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仏教者のことば26

畏れとは、人間を越えたもの、絶対者--神や仏--に対する畏怖心。一方、水、空気、光に対する畏敬の感情です。近代化はこの畏れをなくする方向に進んだ。ドイツの哲学者ニーチェによって、「神は死んだ」と言われたわけです。  東昇・日本(…

1 ...仏教者のことば(26) 立正佼成会会長 庭野日敬  畏れとは、人間を越えたもの、絶対者――神や仏――に対する畏怖心。一方、水、空気、光に対する畏敬の感情です。近代化はこの畏れをなくする方向に進んだ。ドイツの哲学者ニーチェによって、「神は死んだ」と言われたわけです。  東昇・日本(人間が人間になるために) 人間の傲慢さへの反省  東昇(ひがし・のぼる)元京都大学教授(故人)は、日本ウイルス学会会長、日本電子顕微鏡学会会長として、著名な学者でした。若い時に『歎異抄』を読んだことから、深く仏教に帰依し、科学者でありながら、「真の生命は肉体が滅びたあとにある」と言明してはばからぬ人でした。  現代の危機は、人間が人間自らを絶対化し人間以上の存在との関係を見失ったところにあるとし、もっと自然を知ること、自然を大切にすること、「畏れ」の感情を取り戻すことが急務である――と常に強調し、「人間が人間を過信し、傲慢な優越感にとらわれぬこと。換言すれば、人間のもろさに対する想像力を持つこと」という名言をも残しておられます。  まことに、最近の人類は、水や空気の汚染、地球の砂漠化、異常気象等々によって、人間の傲慢さを反省し、人間のもろさを痛感するようになっているのです。 「修慧」が何より大切  古代の日本人は自然と密着して生活していましたので、自然を畏敬する感情を十分に持っていました。木にも神が宿り、水にも神があり、太陽も神であると信じていました。現代人にそんなことを言えば鼻で笑うかもしれませんが、それならば、神という言葉をいのちという言葉に置き換えれば、とたんにそのせせら笑いも消えてしまうでしょう。心ある人ならだれでも、水にもいのちがあり、空気にもいのちがあり、太陽の光もいのちの源であることを信じて疑わないでしょう。  ですから、いまの大人(おとな)たちの間には、自然を大切にしようというキャンペーンが起こりつつあります。嬉しいことです。しかし、その精神を自分自身の暮らしの上に、どれぐらい実践しているかということになると、大きな疑問が残るのです。  仏教では三慧(さんえ)ということを教えています。第一は聞慧(もんえ)。聞いて得る智慧、学んで得る智慧です。第二は思慧(しえ)。自分で考え、思索して得る智慧です。第三は修慧(しゅえ)。これは自ら実践してみて初めて身につく智慧のことです。現代人はたいてい教養が高くなっていますので、聞慧と思慧の点ではある程度信頼できます。しかし、第三の修慧となると、どうも心もとない気がしてなりません。  いちばん心配になるのは、次の世代を担う子供たちのことです。水は蛇口をひねれば出るもの、光はスイッチを回せばつくものと、万事そういう育ち方をしていて、すべてのものに存在するいのちを畏敬する心が養えるでしょうか。ましてや、いのちの根源である絶対者に対する畏敬の念を持つ、人間らしい人間に育つものでしょうか。  二十年前の旧著『無限への旅』にも書いたように、都会の子供には田舎の生活を経験させるのが最も大切な教育だというのがわたしの持論です。そういう田舎を持たない人はキャンプにでも連れていくといいでしょう。水は谷川まで汲みに行かねばならない。火は木々が落とした枯れ枝で起こさねばならないとなると、否が応でも自然の大切さが身にしみるはずです。そこから、目に見えぬ絶対なものに対する畏敬の念も生じてくるでしょう。これが修慧にほかならないのです。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば27

過去に法華経の行者にてわたらせ給えるが、今、末法に船守の弥三郎と生れかわりて、日蓮をあわれみ給うか。  日蓮聖人・日本(船守御書)

1 ...仏教者のことば(27) 立正佼成会会長 庭野日敬  過去に法華経の行者にてわたらせ給えるが、今、末法に船守の弥三郎と生れかわりて、日蓮をあわれみ給うか。  日蓮聖人・日本(船守御書) 信仰は最高至上の情操  「人間は感情の動物である」という言葉があります。そういえば、われわれの人生から感情とか、情緒とか、情操というものを取り去ることは絶対にできません。信仰というものも、つまりは最高至上の情操ですが、これはいちおうさしおいても、人を愛したり、なつかしく思ったり、感謝したり、大自然の素晴らしさに感動したり、とにかく美しい感情・情緒・情操の波立ちがあってこそ、われわれの人生はいきいきとした、生きがいあるものになるのです。  聖者といわれる人々も、やはり同じだと思います。仏の悟りを開かれたお釈迦さまでも、人々の供養には感謝され、苦しみ悩んでいる人には心から哀れとおぼしめされ、舎利弗や目連の死に遭っては大勢の比丘たちの前で「寂しい」と口に出してお嘆きになりました。どんなことがあっても冷静氷のごとく、感情ひとつ動かさないような人があったらそれは人間とはいえますまい。  ところで、インドや中国や日本などの仏教者には、偉大な人物が数々ありますが、感情の波立ちが激しく、そしてそれを率直に表現された点において、日蓮聖人ほどの方はなかったのではないでしょうか。とりわけ、弟子・信者たちに対するやさしさ、思いやり、感謝、それらをなんのてらいもはばかりもなく、ご消息(しょうそく=手紙)に書き送っておられるその人間味に、われわれは無限のなつかしさを覚えずにはおられません。  ここに掲げたのは、伊豆の一漁民・弥三郎に送られた手紙の一部です。時の執権北条長時は何の理由もなく聖人を召し捕り、由井ヶ浜から船で伊豆へ流そうとしました。伊東沖にさしかかった時、波風がにわかに荒くなりましたので、役人どもは海岸から離れた平たい俎岩(まないたいわ)の上に聖人一人を置き去りにして引き返してしまいました。潮はだんだん満ちてきて、そのままでは聖人のお命はなかったでしょう。  その時、浜へ急ぎ帰る漁船が通りかかり、聖人をお助けしたばかりか、きびしい幕府の目をくぐって岩穴にかくまい、女房もろとも朝夕の食事を運び、ご供養したのでありました。 愛し合う人あってこそ  この文の前後を補えば、次のようになります。  「船より上り苦しみ候いきところに、ねんごろにあたらせ給い候し事は如何なる宿習(宿世の因縁)ならん。過去に法華経の行者にてわたらせ給えるが、今、末法に船守の弥三郎と生れかわりて、日蓮をあわれみ給うか。たとい男はさもあるべきに女房の身として食をあたえ、洗足、手水(ちょうず)、其外さも事ねんごろなる事、日蓮はしらず、不思議とも申すばかりなし。(中略)ことに五月の頃ともなれば、米も乏しかるらんに、日蓮を内内にてはぐくみ給いしことは、日蓮の父母の伊豆の伊東、川奈というところに生れかわり給うか。云々」  この「過去に法華経の行者であられたのか」、「日蓮の父母の生まれかわりか」といった言葉には、感謝の真情が惻々(そくそく)と籠っていて、われわれの胸を打ちます。  またある時、愛弟子四条金吾に「そなたが仏果を得るならわたしも共に仏果を成じよう。もしそなたが地獄へ行くならばわたしもまた地獄へ行こう」と申されておりますが、人間と人間との心のつながりの深さは、ここに尽きると言ってもいいでしょう。  このように愛し愛される人を持たずにどこに人間と生まれたかいがあるでしょうか。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば28

人のかくす事をあからさまにいう。  おしはかりの事を真実になしていう。  いきもつきあわせず物いう。  このんでから言葉をつかう。  学者くさきはなし。  良寛禅師・日本(良寛禅師戒語)

