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経典のことば(22)
立正佼成会会長 庭野日敬

もろもろの苦悩を脱せんと欲すれば、まさに知足を観ずべし。知足の法はすなわちこれ富楽(ふぎょう)安穏(あんのん)の処なり。足るを知る人は地上に臥(ふ)すといえどもなお安楽なりとす。
(遺教経)

「しかない」か「もある」か

 芭蕉の句に
 春立つや新年ふくべ米五升
というのがあります。
 新しい年を迎えて、ふくべ(瓢)の中に米が五升あるというのですが、これを詠んだ芭蕉の気持ちは「新年というのに五升しかない」というのでしょうか。それとも「五升もある」というのでしょうか。もちろん後者です。米が五升もある。ゆったりしたお正月ができるぞ……という満ち足りた、豊かな気持ちです。
 五升(いまの計量でいえば約七・五キロ)という絶対量に変わりはありません。それを「しかない」と思うか「もある」と思うかによって、天地ほどの違いが感情のうえに生ずるのです。「しかない」と思えば、不安がわきます。焦躁(そう)も生まれます。劣等感を覚えることさえありましょう。「もある」と思えば、とたんに幸せな、やわらいだ、満足感を覚えます。人間の感情というものはじつに不思議な生きものです。
 標記のことばは、そういった感情のはたらきを心に定着させ、いわゆる「情操」として持っているならば、つねに満ち足りた気持ちで人生を送ることができる、それがほんとうの豊かさだということを教えられたものです。

二十世紀への遺言か

 「知足」というのは、足るを知る心、つまり満足感ということです。ところで、物質生活においてこうした満足感を覚えるためには、欠くことのできない前提があります。それは「少欲」ということです。標記のことばの前にも、こう説かれています。
 「多欲の人は利を求むること多きがゆえに苦悩もまた多し。少欲の人は求むることなく、欲することなければ、すなわちこの患(うれい)なし」
 欲求が少なければ、少ない物質にも「足るを知る」ことができる、というわけです。さきに紹介した芭蕉の生活感覚などがそれでしょう。その最高の典型をお釈迦さまに見ることができます。お釈迦さまの財産といえば、一枚の衣(ころも)と鉄鉢一つでした。しかも、法華経譬諭品に「今此の三界は皆是れ我が有なり」とあるように、宇宙全体がわたしのものだと考えておられたのです。まことに、世界第一の「富める人」だったのです。
 普通の生活をしている二十世紀のわれわれは、お釈迦さまの真似などとうていできません。しかし「少欲知足」というその教えは、ますます重みが増しつつあるのです。多くの人が欲求不満のために、イライラした日々を送り、それが高じてあるいはノイローゼになり、あるいは家庭不和を生み、あるいは犯罪に走るという現代の苦悩から脱する道は、ただ一つ「少欲知足」よりほかにないのではないでしょうか。
 さらに拡大して考えますと、これからの地球上は、資源は枯渇する一方ですし、食糧の生産は人口の増加に追いつかなくなることは必至ですし、人類が生き抜くためには、これまた「少欲知足」をつらぬくよりほかに道はありますまい。
 この遺教経というお経は、その名のとおり、お釈迦さまがご入滅直前に遺言として説かれたものと伝えられています。表面は残されるお弟子たちへの戒めの形になっていますけれども、今になってみますと、二十世紀から二十一世紀にかけての人類のための遺言だったのではないか……と思われてなりません。
 まことに「少欲知足」こそ、個人をも、人類全体をも救う最重要の大道だと断じていいと思います。
題字と絵 難波淳郎

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