童たちがやってきてわたしに唾を吐きかけ、からだの上に放尿し、塵あくたをまき散らし、両耳の穴に木片をさしこんだ。しかし、わたしは彼らに対し悪心を起こさなかった」 「一日に一粒の米と一粒の麻の実を食することを続けた。わたしの臀部はラクダの足のようにやせこけてしまった。手で腹をなでると背骨に触った。大小便をしようとしてしゃがむと、ヨロヨロと頭を前にして地に倒れるのだった。手で肌をこすると、体毛は毛根からボロボロ抜け落ちた」 苦行は正覚の道ではない 「止息禅(しそくぜん=呼吸を止める禅定)をも試みた。口と鼻からの呼吸をせき止めた。そのとき、耳から大きな音を立てて風が出て行くのを感じた。たとえば鍛冶工のふいごによって吹かれるような物凄い響きであった」 「そこで、口と鼻と耳からの呼吸をすっかりせき止めた。すると、物凄い風が身中から吹き起こって頭頂をかき乱し、猛烈な頭痛が起こった。あたかも錐(きり)で頭のてっぺんをグリグリと突き刺すような激痛であった」 「そのときわたしはこう思った。およそ過去のあらゆる修行者の中で、自分以上の猛烈な苦痛を受けた人はないだろう。未来にさまざまな苦行をする人があっても、自分が経験している苦痛を超えることはあるまい。それなのに、わたしは完全な智見に達することができていない。これはどうしたことだろう。悟りに至るには、おそらく他の道があるのではなかろうか……と」 そのとき菩薩は、フト青年時代の一場面を思い出しました。 ――大樹の下で瞑想していたとき、自然に心が静まり、澄み極まり、非常に高い境地に達したことがあった。ああ、そうだ。気力と体力が充実していたからこそ、あのような経験をすることができたのだ―― ――そうだ。人間は生きているのだ。生きている人間の真の悟りは、健康で気力と体力が充実していなければ得られないのだ。今の自分はまるで死人同様だ。身体もひからび、情感もひからびてしまっている。これでは生きている人間を救うための智見など得られるものではない。こうしてはおられない!―― そういう思いがフツフツとわき上がってきました。菩薩は決然として立ち上がりました。立ち上がりはしたものの、足はもつれ、今にも前に崩れ落ちそうでした。しかし、その足を踏みしめ踏みしめ、ネーランジャナー河の岸辺を目指して歩き始めたのでした。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
人間釈尊14
【機関紙誌】
わいてきた新しい勇気
人間釈尊14
わいてきた新しい勇気
1
...人間釈尊(14) 立正佼成会会長 庭野日敬 わいてきた新しい勇気 魚たちは自然に生きている 苦行をやめる決心をした菩薩はよろよろと立ち上がると、まず墓場に行き、それまで着ていた木の皮をつづった衣を脱ぎ捨て、死体を包んであった白布を拾って服装を整えました。そしてネーランジャナー河の岸辺へ這うようにしてたどりつき、腰までの深さの所へ身を浸しました。 朝の川の水は冷たいけれども、快く肌を洗ってくれます。水の中へ目を凝らしてみますと、小魚の群れが泳いでいます。ツツーッと菩薩の体に近寄ってきて、肌を突つこうとして去って行く魚もいます。底の砂の上を半透明な川エビが這っていて、菩薩がちょっと足を動かすと、ヒョイとうしろ向きに跳ねのきます。 「ああ、魚たちもいきいきしているなあ。みんな生きているんだなあ」 そういう思いが菩薩の胸にこみ上げてきたことでしょう。 「遊ぶように生きている。自然に生きている。人間もこのように生きたいものだ……」 なにか新しい勇気がわいてきた菩薩は、長年の垢を懸命にこすり落とすと、岸に上がり、ボウボウと伸びていた髪やひげを剃ってさっぱりしました。 乳粥で心身共によみがえり そのとき、朝まだきの靄(もや)の中を淡紅(うすくれない)の衣を来た女が近づいてきました。愛くるしい十五、六歳の少女です。湯気の立つ鉢を持っています。少女は菩薩の前にひざまずくと、その鉢をささげて、 「沙門さま。どうぞこれを召し上がってくださいまし」 と言うのでした。 村長(むらおさ)の末娘スジャータでした。スジャータは、信仰心の厚い父の影響で、かねてから修行者と見れば米や麦などを供養するのを楽しみにしている少女でした。きょうのは生の穀物ではなく、濃く煮詰めた牛乳で煮込んだ白米の粥です。菩薩が苦行をやめたのをはるかに見てとった村長が、娘に言いつけて作らせたのです。 菩薩はなんのためらいもなくその乳粥をすすりました。何年ぶりかで口にする人間らしい食物。ひと口吸うごとに全身にしみわたるような滋味、温かみ。身体ばかりでなく、精神にも新しい生気がよみがえってくるのを実感するのでした。 人間は人間らしい食べ物を食べなければならない。それが天地の法則に素直に従う道だ……そういう思いがこのとき菩薩の脳裏に深く刻みつけられたに相違ありません。 だからこそ、後日提婆達多が厳しい戒律改革案をつきつけ、――比丘は在家信者の食事の招待を受けてはならない。比丘は一生のあいだ魚肉を食べてはならない――などと言い出したとき、たちどころにそれを一蹴されたのでした。 また、このときスジャータが供養した乳粥のありがたさ、その意義の深さは、一生釈尊のみ心にしみついていたのです。その証拠には、クシナガラで亡くなられる直前に食事を供養したチュンダに対して、明らかにそのことをおっしゃっておられます。 それはさておき、心身ともによみがえる思いの菩薩は、スジャータに感謝の目礼をしながら鉢を返すと、さてこれからどこで、どんな修行をしなければならないか……と、ゆっくりとあたりを見渡すのでした。 すると、少しばかり上流の対岸にそびえている一連の岩山が目に入りました。「そうだ、あそこへ行ってみよう」。菩薩はまだよろめく足を踏みしめ踏みしめ、中州の砂の上を歩き始めました。 題字 田岡正堂/絵 高松健太郎...
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