1 ...仏教者のことば(28) 立正佼成会会長 庭野日敬  人のかくす事をあからさまにいう。  おしはかりの事を真実になしていう。  いきもつきあわせず物いう。  このんでから言葉をつかう。  学者くさきはなし。  良寛禅師・日本(良寛禅師戒語) 現代人こそこの戒めを  これらの言葉は、良寛さんが折に触れて、心やすい人たちに書き与えた話し方の戒めを、晩年の弟子であった貞心尼が書いた『蓮の露』という本の中に集めたものから抜き出したものです。戒めといえば、いかにもいかめしく、良寛さんの人柄に似つかわしくない感じがしますので、むしろ「こういう話し方はわたしは好きでない」という程度に言われたものと受け取ったほうがよさそうです。  といえば、良寛さんの主観に過ぎないようですけれども、そうではありません。二十世紀末のわれわれにとって、まさにピシリと当てはまる痛切な教訓なのであります。  「人のかくす事をあからさまにいう」  たとえば週刊誌などが、どうでもいいような芸能人等のかくしごとを書き立てるのも、それでしょう。週刊誌は、かりにも「公器」と名づけられるものだから許されるのかもしれませんが、もし個人がこんなことをしたら、たちまち「下品な人間」というか「安心できない人」といわれるでしょう。  「おしはかりの事を真実になしていう」  新聞・雑誌などでも特ダネ扱いで、よくこんなことをやりますが、個人だとそれを聞く人の範囲が狭いせいか、ウヤムヤになってしまうことが多いのです。しかし、そんな無責任なことを言えば、つまりは自分自身の人格(誠実さ)を傷つけるのです。心に刻んでおきたいことです。 今流行の話し方への反省  「いきもつきあわせず物いう」  これがいま若い人たちの間で流行しています。テレビやラジオの影響でしょう。テレビやラジオは分刻み、秒刻みの仕事ですから、いわゆるタレントはつい早口で、息もつかず物を言います。一般の人がそんな話しぶりを真似ると、いかにも軽薄な、はしたない感じを人に与えます。友だちとの雑談ぐらいなら構わないでしょうが、仕事の上とか、相談ごととか、人を説得しなければならぬ大事な用件のときそれをしたら、こちらの意思がハッキリ伝わらぬばかりか、相手の軽蔑を買うという大きな損失を招きましょう。  適当な間(ま)を取り、一語一句に心をこめて話しますと、言外にこちらの誠意が相手の胸に響き、そこに説得力が生まれるのです。  「このんでから言葉をつかう」  から(唐)言葉は、今日でいえば外来語です。世界は狭くなりましたから、たとえばワンピースのように日本語になってしまったのや、デジタルのようにそのままのほうが通用する語はどしどし使っていいでしょうが、話す相手が理解できないような外国語を連発するのは、失礼であるばかりでなく、鼻持ちならぬ感じを与えます。良寛さんの時代にもそんな人がいたのでしょう。  「学者くさきはなし」  学者臭い、通人臭い、宗教家臭い、とにかく「臭い」のは必ず反感を買います。布教の時など、よほど気をつけたいものです。  教養人でありながら、そして、タレントに類する人でありながら、以上の戒めを自然に守っている好例は、日曜の朝の「世界の旅」の兼高かおるさんの話しっぷりです。昔の日本婦人の淑(しと)やかさと、現代女性の歯切れのよさとユーモアを兼ね備えた、じつに美しい日本語を話す人だと、いつも感心して聞いています。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば29

道心の中に衣食(えじき)あり、衣食の中に道心なし。  伝教大師最澄・日本(遺誡十五個条)

1 ...仏教者のことば(29) 立正佼成会会長 庭野日敬  道心の中に衣食(えじき)あり、衣食の中に道心なし。  伝教大師最澄・日本(遺誡十五個条) 万人に通ずる生活意識  比叡山延暦寺を建て、法華経を中心とした日本仏教の源流となられた伝教大師は、ご自分の寿命がもはやあまり長くないと悟られた時、弟子たちのために十五個条の遺誡(かい)を定められました。右は、その中で最も有名な一条です。  心の底から仏の教えを信じ、仏道を世に広めていこうという決意さえ持っておれば、日常生活の資は必ず調(ととの)ってくるものである。反対に、いい衣(ころも)を着たい、うまい物を食べたいといった物質生活に心を引かれていたのでは、仏道に帰依する心も、世の人々をその教えに導きたいという情熱も、しだいに薄れてしまうのだ。くれぐれも気をつけなさい……というのです。  これは、出家の弟子たちに与えられた戒めではありますけれども、在家の信仰者にもそっくりそのまま当てはまるものです。いや、信仰を持たぬ普通人にとっても、やはり大事な心がけだと思うのです。つまり、道理にかなった、正しい心を堅持していさえすれば、衣食の道は必ず通じてくるのです。事実そのとおりであって、わたしどもの会員の方々の生活がそれを実証しています。そのような人ほど暮らしが幸せになるのは、まったく不思議なほどです。  反対に、きれいな着物を着たい、ぜいたくな料理を食べたい、立派な家に住みたい……といったことばかりに心を奪われている人は、そのためにいつもあくせくした気持でいます。そのような望みが百パーセントかなえられるはずはありませんから、つねに欲求不満をいだいてイライラしたり、人をうらやんだり、ほんとうの心の安らぎは得られないのです。  その程度にとどまっているうちはまだいいのですが、ともすればそれが高じて無理な借金をしたり、汚職に走ったり、詐欺的な商売をしたりして、自分自身を破滅させるばかりでなく、家族をも泣かせ、多くの人々にも迷惑をかけてしまうのです。まことに、「衣食の中に道心なし」なのであります。 真の人間は霊性に生きる  中国の管子(かんし)のことばに「衣食足って礼節を知る」というのがありますが、これは常識的な観察であって、宇宙の真理とか、神仏の実在とか、それらと人間の霊性とが深くかかわり合っているという所まで、踏み込んではおりません。右の伝教大師の言葉には、そうした深い真実がこもっていることを知るべきです。  同じ中国のことばでも、「天道人を殺さず」のほうが、はるかに胸の奥に響くものがあります。自らも正しく生き、他に対しても愛情をもって尽くすような人間を、天がほうっておくようなことはないのだ……というのです。霊性に生きようと志す者の勇気を鼓舞する言葉であり「道心の中に衣食あり」と相照らす名言だと思います。  イエス・キリストの「人はパンのみに生くるものにあらず」という言葉もそれに匹敵する金言です。イエスが荒野の中で試練に合ったとき、堪えきれぬほどの空腹に苦しんでいました。  その時悪魔が現れて「なんじがもし神の子ならば、この石をパンに変えてみよ」と言い、イエスを物への誘惑で堕落させようと試みました。それに対して決然と言い放(はな)たれたのがこの言葉です。  東の人も、西の人も、みんな同じです。ほんとうの人間らしい人間は、物よりも心で生きるのです。これは聖者・高僧ばかりではありません。われわれ庶民も、ギリギリのところではそうでなくてはならないのです。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば30

人のかなしみ時には擔(にな)い  よろこびを人に送りて  みづからをむなしくはする  女人(にょにん)われこそ観世音ぼさつ  岡本かの子・日本(岡本かの子全集・九巻)

1 ...仏教者のことば(30) 立正佼成会会長 庭野日敬  人のかなしみ時には擔(にな)い  よろこびを人に送りて  みづからをむなしくはする  女人(にょにん)われこそ観世音ぼさつ  岡本かの子・日本(岡本かの子全集・九巻) 観音経の好きだった人  かの子女史は、岡本太郎画伯の母堂、明治から大正にかけて傑出した歌人・随筆家・小説家として華やかな生涯を送りましたが、じつは深い内省の人で、仏教に対する理解と帰依も並々ならぬものがありました。その全集(冬樹社刊)全十五巻の中でも、九巻と十巻は仏教論で占められています。  仏教経典の中でも法華経が、法華経の中でも観音経(観世音菩薩普門品)がいちばん好きだったようで、全仏教論の中でも『観音経』が最も光っています。その中で、こういうことを言っています。  「折伏門(しゃくぶくもん)というのは徹頭徹尾不良の箇所を指摘しこれを叱り伏せて嬌め直そうとする消極的方法であります。摂受門(しょうじゅもん)というのは、褒め励ますことによって自信に導こうと企つる積極的手段であります」  (庭野注・折伏を積極的と考えている人が多いが、その反対の意見がおもしろく、しかもそれが正しいと思う)  「(法華経の)他の品では、いくら慈門が開かれてあっても、必ず多少の折伏門が含まれているのであります。含まれていないのは無いのであります。つまり信仰及び理解に就いてのお叱言(こごと)や注意や教習が必ず含まれているのです。ところが、普門品は徹頭徹尾、摂受門であります。極端に言えば、甘やかし一方です。ねだれば与え、頼めばして呉れる。叱言や教戒は絶対に言わない。  (中略)  其処を大層面白く感じまして、私自身他の経典では可なり叱られたり、考えさせたり、頭を絞ったりさせられつけていますので、まるで厳格な寄宿舎から、日曜日に母親のところへ戻るような気持でこの品に入って行きます」 婦人に観世音菩薩の心を  あらゆる仏・菩薩の中で、観世音菩薩ほど素朴な庶民に親しまれ、慕われ、信仰されているお方はないでしょう。インドを初めとする東南アジア諸国を回ってみますと、仏像といえば、ほとんどお釈迦さまと弥勒菩薩と観世音菩薩です。現世利益の霊験物語の多いのは観音さまが随一です。ですから、観世音菩薩普門品は法華経二十八品の一品なのに、『観音経』という独立した経典のようにして信仰されているのでしょう。  さて、観音さまは女性なのか男性なのか、よく問題になります。通説では、どちらでもない象徴的な存在だ、ということになっていますが、周兆昌(中国)という人の『観世音菩薩伝』には、ヒマラヤ北方の一国の王女として生まれ、深く仏法に帰依し非常な霊力の持ち主となり、多くの人々を救った実在の女性であると、その来歴が詳しく記されています。  観世音菩薩の絵像がすべて女性の顔貌や姿態に描かれていることから、女性説のほうが有力のようです。しかし、その外形はともあれ、本来の女人が持っている無私の母性本能、人を温かく抱き取る心、細かいところまで手の行き届く愛情の表現、それこそまさしく観世音菩薩であると思います。  この観世音菩薩の本性が、現代の女人から失われつつあるのではないか。とすれば、男性にとっても、子供たちにとっても、世の中全体にとっても、たいへん悲しいことだと思います。かの子女史が激越な口調で、  女人われこそ観世音ぼさつ と言い切ったこの歌を、世の多くの婦人方に深い心で読み返してもらいたいと願われてなりません。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば31

