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法華三部経の要点114

観普賢経の重要な言葉(二)

1 ...法華三部経の要点 ◇◇114 立正佼成会会長 庭野日敬 観普賢経の重要な言葉(二) 煩悩に溺れなければよい  目を閉ずれば則ち見、目を開けば則ち失う。  普通の生活をしている信仰者は、朝夕の読経とか、唱題行とか、仏教書を一心に読んでいるときなどは、心が静かに深まり、一つに集中していますので、なんともいえない心の底からの喜びを覚え、仏さまの存在もマザマザと感得できます。それが「目を閉ずれば則ち見」です。  ところが、ひとたび日常の生活に戻れば、つい利己心のとりこになったり(貪)、わがままな気持ちから怒ったり(瞋)、本能の衝動に振りまわされて愚かな行動をしたり(痴)します。そんなときは仏さまの存在をも見失い、仏さまの教えをも忘れています。それが「目を開けば則ち失う」です。ですから、折に触れて反省・懺悔することが必要なのです。  菩薩の所行は結使を断ぜず使海に住せず。  この場合の菩薩とは、在家の生活をしていながら、至高の悟りを求め、人を救い世を救う行動に挺身する人びとをいいます。在家の生活をしていますと、煩悩をすっかり断ち切ってしまうのは事実上不可能です。出家修行者に対する教えでは煩悩を滅除することが強調されていますので、生真面目(きまじめ)な在家信仰者は、それを真(ま)に受けて自らの煩悩について思い悩みます。  そこでお釈迦さまは、右の句をお説きくださったものと思われます。結使というのは煩悩のことですが、「在家の信仰者は煩悩をすっかり断ち切っていなくてもいいのだ。ただ、煩悩の海(使海)にドップリ浸って溺(おぼ)れないように心がければいいのだ」というのです。じつに現実に即したありがたい教えです。  何者か是れ罪、何者か是れ福、我が心自ら空なれば罪・福も主なし。  この世のすべてのものごとは本来空なのだから、自分の心が罪とか福とかいうものにひっかからなければ、罪も、福も、もともと実体があるものではないのだから、振りまわされたり影響を受けることもないのだ……というのです。そして、自由自在な境地に遊ぶことができるわけです。 影響力の大きい者の懺悔  若し王者・大臣・婆羅門・居士・長者・宰官、是の諸人等貪求(どんぐ)して厭くことなく、五逆罪を作り、方等経を謗し、十悪業を具せらん。是の大悪報、悪道に堕つべきこと暴雨にも過ぎん。必定して当に阿鼻地獄に堕つべし。  現代語に意訳しますと、「もし元首とか、政府高官らが、宗教者や教育者などの指導的立場の人とか、知識人とか、大会社の経営者とか、上級職の役人とかいうような社会的地位の高い者が、あるいは物質や名誉や、他者の奉仕などを貪り求めて飽くことなく、あるいは五つの大罪をつくり、あるいは大乗の教えをそしり、あるいは十の悪い行いをすれば、その人は罪業の報いによって、豪雨にもまさる勢いでまっさかさまに悪い世界へと堕落することはまちがいない。まったく救いのない地獄へ必ず落ちてしまうであろう」  説明の要はありますまい。現在の世相を見ればまさに歴然たるものがあります。 ...

