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心が変われば世界が変わる38

先祖の霊との心の通じ合い

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(38)  立正佼成会会長 庭野日敬 先祖の霊との心の通じ合い 法華経に見る生まれ変わり  人間同士および動物・植物など目に見える存在との心の通じ合いと同時に、目に見えぬ存在との心の通じ合いが、これまた非常に大事なことです。目に見えぬ存在といえば、神・仏から先祖の精霊にいたるまでの心霊でありますが、ここではまず先祖の精霊について考えていくことにしましょう。その前提として、霊魂とか魂とか言われるものについて、考えを確立しておくことが大切だと思います。  法華経の神髄は(すべての人が仏になれる)ということです。そして、お釈迦さまはたくさんのお弟子たちに「そなたも必ず仏になれる」という保証を与えられています。これを授記と言います。その授記に際しては、必ず、何度も生まれ変わり、多くの仏のみもとで修行した後に……という条件がつけられます。お釈迦さまご自身も、提婆達多品では「はるかなむかし仙人のしもべとなって教えを聞いた国王は、じつはわたしの前世の身である」とお語りになり、常不軽菩薩品でも「往昔の常不軽菩薩こそは、現在のわたしである」とおおせられています。  ということはつまり、(肉体は死んでも人間の魂は不滅であり、その世でなしたすべての行為(心でなした行為をも含む)の累積によって、次の世にはそれにふさわしい生を受ける)ということであり、言い換えれば、(人生は魂の修行の場であり、魂の浄化のためになんどでも地上に生まれ変わって修行を繰り返さなければならない(これを輪廻という))ということです。  そして、真理(宇宙の根本法則)を悟り、真理の道を行ずることによって、ほとんど完全に魂の浄化のできた者は、浄土の人となります。これを出離といい、仏の境地へはまだまだ距離があるとはいえ、魂の進化の一応のステップなのであります。 霊魂の有無について  霊魂の有無がよく問題になりますが、(空)の理から考えていけば、すぐ明快な答えが出ます。人間の肉体は現実にチャンとここにあるようですけれども、実はこれも(空)がつくり現しているものであって、われわれが知覚するとおりの姿で実在するものではありません。現代の原子物理学は、すべての物質はいろいろな原子からできており、その原子は幾種類かの素粒子からできていることをつきとめています。その素粒子たるや、顕微鏡でさえ見ることのできぬモノなのですから、つまり原子物理学からしても、われわれの肉体は知覚するとおりの姿で実在するものではないのです。  (空)もしくは原子物理学の理によって「肉体はない」と否定するのなら、同じ理によって「霊魂はない」と否定することもできましょう。しかし、この肉体をわれわれが現実的に「ある」と見ているのと同じ意味からすれば、霊魂もやはり「ある」のです。  心霊学者たちの一致した意見によれば、人間が死んだら、肉体をつくっていた構成要素(厳密にいえば(空))が、肉体よりもっと精妙な、半物質ともいうべき体(幽体)をつくり、死んだ肉体から遊離し、魂はその幽体の中に宿って存続するものと言われています。 先祖供養の意義と功徳  いずれにしても、われわれは霊魂の存続を確信しております。さればこそ、わが会では先祖供養ということを日々の大事な行としているのです。入会したらまず最初に、その家の先祖の総戒名をお祀りいたします。総戒名には、先祖の血を受け継いだ現在の子孫たちが、人格を向上して自ら仏法にかなった人間になることが、とりもなおさず先祖への回向であるという意味が教えられています。そのことは、朝夕のご供養の最初に唱える次の(回向唱)にも明記されています。  先祖代々過去帳一切の精霊、別しては今日命日に当る精霊、志す所の諸精霊等に回向し、併せて我等おのおの心得違い、思い違い、知らず識らずに犯したる罪咎を懺悔し奉る。  仰ぎ願くば読誦し奉る大乗経典甚深の妙義により菩提心を発さしめ給え。  そうした本質的な回向と同時に、現在のいのちを与えてくださった先祖の恩に感謝し、その成仏を祈る願いがこめられることは、言うまでもありません。  このように、先祖代々の諸精霊に直接呼びかけ、心を通じ合うのが先祖供養であります。そうして、読誦するお経の経力によって先祖代々の諸精霊は、安らぎを得、成仏へと向かわれます。しかも、現世のわれわれと霊界の先祖の霊とは別々の存在ではなく、無限のいのちの糸に繋がれた一連の存在なのです。こういう心の交流こそが、宗教をイデオロギーとしてだけ捉えていては得られない、いわゆる信仰ならではのありがたさではないでしょうか。(つづく)  楊柳観音立像頭部(大安寺)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる39