念仏の機に三品(ぼん)あり。上根は、妻子を帯し家に在りながら、著(じゃく)せずして往生す。  一遍上人・日本(一遍上人語録)

1 ...仏教者のことば(31) 立正佼成会会長 庭野日敬  念仏の機に三品(ぼん)あり。上根は、妻子を帯し家に在りながら、著(じゃく)せずして往生す。  一遍上人・日本(一遍上人語録) 仏法は心にあるのだ  時宗の開祖一遍上人は伊予(愛媛県)の豪族の出だけあって、どこか激しい気性を持っておられたようで、その言行には世間のおもわくなどはばからぬ、堂々たるところがありました。  この言葉にしても、「念仏者の素質には上中下の三種がある。最上は、妻や子があり、家で普通の生活をしていながら、それに執着せずに極楽往生する人である」という意味です。この後に「自分は下根の者であるから、一切を捨ててしまわなければ、臨終のときにいろいろな事に執着して往生しそこなうだろうと思うから、このように出家して行をするのだ」と言っておられます。  ある人が「経典には俗生活を棄てるのが上々であるとありますが、それと相違するのではありませんか」と聞いたところ、「いや、一切の仏法は心のありようについて説いてあるのだ。外に表れた姿のことを言ってあるのではない」と答えられました。よくよく味わうべき言葉だと思います。  一遍上人は十歳で母を失い、十三歳のとき九州太宰府に行き、法然上人の孫弟子に当たる聖達というお坊さんについて出家し、そこで十二年間修行しました。そして、どういうわけか郷里に帰って俗人の生活に返り、愛人と同棲しましたし、子供もできました。そして、再び出家して旅に出るときは、その愛人は小さな娘と共に尼となってその後について行きました。しかし、その母娘は紀州の熊野で捨てられてしまいました。このように、一遍上人の前半生は聖と俗が入り混じっており、その俗を一つ一つ捨てていってきびしい聖の世界へ入って行かれたように思われます。 身を捨てても風は寒い  聖の世界に入っても、一遍上人の救いの対象は一般大衆でありました。何も難しいことは説かず、「念仏を唱えなさい」と教えるだけでした。また、鐘を叩き、念仏を唱えながら輪になって踊るという念仏踊りをさせました。当時の僧侶たちは仏教の品位を落とすといって非難しましたが、庶民はそれによってひとときの法悦を味わうことができましたので、たしかに仏教の本義ではないにしても、救済の方便の一つだったといえましょう。  こうして上人の後半生は、日本国中を遍歴しながらの大衆教化に明け暮れたのでした。上人の徳を慕う人々は、そのあとについて旅して歩きました。当時は、野盗が各地に出没して、旅人もずいぶん襲われたのですが、上人の一行だけは、一度もそんなことがありませんでした。全国の盗賊仲間に「あのご上人の一行に手を出してはならない。そんなことをしたら制裁を加えるぞ」という禁戒がゆきわたっていたのだといいます。それぐらい、上人は一般庶民に、とりわけ下層階級の人々に慕われていたのでした。  一遍上人は中年のころ、心地覚心という禅僧に禅を学びましたが、なかなか印可(覚ったという証明)を与えられませんでした。ところが、師のもとを離れて一年後にふたたび訪れ、  すてはてて身はなきものとおもいしにさむさきぬれば風ぞ身にしむ  という歌を呈したところ、初めて印可を下されたといいます。身を捨て去っているつもりでも、寒くなれば風が身にしみる……つまり、それが人間のありのままであって、そのありのままに徹したところが認められたのでしょう。とにかく一遍上人は、われわれ在家の信仰者の心にしみじみと通ずるものを持った方でありました。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば32

 妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁(にごり)にしまぬ蓮(はちす)のごとくにして、決定(けつじょう)往生うたがいあるべからず。  恵心僧都源信・日本(横川法語)

1 ...仏教者のことば(32) 立正佼成会会長 庭野日敬  妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁(にごり)にしまぬ蓮(はちす)のごとくにして、決定(けつじょう)往生うたがいあるべからず。  恵心僧都源信・日本(横川法語) 母の教えにより解脱  恵心僧都(えしんそうず)源信は大和国の生まれで、十五歳以前に出家し、比叡山の横川(よかわ)で学道に精進し、教義を論ずることにかけては並ぶ者がないというほどになりました。  ある時、朝廷に招かれて論議に列席し、いろいろな頂戴物をしました。その中からいい物を選んで故郷の母に送ったところ、母はもともと真の道心の持ち主でしたので、「お前の贈り物は嬉しいには嬉しいが、わたしはお前が僧侶として晴れがましい出世を望んではいないのです」という手紙をよこしてきました。  この思いがけない手紙に強く教えられた源信は、それ以後、ずっと山に籠って修行をし、一生涯、少僧都という低い位にとどまりました。しかし、信仰者としての境地は極度に高まり、その主著『往生要集』は現在でも名著として広く読まれ、また中国にも弘まって、周文徳という僧などは「小釈迦源信如来」と賛歎したほどでした。この母にしてこの子あり。今の世のお母さん方にぜひ知って頂きたいエピソードです。  さて、『横川法語』は、わが国で最初に書かれた仮名まじりの法話で、主著『往生要集』のエキスともいうべき名短編です。ここに掲げた文章の前後を補って、現代語訳してみましょう。  「妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり。臨終の時までは、一向妄念の凡夫にてあるべきぞとこころえて念仏すれば、来迎(らいごう)にあずかりて蓮台にのるときこそ、妄念をひるがえしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁にしまぬ蓮のごとくにして、決定往生うたがいあるべからず。妄念をいとわずして信心のあさきをなげき、こころざしを深くして常に名号を唱うべし」 ほとばしる純粋さこそ  【現代語訳】 仮の存在を実在と思う妄念はもともと凡夫それ自身の心である。妄念のほかに別の心はないのだ。臨終の時まではずっと妄念の凡夫なのだと心得ながら念仏すれば、阿弥陀如来のお迎えを受け蓮のうてなに乗るときにこそ妄念が一転して悟りの心となるのである。妄念の中にいながら唱える念仏は、あたかも蓮の花が泥水の中に生じて濁りに染まないように、必ず浄土に往生することは疑いない。だから、妄念など気にかけず、信心の浅いことばかりを反省して、往生の志を深く持っていつも念仏を唱えることである。  人間の本質は、宇宙の大生命(仏)そのものなのです。しかし、凡夫は仮の現れである現実の心身が自分であると思い込んでいます。これはまったくやむをえないことだから、それにこだわることはない。その妄念の中からほとばしる純粋な念仏こそ、泥中から生じた蓮の花のように尊いものである……というこの教えは、法華経の行者であるわたしどもにも非常に有り難く頂戴できます。唱題も同じことであるからです。  読経や、念仏や、唱題の行をしているときにいろいろな雑念が起こってくるのを非常に気にする人があります。信仰者としてたいへんまじめな態度ですけれども、その雑念を気にすることがかえって雑念を増長することになるのです。  ここに説かれているように、「これが凡夫の地体なのだ」と、サラリと流してしまえば、気が楽になって、かえって読経なり、念仏なり、唱題なりに打ち込むことができるのです。じつに尊い教えだと思います。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば33

ほんとうに正しい信仰をもって来るならば、自然と自分はどこへゆくのだと、はっきり行手(ゆくて)がわかってこなくてはならなぬ。仰ぎ、伸びる気持、「自分はあそこへゆくのだな」という、目のあいた気持です。  友松円諦・日本(法句経講義)