法華三部経の要点115

懺悔は心に発し実践に終わる

1 ...法華三部経の要点 ◇◇115 立正佼成会会長 庭野日敬 懺悔は心に発し実践に終わる 在家仏教者の懺悔五ヵ条  懺悔ということの第一と第二の段階についてはこれまでに説明してきましたが、観普賢経に説かれる懺悔は非常に深遠で、夢に普賢菩薩を見るといった潜在意識の世界にまで踏み込んだものです。それで、たいていの人は、なんだか自分とはかけ離れた世界のことのように感じることもありましょう。そこで、その説法の結びにおいてお釈迦さまは、政治家などを含む在家の人間のための懺悔について、現実的な方法を五ヵ条に分けて次のようにお説きになっておられるのです。  一、在家の人は、どのようにして懺悔したらよいのかといえば、いつも正しい心を持ち、仏・法・僧の三宝をそしることなく、出家の修行の障害となることをしないことである。常に仏・法・僧・戒・施・天の六法を強く念じ、それらの道の実践につとめなければならない。また、大乗の教えを持(たも)つ人々の面倒をよく見、その人たちを尊敬することである。みずからも深遠な教えである「第一義空」を常に心にとどめていなければならない。これが在家の人びとの懺悔の第一の道である。  二、次に、父母に孝行をつくし、先生や目上の人を尊敬すること。これが第二の懺悔の法である。  三、次に、正法に基づいて国を治め、間違った考えによって人民を邪道へ曲がらせないこと。これが第三の懺悔である。  四、次に、月に六度の精進日(六斎日)には、自分の治めている土地に布告を出し、支配力の及ぶ限りの所で殺生が行われないようにすること。これが第四の懺悔の法である。  六斎日というのは、昔のインドの風習で、毎月八日・十四日・十五日・二十三日・二十九日・三十日には、在家の人々が心身の行いをつつしみ、清浄な生活をし、罪を反省し、善事を行うようにつとめることになっていました。つまり、消極的にも積極的にも精進する日だったわけです。 仏は滅したまわず  第五の懺悔がじつに大事です。あえて原文を掲げておきます。  第五の懺悔とは、但(ただ)当に深く因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし。是れを第五の懺悔を修すと名(なづ)く。  因果というのは、原因・結果の法則です。こういうことをすれば、こういう条件下においてこういう結果が出、そしてあとに必ずその影響を残すという因・縁・果・報の法則です。その法則を深く信じておれば、けっして悪いことはできず、つとめて善い行いをせずにはいられなくなります。  一実の道というのは、人間がたどるべきただ一つの道、すなわち仏になる道、菩薩道のことです。人間は好むと好まざるとにかかわらず、死に変わり生まれ変わりを繰り返しながら、仏の境地にまで向上しなければならないということを信じておれば、どうしてもその菩薩道を積極的に歩まざるをえなくなるのです。  仏は滅したまわざると知るべしというのは、久遠実成の本仏さまは不生不滅であり、常にわれわれと共にいてくださることを確信することです。これが信仰の極致であることはいまさら言うまでもありません。  この第五の懺悔の法には、短い文章の中に仏法の神髄が尽くされていると言っていいでしょう。この一節はぜひ暗記して、折に触れて暗誦してほしいものだと思います。  最後にこのお経を通観してみますと、懺悔というのは、「心」の反省から出発するものであるけれども、結局は「実践」に帰着するものであることがよくわかります。お互いさま、つとめて菩薩道に精進いたしましょう。  これで、この連載を終わることにします。汲(く)めども尽きぬ有り難い法華経をいつも受持したいものです。 (おわり) ...

経典のことば1

この小児の布施した土をもってわが房を塗れ(賢愚経 17)

1 ...経典のことば(1) 立正佼成会会長 庭野日敬 この小児の布施した土をもってわが房を塗れ (賢愚経 17) 土を布施しようとした子供  ある朝、お釈迦さまはいつものように阿難を連れて舎衛城を托鉢していらっしゃいました。  舎衛城といっても、インドでは外敵から守るために町全体が城壁に囲まれていて、その中には王宮もあれば、武士たちの館(やかた)もあれば、長者の邸(やしき)もあれば、さまざまの民家もあるのです。  インドの町では朝がいちばん活気を呈します。米や粟や麦を平たいザルに入れて並べている商店、さかんに客を呼んでいる香辛料の店、野菜をてんびん棒でかついで売りに来た農婦、羊の群れを追って草原へ急ぐ少年など、たいへんなにぎわいです。  その中を、お釈迦さまは静かにゆったりと歩いていらっしゃいます。それと知って、ていねいに手を合わせてごあいさつする者もあれば、そしらぬ顔で通り過ぎて行く者もあります。お釈迦さまは、どんな応対を受けようが、すこしも表情をお変えにならず、あいかわらずゆっくりと歩を進めていらっしゃいます。  ところが、ある広場にさしかかりますと、三、四歳ぐらいの子供たちが泥遊びをしていました。土を集めて水でこね、宮殿のようなものをつくったり、倉のようなものをつくったりしていました。倉の中には、小さく丸めた土を盛っています。米や麦のつもりです。  その中の一人が、お釈迦さまが来られるのを見ると、仲間たちに向かって、  「あの沙門の方にこの米や麦を布施しようではないか」  と言い出しました。仲間も、それがいい、それがいいと賛成しました。  お釈迦さまが目の前に来られるとその子は、「どうか、この米と麦をお受けください」と、もみじのような手いっぱいに土団子を盛って差し出しました。お釈迦さまは、ニッコリとほほ笑みながら立ち止まられました。 恭しくお受けになった釈尊  子供はたいへん小さく、お釈迦さまは人一倍長身のお方でしたので、手が届きません。子供は仲間の一人に、肩車をさせてくれといい、肩の上に乗りました。それでも、まだお釈迦さまのおなかのあたりの高さしかありません。  お釈迦さまは、身をかがめ、頭を低くして、恭しくその土団子を鉄鉢にお受けになりました。そして、それを阿難にお渡しになり、こうおっしゃいました。  「この土でわたしの房を塗りなさい」  祇園精舎に帰られますと、阿難はおいいつけどおり、お釈迦さまの部屋の一隅にその土を塗りました。ほんの少しの土ですから、ひとところを汚しただけですぐなくなりました。阿難が衣服をあらためて仏さまの前に進み、  「かえってお部屋の一隅を汚しただけでございます」と報告いたしますと、お釈迦さまは、  「それでいい。それでいい。あの子供が歓喜して施した土は、何よりも尊い布施なのである」とおおせられました。  わたしは賢愚経のここのくだりを読んだとき、思わず涙ぐんでしまいました。お釈迦さまはなんというお優しい方であろうか。小さな子供も人間としてひとしなみにごらんになる、なんという心の広い方であろうか。ひとの心情に対してなんという理解の深い方であろうか……と。  そして、布施というものの真実の意味をも、つくづくと思い知らされたのでありました。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば2