生まれ変わりは確かにある

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(39)  立正佼成会会長 庭野日敬 生まれ変わりは確かにある 釈尊は転生を見通された  法華経は、序品の「彼の仏の滅度の後、懈怠なりし者は汝是れなり。妙光法師は、今即ち我が身是れなり」に始まって、第二十八品の「若し但書写せんは、是の人、命終して当に当に忉利天上に生ずべし」に至るまで、わずか二、三品を除いて(生まれ変わり)に関する文言のない品はありません。ましてや、歴劫修行(何度も生まれ変わって修行を続けること)によって、仏の境地に達するという思想は全巻に満ち満ちています。  これを教化のための方便と見る向きが現代人には多いようですが、そうではありません。人間のいのちは永遠不滅であり、従って生まれ変わりも確かにあるのです。お釈迦さまが、ご自身やお弟子たちの前世の身について語られるのも、やはり単なる方便ではなかったのです。無量義経に、世尊は六通(六種類の神通力)を具えたお方であったことが出ていますが、その一つの宿命通(しゅくみょうつう)というのは、人間の過去世のありさまを明らかに見通す超能力を言うのです。  お釈迦さまの言行を比較的忠実に収録したと言われる南伝の経典にも、方々にそのことが見受けられます。例えば、長部経典の大般涅槃経に、阿難が那提迦という村の信者たちが死後どうなったかを世尊にお尋ねしたのに対し、これこれの者は天に生じ、これこれの者は一度だけ生まれ変わって苦の人生を体験し、それを最後に浄土の人となった……などと、一々について詳しく答えられたことが出ています。  また、同じく迦葉獅子吼経には、異教の行者迦葉の質問に答えられて、「迦葉よ、我、清浄にして超人的なる天眼を以て或る弊穢生活の苦行者が、身壊命終の後、悪生・悪趣・悪処・地獄に生ぜるを見る云々」とハッキリおおせられています。世尊が卓越した力によって人間の転生の過去・現在・未来を見通しておられたことが、これらの事例でもわかります。 現代の精密な調査の結果も  無理に信ぜよなどとは申しませんが、現代になって、生まれ変わりが確かにあることが、学者たちの研究発表などを報じた記事でよく見かけます。最も有名なのは、アメリカのバージニア大学教授イアン・スティブンスン博士の研究で(世界各国から生まれ変わりの事例を集めたところ、一九六六年には六百件集まり、一九七三年には二千件に達した)、その中の二百件について博士は同僚研究者と共に直接調査しました。もちろん本人にもインタビューし、周囲の人々にも会い、前世の身が生活していたという場所にも行き、そこの住民たちの話も聞き、細大漏らさず調査したのです。  その結果、証拠が十分で疑う余地のほとんどないものが四十件あり、博士はその中の二十件をアメリカ心霊調査協会会報に発表したところ、科学者たちからも高く評価されました。それからさらに追跡調査を続け、八年後に改訂版を(前世を記憶する二十人の子供)という書名でバージニア大学出版局から刊行し、日本語訳も叢文社から出ています。参考のために、二、三の事例を紹介しましょう。 現存の人物が実証した事例  インドのチャタラプール地方大学の●〔植〕物学講師として現存するスワーンラタ・ミシュラ女史がまだ三歳半の時、教育者であった父に連れられて当時住んでいた町から遠く離れた大都市へ遊びに行きました。その途中、カトニ市という町に入った時、その幼児は突然、運転手に「あたしの家の方へ行って!」と言い出しました。また、その市内で休憩してお茶を飲みましたが、その時にも彼女は「あたしの家に行けば、もっとおいしいお茶が飲めるのに」と残念そうに言うのでした。  それがきっかけでスワーンラタは、変なことを口走るようになりました。自分は、前世ではカトニ市のパサク家の娘で、名前はビヤと言った。結婚して息子が二人いた……と言い、その名もはっきり告げるのでした。また、パサク家は白色の建物でドアは黒、ドアには鉄のかんぬきがしてあった。フロント・フロアには石板が敷き詰めてあり、家の後ろに女学校があって、すぐ近くに石灰工場と鉄道線路が見えた。わたしはノドに病気があって、ジャバルプールのナピ町のS・G・バブラット医師の手術を受けた……などと語るのでした。  それを伝え聞いた心霊研究家のバナージーという人が調査を始め、「鉄道線路と石灰工場が見え、近くに女学校のある白い建物」という言葉を頼りにパサク家を探し当てました。ところが、家の内外の様子はスワーンラタの言と全く符合し、当主のプラサド氏に会っていろいろ話を聞いたところ、その姉だったビヤの生涯がこれまたピッタリだったのです。ただ違うところは、病気が心臓病だったことと、医師の名がバブラットではなく、バラットであったということだけだったと言います。それは霊魂の些細な記憶違いだったろうとされています。(つづく)  仏立像頭部(タンジョール出土)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる40

業の法則を実証する転生

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(40)  立正佼成会会長 庭野日敬 業の法則を実証する転生 生まれ変わりの経過は  では、生まれ変わりはどういう経過で行われるのでしょうか。人間が死んで肉体は分解しても、魂は肉体から離れて存在し続けると言われています。そしてもしそれが未純化であり、再び人間として修行をする必要のある魂ならば、その進化の状態にふさわしい夫婦の肉体を借りて母の胎内に宿り、新しい苦の人生を体験しつつ魂の進化を続けるものとされています。ですから、肉体のいのちは父母および先祖代々から受け継ぐのですけれども、魂ははるかな前世から自分のものであり、未来永劫に至るまで自分のものであるわけです。自分のものというよりは、自分自身そのものなのです。  仏教で説く業の思想もこれから出たものである。法華経の歴劫修行(何度も何度も生まれ変わって修行を続けること)によって、人格の完成へ向かうという思想も、やはりここから出ているのであります。  文化勲章受章の電子工学の世界的先駆者岡部金治郎博士は、科学者の目をもって魂の問題と生まれ変わりを研究している方ですが、その著(人間死んだらどうなるか)に、こう述べておられます。「……子供の魂は両親のそれらにはまったく関係のない外来のものであって、ある時期に宿ったことになる。その時期はよくわからないが、おそらく胎児になるかならないかのとき、すなわち、受精卵が胎児になろうとするころではないかと思われる」  また、その改訂版(人間死んだらこうなるだろう)には、次のように結論づけておられます。  「人間を含むすべての動物の主体は、魂であって、肉体は、魂が、その精神的機能を発揮するのに必要なものではあるが、主体ではない。魂から見れば、肉体は、新陳代謝によって絶えず変化している流れ者であり、またよそものであるといえよう」「人間死ねば肉体はもちろん滅亡してしまうが、しかし主体である魂の核は、単に状態が変わるだけである。すなわち活性状態から非活性状態に変わるだけであって、魂の核は生き通しのものであろう」 法華経に説かれる業報  法華経の譬諭品や勧発品に、この経を信ずる人を嘲笑したり、憎んだりする者が次の世でどんな業報を受けるかがさまざまに説かれています。人間に生まれ変わっても、諸根暗鈍であるとか、もろもろの悪重病をもって生まれる等々とあります。反対に、この経を素直に信受し、法の如くに行い、広く人に説くような人は、後の世にも善処に生じ、道を以て楽を受け、人間に生まれても利根にして智慧あり、人相も円満具足しているであろう……等々と、薬草諭品、随喜功徳品その他にいろいろと説かれています。  これらを、たいていの人は、戒めのための方便のように受け取ります。もっと悪意をもって、我が田に水を引く言葉だとか、脅迫的言辞だとか言う人もあります。それは、いずれも短見であって、業の法則・転生ということからすれば、まことにそうあるべきことなのであります。  一八七七年にアメリカのケンタッキーで生まれたエドガー・ケーシーという人は、ふとしたことから催眠状態に入って人々の前世の姿を透視する能力を得、それによって病気を治すいろいろな指示を与え、多くの人を救いました。ケーシーが透視した生まれ変わりの例は、二千五百件に及び、心理学者のジナ・サーミナラ女史がその転生例から、病気、結婚運、職業能力、家族構成等の前世的原因を分析して(超心理学が解明する転生の秘密)という著書にまとめ、全米的に評判となり、日本語訳も(たま出版)から出ています。  その本を読みますと、右に引いたような法華経の文言がなるほどと納得できる例がたくさんあります。 前世で人を水に浸した報い  例えば二歳の時から毎晩寝小便をする子がいました。母親は普通の医者から精神科医にまでかかって手を尽くしましたが、いっこうによくならず、とうとう十歳を迎えました。たまたまエドガー・ケーシーの評判を聞いた両親は、相談に行きました。ケーシーが催眠に入って透視したところ、その少年の前生は、アメリカ初期の清教徒時代、つまり魔女裁判がよく行われていたころの福音伝道師で、魔女の容疑を受けた者を椅子に縛りつけて池に沈める刑を積極的にした人であることがわかりました。人を水浸しにしたその報いが夜尿症となって現れ、自分が毎晩水浸しになったわけです。  ケーシーは、(椅子浸し)などという刑があったことなど全然知らなかったのですが、百科事典を引いてみて、自分が透視した事柄の意味を知り、少年が眠りに入る前にある暗示を与えるように両親に指示しました。その指示のとおり、母親は子供のベッドのそばに座って、低い単調な声でこう話しかけたのでした。「あなたは親切で立派な人です。あなたは多くの人を幸福にするでしょう。あなたはつき合うすべての人を助けるでしょう。あたなは親切な立派な人です」。同じ意味のことをいろいろな言い方で五分から十分ぐらい、子供が眠りかけたとき繰り返しました。  すると、その晩、九年越しの寝小便のくせはピタリとやんだのです。それから数ヵ月間、母親はその暗示を続け、その間一度も寝小便をせず、次第に一週に一回の暗示ですむようになり、遂にその必要もなくなったというのです。サーミナラ女史は、この暗示について、大切なのは「寝小便ををしてはいけない」という肉体的意識に呼びかける暗示ではなく、霊的意識ともいうべきものに暗示が向けられたことである……と述べています。  もちろん現実の生活はいろいろな要素が錯綜していますから、直ちにそのまま現れないことが多いものです。だからといって、タカをくくっていてはいけないのであって、魂には善因も悪因もそのままピシリと記録されるものと知らねばなりません。(つづく)  侍者像・婦女形(法隆寺)  絵 増谷直樹...