1 ...仏教者のことば(33) 立正佼成会会長 庭野日敬  ほんとうに正しい信仰をもって来るならば、自然と自分はどこへゆくのだと、はっきり行手(ゆくて)がわかってこなくてはならなぬ。仰ぎ、伸びる気持、「自分はあそこへゆくのだな」という、目のあいた気持です。  友松円諦・日本(法句経講義) 今また仏教再興の期  友松円諦師は、昭和初年にラジオで法句経を連続講義し、その新鮮な解釈と親しみ深い語り口で満天下の人々を魅了した方です。ちょうど大正時代から続いていた自由主義の爛熟期で、官能の享楽を至上のものとする風潮がみなぎっていたころでした。  それでも、人々の胸の底には何かしら満たされぬものがあり、ほんとうに心のよりどころとなるものを求める気持があったらしく、このラジオ放送をきっかけに仏教への関心は怒濤のように高まり、その講義が書物になって刊行されると、当時としては画期的なベストセラーになったのでした。  後に、一宗一派に属さない神田寺という寺を建て、真理運動というキャンペーンを張り、多くの人々――とくに若い人々――を真の仏教者として育てた友松師は、現代の仏教復興の旗手だったと評しても、けっして過言ではないでしょう。  現在の日本は、当時とよく似た世相にあり、人々は物質万能主義に振りまわされながらも、やはり一種の虚しさを魂の底に覚えつつあることは歴然としています。この時期に、再度・三度の仏教復興がなされねばならぬと思うのです。 真の信仰をもって  その現代人の魂の底にある空虚さを満たす大きな道を、ここに掲げた言葉は力強く指し示していると思います。実際いまの日本人の大部分は、ほんとうの「道」を見失っています。五官すなわち眼・耳・鼻・舌・触覚の楽しみをより多く味わいたい、苦労という苦労のない一生を送りたい、せめて老後だけでも安楽に暮らしたい……ぐらいが平均的な望みのようです。  それは至極もっともな望みかもしれません。しかし、その望みがつねにかなえられ、つねに満足している人がはたしているでしょうか。もし万一そんな人がいるとしても、その人が果たして真の生きがいを感じているでしょうか。おそらく答えは「ノー」でありましょう。  そこで信仰というものが必要となってくるのです。信仰とは、ひとことにして言えば、魂の自立を目指すものです。魂の浄化を願いとするものです。釈尊なり、そのお弟子の諸比丘・諸菩薩なり、魂がほんとうに浄まった人こそが真実の幸せを獲得した人であることを知り、「あそこへ行きたい」「一歩でもあの境地へ進みたい」と仰ぎ、伸びる気持、それが信仰というものです。  こういう気持を持っていますと、客観的には貧しい暮らしをしていても、たとえご飯とみそ汁と青菜とめざしぐらいの生活をしていても、それがいっこうに苦にならないのです。というのは、魂が解き放たれて自由自在になっているからです。  また、そういう真の信仰を持っていますと、多くの人々の幸せのために自ら進んで苦労を求めるようになります。現在も心ある青年たちがさまざまなボランティア活動に取り組んでいます。  このような自身の安楽をなげうってする苦労が、かえって人生の充実感となるのではないでしょうか。魂の世界とはこんなものです。そして、魂が「あそこへ行くのだな」と仰ぎ見、分かり、そこへ向かって伸びる気持……それが信仰にほかならないと、わたしもそう思います。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば34

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。  親鸞上人・日本(歎異抄)

1 ...仏教者のことば(34) 立正佼成会会長 庭野日敬  善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。  親鸞上人・日本(歎異抄) 大切な内心のありよう  『歎異抄』の中でいちばん有名な句です。「善人でさえ浄土に往生できる。まして悪人が往生できないはずはない」というのですから、世間の倫理観とは正反対で、難解でもあり、誤解を招きやすい言葉です。  これは親鸞上人の独創ではなく、師の法然上人の教えを受け継いだ思想であって、その弟子の一人が記録した『法然上人伝記』の中に「善人なおもて往生す、いわんや悪人をやの事」と題して、次のようなことが記されています。これをよく読めば、この言葉の真意がよく理解できると思います。現代語に訳しますと、  「師はわたくしにこうおっしゃった。阿弥陀如来の本願は、自力をもって生死の煩悩から離れることのできる方便(手段)を持つ善人のために起こされたのではなく、ほかに救われる方便を持たないきわめて罪の重い人たちを哀れみ給うて起こされたものである。それなのに、菩薩・賢聖のような人たちもこれによって往生を求め、凡夫の善人もこの願に帰依して往生を得るのである。ましてや、罪悪の凡夫は何よりもこの他力を頼みとしなければならないのである」  この悪人とか善人とかいうのは、世間の常識でいう簡単な分け方と違って、心の中の自覚をいうものだと思われます。親鸞上人はご自分の内心のありようを、『教行信証』の中で、「まことにわたしは自分を知っている。悲しくも愚かであり、愛欲も激しく、名誉欲にも迷い、ほんとうの証(さと)りに近づくことを楽しみとしないところがあって、じつに恥ずかしい。心が傷む」と言っておられます。(現代語に意訳)  世の人々から上人と尊ばれ、救いをもたらすお方とあがめられている人が、このような告白を公開するということ自体が、親鸞上人の信仰者としての素晴らしさの証(あかし)であると思います。そして、このような自分でも仏さまは救ってくださるのだ! という心底からの思いが前掲の言葉となったのでありましょう。 自力も他力も一に帰す  まことに人間の心の奥にひそむ煩悩はなかなか消し難いものがあります。さればこそ、すぐれた名僧・高僧でも、たとえば伝教大師はご自分のことを「底下(ていげ)の最澄」と書かれ、法然上人は「愚痴の法然房」と言っておられます。この自覚、この懺悔こそが尊いのであって、自分は善人だと思い上がっている人にはほんとうの精神的向上はないものと思わなければなりますまい。  わたしは努力主義の法華経を行ずる者であり、諸悪莫作(しょあくまくさ)・衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)・自浄其意(じじょうごい)・是諸仏教(ぜしょぶっきょう)=もろもろの悪をなさず、もろもろの善を努め行い、自らその心を清くする。これが諸仏の教えである=という釈尊の教えを奉ずる者であり、またご入滅の際の「すべてのものは移り変わる。怠らず努め励むがよい」というご遺訓を守る者でありますから、ただ念仏やお題目を唱えてさえいればよいという行き方を採ってはおりません。  しかし、信仰のどんづまりは「自分は仏さまに生かされているのだ」という自覚にあるのだ、と信じています。そして、「人事を尽くして天命を待つ」の言葉どおり、精いっぱいの努力をしたあとは仏さまにお任せする、「仏さま、どうぞみ心のままになさってください」という気持でいることも確かです。こうなれば、自力も他力もつまるところは一緒だと思うのであります。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば35

貴僧は、まだ女を背負っていたのか。  原坦山・日本(仏教布教大系)

1 ...仏教者のことば(35) 立正佼成会会長 庭野日敬  貴僧は、まだ女を背負っていたのか。  原坦山・日本(仏教布教大系) 坦山和尚の人となり  原坦山(たんざん)師は、幕末から明治へかけて豪僧といわれた人で、後に東京帝国大学印度哲学科の講師となり、また曹洞宗大学林総監となりました。  この人が仏教に入った動機がちょっと変わっていて、その人柄をしのばせるものがあります。十五歳の時から幕府の学問所昌平校で儒学を学び、若くして名を成していましたが、あるとき駒込栴壇寮という学寮に招かれて講義をしました。その寮の寮長が曹洞宗の僧で、たまたま儒教と仏教と、どちらがすぐれているかという議論が始まり、「よし、それではどちらが勝っても、負けたほうが弟子になることにしよう」という約束をし、長時間にわたって論議を戦わしました。  ところが、ついに坦山のほうが屈し、仏法の尊勝なことを知って、約束どおりその弟子になることにしました。その僧は坦山を自分の師である橋場総泉寺の栄禅和尚の所に送り、坦山はそこで仏教を学び、その後、諸方を遊歴して奥義を極めたのでありました。  よほどすぐれた人物であったと見え、七十四歳で入滅されたのですが、何の病気もなくあの世へ旅立たれたのだといいます。しかも、その前日に自らの死を予知し、息を引き取る二十分前に自分で友人知己に葉書を書き「拙者儀即刻臨終仕り候、此段御通知に及び候」と報じたということです。有名な話です。 こだわりやとらわれのない心  さて、冒頭に掲げた言葉ですが、これは「真の自由」という仏法の奥義を如実に表していますので、少々変わり種ですが取り上げてみました。  坦山師がまだ若いころ、同行の僧と二人で旅をしたことがあります。とある川にさしかかったとき、若い娘さんが、水が深くて渡ることができず、困っていました。坦山師は「どれどれ、わしが渡して進ぜよう」と言って、その娘さんをおぶって川を渡してやりました。  その夕方、宿屋についてから、同行の僧がけわしい顔をして、こう詰問するのでした。  「貴僧は、さきほどの所行を恥ずかしいとは思わぬか」  「何の話だ、それは……」 と聞くと、  「僧侶の身で、若い娘を負うて川を渡したことだ」  と言うのです。坦山師は、なあんだ、そのことか……とばかり、笑って言いました。  「貴僧は、まだ女を背負っていたのか」  その言葉に、同行の僧は、警策(きょうさく)で肩をパシッと叩かれたように、目が覚めました。自分の心のこだわりととらわれに初めて気がついたのです。坦山師は、相手が若い娘であろうが、だれであろうが、そんなことにはお構いなく、川を渡れなくて困っていたから渡してやったまでのことで、なんのこだわりもなく、その場かぎりで忘れてしまっていたのです。  ところが、同行の僧は、傍観者の立場にありながら、若い娘にとらわれていたために、坦山師の親切な行為にたいして非難する気持が起こり、おそらく数時間のあいだ、不愉快な思いを持ち続けていたでしょう。また、そのことをとがめようかどうしようかと、あれこれ思い悩んでいたことでしょう。  このことは、こだわりやとらわれがどれぐらい人間の心を痛め、苦しめるかを明らかに示す、この上ない実例だと思います。そして、仏法が人間の理想の境地だとする「自由自在」とは、つまるところ、こだわりやとらわれのない心のあり方だ、ということがこれでよく分かると思うのであります。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば36