女人は顔貌の美しさをもって真の美とはしない。心が素直で行いのすぐれたのがほんとうの美しさなのである。(玉耶女経)

1 ...経典のことば(2) 立正佼成会会長 庭野日敬 女人は顔貌の美しさをもって真の美とはしない。心が素直で行いのすぐれたのがほんとうの美しさなのである。 (玉耶女経) 女性は神の最高傑作  祇園精舎を寄進した大長者の子息がめとった嫁の玉耶(ぎょくや)はたいへんな美人でしたが、わがままで、夫や舅・姑に対して高慢な振る舞いばかりしていました。どんなに教えさとしても改まらないので、お釈迦さまに教化をお願いしました。  お釈迦さまが長者の邸(やしき)にお着きになると家内一同がお出迎えしましたが、玉耶だけは奥の間に隠れて出てきません。お釈迦さまは神通力をもって目の前に引き寄せられました。玉耶はどうなることかと恐れおののき、真っ青になっておん前に座りました。  ところが、お釈迦さまは思いのほか優しいお顔で玉耶をごらんになりおだやかに、情理をつくして女性の生き方についてこんこんとお説き聞かせになりました。玉耶はうかがっているうちにしんそこから自分の非を悟り、それ以来すっかり人間が変わってしまいました。ここに掲げた言葉は、その長い説法のなかのいちばん肝心なところを抜いて意訳したものです。  多くの芸術家や詩人たちが、「女性こそは神が造りたもうた最高傑作である」とほめたたえています。それは決して表面の美だけを見て言っているのではありません。女性の深いところにひそむ永遠性を秘めたいのちと心の美しさをこそ賛嘆しているのです。こうした美しさをいまの女性たちは忘れているのではないでしょうか。 男性の真の憧れは「聖女」  男性はだれでも、一生に一度か二度はそうした「聖女」に巡り会い、いつまでもその記憶を珠玉のように胸に刻んで忘れないものです。わたしにもそういう経験があります。  水兵として軍艦に乗り組んでいたころのことです。何十日もの洋上訓練を終えて母港に帰ると、一定の民家に泊まって家庭的雰囲気を満喫させ、心身を休ませるという、味な制度が海軍にはありました。  わたしの宿の主婦鈴木千代美さんは、当時三十歳で小さなお子さんを持っておられましたが、親切で、きさくで、しかも知性豊かな美人でした。書籍・新聞・雑誌などをよく読んでいて、久びさに上陸したわたしたちに社会や政治のさまざまなニュースを解説入りでよく話してくれました。  わたしは姉を持たずに育ったので、何となく姉という存在に憧れていました。また、すでに母を失っていたので、無意識のうちに母性的なものに飢渇を覚えていたようです。その二つながらを鈴木さんは十分に満たしてくれたのですが、しかし、二十歳を過ぎたばかりの多感な青年にとっては、それをもう一つ超えた「聖女」的な思慕を覚えさせる人でした。そのほのぼのとした潤いに満ちた思い出は一生消えることはないでしょう。  わたしが結婚して漬物屋をしていたとき、鈴木さんが訪ねてきてくれたことがあります。夫婦で夜おそくまで明日売る煮豆を煮たり、サケの切り身を切ったりしながら、水兵当時の思い出話をし、温かい記憶をよみがえらせました。貧乏のどんぞこで余分の布団がなく、家内と鈴木さんが一つの布団に寝、わたしは座ったままウトウトして夜を明かしたのでした。  昭和十三年三月、立正佼成会を創立するとすぐ、わたしは鈴木さんを訪ね、会の青経巻を第一番に差し上げたのでした。  世に「永遠の男性」という言葉はなく、あるのは「永遠の女性」という言葉のみです。どうか現代の女性の皆さん、この事実をよく味わい直して頂きたい、と願われてなりません。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば3