心が変われば世界が変わる41

心を変えて世界を変えよう

1 ...心が変われば世界が変わる  ―一念三千の現代的展開―(41)  立正佼成会会長 庭野日敬 心を変えて世界を変えよう 宇宙法に合致した大道を  今まで、数十回にわたっていろいろとお話をしてまいりましたが、とにかく、長い信仰生活を続けておりますと、仏法に不思議なしとか奇跡はないなどと申しますものの、不思議なことに出合うものであります。もちろん、それが信仰の目的ではないにしても、「なるほど、霊魂は不滅なんだなあ」といったことや、単なる常識では推し量れないような結果に遭偶して、驚かされることがあります。それはそれで素直に信仰しておりますと有難く納得できるものであります。臨終の状態から蘇生した話とか、その間に霊界らしきところに行ってきた本人の報告などを聞くことはたびたびあります。こうしたさまざまな話によって、宗教の説く教えの中で最も信じ難い(人間生き通し)ということも、ほぼ納得されたことと思います。  そこで、これまでに研究してきたことをまとめて、結論を出すことにしましょう。  一念三千の法門は、つまるところ、人間の心はどうにでも変えることができるもので、心を変えることによって仏界から地獄界までどこへでも行ける可能性があることを教えたものです。では、われわれは自分の心をどのように変えたらいいのでしょうか。一言にして言えば、真・善・美・聖の方向へもっていく努力をすればいいのです。それが、宇宙法に合致した人間の生き方の大道であるからです。その宇宙法とはどんなものか。根本の根本を言いますと――  (1)人間を含めたこの世の万物万象は、宇宙の大生命が具体的な形をとって現れたものにほかならない。従って、万物万象は元はただ一つであり、すべては同胞である。  (2)人間を含めた万物万象は、現象の上では必ず変化し、生滅する。しかし、その奥にある生命エネルギーは、宇宙の大生命の分流であるから永遠不滅である。  (3)人間を含めたこの世の万物万象は、一つとして孤立しているものはなく、すべてが相依相関、持ちつ持たれつ、生かしつ生かされつしながら共生しているのである。 真・善・美・聖をめざして  (真)というのは、このような宇宙法そのものであり、最も大きな意味の真理であります。  (善)というのは、このような宇宙法に合致した心のもち方や行動をいうのです。日常生活における善・悪は、時代や民族によって異なることも多々ありますが、この根本は不変なのです。特に(万物は持ちつ持たれつして存在している)という真実に合致する心ばえや行動が善、それに反する心や行動が悪であると断定していいでしょう。  (美)というのは、このような宇宙法に合致した自然現象や人間の造出物に対して、直観的に起こす快い純粋感情です。そういう感情を起こす最大原因は、(調和)であると言われていますが、もともとこの宇宙が大調和の世界であるからには、その一部分である個々の現象においても(調和)こそが美の根源であると言っていいでしょう。  (聖)というのは魂が清まった状態を言います。真・善・美より、さらに高次元の心霊の世界において、高い完成度を示している状態です。われわれは、この聖の世界にこそ人間の本当の価値があることを悟り、その世界にあこがれ、そこに安住したい、と望まなければなりません。聖の世界こそが、人間の達すべき最高の境地なのです。  この境地に達するためには――生まれつき純粋に素直な心をもつ人は別として――宗教によるよりほかに道はありません。宗教の教えを学び、行ずることによってこそ、こうした本当に人間らしい、価値ある人間になることができるのです。 まず布施を行ずることから  と言えば、大変難しいことのようですが、あながちそうでもないのです。前(三十七回)にも述べましたように、大乗仏教では在家の信仰者の心得の第一に「理屈はあとでいいから、まず布施を実行してごらんなさい」と教えています。布施というのは、いろんな形で人さまのために尽くすことですが、そのような行いをしますと、なんとも言えぬ快い気持になります。その気持は、物質や肉体に即した快感と違って、心が洗われるような快さです。つまり、魂が喜ぶのです。心霊が清まった喜びです(なぜ、そんな気持になるかと言えば、人さまに尽くす行為は(万物は持ちつ持たれつして存在している)という宇宙法に合致しているからです)。  現代人はあまりにも物質にとらわれた生活をしているために、この魂の喜び、心霊の清まりの快さというものを忘却し去っています。物の獲得に狂奔すれば当然の成り行きとして、他はどうなってもいいという利己心が増長し、その利己心と利己心が衝突して争いが起こり、心の安まることはありません。その争いが国家規模に拡大すれば戦争となり、獲得に狂奔した物も、金も、地位も、そして生命までも、無に帰してしまうのです。なんという空(むな)しいことでしょう。  今や、人類はそのような危機に直面しています。この危機を救うのは(人間の心)を(物に即した喜び)から(魂の喜び)へ、と転換させるほかに道はないのです。「一九八〇年代は宗教の時代である」と叫ばれているのは、そうした意味にほかなりません。  幸い仏教は、科学時代の今日の人々にもよく理解できる教えです。宇宙法にぴったり合致した教えです。多くの人がこの教えを本当に理解し、その一端でも(先に挙げた布施だけでも)行ずるようになれば、世の中はガラリと変わってくるはずです。(心が変われば世界が変わる)というのは、このことなのです。この大転回をめざして、われわれ仏教徒は不惜身命の働きをしなければなりません。それがわれわれ自身を生かす道でもあるし、日本という国を生かす道でもあるし、人類全体を生かす道でもあるのです。(おわり)  臼杵の石仏  絵 増谷直樹...

