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人間釈尊(37)
立正佼成会会長 庭野日敬

仏陀と菩薩の微笑

衆生を愛するが故の微笑

 後世の仏伝作者や経典編集者は、お釈迦さまを神格化するあまり、いつも謹厳そのもののようなお顔をしておられたように伝えていますが、事実はもっと柔らかな心の持ち主で、よく微笑されたようです。その証拠は仏像にも現れており、中国の北魏(ほくぎ)や日本の飛鳥(あすか)時代の如来像はお口もとに神秘的な微笑をたたえておられます。
 僧伽羅刹(そうぎゃらせつ)所集経というお経には仏身の妙相を非常に詳しく述べてありますが、その二十二番目に「微笑(みしょう)」という一章があるくらいです。そこには次のように述べられています。
 「世尊かくの如く笑みたもう。かくの如き因縁をなすは、本行のなすところ、衆生を憐れむがゆえに、すなわちかくの如き笑みを現ず」
 つまりお釈迦さまは、前の世からずっと積んでこられた衆生を憐れむ行いの因縁によって、自然と微笑を現される……というのです。また、こうもあります。
 「仏の笑むを見るに、塵垢なく、清浄にして瑕(か=きず)なし。本(もと)修行するところ、また虚言なし」
 口もとに現れる笑いにもいやらしいのがあります。ニヤリとする皮肉な笑い。相手を侮蔑するようなニタニタ笑い。そんなものではなく、お釈迦さまの微笑はまったく心の底からの、純粋なものだったのです。というのは、長い間の修行によって円満なご人格が完成され、そのご人格から自然と発する微笑であるからそこに嘘いつわりは微塵もない……というわけです。
 それらの具体的な現れが、大般若波羅蜜多経第五百六十五にあります。すなわち……
 世尊のお説法を聞いて感激した六百人の比丘たちが、歓喜をあからさまに爆発させて花々を散じ、世尊に向かって合掌しました。そのとき世尊はニッコリと微笑されました。阿難が、
 「いま世尊はニッコリなさいましたが、どういうわけでお笑いになったのですか」とお聞きすると、こうお答えになりました。「このもろもろの比丘たちは、これから星の数ほどの年月を経たのち仏となることができる。そのことが目に見えてきたから、思わず笑みを浮かべたのである」。
 まことに「衆生を憐れむがゆえに」……。お弟子たちを心から愛されるがゆえの微笑だったのです。

微笑しつつ使命感を自覚

 仏さまでもこのとおりです。ましてや、そのお使いとして直接一般大衆に接している菩薩ともなれば、なおさら「和顔愛語」を心がけていなければなりますまい。
 ですから、華厳経第五十九に、世尊は「仏子よ、菩薩摩訶薩は十事をもってのゆえに微笑を示現して心に自ら誓う」とお説きになり、その十の事柄をお示しになっておられます。
 その第一に「世間の人たちは欲望の泥の海の中で苦しみもがいている。そういう人たちを救うのが自分に課せられた使命だと、微笑しながら自ら誓うのである」とおおせられています。
 菩薩とは、自分も仏道を修行しながら、人々を救い、世の平和化のために挺身する人間をいうのですが、その使命を自覚すれば、往々にして歯を食いしばるような悲壮感をもって活動に立ち向かう人があります。それも決して悪いことではないでしょうが、お釈迦さまのご真意としては、「もっと柔軟な、楽しい気持ちで、微笑と共に教化活動をしてほしい」とお考えになっていたのではないかと思われます。
 後世のわれわれ仏教徒にとって、非常に大事なお示しではないでしょうか。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎

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