たまたま一あればまた一を少(か)き、是れあれば是れを少く、斉等(さいとう)あらんことを思う。 (仏説無量寿経・下)

1 ...経典のことば(3) 立正佼成会会長 庭野日敬 たまたま一あればまた一を少(か)き、是れあれば是れを少く、斉等(さいとう)あらんことを思う。 (仏説無量寿経・下) 欲求不満で一生を送るか  このことばの前に、お釈迦さまは「世の中の人は、田が無ければ田が欲しいと心を悩まし、持ち家がなければ家が欲しいと心を悩ます。牛や馬、金銭、衣服、食物、家財道具などについてもそのとおりである」という意味のことをお説きになっています。  そして、ここにあるように「たまたま一つの物があれば、他の一つの物について不足感をおぼえ(少き)これがあればあれがないと欲求不満を起こす。そして、何もかも等しく揃えて持ちたい(斉等あらん)と望むものである」と、煩悩多き凡夫の心理を説破しておられます。  これにつづけて、大略つぎのように述べられています。  「このように心を悩ましてみても、なかなか思うとおりにならぬものである。それなのに、ただ物を追い求めて心身ともに疲れはて、善を行ったり、道を求めたり、徳を積むことを忘れ、そうしているうちに一生が終わってしまう。そしてただ一つの物さえ持たず、ひとりあの世へ去ってしまうのである」  あなたはこれを読んで、二千五百年前のインドと今日の日本と、いっこうに変わりはないのだなぁ……とは思いませんか。  マイホームが欲しい。無理をしてローンで家を建てる。今度は車が欲しくなる。ピアノも欲しい。ついサラ金から金を借りる。ローンとサラ金への支払いに頭を悩まし、妻は家事に疲れたからだにむちうってパートに出る。ローンの支払いが終わるころ夫は定年になる。老いがしのび寄る。そして死を迎える。  そのときになって、自分はいったい何のためにこの世に生まれ、これまで生きてきたのだろうか……と、むなしい思いにさいなまれても、時すでに遅いのです。  ですから、ここに掲げたことばは、「人生とは何か」「人間は何のために生きるのか」という大命題について深く考えさせられる、貴重この上もない一句だと思うのです。 子供にも「斉等」を望むな これはまた、教育の問題についても大きな示唆と教訓を含んでいると思います。  あなたはお子さんに対して「一あればまた一を少き」の思いをいだき、たとえば国語がよくできれば算数の点数の劣るのを不満とし、「斉等あらんこと」を願って、それ塾よ、家庭教師よと騒いではいらっしゃいませんか。そのようにすべての成績を均等に上げようとすることは、その子の個性を伸ばさず、かえって持ち前の天分を殺すものだとは思いませんか。  あの大発明家エジソンは、いわゆる変わった子でした。小学校に入学しても、一人で変な実験ばかりしていました。数学の時間に先生が「一たす一は二です」と教えると、「なぜ一たす一は二になるんですか」としつこく追求するというふうでした。先生は、この子は精神薄弱児だと判断し、母親を呼び出して「お宅のお子さんはほかの子供と一緒に教育はできません」と言い渡しました。  その母親が偉かったのです。子供の本性を見抜いていましたので、さっそく退学させて自宅で教育し、その異常なほどの探究精神を伸ばしてやりました。エジソンは学校には三ヵ月しか行っていないのに、一生に千八百余りの発明を成し遂げたのでした。  子供はだれでも未知の可能性を秘めています。それぞれ持ち前の才能を具えています。それを「斉等ならしめん」として殺してしまうのは、その子自身のためにも、人類全体のためにも、大きな損失だと知るべきでありましょう。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば4

仏のたまわく「さえぎることなかれ。この老母は五百生の中においてわが母となれり。愛する心いまだ尽きず。これをもって我れを抱くなり」 (雑宝蔵経・巻1)