開祖(19731012A) お会式

2 ...○庭野会長 (一同 拍手) 皆さま本日はご参拝いただきまして誠にありがとう存じます。  ご承知のように、ことしは、日蓮聖人ご生誕750年という、60年の生涯をご法のためにささげられた、きょうのお会式のこの行事と致しましては、692回目だということんなっております。で、こういう行事が、わたくしどもお互いさまに、お祝いを申し上げるといっても、本来はご入滅の日でありまするから、お逮夜で涙を流すということに、情の上ではなるかと思うのであります。しかし、日蓮聖人とか、またはいろいろの、聖者といわれるようの方々は、この、生身(なまみ)の体、肉体がなくなられてご入滅になさっても、魂はいよいよ永遠の魂に、生まれ変わるというこの入滅ということのこの大きな問題は、逆に、い、永遠に生きるという生に変わっていくということで、ある意味では、も、不変の魂、不変の、お、働きということでありまして、そういう意味からいうとおめでたいともいえないことはないわけであります。しかしご入滅のお逮夜ってことですから、手放しでおめでたいだけを、おめでたいというわけにはいかんと思うのであります。  いつも申し上げますように、正法を守るという、正しい法を堅持するということはたいへん難しいことでありますが、真っ向からこの正法護持という問題を掲げられた日蓮聖人、その日蓮聖人の正直さといいますか、ひとつもその臆面(おくめん)なしに自分の信ずるところを、発表されたと。過日もバイブルの中のお話をちょっと、増谷先生の、お、法話から申し上げましたように、人間というものが本当に、信ずるところに、その信というものから義があらわれるという、義というものは信からあらわれる。その、あらわれてくる義というものをこんどは人さまに言い表すことによって救いとなると、ま、そういう言葉がバイブルにもあるということであります。言い表すということでありますが、日蓮聖人のいい表わし方は非常に痛烈でありまして、時の執権に対しても、汝(なんじ)信仰の寸心を改めて速(すみやか)に実乗の一善に帰せよ、と、こういうふうに命令をされるような、強い語気でおっしゃってるわけであります。信仰の寸心を改めなきゃ駄目だと、ま、こういうことを、お、700(ななひゃく)年前におっしゃったわけでありますが、いままた人類がたいへんそれから進歩したように一面は見えております。  科学的の問題は長足の進歩を遂げまして、日本(にほん)などでも、そのおかげで、たいへん人間の長生きということもできて、寿命の伸びたことはたいへんにもう伸びたようであります。そういう、う、一面があるかと思うと、たいへんにまたもう、お、すぐそこに危険性が来ておると、ともいえるのであります。...

開祖 (19571005A) 故恩師妙佼先生追悼説法会

2 ...○司会 ただいまは、遺族を代表していただきまして、長沼理事長さんのごあいさつをちょうだい致しました。  それでは次に、葬儀委員長としての会長先生より、ごあいさつを賜りたいと思います。(一同 拍手)  会長先生より、ごあいさつをちょうだい致します。(一同 拍手) ○庭野会長(咳払い) え、この度の妙佼先生ご遷化に対しましては、先ほど来、副委員長の柴田先生からご報告がありましたようの経路をたどりまして、(咳払い)支部長さんはじめ幹部諸氏の絶大なるご協力によりまして、滞りなく葬儀は立派に終了致しました。本日まで(咳払い)26日を数えました。なお、ただいま理事長さんからもお話がありましたように、支部長さん方によりまして、毎日お山におきまして、ご給仕をさせていただいております。  先生の思い出は、もう語れば、どこまでいっても果てしがないのであります。なお、岩船さんからも、そういうようなことがいわれましたが、先生を失いまして、まだ、20数日たちますけれども、頭の中はすっかりと整理ができませんで、先生の思い出は皆さんの前になんとか綴って、せいとうい(正当位)にお話をしなければならない、思いつつもそのことがまとまらないのでありまして、ただ漠然とこの5日のご命日に追悼会をやる、その時ごあいさつをしなければならない。こういうようなことで本日まで、日(ひ)を過ごしてまいりましたような次第でございます。皆さん方の追悼の言葉を伺っているうちに、次から次へとあれもそうであったな、そういうこともあったなと、そう思い出しておったような次第でございます。第七(だいなな)支部長さんが、会の創立当時、一緒に歩くというと、体格が違うので、わたしのあとからとぼとぼと歩くのに、駆け足のようにして一緒に歩いたと、この言葉をひとつ聞きましても、全くそうであった。しかも、先生はわたしよりお年が17(じゅうしち)も上である。現在のわたしは、ちょうど先生が交成会が始まって3年目ぐらいの時期の年である。しかるに、どこへ行くのにもいろいろ皆さん方の真心によりまして、本当に下駄を履いてとぼとぼと歩くというようなことなく、車に乗って歩かしていただいている。しかも、体格も先生よりもこれだけ大きな体格に恵まれている、こういう、るるの条件を考えましても、いかに、体をすり減らすような修行をされたか、全く無理の修行を重ねて、させてしまった。非常に求道の友として、善知識として、本当にいい師匠であり、友でありましたが、それに任せて、自分の体の血気に任せて、次から次へと無理を重ねさせてしまった。 こういうことを考えますときに、もう感慨無量でございます。...

