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経典のことば(19)
立正佼成会会長 庭野日敬

諸仏如来はこれ法界身(ほっかいしん)なり。一切衆生の心想の中に入りたもう。この故に汝ら心に仏を想うとき、この心すなわちこれ三十二相、八十随形好(ずいぎょうごう)なり。このこころ仏を作る、このこころこれ仏なり。
(仏説観無量寿経)

仏を想い心にえがく

 マガダ国のアジャセ太子は提婆達多にそそのかされて大それたことをもくろみました。お釈迦さまに深く帰依している父王ビンビシャーラを殺して王座を奪い、提婆に新教団を作らせ、政治と宗教両面に権力を得ようとしたのです。
 そして父を牢獄に幽閉し、食物を一切与えぬよう番兵どもに厳命しました。妃のイダイケ夫人は、毎日面会に行くとき乾飯(ほしいい)の粉を蜜で練って全身に塗り、首飾りの玉の中にぶどう液を入れて行き、それらで夫の命を長らえさせたのでした。そのことを知った太子は激怒して母后を刺し殺そうとしましたが、重臣たちにいさめられて思いとどまり、これまた牢獄に閉じこめてしまいました。
 獄中で悶々の日を送っていたイダイケ夫人は、ふと高窓から見上げた霊鷲山にお釈迦さまがいられることを思い出し、はるかに伏し拝んで一心に救いを求めました。その切ない願いがお釈迦さまに感応し、哀れとおぼしめされたので、折から説いておられた法華経の説法を一時中止され、目連・阿難を従えて獄内に姿をお現しになりました。そして夫人のためにお説きになったのが、浄土三部経の一つである観無量寿経です。
 夫人が「こんな汚れた世の中がつくづくいやになりました。来世には阿弥陀仏の世界に生まれとうございます。それにはどんなことを思いめぐらせばよろしうございましょうか」とお尋ねしたのに対して、まず心の持ち方と行いの道についてお説き聞かせになってから、「仏を想い仏を心にえがくこと」が信仰にとって欠いてはならぬ大事であることと、その方法についてくわしくお教えになりました。その最初の一節が標記に掲げたおことばです。

仏像礼拝は偶像崇拝に非ず

 ここに説かれておりますように、仏とはこの世界全体に充ち満ちている目に見えぬ存在(法界身)です。したがって、すべての人の心にもチャンと内在しておられるのです。ですから、われわれが仏さまを想えば、そこに仏さまが現れたもうのです(三十二相・八十随形好は仏の尊いお姿)。
 それはちょうど電波とテレビの画面のような関係にあると言っていいでしょう。電波は目には見えないけれど、われわれの家の中にも入りこみ、充ち満ちています。しかし、受像機のスイッチを入れなければ、またスイッチは入れてもチャンネルを合わせなければ、望みの局の音声も画像も現れません。
 それと同じように、われわれがさまざまな欲望に魂を奪われ、心を波立たせているときは、仏さまはチャンと内在しておられるのにそれと波長が合わないために、心身への救いが現れてこないのです。
 では、どうすれば心の波長を仏さまに合わせることができるのか。標記のことばの後に「かの仏を想わん者はまずまさに像を想うべし」と述べられています。これはきわめて初歩の段階ではありますが、非常に大切なことなのです。
 「仏を想う」といっても、もともと形のない存在ですから、どう想っていいのか見当もつきません。そこでまず仏像に現されたお姿を心にえがくことから入るべきだと教えられているわけです。
 こうして仏像の慈顔に心の焦点を合わせてから、智慧と慈悲に満ちた仏さまのみ心に思いをめぐらしていけば、しだいに波長が合っていくわけです。ですから、仏像を拝むのもけっして偶像崇拝ではないのです。
題字と絵 難波淳郎

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