1 ...経典のことば(4) 立正佼成会会長 庭野日敬 仏のたまわく「さえぎることなかれ。この老母は五百生の中においてわが母となれり。愛する心いまだ尽きず。これをもって我れを抱くなり」 (雑宝蔵経・巻1) 仏陀に抱きついた老婆  お釈迦さまが布教の旅の途中コンカナ国をお通りがかりになり、とある道ばたの木の下でお休みになっておられました。  道の向こうに井戸があって、一人のみすぼらしい老婆が水を汲んでいました。灰色の髪は蛇がからまったように乱れて垂れさがり、深い皺(しわ)をたたんだ顔はどす黒く、よれよれの衣を着ていました。  垢(あか)だらけの細い腕で、けんめいにつるべの綱をたぐっては水を汲み、水がめに移しているのです。  お釈迦さまは、おそばにいた阿難に、あの水をすこし供養してもらいたいと頼んでおいでと、おいいつけになりました。  阿難が老婆のところに行って、そう言いますと、老婆は水がめを頭にのせて道を横切っておん前までやって来ました。  ところが、その老婆は水がめを地に下ろすや、いきなりお釈迦さまに近づき、抱きつこうとするのです。  阿難がびっくりして、  「何をするのだ。この方は仏陀におわしますぞ」  と老婆の腕をひっつかんで引きもどそうとしました。そのとき、お釈迦さまがおっしゃったのが右のことばです。  阿難が思わず手を放すと、老婆はしっかりとお釈迦さまを抱きしめ、しばらく涙にむせんでいましたが、やがて引きさがり、いかにもうれしそうに手を叩き、足を踏みならして躍るようなしぐさをするのでした。 宿世を思えばみな血縁  その老婆はカタンシャラという名前で、ある家の奴隷として使われているのでした。お釈迦さまは阿難に命じて、その主人を呼んで来させました。そして、「この老婆を解放して出家させたらどうか、もし出家したら必ず阿羅漢(すべての煩悩を除き尽くした境地)に達するであろう」と相談されましたところ、主人は一も二もなくおことばに従いました。  お釈迦さまは、その老婆を波闍波提比丘尼(はじゃはだいびくに=出家前は釈尊の義母)に預けて修行させられましたところ、ごく短いあいだに阿羅漢の悟りを得、仏陀のお説きになる経文を理解すること比丘尼中で随一となりました。  お弟子たちは不思議に思ってその理由をお尋ねしたところ、お釈迦さまは、「じつはこの老母は、わたしの過去の無数の人生において常にわが母であった。ところが、ある宿世において物惜しみと貪りの心が強く、わたしが布施しようとするのを止めだてしたために、その因縁によって貧しい家に生まれたのだ云々」とお答えになりました。  それにしても、現実の問題として、汚らしい老婆が抱きついて来ようとしたのを、さえぎろうとする阿難を制してその行為を喜んでお受けになったお釈迦さまの隔てないみ心を思うとき、ただただ頭が下がります。  また、われわれはお釈迦さまのような宿命通(しゅくみょうつう=過去世を知る神通力)は持っていませんけれど、この世で巡り会う人びとが、はるかな過去世においてあるいは父であり、母であり、兄弟姉妹であったかもしれないことを思うとき、どんな人に対しても憎悪や、軽蔑や、拒否感をいだいてはならないことを、この経文によってしみじみと思い知らされるのであります。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば5

世尊智見を得たまえる時、此の世間に於て、梵宮も、天も、人も、沙門も、およびバラモンも、世みな大いに明かなり。……其の間の所有の一切衆生、おのおの相見、おのおの相知り、おのおの語るらく「この所に、またまた衆生あるか。この所に、…

