人間釈尊(33)
立正佼成会会長 庭野日敬
阿難はこうして侍者となった
それまでの侍者たちは
順序が逆になりましたが、ここで阿難が常随の侍者となったいきさつについて述べておきましょう。
それまでは、いろいろな比丘がお身の回りの世話やお使いなどをしていましたが、どれもこれも思わしくありませんでした。
ナーガサーラーという比丘などは、こんないたずらをしたのです。雨の降る夜でした。お釈迦さまは雨が降っても夜の経行(歩きながらの瞑想。座禅などの疲れをとるためにも行われる)を怠られることはありませんでしたが、その夜も雨具をつけて経行しておられました。
ナーガサーラー比丘は早く自分の房に帰ってゆっくりしたいので「もうおやめになっては……」と再三申し上げましたが、世尊は黙ってお続けになり、夜が更けてもいっこうおやめになりません。そこで彼は子供じみた一策を案じ、衣を頭からかぶって暗闇の中にかくれ、「ウォー、ウォー」と気味の悪い声を出して妖怪の真似をしたのです。もちろん、それにびっくりされるような世尊ではなく、彼の企ては失敗に終わったのでした。
また、ある比丘はお釈迦さまの用具(カミソリとか、鉄鉢とか、水こし袋など)を勝手に使うくせがありました。ある時など、外へ持ち出していたところを盗賊に襲われ、その用具を奪われてしまったばかりか、頭をさんざんなぐられて死にそうになったこともありました。
これが近い動機になり、老年にもなられたこともあって、常随の侍者が欲しいとお考えになりました。そして、王舎城の竹林精舎で上座の比丘たちを集めてご相談なさいました。憍陳如・阿説示・舎利弗・目連・摩訶迦葉・摩訶迦旃延といった十数人の長老たちでした。
阿難が出した三つの条件
まず憍陳如が「わたくしがお仕えいたしましょう」と申し出ました。彼は世尊の苦行時代からご一緒した者で、鹿野苑で教化された五比丘の一人でした。「いや、そなたはわたしより年上で、もう老境に入っている。自分一人のことをやれば十分です」とおおせられました。
その他の人々も、「わたくしが……」「わたくしが……」と申し出ましたが、「そなたたちは、わたしと共に教えを広めることに力を尽くすのが役目です」と言ってお断りになります。
教団の総世話役ともいうべき立場にあった目連は、ふと阿難のことを思い出しました。まだ年は若いし、性質はいいし……そう考えて世尊に申し上げると、「あれならいいだろう」というお答えでした。
そこで目連は阿難の所へ行ってその旨を伝えました。阿難は、「わたくしのような者が……」と、何度も何度も辞退しました。しかし、目連は、「世尊は東の窓から差しこむ朝日のようなお方です。その光は必ず部屋の西の壁を照らします。あなたはその西の壁のように直接世尊のみ光を受ける身になれるのですよ」と言い、とうとう阿難を説得しました。
阿難は三つの条件をつけて承諾したのでした。それは、
(一) 世尊の新旧の衣や食物を頂戴しないこと。
(二) 世尊が在家信者に招待される時は、必ずしもお供しないでよいこと。
(三) いつでも世尊のおそばに行ってお給仕できること。
(三)は当然のことですが、(一)と(二)は条件としては逆のように思われます。ここに阿難の清潔な人柄がよく表れているとは思いませんか。
こうして、爾来二十五年にわたる親子のような師弟の生活が出発したのです。時に世尊が五十五歳、阿難が二十七歳でありました。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎
立正佼成会会長 庭野日敬
阿難はこうして侍者となった
それまでの侍者たちは
順序が逆になりましたが、ここで阿難が常随の侍者となったいきさつについて述べておきましょう。
それまでは、いろいろな比丘がお身の回りの世話やお使いなどをしていましたが、どれもこれも思わしくありませんでした。
ナーガサーラーという比丘などは、こんないたずらをしたのです。雨の降る夜でした。お釈迦さまは雨が降っても夜の経行(歩きながらの瞑想。座禅などの疲れをとるためにも行われる)を怠られることはありませんでしたが、その夜も雨具をつけて経行しておられました。
ナーガサーラー比丘は早く自分の房に帰ってゆっくりしたいので「もうおやめになっては……」と再三申し上げましたが、世尊は黙ってお続けになり、夜が更けてもいっこうおやめになりません。そこで彼は子供じみた一策を案じ、衣を頭からかぶって暗闇の中にかくれ、「ウォー、ウォー」と気味の悪い声を出して妖怪の真似をしたのです。もちろん、それにびっくりされるような世尊ではなく、彼の企ては失敗に終わったのでした。
また、ある比丘はお釈迦さまの用具(カミソリとか、鉄鉢とか、水こし袋など)を勝手に使うくせがありました。ある時など、外へ持ち出していたところを盗賊に襲われ、その用具を奪われてしまったばかりか、頭をさんざんなぐられて死にそうになったこともありました。
これが近い動機になり、老年にもなられたこともあって、常随の侍者が欲しいとお考えになりました。そして、王舎城の竹林精舎で上座の比丘たちを集めてご相談なさいました。憍陳如・阿説示・舎利弗・目連・摩訶迦葉・摩訶迦旃延といった十数人の長老たちでした。
阿難が出した三つの条件
まず憍陳如が「わたくしがお仕えいたしましょう」と申し出ました。彼は世尊の苦行時代からご一緒した者で、鹿野苑で教化された五比丘の一人でした。「いや、そなたはわたしより年上で、もう老境に入っている。自分一人のことをやれば十分です」とおおせられました。
その他の人々も、「わたくしが……」「わたくしが……」と申し出ましたが、「そなたたちは、わたしと共に教えを広めることに力を尽くすのが役目です」と言ってお断りになります。
教団の総世話役ともいうべき立場にあった目連は、ふと阿難のことを思い出しました。まだ年は若いし、性質はいいし……そう考えて世尊に申し上げると、「あれならいいだろう」というお答えでした。
そこで目連は阿難の所へ行ってその旨を伝えました。阿難は、「わたくしのような者が……」と、何度も何度も辞退しました。しかし、目連は、「世尊は東の窓から差しこむ朝日のようなお方です。その光は必ず部屋の西の壁を照らします。あなたはその西の壁のように直接世尊のみ光を受ける身になれるのですよ」と言い、とうとう阿難を説得しました。
阿難は三つの条件をつけて承諾したのでした。それは、
(一) 世尊の新旧の衣や食物を頂戴しないこと。
(二) 世尊が在家信者に招待される時は、必ずしもお供しないでよいこと。
(三) いつでも世尊のおそばに行ってお給仕できること。
(三)は当然のことですが、(一)と(二)は条件としては逆のように思われます。ここに阿難の清潔な人柄がよく表れているとは思いませんか。
こうして、爾来二十五年にわたる親子のような師弟の生活が出発したのです。時に世尊が五十五歳、阿難が二十七歳でありました。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