実際の体験ある人の書はみな読むに価いする。いわんや実際の体験による信仰を述べたものはなおさらのことである。  清沢満之・日本(近代の仏教者)

1 ...仏教者のことば(36) 立正佼成会会長 庭野日敬  実際の体験ある人の書はみな読むに価いする。いわんや実際の体験による信仰を述べたものはなおさらのことである。  清沢満之・日本(近代の仏教者) 今親鸞と呼ばれた人  清沢満之(まんし)師は明治時代に「今親鸞」と呼ばれたほど強い信念と実践に生きた素晴らしい仏教者でありました。  東京大学在学中は常に首席を占め、その成績はそれまでの全学生中三位と下らなかったそうです。将来は博士号を取り、大学教授となるべきコースを約束された身でしたが、当時経営難で廃校の危機にひんしていた、京都府立尋常中学校(後の京都一中)の立て直しを知事が東本願寺に頼み込んだ――今日としては考えられないことですが――といういきさつから、請われてその校長を引き受けました。これも、並の人ではできないことです。  二年後その職を退いて、徹底した禁欲の行者生活に入り、塩を断ち、煮炊きをやめ、ソバ粉を水に溶かして食べるという生活を続けたために栄養失調となり、肺結核におかされ、いったんは治ったものの後に再発して、四十一歳の若さで世を去られたのでした。  その間、本山の改革運動に献身したり、東京の本郷に浩々洞という塾をつくって弟子たちを養成したり(その中から暁烏敏とか佐々木円樵とか多くの名僧が輩出した)、『精神界』という雑誌を発行したり、わが国の仏教界に偉大な足跡を残されたのでした。 苦に対する心の用意を  さて、冒頭に掲げた句ですが、これは、浩々洞の一員であった安藤州一という人に語られたのを、安藤氏が記録したものです(当時の文語体を現代の口語に意訳)。このあとに続けて、こう語っておられます。  「実際の体験もなく、修養もなく、たんに美しい言葉を並べた書は、あたかも華麗な別荘を建てて、便所を造らないようなものである。便所というものは悪臭を発し、人が好まないところである。しかし、便所がなくては、どんなに華麗な別荘でも、人が住むことは出来ない。  疾病や、貧苦や、憂悩や、死滅は、みな人生の便所のようなものである。だれもそれに近づくことを好まない。しかし、この便所に遇うことなく人生を通過することは不可能である。庭に花や竹を植えたり、室内の装飾に意を用いると共に、必ず便所を造り、しかもその悪臭に対する消毒の用意をすることが大切である。そうすれば、便所から悪臭を発生することがあっても、この華麗な別荘に住むことが出来るのである。  だから、わたしは、実際の心的体験を述べた書は愛読するけれども、別荘を建てて便所を造らぬような本は読みたくない」  「宗教は体験の世界である」ということを、面白い比ゆによってズバリと説破しているところに、深い共感を覚えます。信仰の書にしても、説法にしても、ほんとうに人の胸を打ち、人を動かすのは、語り手が実際に苦しみ、悩み、もだえ、そこから救われた体験の告白です。 ですから、わたしどもの会でも、体験説法ということを何より重んじているのです。疾病や貧苦や、家庭の不和や、職場での悩みから逃れることを得た体験を聞いてこそ、信仰というものの尊さをしみじみと感じ取ることが出来るからです。そして、信仰に入ることによってここに便所に譬えてあるように、だれしも避けることの出来ないそのような「苦」に対する心の用意を整えれば、この素晴らしい人生(華麗な別荘)を楽しむことが出来るわけです。重ねて申します。宗教は体験の世界なのです。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば37

大道無門  無門慧開・中国(無門関・序)

1 ...仏教者のことば(37) 立正佼成会会長 庭野日敬  大道無門  無門慧開・中国(無門関・序) 千差万別でも道はある  有名な言葉です。里見弴の小説の題名にも用いられました。南宋の高僧無門慧開が評唱した古人の公案四十八則を、弟子が集録した『無門関』という本の序にあるものです。このあとに続く言葉を補いますとこうなります。  大道無門、千差(しゃ)道有り。此の関を透得(とうとく)せば、乾坤(けんこん)に独歩せん。  現代語に意訳しますと、「仏道に入るには門などはない。千もの道があって、どこから入ってもいい。ところが、じつはここにも関があるのだ。この関さえ通り抜ければ、天地のどこでも自由自在に独り歩きができるのである」というのです。  仏道というものは、ひろびろとした世界で、そこへ入る門などはありません。だれでも、いつでも、どこからでも、自由にはいれるのです。そこへ行くには千もの違った道があり、どの道を行ってもいいのです。要は、「はいろう」という強い意志、性根(しょうね)、それがあればいいのです。  ただ、ここで一言しておきたいのは、千差万別だとはいっても、とにかく「道はあるのだ」ということです。富士山に登るにしても、どこから登っても頂上に達せられます。岩登りなど自由自在の達人なら、だれも登ったこともないルートをたどっても行けましょう。しかし、普通の人間なら、やはり御殿場口とか、吉田口とか、むかしからよく使われている道を行くのが無難です。早く、無事に、頂上に達することができるからです。  魯迅(中国の有名な文学者)が「多くの人が歩いた所が道となる」と言っていますが、道というものはそんなもので、仏道もやはり同じです。多くの古人がたどった道が、やはり大道だと知らなければなりません。 「我」の関門を抜ければ  ところで、門はないといっても関はあるというのは矛盾しているようですが、そうではありません。この関というのは、「我」です。おれが、おれがという心です。自分の損得や、名誉や、権威などにとらわれている心です。これがなかなかの難物であって、凡夫はこれに引っかかって仏の世界へと抜け出して行けないわけです。もしここを通り抜けれは、それこそまったく自由自在、なんのこだわりもなくこの世を渡って行けるのです。  白隠和尚が住んでおられた駿河の国のある油屋の娘が私生児を産みました。父親が怒って、男の名前を言えとさんざんに責めましたので、娘は苦しまぎれに、和尚さまだと言えば許してもらえると思って、つい「白隠さまです」と言ってしまいました。父親は頭から湯気が立つほど怒ってお寺へ駆けつけ「この生臭坊主、この子を受け取って育てろ」と談じ込みました。白隠和尚は「ああそうか、そうか」と言ってその子を受け取り、可愛がって育てていました。  そのことが村中で大評判になり、これまで高僧とあがめられていたのが一転して、とんでもない破戒僧だとさげすまれるようになりました。あまりの評判に娘のほうが堪え切れなくなって、「じつは……」と白状しました。父親は早速お寺へ行き、土下座をして謝り、赤ん坊を頂きたいとお願いしますと、白隠和尚は顔色一つ変えず、「ああそうか、そうか」と言って子供を渡されたといいます。  こういう方こそが、乾坤に独歩する、天地のどこにも自由自在に生きる人でありましょう。なかなか真似のできない境地ですが、せめてこの百分の一でも学び取りたいものです。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば38

広大な宇宙と矮少(わいしょう)な自分とは、同じ一つの道、地続きだということを体得するがよい。  沢木興道・日本(禅とは何か)