開祖 (19580822A) 帰朝挨拶

2 ...○司会 (一同 拍手)ただいまは、理事長さんよりごあいさつをちょうだいさしていただきました。  それでは、会長先生にお願い致します。会長先生のお言葉を拝聴さしていただきます。(一同 拍手) ○庭野会長 (咳払い)皆さま、留守中をいろいろ皆さま方の、大(だい)なる和の結合によりまして、交成会は留守中といえどもますます盛んなることを、いま理事長が申されたように、新聞、または皆さまのお手紙によって聞きながら、2カ月半ものあいだを、楽々と、わたくしどもの出発の目的、所期の目的を達成のために、歩かしていただきました。  幸いに、この2カ月半のあいだに、わたくしが特に、ただ、ひと言(ひとこと)皆さまに覚えておいていただきたいということを、ここに申し上げさしていただきます。  わたくしどもは、日本人(にほんじん)として生まれたということが、無上の喜びであるということであります。  どんな南米の奥地にまいりましても、その先端に、開拓団の、いちばん先端におる方は、ほとんど日本人(にほんじん)でありました。あの広いブラジルに、すでに先端を切って日本人(にほんじん)が活躍しておる。あるブラジル人の方のお話を聞きますと、ブラジルは、建国の始まりに誤りであった、と、こういう冗談のようなことでありますけれども、非常にこれには意義があると思うのであります。もしブラジルに400(よんひゃく)年前に日本人(にほんじん)が入って建国しておったら、いまのブラジルはアメリカをしのぐような発展をしておったろうと。ところがポルトガル人によって、この建国されたことが誤りである、と、こういうようのことをブラジルのお方が、おっしやって方があるのであります。それほど日本人(にほんじん)の、開拓力、創造力、その優秀性というものをわたくしどもはつぶさに拝見さしていただきました。  わたしどもは決して、特別に日本人(にほんじん)が優位であるとか優秀であるかということを、驕慢の気持ちでこれを受け入れてはならんのでありますけれども、しかし実際において、28カ国の国民が集って、ひとつも人種の差別のないあの平等の立場において、日本人(にほんじん)の優秀性を、この50年祭の、官民一体となっての、あの大祭を通して、日本人(にほんじん)の優秀性を物語るということを、つぶさに拝見さしていただいたのであります。  どうか、わたくしどもは、この最大の喜びであるところの、日本(にほん)の国民に生まれまして、日本(にほん)の血を受けたところのわたくしどもは、いよいよ真の仏教徒として、宗教移民を今後ますます、わたくしどもの力によって正しい立派な人を、あの平等である、人種の差別のない南米に発展するときに、世界の平和をもたらす何かのお役に立つことと確信を致しておる次第でございます。  どうぞ、ますます、わたくしどものこの異体同心の精神をもちまして、法華経の教義にわたくしどもは恥じないような立派の仏徒として、仏教徒としての精進をお願い申し上げまして、簡単でございますが、ごあいさつに代えます。ありがとう存じました。(一同 拍手) ○司会 ただいまは、会長先生より親しく、お、え、拝聴さしていただきました。  それではここで、岡野教務部長さんの音頭を、いただきまして、万歳を三唱させていただきます。...

開祖 (19631028A) 核兵器禁止宗教者平和使節団帰朝報告会

2 ...○司会 (一同 拍手)ただいまは会長先生の随行されました、内田北九州教会長より、海外での会長先生の、ご、ご活躍の模様などお話しいただきました。  それでは、あー、次に、去る24日、ご帰朝されました、恩師会長先生より、ただいまからご帰朝のお言葉を賜りたいと存じます。では会長先生お願い致します。(一同 拍手) ○庭野会長 (咳払い)えー(咳払い)、本日は、本部のご命日を期して(咳払い)、今度の、渡航の報告会をしてくださるっていうので、かくも盛大に、(咳払い)この、報告会迎えたのでありますが、不幸にしてきょうは、朝から雨でございまして、40日間(よんじゅうんちかん)、旅行中は一つも雨に遭わずに、とても天候に恵まれて、時には、ヨーロッパにおいては、飛行機が、(咳払い)ロンドンに行っても降りられないで、またパリへ帰るっていうようのこともたびたびあるんだなんていうようのことを、案内の方に聞かされまして、え、そういうことになると、その先その先と予定がくるうので困ったがというようのことも、まあ、ちょっと一抹の不安も、あまりこの旅行の日程がぎっしりとしてるので、え、心配をしたのでありますが、(咳払い)バイブルの中に、いー、「信ずる者は幸いなり」っていう言葉がございますが、まあ、あ、信じて、幸いで行こうじゃないかというので、必ずお恵みをいただけるものと、ま、こう、頭で決めて出かけたのであります。幸いに信ずる者は幸いでございまして、天候には誠に恵まれたんでありますが、きょうは雨に降られてしまったのは、これはもう皆さんに報告するわたくしのサンゲでございます。ま、どうやら、それも、いま、晴れたようでございまして、外にも皆さんお立ちになっていただいているようでございますが。  (咳払い)内田さんからたいへんにどうも、会長の宣伝をしてもらって、相当高い、何かその宣伝費を差し上げたようの(一同 笑)形で、え、40日間(よんじゅうんちかん)、まあ、おいしいごちそうを共に食べたんですから(一同 笑)、え、その分で(一同 笑い)、うまくほめていただいたのかも知れません(一同 笑)(一同 拍手)。  (咳払い)このたびの、この、核兵器、いー、禁止、宗教者の、使節団という団ができたっていうことは、これはもう時が来たのでありまして、そこにたまたま、松下先生のようの、いー、立派のお方が団長である、ま、団長っていうのは、わたしども出発直前に決めたのでありますけれども、自然とそういう、リーダーをやられた方が、松下先生であったために、い、たちまちに、この、宗教界のあらゆる方が、賛同して、そして、使節団がまとまったのであります。...

