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経典のことば(24)
立正佼成会会長 庭野日敬

若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん。
(法華経・法師功徳品)

形而上は形而下に通ず

 新しく生まれた電信電話会社の社長・真藤恒さんは、電電公社総裁時代から、おおむね評判のよくないわが国の官公庁・公団・公社などの中にあって、さまざまな思い切った新機軸を出し、名総裁とうたわれた人ですが、さきごろNHKの鈴木健二アナウンサーのインタビューに対して、こんなことを話していました。
 それは、以前造船の仕事で苦労していたころ、ふと「自分には形而上的(けいじじょうてき)なもの(筆者注・現象を超越し、その背後にある本質を究めようとする考え、宇宙の成り立ち・神・霊魂などが主要問題)の根底がないのではないかと気づき、たまたま神田の古本屋で道元禅師の『正法眼蔵』を見付け、求めて読んだら大いに啓発された。そして、それが事業の上にたいへん役立ち、苦境を乗り越えることができた……という意味の話でした。
 これを聞いてすぐ頭に浮かんだのは、法華経にある標記のことばです。俗間(ぞっけん)の経書というのは、宗教書以外の哲学・文学・評論など人生の諸問題を説く本をいいます。治世(じせ)の語言(ごごん)とは政治・経済・外交・法律・社会問題のような、世を治めることがらについて考究する言論のことです。資生(ししょう)の業を説くというのは、農・工・商など人間の物質生活を与える産業や職業について論じたり、アドバイスしたりすることです。
 この句の前に「もし信仰深い男女がこの教えを受持し、読誦し、人のために解説し、書写したならば、次のような功徳を得るであろう」という前置きがあります。
 つまり、仏法の教えを素直に信じ実践している人は、実生活上のことがらについて説いてもおのずからそれが仏法に一致してくる……というわけです。人に説く場合にかぎらず、自分自身の事業や生活についてもそのとおりのことが実現するのは言うまでもありません。

真理のレールに乗るから

 仏法を学んだり信仰したりするのは、ともすればたんなる心の救いのためと考えられがちです。現実の生活とは離れた世界のことと思われがちです。それも一応は正しい考えだといえましょう。四六時中暮らしの現実に追われている人間にとって、心の救い、魂の浄まりを求めるのは大事なことですから。
 しかし、仏法とは心の世界のみにとどまるものではありません。そんな狭いものではないのです。宇宙の万物・万象に通ずる真理・法則、それが仏法なのですから、それはそのまま現実生活のすべての問題に当てはまるのです。
 したがって、しっかりと仏法を学び、素直な心でそれを信奉している人は、言うこと為すことがひとりでにその真理・法則のレールの上に乗るわけですから、万事スムーズに運び、生々発展するのは当然のことなのです。
 真藤恒さんが『正法眼蔵』のどういうところに啓発されたかは知りませんが、道元禅師は法華経に深く傾倒していた方ですから、おそらく法華経の説く世界観・人間観と同じような言説に悟りをひらき、それを事業と人生の道しるべとされたものと推測されます。
 古くは伝教大師が「衣食(えじき)に道心なし。道心に衣食あり」と喝破したのも、最近の識者たちが「これからの社会で事を成す人は自身の哲学を持つ人である」と断じているのも、右のような道理にほかなりますまい。哲学といえば難しげに聞こえますが、つまりは確固とした精神の背骨のことと考えていいでしょう。法華経こそはその背骨をつくる教えだとわたしは確信しています。
題字と絵 難波淳郎

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