1 ...仏教者のことば(38) 立正佼成会会長 庭野日敬  広大な宇宙と矮少(わいしょう)な自分とは、同じ一つの道、地続きだということを体得するがよい。  沢木興道・日本(禅とは何か) 宇宙と自分は地続き  沢木興道老師は、一生のあいだ寺も持たず、妻もめとらず、「宿なし興道」と自称していた。現代には珍しい古心の禅者でした。しかも、その講話は、平常の言葉で仏教の神髄をズバリと衝く、分かりやすく、感銘深いものでしたので、若い人たちもこぞってその席に参じたものでした。  右に掲げたのは『証道歌』という中国の永嘉大師の詩(詩の形を取って禅とは何かを説いたもの)を講義された中の一句です。広大無辺の宇宙とちっぽけな自分とが地続きであることを悟れというのですが、この「地続き」という平易な言葉がじつによく効いています。老師は右の句に続いて、こう話しておられます。  「自分だけの満腹、自分だけの喜び、他人にかくれてやるひそかな愉(たの)しみ、これは決してよいものではない。自分の本心はほんとうに喜んではいないのである。これは、われと一切衆生とが地続きになっているということを考えない人々である」  この傍点を打った部分をよくよく味わうべきだと思います。自分本位の考えや行動は、表面の心では喜びや愉しみを感じているようだけれども、かくれた所にあるほんとうの心、すなわち一切衆生と地続きになっている心は、じつは喜んでいないのだ……というのです。それならば、その本心の喜びはどこにあるのか……。これが大乗仏教のかかえている大命題なのです。 心の面でも地続きだ  この地続きということは、生命の維持という点ではだれしも納得がいくことと思います。われわれが何を呼吸し、何を念じて生きているのか、それはだれが供給してくれているかを、奥へ奥へとたどって考えてみますと、われわれが天地万物に生かされていることがしみじみと分かります。  では、心というものの面ではどうでしょうか。ペットを飼っている人は、動物と人間との心の通い合いがよく分かるはずです。植物との間に心のつながりがあるかどうかは、普通では分かりかねます。しかし、特殊な実験によってそれを探り当てた人がいます。  ニューヨークの嘘発見検査官養成学校の校長クライブ・バクスター氏は、ふと思いついてドラセナという観葉植物に、嘘発見器をセットしてみました。そして、何かドラセナに刺激を与えなくてはと思い、「よし火をつけてやろう」と考えたそうです。すると、とたんにメーターの針がピクリと動いたのです。これによって植物にも心があることを知り、それから積極的に研究し始めました。  例えば、部屋の中にあるいろいろな植物を、一人の男に棒でビシビシたたいて回らせました。それから、数人の人を一人ずつその部屋に入らせ、最後に例の男を入らせました。すると、それまで少しも動かなかったメーターの針が、ものすごく揺れ動いたのでした。この実験でも分かるように、植物にも確かに心があるのです。  無生物については確かめようもありませんけれども、宇宙意志があらゆるものにこめられていることから考えれば、その宇宙意志に添うように、人間は無生物とも仲よくし、酷使やムダ遣いはやめなければなりますまい。  要するに、広大な宇宙とその中の自分とは同じ一つの道の中にあり、地続きなのだ……と悟ることは、われわれの人生も大きく変えるものだと知るべきでしょう。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば39

弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。 親鸞上人・日本(歎異抄)

1 ...仏教者のことば(39) 立正佼成会会長 庭野日敬  弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。  親鸞上人・日本(歎異抄) 仏さまと膝をつき合わす  阿弥陀如来は、前世に法蔵菩薩として修行しておられる時代に、五劫という長い年月をかけて、どうしたら一切衆生を浄土に救うことが出来るかを思いめぐらされたのだそうです。親鸞上人は、その法蔵菩薩の長い長い思索も、ああ、わたし一人のためだったのだ! と実感されたのです。常識的にみれば、なんというエゴイスティックな、独りよがりの考えだろう……と思われるかもしれませんが、信仰の思いの極まったところでは、そうなるのが真実なのです。  人間は一時に二つ以上のことを考えることは出来ません。もしそんなことをしようと思ったら、心がバラバラに散って定まらず、何ひとつ成就するものではありません。「一時には一事に精神を集中する」、これでなくてはならないのです。相撲取りでも、野球のバッターでも集中力の足りない者は、けっしていい成績をあげることは出来ません。  ましてや信仰の世界においては、仏さまと一対一になることが何よりも肝要なのです。いま仏さまと膝をつき合わせている。仏さまがわたしの頭を撫(な)でていてくださる。仏さまのいのちがわたしの合掌の指先から全身へ流れ入っている。ああ、有り難い……こういう実感を惻々(そくそく)と覚えるとき、そこに大歓喜が生じ、魂の救いが生まれるのです。  これは純粋な信仰者なら必ず経験する心理であって、八宗の高祖といわれるナーガールジュナ(龍樹菩薩)もこう言っています。  仏はひとり我がために法を説きたもう。  余人のためにはあらず。 人を救うのも一対一から  現実に人を救うにも、やはり同じようなことが言えましょう。お釈迦さまは、あらゆる人間にこの世の実相を悟らせることによって、一人残らず苦しみ悩みから救ってやりたい、という誓願を持っておられたわけですが、その現実の手段は、もちろんたくさんの出家・在家の人を集めての説法もありましたけれども、むしろ一対一の教化の場合が多かったのです。  子を失って半狂乱になっている母親、釈尊を罵り土を投げかけるバラモン、邪教に迷わされて人殺しを続ける男、病身に絶望感を覚えている老人等々、例を挙げれば限りはありませんが、とにかく縁あって巡り会った人を一人ずつ一人ずつ救っていかれたのです。  一九七九年度のノーベル平和賞を受賞されたインドのマザー・テレサさんは、こう言っておられます。  「わたしは目の前に現れた一人を幸せにするために全身全霊を捧げます」  「わたしは、ある人の世話をします。そして、もし出来るなら、他のもう一人の世話をします」  「キリストは目に見えませんから、キリスト自身に愛を表すことは出来ません。でも、他の人はいつでも目に見えます。もしキリストが目の前にいらしたらしてさしあげたいと思うことを、その人のためにするのです」  目の前にいるかわいそうな人にあらん限りの愛を注ぎ、その人を助けるためにあらゆる努力をする。それが積もり積もって九千人もの孤児を救われたのです。  このように、神や仏と一対一となって信仰を集中し、現実に人を救う場合も一 対一で救う。これが信仰というものの原点であり、親鸞上人のこの言葉も、そのように受動・能動両面から受け取らねばならないと思います。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば40

百尺竿頭一歩を進める  宏智禅師・中国(従容録七四則)

1 ...仏教者のことば(40) 立正佼成会会長 庭野日敬  百尺竿頭一歩を進める  宏智禅師・中国(従容録七四則) 向上の上にも向上を  百尺(約三十メートル)もある竿の頂上からさらに一歩を進める、というのです。  古来このことばについては、次のような二つの解釈がされています。  第一は、ある道に修業に修業を重ねて、その頂上を極めても、そこで気をゆるめたり、有頂天になったりしないで、さらに工夫と努力を重ねて向上をはからねばならない……という意味。  これは世のよろずのことに通ずる戒めであって、とりわけ、学問・芸術・スポーツなどの道にたずさわる人は、これを信条としないかぎり一流の人物とはなりえません。物理学者・天文学者・数学者として当時の学界の頂点にあったアイザック・ニュートンは、こう言っています。「学問の大海は無限に広く、わたしなどは、まだその浜辺で貝を拾っているに過ぎない」と。この謙虚さ、この視点の高さに、われわれも大いに学ばなければなりますまい。  第二の解釈はもっと深遠で、原著の辞句にのっとって仏道修行の極点を示したものです。原著にはこうあります。  百尺竿頭(かんとう)に歩を進め  十万世界に身を全(まっと)うす  百尺もある竿の先まで登りつめたら、あとは虚空しかありません。その虚空へ向かって歩を進めるということは、いちおうの悟りを極めても、その悟りを乗り越えて、絶対の世界に徹入し、自由自在の身となることをいうのです。そうすれば、十万世界のどこへ行っても、大安心して生きておられるというのです。  しかし、自分一人が自由自在の境地に達したからといって、何もしないでいたのでは、じつは「百尺竿頭に歩を進め」たことにはならないのです。自由自在の生きたはたらきをしてこそ、一歩を進めたことになるのです。 地上に降りて人を救う  それならば、その生きたはたらきとは何をいうのでしょうか。空々漠々たる虚空を、さらに上へ上へと飛んで行っても、もはや何もありはしません。  生きたはたらきをするには、百尺の竿頭から、また地上へ降りて来なければならないのです。お釈迦さまも、無限の過去から永遠の未来まで、高い霊界からこの娑婆世界へ何万遍も往来なさっているのだといわれます。観世音菩薩も、三十三身に姿を変えて、この娑婆世界の人間を救済してくださっているといわれます。それこそが、自由自在の生きたはたらきです。そして、それこそが仏法の行きつく究極の道なのです。  この『従容録』の二八則にも、こんな話が出ています。ある僧が護国和尚に向かって「鶴が松の梢に止まっている姿はどうですか」と問いました。禅の高い悟りの境地に達している姿をどう思いますか、という意味なのです。すると護国和尚は「高い所に何もしないで止まっているのは恥知らずだ」と、一言でやっつけてしまっています。  考えてみればまったくそのとおりで、仏法というものは何のためにあるのか、つまるところは人間が幸せに生きるためです。すべての人間を幸せにするためです。ですから、仏道の修行は自分だけの悟りや幸福だけで終わってはならない。必ず他の多くの人を幸福にするはたらきにまで発展させなければ意義はないのです。「百尺竿頭に一歩を進める」ということばは、実生活の上では第一の解釈のように、信仰生活の上では第二の解釈のように受け取り、われわれの大切な人生訓とすべきでありましょう。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば41