1 ...経典のことば(5) 立正佼成会会長 庭野日敬 世尊智見を得たまえる時、此の世間に於て、梵宮も、天も、人も、沙門も、およびバラモンも、世みな大いに明かなり。……其の間の所有の一切衆生、おのおの相見、おのおの相知り、おのおの語るらく「この所に、またまた衆生あるか。この所に、またまた衆生あるか」と。 (仏本行集経・巻30) 天地の万物が輝き出した  これは、お釈迦さまが十二月八日の暁に菩提樹の下で仏の悟りを得られた瞬間のありさまを描写したものです。  あたりはまだ暗く、東の空に明星だけがキラキラとまたたいていたのですが、世尊が悟りをひらかれるやいなや、すばらしい大光明が輝きわたり、神々の宮殿も、天人も、地上の人間たちも、出家者修行者も、バラモンも、ありとあらゆる存在がえもいわれぬ尊い白光に照らし出されたのです。  すると、人間を含むすべての存在(一切衆生)が、お互いに相手を発見し、知りあい、「おお、ここにもあなたがいたのか。ここにもいたのか」と語りあった……というのです。  仏教学者の玉城康四郎博士はその著『永遠の世界観・華厳経』のなかで、「華厳経では、自分が自分を知るだけではない、世界を知るのである。また、自分が世界を知るだけではない。世界が世界を知るのである」と述べておられます。  この「世界が世界を知る」ということが仏教の深遠な世界観なのであって、それをわかりやすく表現したのが、ここにかかげた「一切衆生、おのおの相見、おのおの相知り、おのおの語るらく『この所に、またまた衆生あるか。この所に、またまた衆生あるか』と」いうことではないでしょうか。  お釈迦さまの悟りを現代風に表現しますと、「この世のすべての存在は、宇宙に遍満しているただ一つの実在である大生命の分身である。つまり、もともとは同根なのである。しかも、それらはお互いに関連しあい、相依り、支えあって存在しているのであって、孤立しているものはただの一つもないのである」という真理です。 万人がしあわせになるには  お釈迦さまがこの真理を悟られた瞬間に世界中に大光明が輝きわたり、いままでお互いにその存在を知らなかったもろもろの衆生が、お互いを発見し、喜びあったということには、すべての存在がほんとうにしあわせになる大直道がそこに示されていると受け取らねばなりますまい。  わたくしどもの周囲には家族がおり、職場の仲間がおり、地域社会の隣人がおり、さらに国を同じくする多くの人たちがいます。わたくしどもはそれらの人びとの存在価値をしんから認識しているでしょうか。それらの人びとと自分とのあいだの「生かしあい」「支えあい」の関連をしみじみと感じ取っているでしょうか。  答えはおそらくノーでしょう。ましてや世界の遠い国々の人びとへの関心の度はもっと低いものと見なければなりますまい。そうした認識の浅さが冷淡な心情を生み、その冷淡さがさまざまな原因に触発されて不幸な争いを引き起こしているのです。  ですから、もしわれわれがお互いに宇宙の大いなるいのちを分け合っている仲間であることを心の底から悟ることができれば、そこから、手を握り肩を抱きあわずにはいられぬ友情が生じ、この世はおのずから潤いある平和世界と化していくでしょう。  仏教の究極の目的はそこにあるのですが、その根本理念はお釈迦さまが悟りをひらかれた瞬間に決定されたといっていいでしょう。そのことが、ここに掲げたことばに象徴的に語られているわけです。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば6

人、世間愛欲の中に在りて、独り生じ、独り死し、独り去り、独り来る。(仏説無量寿経・下)

1 ...経典のことば(6) 立正佼成会会長 庭野日敬 人、世間愛欲の中に在りて、独り生じ、独り死し、独り去り、独り来る。 (仏説無量寿経・下) 逆境の人こそこの句を  あなたはいま十分にお幸せですか。生計の心配はなく、家庭は円満で、お子さんたちは素直にすくすくと育っていらっしゃいますか。そういう方は、この一文をお読みになる必要はないでしょう。  いや、しかし、やはり読んでいただきましょう。人生に波乱はつきもので、一生のあいだずっとそんな状態にいられるとは限りませんから。  ましてや、あなたがいま失意の状態にあり、あるいはどうにもならぬような逆境にあって、これまで親しくしていた人からは背を向けられ、なんともいえぬ孤独感にさいなまれておられるとしたら、ぜひこの一句をしっかりと味わっていただきたいと思います。  ギリギリのところ、人間は独りで生まれ、独りで死ぬのだ……このきびしい真実を、一見非情とも感じられる口調で喝破しておられることに、あなたはかえって大きな励ましを覚えませんか。  まだ胸中に残っている周囲への甘い依頼心がキリリと引き締められ、落ち込んでしまいがちな気持ちから一種のひらき直った諦念へと立ち上がる思いを覚えませんか。  この一文は人間の究極の孤独をえぐり出していますけれども、この真実に徹しきれば、かえって孤独感を超越し、ひろびろとした自由の天地が開けるように思うのですが、どうでしょうか。  これを浅く読めば、「この世は万人万物の持ちつ持たれつで成立しているのだ」という仏教の世界観と矛盾するようですけれども、そうではありません。お釈迦さまは、そうした世界の中にあっても、他の人びとや社会に対して甘ったれた依存心を持ってはいけないことを常に戒められていました。  「自らを灯明として生きよ。法(真理)を灯明として生きよ」という自灯明・法灯明の教えは有名です。  スッタニパータにも次の名句を残しておられます。   音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀(さい)の角のように、ただ独り歩め……と。 代わってくれる人はない  さて、前掲の句に続いて「行いを当(お)いて苦楽の地に至り趣く。身自ら之を当(う)く。代る者有ることなし」と説かれています。  独りで生まれ、独りで死に、独りであの世へ行く(独り来る)。どういうあの世へ行くのか、苦の世界か、楽の世界か、それも自分自身が決めるのだ。生前の心ざまや行いがそれを決めるのだ。そして、だれも代わりに行ってくれる人はいない……というのです。  これまたじつにきびしい、容赦のないことばですが、まさにそのとおりです。  自分の蒔(ま)いた種は自分で刈り取らねばならぬ。これが仏教の説く因果応報の理なのです。独生・独死・独去・独来……なにか寂しい気のする人もありましょうが、この真実には素直に従わねばなりますまい。  己(おの)が食(は)む秣(まぐさ)を負うて夏野かな  許六  人間の一生も、そしてその死後も、この馬と同じなのです。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば7