開祖 (19640304A) 大聖堂入仏式

2 ...○庭野会長 (一同 拍手)(咳払い)皆さま、本日はおめでとうございます。(咳払い)待望の(咳払い)大聖堂が、本日、ご本尊の勧請というお手配まで(咳払い)、予定のとおりの進行をみまして、先ほど、委員長からのご報告にありましたように、非常に(咳払い)困難がたくさんありましたにもかかわらず、その困難を完全に克服して、着々とわたしどもの理想実現に向かって、8年間の精進が、ここに実を結びまして、久遠実成の釈迦牟尼世尊をここに勧請申し上げた訳でございます。  (咳払い)本日は、もう何を申し上げましょうか、(間)ただわたくしから申し上げることは、皆さま方の今日(こんにち)までの、ご精進に対してあつくお礼を申し上げるほかはないのであります。  (咳払い)この大聖堂は、皆さまもういろいろの角度から、今日(こんにち)まで8年間、夢の中の理想像を、どんなふうにできあがるか、そういうことであったわけでありますが、本日はそれが、すっかりと、形となって現われ、え、ただいま、錦戸先生からのお話のように、このご本尊は、え、三国仏教史にかつてない、久遠実成の釈迦牟尼世尊を、法華経の教説によるところの本尊を建立したのでありまして、どこにも、この、おー、図顕されたものは、まだかつてないのであります。  お釈迦さまの像というのはあちらにもこちらにもございますが、久遠実成の釈迦牟尼世尊を図顕したということは、かつてないのであります。  え、そういうご本尊を、わたくしどもの決定(けつじょう)によりまして、わたくしどもの真心の結集(けつじゅう)によりまして、つくり上げたわけであります。  読経(どっきょう)を致しますところの最初に、三帰依文を読誦致します。あのご文章にありますように、わたくしどもはまず第1番に、仏に帰依ということから始まりまして、え、最後には「僧に帰依」というところで三宝になるわけでありますが、その最後の三宝でありますが、こういう大きな仕事、仏さまの理想を実現するというのには、一人や二人、特定の人の力でやるというようのものでなくて、多くの人がその仏さまのご理想を、達成するという心の集まり、その精神の結集(けつじゅう)、わたくしどもの物心両面にわたっての、この献身的の努力が、本日ここに聖堂を完成させ、ご本尊の勧請という順序になったわけであります。(間)  最近に至りまして、ようやく、わたしどもの叫びが、だんだんと、政治家の胸の中にも芽生えてまいりまして、人づくり、国づくり、しかもその人づくりの根底をなすものは、道徳教育、さらには、道徳ではまだもの足らない、宗教をバックボーンとしたところの道徳教育をしなければならないと、え、そういうようなことを、だんだんと、政治家が口にするようになってくる。...

開祖 (19640515A) 大聖堂落成式

2 ...○庭野会長 (一同 拍手)(咳払い)えー、本日は、(咳払い)わたしども会員の待望の、聖堂が落成を致しまして、めでたく、この落慶の式典を挙行できますこと、皆さまとともにお祝いを申し上げます。(咳払い)  えー、本日はまた、全国各地から、ご遠路、わざわざ来賓諸先生方には、公私ともご多用の中を、ご臨席の  (聞きとれず)  かたじけのう致しまして、わたくしどものこの落成式に、錦上花を添えていただきましたことを、厚くお礼を申し上げる次第でございます。  えー、ただいま(咳払い)委員長の報告のとおり、えー、満8カ年の時日(じじつ)をかけまして、200万会員の善意によりまして、皆さんの真心によりまして、ご覧のような、聖堂が完成をしたわけでございます。  この8カ年のあいだ、信者の皆さまから、真心からなる、献金、ご協力をいただきましたその中に、素晴しい、美談がたくさんございますが、中の1、2をご紹介申し上げますと、毎日のおかず代を10円ずつ倹約をされて献金をくださる奥さん方、さらに、新聞配達をしていなさるところの少年が、その血の出るような、汗の結晶を毎月100円ずつ、この聖堂建設に奉納をしてくださる。そして、その領収書を、100円の領収書を毎月1枚ずつふえることを非常に楽しみに、心からなる布施をしていただきました、というようのお話が枚挙にいとまないほど、数々の、皆さま方の善意が、本日ご覧になっていただきますようの、この成果をおさめたわけでございます。(間)  小さな善意が、そういう心がけが、こうした大きなことを成し遂げるものであると、その人間の、輪の力、共同の力、その強さ(「つおさ」と発音)をつくづくと感じさせていただきますときに、8年間の皆さま方のご苦労に対して、衷心から厚くお礼を申し上げる次第でございます。(間)  (咳払い)この道場は、皆さまのおいでをいただきます、東のほうと西のほうと両方から陸橋がかかってございます。この橋を波羅蜜橋と名前をつけてございます。で、波羅蜜とは、わたくしども菩薩行の六波羅蜜の修行。皆さんご承知のように、その波羅蜜ということは、わたくしどもの、この此岸(しがん)、こちらの岸。わたどもの住んでいるこの娑婆国土は、非常に変化の多い、いろいろの困難の多いところとされております。で、仏さまの岸は彼(か)の岸、向こうの岸。その岸は、誠に安楽で、素晴しい極楽であると、いわれております。そういう意味で、波羅蜜橋をずーっと登ってまいりますと、この聖堂の正面においでをいただきますと、第一番に石段を上がりまして、この4階の正面には、彌勒菩薩、文殊菩薩と普賢菩薩を左右につけましたところの、壁画が、まだ未完成ではございますが、飾られてございます。...