大いなるものにいだかれあることをけさふく風のすずしさにしる  山田無文・日本(手を合わせる)

1 ...仏教者のことば(41) 立正佼成会会長 庭野日敬  大いなるものにいだかれあることをけさふく風のすずしさにしる  山田無文・日本(手を合わせる) 生きよという大きな力  前に、山田無文老師が青年時代に河口慧海師の講義を聞いて菩提心を起こされた話を書きましたが、山田青年は決意すると矢も盾もたまらず、慧海師に出家入門の嘆願書を出しました。出家については父上の猛反対があったようですが、いろいろないきさつがあって、ついに許されたのでした。  慧海師のもとでの修行は厳しいもので、東洋大学へ通うほかは、朝四時から家事一切を受け持たされました。しかも師は全くの清僧で、肉や魚は一切食べず、朝は味噌汁に煮込んだうどん。昼は玄米と小豆と麦の飯にけんちん汁ときまっていました。  山田青年は、けんめいに働き、修行し、勉強しましたが、過労と睡眠不足と栄養失調で、ついに倒れてしまいました。おそらく結核だったのでしょう。頸(くび)のりんぱ腺が顔ほどにはれ上がり、身体はやせ衰えてしまい、やむなく故郷に帰って療養することになりました。二十歳だったのに体重は三十七キロしかなかったそうです。  故郷で療養中に、兄さんが喉頭結核で死に、山田青年は絶望感に打ちひしがれていました。そうしたある朝、梅雨も終わるころ、久しぶりに寝床から離れて縁側に出ると、涼しい風がそよそよとほおをなでました。ふと、「風とは何だったかな」と考え、「風とは空気が動いているのだ。そうだ、空気というものがあったなあ」と気づき、大きな衝撃を受けました。そのときの心境を、『手を合わせる』に次のように書いておられます。  「生まれてから二十年もの長い間、この空気に養われながら、空気のあることに気がつかなかったのである。わたくしのほうは空気とも思わないのに、空気のほうは寝てもさめても休みなく、わたくしを抱きしめておってくれたのである。と気がついたとき、わたくしは泣けて泣けてしかたがなかった。「おれは一人じゃないぞ。孤独じゃないぞ。おれの後ろには、生きよ生きよとおれを育ててくれる大きな力があるんだ。おれはなおるぞ」と思った。人間は生きるのじゃなくて、生かされているのだということを、しみじみ味わわされたのである。わたくしの心は明るく開けた」(傍点筆者)  その時に作られたのが、ここに掲げた短歌であります。 仏を確認し生死を超越  その後、遠州金地院の河野大圭という和尚さんの特殊な治療を受けて健康体となられたのだそうですが、それはさておき、わたしはこの分かりやすく覚えやすい歌が、百千の説法にまさる大きなはたらきをする三十一文字だと思われてならないのです。  われわれは、天地のあらゆるものに生かされて生きているのです。その、天地のあらゆるものをつらぬく一つのいのちが、ここに歌われている「大いなるもの」です。たしかにわれわれは、一つの大いなるものにいだかれているのです。ふだんわれわれは、そのことに気づきません。  しかし、山田青年が空気の存在をフト思い出したように、なにかの縁に触れてその大いなるものに気づくはずです。その瞬間に真の救いが始まるのです。そのことを、この歌は静かに、しかも痛切に教えています。病気になっても仕方はない。不幸に遭っても仕方はない。けれども、そのような時に、それらの現象を超えた大いなるものに気づくならば、わざわいは転じて福になりましょう。つまり、仏さまはいつ、いかなるところにもいますことを確認し、生死を超越することができるのです。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば42

随処に主となれば立処みな真なり。  臨済禅師・中国(臨済録)

1 ...仏教者のことば(42) 立正佼成会会長 庭野日敬  随処に主となれば立処みな真なり。  臨済禅師・中国(臨済録) いつも自分が主人公に  人間が間違いをしでかしたり、苦しみ悩んだりするのは、ホンモノでない自分に迷わされたり、自分の外側にある事物に心を引きずり回されるからです。ホンモノでない自分というのはちょっと難しいことなのでいちおうさし置いて、外側にある事物のことから考えていってみましょう。  それは、周囲の人々や、金銭や、物質や、環境などをいうのです。たとえば「あの人は自分のことをこう批判した」「うちの家は狭すぎる」「どうもあの上役はいばってばかりいる」。こうして事ごとに不平不満を感じていたのでは、第一毎日の暮らしが愉快でありません。その上、そうした欲求不満を無理な形で解決しようとして、やらずもがなの争いを起こしたり、無計画な借金をしたりして、自ら不幸に陥っていくのです。  そのような、他のものに引きずり回される生きざまでなく、「いつも自分が主人公になっていなさい」、今の言葉でいえば「自己を確立せよ」「主体性を持て」というのが、この言葉の一端の教えなのです。  やはり中国の瑞厳和尚という人は、毎日、自分に対して、「主人公よ」と呼びかけ、自分で「おう」と答え、「はっきり目を覚ましているか」と聞き、「うんはっきり目を覚ましているぞ」と答え、「いいか、他にたぶらかされるんじゃないぞ」と戒め、「わかった、わかった」と、自問自答をくりかえしていたそうです。  他にたぶらかされるというのは、周囲にある物質、金銭、世の移り変わり、マスコミの情報等々といったものに迷わされることです。自主的な判断がなく、自主的な意思もなく、外側のものごとにあっちへ流され、こっちへ流されて一生を送る……人間としてこんな情けない生きざまはありますまい。精神的にもっとシャンとした自分自身の背景を持ち、自分自身の足腰を持ち、自分で大地を踏みしめて生きたいものです。 自己の本体は仏性  さて、さきにいちおうさし置いたホンモノでない自分ということですが、ホンモノの自分とは仏教ではこれを「仏性」といい、つまり宇宙の大生命から支えられた純粋の自分の本体です。ところが、人間はこの本体をホンモノでない自分、すなわち「我・が」で覆っているために、つい迷いの道へ踏み込んだり、外側にあるいろいろなものに振り回されたりするのです。  それに対して、自分の本体が仏性であり、宇宙の大生命の分身であることを常にしっかりと思い定めておれば、いつ、いかなる場合でも「我」に迷わされることなく、他に振り回されることもなく、真理のまにまに行動することができるのです。それが前掲の句の後半「立処みな真なり」の意味です。  ここで一言しておきたいのですが、人間だれしも主義・主張があり、立場の違いがありますから、真理に合致した言動が必ずしも他の人々や社会一般に受け入れられるとは限りません。しかし、人々がどう受け取ろうとも、「自分の言動は真理に合っているのだ」という確固たる信念があれば、胸を張って堂々たる気持で世を渡ることができましょう。それが「随処に主となる」の神髄です。  信仰のない人には難しいことだと思いますが、仏法の教えに徹している人は必ずその境地に達し、自由自在な人生を送ることができるものと、わたしは固く信じています。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば43

他は是れ吾れに非ず  用某典座・中国(典座教訓)

1 ...仏教者のことば(43) 立正佼成会会長 庭野日敬  他は是れ吾れに非ず  用某典座・中国(典座教訓) 老典座の心意気  典座(てんぞ)というのは、寺院で一山の僧侶のために日々の食物を準備し、調理する役僧のことです。そして、この『典座教訓』というのは、道元禅師がその役僧の心得を述べられた書で、いわば台所生活の教科書のようなものです。米のとぎ方から水の使い方までいちいちこまかく書いてありますが、その眼目は単なるノウハウ(実際の方法の知識)ではなく、そのいちいちの作業にこもる真心が仏法の神髄に通ずることを教えられたところにあります。  その中に禅師が中国へ留学中に経験された一挿話が、次のように述べられています。  「わたしが天童山景徳寺にいたときのことである。用なにがしという老人が典座の役を勤めていた。わたしが昼食を終わって東側の廊下を渡っていると、その典座が仏殿の前で茸を天日に乾していた。  夏の油照りの暑い日だったが、手には竹の杖をつき、頭には笠もかぶっていない。庭に敷かれた甎(せん・瓦のように焼いた敷石)は、照りつける太陽に熱し切っている。その老典座は汗をしとどに流しながら、懸命に茸を乾しているのだが、見るからにつらそうな風だった。背骨は弓のように曲がり、眉は鶴のように白かった。  わたしは思わず近くに歩み寄って、『失礼ですが、お年はおいくつですか』と聞いたところ、『六十八歳です』との答え。わたしはそれを聞いて、『そのようなご高齢では、さぞ骨が折れることでしょう。どうして部下の者や作業員をお使いにならないのですか』と言ったところ、その人は言った。『他は是れ吾れに非ず』と。つまり、他人のしたことは、わたしのしたことにはならないのだというのである。  わたしは『まことにおっしゃるとおりですが、わざわざこんなカンカン照りの中で、なさらなくてもいいのではありませんか』と言った。すると『茸乾しは、カンカン照りのときに限るのですよ。この日中をはずして、いつやるんですか』と答えた。  わたしは返す言葉もなく、そこを立ち去ったが、廊下を歩みながら、この典座という役目がどんなに尊いものかをしみじみと悟ったのであった」 母の手料理の貴重さ  この話は、今の世の主婦やお母さん方によくよく味わって頂きたいと思います。近ごろは、主婦の台所離れが一つの風潮のようになっています。それは、食事の準備や調理をしたりするのを、いかにもつまらぬことのように考えるからでありましょう。  しかし、けっしてそうではありません。食は身を養う大事なものです。身を養うだけでなく、病を防ぐという目に見えぬ役目もあります。もう一つ大切なことは、食事をおいしく食べることは、心を楽しくさせ、また、一家だんらんの機会ともなるのです。  こんな重大な役目が、どうしてつまらぬものなのでしょうか。道元禅師が廊下を歩きながらしみじみと悟ったように、実に人間存在の基点につながる深い意味を持つ仕事なのです。しかも、そこには無限の工夫の天地があり、実にやりがいのある仕事なのです。  特に深く味わって頂きたいのは、この典座の言った「他は是れ吾れに非ず」という言葉です。世のお母さん方、あなたのお子さんにとって、お母さんの心のこもった手料理がどれほど重要な心理的効果を持つものか、一生忘れられぬ「おふくろの味」というものがどんなに貴重なものかを、もう一度考え直してください。まことに「他は是れ吾れに非ず」なのです。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば44