池の中に蓮華あり、大きさ車輪のごとし。青色には青光あり、黄色には黄光あり、赤色には赤光あり、白色には白光あり、微妙香潔(みみょうこうけつ)なり。 (仏説阿弥陀経)

1 ...経典のことば(7) 立正佼成会会長 庭野日敬 池の中に蓮華あり、大きさ車輪のごとし。青色には青光あり、黄色には黄光あり、赤色には赤光あり、白色には白光あり、微妙香潔(みみょうこうけつ)なり。 (仏説阿弥陀経) 聖者は浄土を目前に見る  これは、釈尊が、阿弥陀如来のおられる極楽浄土のありさまをお説きになった一節です。  法華経にも、たとえば舎利弗が仏となったとき住する国土を「地面は瑠璃でしきつめられ、道の両側は金のなわで縁どられ、七宝で飾られた並木がつらなり、その木にはいつも美しい花が咲き、ゆたかな果実がみのっているであろう」と、予言されています。  また、同じ法華経の如来寿量品には、「衆生の目から見れば、この地球が現在の状態で存在する時代が終わって世界全体が大火に焼かれてしまうと見える時も、仏の国土は安穏であって、天人や人間が楽しく暮らしている。美しい花園、静かな林、りっぱな建物、それらは光り輝く宝玉によって飾られている。木々には花が咲きみだれ、実が豊かにみのっている」と述べられています。  お釈迦さまだけでなく、たとえば聖書の≪ヨハネの黙示録≫には「それから彼(天使)はわたしを霊において大きな高山の上につれて行き、聖なる町エルサレムが天から、神のところから、神の栄光をたずさえて下ってくるのを示した。その町の輝きは非常に高価な宝石のようであり、結晶した碧玉のように光っていた……川の両側には十二種の実のなる生命の木があって、月ごとに一つずつ実をつけていた」(佐竹明訳)とあります。  これらがあまりにも似かよっているのを見ますと、たんなる想像ではなく、すぐれた聖者のみが持つ神通力(超能力)で、霊の世界・四次元の世界が手に取るように見通されているのだろうと考えざるをえません。 我々も心の輝きを持とう  霊の世界とか四次元の世界とは、死んでからおもむく所とはかぎらず現実の世界と重なりあって存在するものです。したがって、浄土というものは、われわれの心がそれにふさわしいまでに澄みきわまれば、生きながらにしてそこに住むことができるのです。  経典の中に実相の世界や極楽浄土の美しいありさまを述べてあるのも、日ごと煩悩の泥水にまみれながら暮らしているわれわれを、ひとときそのような世界に遊ばせ、一歩でもそうした世界に近づけさせようというおはからいだと思うのです。そのような心理効果は大いにあるからです。  ですから、経典のそのようなくだりを読むときは、絵そらごとだという批判めいた気持ちを起こしたり、夢の世界のように軽い見方をすることなく、目の前にまざまざとそのような風光が展開しているのだという気持ちで、魂ごと吸い込まれるように読んで欲しいものです。  さて、ここにある極楽の池の蓮の花々は、理想社会のさまざまな人間の心のありようを象徴していると考えるべきでしょう。その人の個性によって心の相(すがた)はさまざまであるが、青色(しょうしき)には青光あり、黄色(おうしき)には黄光あり、赤色(しゃくしき)には赤光あり、白色(びゃくしき)には白光あり、すべてがいいようもなく香り高く清らかである(微妙香潔)というのです。  真の芸術家・真の学者・真の実業家・真の技能者・真の労働者、それぞれの心からはそれぞれ違った美しい光を発している。しかし、色と光はそれぞれ違っても、すべてが同じようにたとえようもない香気と清らかさを持っている……これが人間世界の理想の姿でありましょう。  これからは「心の時代」だといわれています。お互いさま、このような境地を胸に描きながら日々を送りたいものです。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば8

善男子よ、もろもろの善知識に親近(しんごん)し供養するは是れ一切智を具する最初の因縁なり。このゆえに、此に於て疲厭(ひえん)を生ずるなかれ。 (華厳経・入法界品39・3)