開祖 (19760528A) シュバイツア賞受賞式

2 ...○司会 どうもありがとうございました。それではここできょう、ユニクェスト・シュバイツァー賞をお受けになりました会長先生から、ごあいさつをいただきたいと存じます。(一同 拍手) ○庭野会長 (一同 拍手)えー、(咳払い)本日は、えー、わたくしどもの教団のご命日、しかも八幡大菩薩さまのご命日のよき日に、えー、どういう関係か、えー、想像もされなかった、シュバイツァー賞の第1回の、この受賞の光栄に浴しまして、えー、どのように、この、表現してお礼を申し上げたらよろしいか、迷っておるような次第でございます。  (咳払い)え、しかし、いま、あー、このシュバイツァ賞に対しての、おー、お言葉を、おー、ラバン氏から伺いますると、えー、わたくしども佼成会員の活動が、えー、皆さま方の目に映って、えー、特に、このIRFの、おー、方々のお目にとまって、えー、そして世界中に佼成会の、お、菩薩道という、この姿勢が、ちょうどこの、うー、シュバイツァ博士の生涯の活動、それによく精神が似ておるという、えー、自ら聖なる生活を送って、そしてまた、えー、自らこの、おー、望んで他人のために奉仕をする、こういう心の姿勢でございます。これはまさに、えー、法華経の中の、「四無量心」というのがあります。慈悲、喜捨という言葉がございます。えー、方等経は慈悲が主なりといわれておりまするが、その慈悲、そして、え、他人に奉仕をすることを非常の喜びとする、この慈悲、喜捨、この四無量心の、おー、修行というものが、物語っておると思うのであります。え、そういう意味で、わたくしはこの受賞は、決してわたくしにもらったものでなくて、え、仏さまのみ教えを、自分が体験をしたことを人さまに伝え、そしてまた、その伝えられた信者の皆さまが、本当に仏さまのお説きになった理想のごとく行動をされる。そういうところが世界中の宗教者のお目にとまったということでありまして、これは決してわたくしの努力ではないのであります。会員皆さまの、菩薩道実践が、本日のこの光栄に浴したのであります。えー、よく、この、うー、人が組織をつくり、組織がまた人をつくるといわれます。えー、そういうことを考えますると、わたくしどものこの、あー、会員だけではなくて、この光栄に浴すことのできた、え、ひとつのきっかけというものを考えますると、例えば新宗連という連合体のできる、その産婆役をしてくだすったのは、新宗連、えー、この専務理事の大石秀典(おおいししゅうてん)先生が、これは日本中の新しい宗教を、宗教の目的というものは一つなので、説き方や多少の修行の方法違うけれども、それはやはり世界の平和、人類の福祉ということにあるんであろうと。...

開祖 (19780612A) 国連本部会議場演説

2 ...○庭野開祖会長 (咳払い)この特別総会が、世界宗教者平和会議の一員であるわたくしに、提言の機会を与えてくださいましたことに対し、まずお礼を申し上げたいと存じます。  わたくしは仏教徒でございますので、仏陀の言葉を引用(「えんよう」と発音)させていただきますが、仏陀はこの世界を称して、「三界は安きことなし 猶火宅の如し」と申されております。人間のあくなき貪欲(とんよく)と、それから生ずる奪い合いや争いのために、人類は自ら苦しんでいるという世界の状態を、仏陀は火宅をもって譬えられているわけであります。  事実、わたくしどもはすでに、広島、長崎において文字どおり、その火宅の苦しみを経験してるにもかかわらず、依然としてこれを反省せずにおることを、仏陀は嘆かわしく思っておるのであります。  われわれ宗教者の過去の歴史は、偏見と憎しみの歴史でありました。しかしわたくしは、宗教の目指すところは一つであるという信念をもっております。ところが、ローマの法皇パウロ六世猊下が、1965年の第2バチカン公会議において、過去2,000年の歴史をくつがえして(「くづかいして」と発音)異教徒のわたくしをお招きくださり、「キリスト教徒が仏教徒のために祈り、仏教徒がまたキリスト教徒のために祈る。宗教者がそのようにならなければ、人類に貢献する道はない」という、そのときのお言葉をわたくしは忘れることができません。  こうして、10年間にわたる宗教協力活動を積み上げた結果、世界宗教者平和会議は誕生し、その国際本部を国連の前に設置致しておるわけであります。そして現在、世界宗教者平和会議は60カ国以上の主たる宗教の代表によって組織され、戦争の放棄、さらに一歩すすめて、戦争を起こしかねない条件の排除を大きな目的として、努力を致しておるのであります。  京都で開催されました第1回世界宗教者平和会議では、「軍備に基づいて築かれた社会は、正義に基づいた社会を否定するものである。よって、軍縮の達成なくして真(しん)の平和もまたあり得ない」と、宣言を致したのであります。  わたくしども、仏教徒、神道(「しんどう」と発音)、キリスト教徒、ヒンズー教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒など、などをはじめとする世界の宗教者は、おのおのみずからの宗教的伝統を大切にするとともに、世界平和実現のために、宗教者に共通の真理、倫理的洞察に基づいて、世界の政治家が行動されんことを心から願う(「ねごう」と発音)ものであります。  かかる観点から、世界宗教者平和会議は国連の諮問機関として加盟し、わたくしどもの事務総長ホーマー・ジャック氏は、国連本部に、いー、(咳払い)本部の軍縮、NGO委員会の発足(「はっそく」と発音)以来、その議長を務めているわけであります。...

開祖 (19790411A) 1979年度テンプルトン賞受賞記念講演会

2 ...○庭野開祖会長 (一同 拍手)(咳払い)ご来賓の皆さま、議長、(咳払い)そして紳士淑女の皆さま、このたびわたくしは、(咳払い)はからずも、素晴らしい、テンプルトウしんを、(咳払い)テンプルトン賞をちょうだい致しましたが、世界には、わたくしよりはるかにすぐれた宗教上の、業績をあげられた方々がたくさんおられますにもかかわらず、わたくしに受賞の光栄を賜りましたことを、心から感謝を申し上げる次第でございます。と同時に、わたくしとともに世界宗教者平和会議のために、過去10年間にわたって協力してくださった同志の方々の賜物であることを、特に申し添えておきたいと存じます。  講演に当たって、まず申し上げておきたいことは、わたくしは学者ではございません、え、ただ仏陀(ぶつだ)の教えのままに実践している一(いつ)仏教徒にすぎないということであります。そのわたくしが、いま、足りないながらも、人びとの幸福と世界の平和のために、努力のできえました、ことは、少年時代に受けた祖父からの影響であるということであります。  わたくしは、日本(にほん)の北部にある新潟県の山の中の寒村に育った者でありますが、わたくしをかわいがってくれました祖父が、どんな小さな虫でも、自分で食べるぐらいのことはしているではないか、まして、人間として、生まれたからには、世のため人のために役立つ人間にならなければいけない、ということを常々わたくしにいい聞かせるとともに、自らも村びとの苦しみ、悩みのために献身しておりました。その祖父の言葉と、姿がいつしかわたくしの意識の底にしみこんだのでありましょう。のちにわたくしをして宗教の世界に目を向けさせる要因となったことは確かでございます。  さて、現在のわたくしの精神的な土台となっているものは、申すまでもなく、仏陀(ぶつだ)の教えであります。菩薩としての使命感であります。ところが、仏教のいちばん根本の教えとなるものは、三法印であるといっても過言ではございません。その三法印とは、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、この三つを申します。その第1番目に諸行無常とは、一切の、現象は時々刻々に変化をするということであります。心も物質も、固定、不変と見える木や石さえも、常に変化をして、えー、おります。えー、物質の究極のものとして、不変と思われておりました原子でさえも、その内部では、常に動き、変化していることが、近代科学によって明らかにされております。  ましてや、わたくしどもの体もまた、時々刻々に変化をしてることは申すまでもありません。 とは申せ、人は老い、やがて滅する、そのような、はかない、意味での変化を中心に仏陀(ぶつだ)は、この諸行無常を説かれたのではありません。...

