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経典のことば(21)
立正佼成会会長 庭野日敬

雑(ぞう)毒薬をもって太鼓に塗り、大衆の中においてこれを撃ちて声を発(おこ)さしむるがごとし。聞かんと欲する心無しといえども、これを聞けばみな死す。
(大般涅槃経・如来性品)

潜在意識は忘れない

 これは大般涅槃経の功徳を説かれた一節ですが、法華経その他の経典にもそのまま通ずる「経力(真理のことばの霊妙な力)」のはたらきを解き明かしたものと考えていいでしょう。
 いろいろな毒薬を太鼓に塗りつけ、それを多くの人びとの中で打ち鳴らせば、たとえ聞こうとする心はなくても音は自然と耳に入りますから、人びとはその毒に当てられてみんな死んでしまう……というのです。
 死んでしまうのに功徳とは? と不審に思う人もあるかと思いますが、じつは逆のことが言ってあるのです。仏法の教えを大衆に向かって説きますと、それを聞こうという気持ちのない人があっても、その一言一句はどうしても耳に入ります。表面の心では反発を感ずる人もありましょうし、サラリと聞き流す人もありましょう。
 しかし、現代の心理学でも証明しているように、人間が経験する物事は、表面の心では忘れてしまっても、潜在意識には一つ残らず刻みつけられて消滅することはないのです。そしてある機会にふと表面の心に浮かび上がり、それが現実の行為となってあらわれるものなのです。
 仏教ではそういった「経験」を「阿頼耶識(あらやしき=深層の潜在意識)に植えつけられた種子(しゅうじ)」と名づけ、その種子はある因縁に会うことによって表面の心に芽を出すのだ……と、現代の心理学とそっくりのことを言っています。
 そこで、一度でも仏教の説法を耳にした人は、その場ではさほどの感銘も受けずに過ごしても、いつか何かの機縁に触れてフッとその記憶がよみがえり、仏法に心を引かれるようになるものです。それほどハッキリとは思い出さなくても、無意識のうちにその「さとり」の方向へ、その「救い」の方向へ近づくような心身の歩みを起こすことが多いのです。

布教にムダはない!

 法華経の方便品に、ある人が「散乱の心に(いい加減な気持ちで)」仏の画像に花を供えたり、ほんの少し頭を下げて片手拝みに仏像を拝んだりしても、その人はいつか必ずさとりを得ると説かれています。
 現代でも、宗教にはほとんど関心のない人でも、元日には初もうでをしたり、お彼岸やお盆には墓参りをしたりします。これらは、一見ただ儀礼的にしているようでも、心の底の底にはやはり「目に見えない大いなる存在に抱(いだ)かれたい」「天地の真理に合一したい」という願いが潜んでいるからなのです。そしてそういう願いの起こるのは、先祖代々の人びとが聞いた、あるいは信仰した真理の教えが、潜在意識に刻みつけられておればこそなのです。
 作家の水上勉さんは≪悲しみの復権≫という随筆の中で標記のことばをそっくり引用され、そのあとに「怒りや、喜びなどの価値よりも、≪悲しみ≫の方に大きな価値があると太鼓をたたく者があれば、そっちの仲間へもぐりこみたい」と書いておられます。もぐりこみたいどころではなく、水上文学がどれほど多くの日本人の胸の奥に眠っていた「同悲の心」を呼びさましたことか。すばらしい太鼓だと思います。
 ともあれ、われわれ仏教徒は、片時も布教ということを怠ってはならないのです。いい加減に聞き流す人もありましょうし、そっぽを向く人もありましょうが、けっしてムダには終わりません。聞く人の阿頼耶識にしみついた種子はいつかは必ず芽を吹くのです。その意味で、標記のことばをよく記憶していただきたいものです。
題字と絵 難波淳郎

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