啐啄同時(そったくどうじ)  碧巌録第十六則の評・中国(禅林宝訓音義)  

1 ...仏教者のことば(44) 立正佼成会会長 庭野日敬  啐啄同時(そったくどうじ)  碧巌録第十六則の評・中国(禅林宝訓音義) 教える者と学ぶ者と  啐というのは、鶏の卵が孵化しようとする瞬間に、殻の中でひなが小さな声で鳴く声をいいます。啄というのはついばむとかたたくという意味で、この場合、親鳥が卵の殻をくちばしでつついて割ることをいうのです。  親鳥が二十一日のあいだ卵を抱いて温め、ひながかえろうとするとき、殻の中でかすかにチチと鳴く。と同時に親鳥が殻をくちばしでつつく。その瞬間に殻が割れてひなが生まれる、その呼吸がピタリと合っていることを言ったもので、転じて師と弟子との法縁が熟する瞬間の貴重さをたたえた言葉です。  世界的なマラソンランナー瀬古利彦選手と、かれを育てた中村清監督の出会いなど、その典型といえましょう。瀬古選手は、高校中距離界のナンバーワンだったのに、早大入試に一度失敗し、アメリカに一年留学したのですが、向こうの選手たちの体格やスピードに圧倒されて挫折感を味わいながら、帰国し再度の受験で早稲田に入ったのでした。  かれはアキレスけんを痛めていたのですが、それでも春の合宿に参加しました。館山の砂浜で足を引きずりながら走っていた瀬古選手に向かって、陸上部監督に就任したばかりの中村さんが、突然「お前はマラソンだ。わしの言うとおりにすれば世界に通用する選手になる」とズバリ断言したのです。中村さんは瀬古選手に初めて会ったときの印象をこう話しています。「目ですね。びっくりしました。あんな迫力を感じたのは初めてでした」と。(朝日新聞記事による)  その瞬間から、二人のマラソン人生が始まったのです。まことに「啐啄同時」であり、ほんとうの師と弟子との出会いとはこんなものなのです。  仏道においても、その他の学問や、芸術や、技能の世界においても、その気合というか、呼吸というものは、同じです。指導に当たる者は、弟子のすぐれたところを鋭く発見してやる。弟子は弟子で、単に受け身の態度でいるのでなく、自ら殻を破って外へ出ようという積極的な意志を持つ。そこに「啐啄同時」の呼吸が生まれるのです。 子供の自己拡大意識は  この呼吸は、親子の間柄にも通ずる大事なものです。近ごろは、幼少年の自閉症とか、登校拒否とか、非行化とか、家庭内暴力とか、さまざまな悲しむべき問題が起こっており、それも親の過保護に原因があるものが多いと聞いています。過保護というのは、さまざまな段階において、子供の自己主張とか、自己拡大の意識を抑えつけていることにほかなりません。  もちろん、赤ん坊の時代には絶対に保護が必要です。しかし、その時代を過ぎて幼児期に入るころから、何かを自分でやりたい、自分の世界を押し広げたいという意識を少しずつ持つようになります。そこのところを、親は目ざとくとらえなければならないのです。  母鶏も二十一日間はじっと卵を温め、保護しています。ところが、二十一日たつと、殻の中でひながかすかにチチと鳴く。それは殻を破って外へ出たい、つまり自己拡大の意思表示なのです。人間の幼児にも、少年にも、そういう徴候が必ずあるのです。  そのとき親が、思い切って殻をつついて破ってやることが大事なのです。それをやらないのが過保護であり、かえって思いがけない悪結果を生むのです。こういう点に「啐啄同時」という言葉は現代にも生きているものと信じます。 題字 田岡正堂...

仏教者のことば45

片海・市河・小湊の磯のほとりにて昔見しあまのりなり。色形味わいも変らず、など我父母変らせ給いけんと、方違(かたたが)えなる恨めしさ、涙抑え難し。  日蓮聖人・日本(新尼御前御返事)

1 ...仏教者のことば(45) 立正佼成会会長 庭野日敬  片海・市河・小湊の磯のほとりにて昔見しあまのりなり。色形味わいも変らず、など我父母変らせ給いけんと、方違(かたたが)えなる恨めしさ、涙抑え難し。  日蓮聖人・日本(新尼御前御返事) 孝行の根源は「懐かしさ」に  故郷の房州からのりを身延へ贈り届けられたのに対する礼状の一節です。当時の良心的な宗教家の常として、修行のため、布教のため、あるいは法難に遭って遠隔の地に流されたりして、ほとんど父母と共に生活することのできない一生でした。  しかし、聖人の両親に対する思慕の念は非常に深く、この手紙の「父母は、どんなにお変わりになっただろうかと、せっかくの贈り物に方向違いの思いを起こしたりして申し訳ありませんが、父母のおそばにいられぬわが身が恨めしく、涙を抑えることができません」という言葉に、その真情があふれています。  戦後の日本で、親子の断絶ということが言われ出してから、ずいぶんになります。その原因については、いろいろ論議されていますけれども、わたしは、現代人があまりにも功利的な、計算ずくのものの考え方に偏してしまい、心の美しさ、魂の純粋さを失いつつあるのが一番大きな原因だと考えるのです。  孝行といえば、何となく倫理・道徳の型にはまった感じで、近ごろの若い人はこの言葉に反発を覚えるようですが、孝行の根源はもっと人間的な「懐かしさ」「慕わしさ」にあるのです。この感情こそ、人と人とを結びつける最も強い絆(きずな)です。その絆が、血を分けた親子の間にも失われつつあるというのは、何よりも悲しいことではないでしょうか。  そこで、わたしは、社会一般や教育の場で、心の美しさを育てる風潮を取り戻すと同時に、親(とくに父親)は子供に懐かしがられるような親になって欲しい、と願われてならないのです。 背いてもやまぬ思慕を  男の子はいつかは親のそばを離れて独立し、女の子は他家に嫁入りしてやはり親許から去る……これは生物としての宿命です。その寂しさに親は耐えなければなりません。しかし、人間であるからには、どんなに離れていても、心の通い合いはいつまでも変わりなくあるべきです。親はつねに子を思い、子はつねに親を慕う……その典型が日蓮聖人にあると思うのです。  宮沢賢治が昭和三年に上京するとき、お母さんは「どうぞ行かないで……」と両手を合わせて止めようとしましたが、賢治はそれを振り切って上京しました。日蓮聖人も、故郷を出られるとき、父母が「手をすりて制し」たと書いておられますが、男の子が広い社会に飛び立つときは往々にしてこんな状況になるものなのです。しかし、東京で肺炎を起こして命も危ないというとき、賢治は父母にこんな遺言状を書いています。  「この一生の間、どこのどんな子供も受けないような厚いご恩をいただきながら、いつもわがままでお心に背き、とうとうこんなことになりました。今生で万分の一もついにお返しできませんでしたご恩は、きっと次の生、またその次の生でご報じいたしたいと、それのみ念願いたします。どうか信仰というのではなくてもお題目で私をお呼び出しください。そのお題目で絶えずおわび申し上げお答えいたします」  日蓮聖人や、賢治のご両親のように、子からこれほど恩を感じられ、慕われる親こそ、ほんとうに幸せな親だとは思いませんか。そして、真の親子とはこのようなものだとは思いませんか。 題字 田岡正堂...