開祖 (19820624A) 第2回国連軍縮特別総会

2 ...○庭野開祖会長 (一同 拍手)(咳払い) えー、(咳払い)わたくしは、第1回国連軍縮特別総会において、(咳払い)世界宗教者平和会議を代表して、時のカーター大統領とブレジネフ書記長両閣下に対し「戦争のために危険を冒すよりも平和のために危険を冒すべきである」との勧告を行いましたにもかかわらず、世界の危機状況はますます深刻化しつつあります。そして、本日再び国際自由宗教連盟の会長としてお話をする機会をお与えくださいました国連関係者に感謝の意を表するとともに、軍縮に向けて努力される国連の使命を高く評価するものであります。  20カ国、46加盟団体を有するIARFは、人びとの国連支持教化を目指し、さまざまな活動を行ってまいりました。このIARFを代表して、また世界唯一の原爆被爆国日本(にほん)の仏教徒として、わたくしが世界の人びとに訴えなければならないことの第一点は、核兵器が配備されたいま、戦争の意味がまったく一変してしまったということであります。  これまでの戦争には、当事者双方になんらかの正当性を主張し得る根拠を見つけることができました。しかし、核戦争がもたらす恐るべき破壊と殺戮(せつりく)の前には、どのような正義も不正義も吹っ飛んでしまいます。生き残る者のない戦争に勝者も敗者もありません。傍観者であることさえも許されません。あるものは生命の尊厳に対する冒涜、ただそれだけであります。そのことをわたくしたちは広島、長崎によってまざまざと見せつけられたのであります。広島と長崎の犠牲者は、人類が3発目の原爆を絶対に使ってはならないことを教える殉教者でありました。  人類が生き残るためには核兵器を廃絶する以外にはないということも、1年間に使われる6,000億ドルもの巨額の軍事費の一部を開発途上国の援助に回すことによって、世界の飢餓と貧困をなくし得ることをもすでに周知のことであります。  過日、フランスにおいて開かれました先進国首脳会議は、増大をする、世界不況に対する処方せんとして、新技術開発の必要性を強調致しました。しかし、それは武器のための技術開発であってはならず、あくまでも人びとの生活を潤す技術革新でなければならぬことは当然であります。とはいえ、人びとの生活を変えるような目ぼしい技術革新は、いうはやすく、実現はここしばらく望むべきもないというのが実情であります。わたくしは、このサミット会議が、ベルサイユ宮殿の打ち上げ花火に過ぎないといわれるゆえんはここにあると思うのであります。 なぜならば、この会議が単なる希望表明に終わり、世界不況の根本的原因である超大国の軍拡中心の経済政策、及びアメリカの高金利政策に対し、その是正を促すことがなかったからであります。...

開祖 (19830407A) 第1回庭野平和賞贈呈式

2 ...○司会 それでは、あ、ここで、えー、財団の、おー、庭野総裁から、あー、ごあいさつをちょうだいしたいと思います。庭野先生どうぞ、よろしくお願い致します。 ○(一同 拍手) ○庭野開祖会長 第1回庭野平和賞の授与式を挙行するに当たり、当財団総裁として、ひとことごあいさつを申し上げたいと存じます。  まず初めに、わたくしが申し上げたいことは、この地球が、全く新しい時代を迎えているということでございます。世界の片すみで起こった事件も、ニュースとしてたちまち世界中に知らされますし、どんな局地的な紛争さえもが、なんらかの形で他の多くの国々に影響を与えるという時代であります。  また、人口の増加に反比例(「はんひれい」と発音)して、地球の資源は枯渇し、枯渇しつつあるという事実。さらには富の偏在するいつぽうで、餓死線上の人々が多数存在するという事実。あるいはまた人権抑圧や差別。そして核の脅威など、わたくしどもの胸を痛める様相は、この地球上に至るところに顕著に現われております。  かつてわたくしどもは、戦争のない状態をもって平和と呼んでおりましたが、もはやそのような概念では、とうてい平和を語ることはできない時代になっているのが実情であります。  したがって、非人間的なあらゆる扱いを消滅させ、人間の心に平安をもたらし、世界の平和を創造するために努力することが、宗教者の平和観でなければならぬとわたくしは確信致しておるのでございます。そのためには平和の担い手であるべき宗教者が、互いの壁を取り払い、一つのテーブルに着かねばならない。そして具体的に何をなすべきか、何ができるかを真剣に語り合わねばならないというのが、わたくしの多年の思いであったのでございます。  そしてこの思いは、1965年の第2バチカン公会議に招かれ、パウロ6世猊下にお会いしたときに、ますます強まったのであります。そのとき猊下は、「いまやキリスト教をはじめとして諸宗教が分裂しているときではない。キリスト教徒が仏教徒のために祈り、仏教徒がキリスト教徒のために祈る。そのようにならなければ、宗教者として世界の平和に貢献する道はない」と申され、わたくしに宗教協力について熱心に語りかけられたのをわたくしはいまは、いまもはっきりと覚えておるのでございます。  こうして世界平和を念願する宗教者が、一堂(「いつとう」と発音)に会するという世界宗教者(咳払い)会議の開催への期待は、わたくしの胸の中にいよいよ高まり、ついに1970年、京都において第1回世界宗教者平和会議をもつことができたのであります。 わたくしは、本日受賞されましたブラジルのヘルダ・カマラ大司教さまにお会いしたのは、実にそのときであったのであります。...