人間釈尊(34)
立正佼成会会長 庭野日敬
仏道の門を女性にも開く
出家を決意した貴婦人たち
お釈迦さまの仰せには何事でもハイ、ハイと従っていた阿難が、生涯にたった一度だけつよく反論し、ついに世尊を説得してしまったことがあります。それも女性に関することでしたから、やはり生来のフェミニストだったのでしょう。
お釈迦さまの成道から五年後、父君の浄飯王が亡くなられました。王の後添いであった摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)は、天涯孤独ともいうべき境遇になってしまいました。
というのは、赤ちゃんの時から成年に至るまで愛育した太子(のちの釈尊)は早く出家しておられましたし、浄飯王との間に出来た実子の難陀も、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた孫の羅睺羅(釈尊の実子)も、すでに出家してしまっていたからです。
俗世でのいきがいをすっかり見失ってしまった彼女は、王の葬儀をすませるとすぐ世尊のもとへ行き、出家してお弟子になりたいと申し出ました。が、世尊は頑としてお許しにはなりませんでした。
泣く泣く王宮に帰るには帰ったものの、どうしても思い切れません。嫁の耶輸陀羅(やしゅだら)妃も、夫と愛児に出家されて寂しい人生を送っていましたので、摩訶波闍波提の決意を聞いてパッと顔を輝かせ、「ぜひお供を……」と言うのでした。その話はすぐ一族の女性たちの間にひろがり、「わたしも」「わたしも」と、十数人の同志ができました。
みんなはそろって黒髪を剃りおとし、黄衣を身につけ、素足のままで住みなれたカピラバスト城を後にしました。そのとき世尊がおとどまりのヴァイシャーリーまでは二百数十キロの道のりです。
それまでは王宮の奥深く住み、外出には美々しい輿(こし)に乗り、世間の人に顔を見せたこともない貴婦人たちが、石ころだらけの道をはだしの足に血を滲ませながらの旅です。昼間は烈日の下を沿道の人々の好奇の眼にさらされ、夜は冷えこむ路傍で着のみ着のままの野宿。それでも必死に耐え忍んだのでした。
阿難の懸命のとりなしで
一行がお釈迦さまのおられる精舎の門前にたどり着いたのは日暮れどきでした。異様の女たちが来たと聞いて阿難が出てみると、埃にまみれてよろめいているその人たちはまぎれもなく世尊の養母摩訶波闍波提、かつての妃耶輸陀羅をはじめ一族の人たちです。
「どうしたのです。そのお姿は……」
「世尊のお弟子にさせて頂きたいと決心し、家を捨ててまいったのです」
阿難はすぐさま世尊のもとへ参って、そのことを申し上げました。世尊は、
「それはならぬ。女人は出家の修行には耐えられない。それに、教団の規律が乱れる恐れがある。追い返しなさい」
と、非常に厳しいご態度です。阿難は、この時ばかりは、思い切って言葉を返しました。
「世尊はいつも人間はすべて平等であるとお説きになります。み教えに従えばすべての人間が仏の悟りを得られるとお説きになります。それなのに、女人をそれから除外されるのは矛盾ではございませんでしょうか」
「うむ。……それはそなたの言うとおりだが、出家者として教団の人となるには規律を厳守しなければならぬ。女人にはそれが不可能なのだ」
「それでは、もし規律を厳守することを誓えばお許しくださいますか」
世尊は黙然としておうなずきになりました。
阿難がすぐさま門外に出てその旨を伝えますと、一同は感極まって泣くばかりでした。
これが比丘尼教団の発端なのであります。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎
立正佼成会会長 庭野日敬
仏道の門を女性にも開く
出家を決意した貴婦人たち
お釈迦さまの仰せには何事でもハイ、ハイと従っていた阿難が、生涯にたった一度だけつよく反論し、ついに世尊を説得してしまったことがあります。それも女性に関することでしたから、やはり生来のフェミニストだったのでしょう。
お釈迦さまの成道から五年後、父君の浄飯王が亡くなられました。王の後添いであった摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)は、天涯孤独ともいうべき境遇になってしまいました。
というのは、赤ちゃんの時から成年に至るまで愛育した太子(のちの釈尊)は早く出家しておられましたし、浄飯王との間に出来た実子の難陀も、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた孫の羅睺羅(釈尊の実子)も、すでに出家してしまっていたからです。
俗世でのいきがいをすっかり見失ってしまった彼女は、王の葬儀をすませるとすぐ世尊のもとへ行き、出家してお弟子になりたいと申し出ました。が、世尊は頑としてお許しにはなりませんでした。
泣く泣く王宮に帰るには帰ったものの、どうしても思い切れません。嫁の耶輸陀羅(やしゅだら)妃も、夫と愛児に出家されて寂しい人生を送っていましたので、摩訶波闍波提の決意を聞いてパッと顔を輝かせ、「ぜひお供を……」と言うのでした。その話はすぐ一族の女性たちの間にひろがり、「わたしも」「わたしも」と、十数人の同志ができました。
みんなはそろって黒髪を剃りおとし、黄衣を身につけ、素足のままで住みなれたカピラバスト城を後にしました。そのとき世尊がおとどまりのヴァイシャーリーまでは二百数十キロの道のりです。
それまでは王宮の奥深く住み、外出には美々しい輿(こし)に乗り、世間の人に顔を見せたこともない貴婦人たちが、石ころだらけの道をはだしの足に血を滲ませながらの旅です。昼間は烈日の下を沿道の人々の好奇の眼にさらされ、夜は冷えこむ路傍で着のみ着のままの野宿。それでも必死に耐え忍んだのでした。
阿難の懸命のとりなしで
一行がお釈迦さまのおられる精舎の門前にたどり着いたのは日暮れどきでした。異様の女たちが来たと聞いて阿難が出てみると、埃にまみれてよろめいているその人たちはまぎれもなく世尊の養母摩訶波闍波提、かつての妃耶輸陀羅をはじめ一族の人たちです。
「どうしたのです。そのお姿は……」
「世尊のお弟子にさせて頂きたいと決心し、家を捨ててまいったのです」
阿難はすぐさま世尊のもとへ参って、そのことを申し上げました。世尊は、
「それはならぬ。女人は出家の修行には耐えられない。それに、教団の規律が乱れる恐れがある。追い返しなさい」
と、非常に厳しいご態度です。阿難は、この時ばかりは、思い切って言葉を返しました。
「世尊はいつも人間はすべて平等であるとお説きになります。み教えに従えばすべての人間が仏の悟りを得られるとお説きになります。それなのに、女人をそれから除外されるのは矛盾ではございませんでしょうか」
「うむ。……それはそなたの言うとおりだが、出家者として教団の人となるには規律を厳守しなければならぬ。女人にはそれが不可能なのだ」
「それでは、もし規律を厳守することを誓えばお許しくださいますか」
世尊は黙然としておうなずきになりました。
阿難がすぐさま門外に出てその旨を伝えますと、一同は感極まって泣くばかりでした。
これが比丘尼教団の発端なのであります。
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