1 ...経典のことば(8) 立正佼成会会長 庭野日敬 善男子よ、もろもろの善知識に親近(しんごん)し供養するは是れ一切智を具する最初の因縁なり。このゆえに、此に於て疲厭(ひえん)を生ずるなかれ。 (華厳経・入法界品39・3) 五十三人に教えを聞く  華厳経はお釈迦さまが菩提樹下で悟られた悟りの内容をつぶさにえがき出したお経です。お釈迦さまご自身は何も発言なさらず、多くの菩薩たちがつぎつぎに仏の世界の素晴らしさを語るのですが、つまりは、この大宇宙はビルシャナ仏(光の仏)が透き間もなく遍満しておられる光明世界だということになるのです。  しかし、初めのほうはじつに難解で、その説法の座につらなっていた智慧第一の舎利弗や神通第一の目連でさえポカンとするばかりだったと伝えられています。ですから、後世のわれわれにとって親しみやすいのは、後段の入法界品(にゅうほっかいぼん)だという人もおります。  この品は、大富豪の子である善財という少年が、一切智(すべてのものごとの真実を知る智慧)を求めようという志を起こし、文殊菩薩の指導によって四方八方に旅をし、さまざまな人に教えを受ける話です。  ここにかかげたのは、その文殊菩薩の教えの一節で、「一切智を得ようとするならば、何よりもまずさまざまな人生の先達(せんだつ)たちに近づき、尊敬のまことをささげ(その教えを受け)ることである。けっしてそのことを面倒に思ったり、途中で投げ出してはならない」というのです。  善財童子はそのことばを忠実に守り、諸国を旅して、じつに五十三人の人に教えを受けるのですが、その中には仏教以外の修行者もあり、仙人(超能力者)もあり、医者もあり、船大工もあり、自分より年下の少年少女もあったのです。その求道心の熱烈さには驚嘆せざるをえません。  話はそれますが、わが国の東海道五十三次というのは、この五十三人という数から出たものだといわれています。苦労の旅を重ねながら五十三の宿場を過ぎ、ついに目的の京の都に達する……というわけでありましょう。 自分以外の人はみな師  この善財童子の求道遍歴についてとりわけ教えられることは、相手が仏教者とは限らず、どんな人の話にも耳を傾け、その中から自分の魂の修行にプラスするものを吸収していった心の柔軟さです。姿勢の謙虚さです。  それにつけて思い出されるのは、作家の吉川英治さんの「自分以外の人はみんなわが師である」「大衆即大知識」ということばです。吉川さんは家運が傾いたために小学校を中退し、印章店の小僧、横浜税務監督局の給仕、雑貨商の店員、横浜ドックの船具工など、さまざまな職業を転々としました。  善財少年が一切智を求めて遍歴したのに対して、吉川少年は家計を助けるためにより多くの収入を求めて職業を転々としたわけですが、しかし、そうした遍歴の中においても、主人や、上司や、同僚や、周囲の人びとの言行の中から、魂の糧(かて)となるものを貪婪(どんらん)に吸収していったことは、前述の二つのことばからも推し量ることができます。  それが『宮本武蔵』や『新書太閤記』などの名作にしらずしらずの間に注ぎ込まれたのでしょう。それが日本中の庶民大衆の絶大な共感を呼んだ秘密だと思われるのです。  文殊菩薩の「もろもろの善知識に親近し」ということばは、裏返していえば「めぐりあう人の中に善知識を発見せよ」ということでありましょう。わたしども、どんな地位にあろうとも、どんなに年を取っていようとも、一生そのような心構えでいたいものです。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば9

衆生病めばすなわち菩薩も病む。 (維摩経・文殊菩薩問疾品)

1 ...経典のことば(9) 立正佼成会会長 庭野日敬 衆生病めばすなわち菩薩も病む。 (維摩経・文殊菩薩問疾品) 「同体の大悲」ということ  ここに掲げたことばは、維摩詰が病気になったと聞かれたお釈迦さまが文殊菩薩を見舞いによこされたとき維摩が言ったことばです。  文殊が「どうして起こった病気ですか。どうすれば治るのですか」と尋ねたのに対して、「衆生の無知と欲望が引き起こしたのです。衆生をわが子のように思っている菩薩は、衆生の心が病めば自分も病み、衆生の病が治れば菩薩の病も治るのです」と答えました。  大きく見れば「社会が救われないかぎり自分も救われないのだ」という大乗精神を言ったものですが、そのもう一つ前にあるのは、相手と一体となってしまうほどの深い愛情であって、ここではそれを問題にしたいのです。仏教ではこれを「同体の大悲」といい、菩薩などではなくてもほんとうに人間らしい人間ならば、愛する者に対して必ずこの「同体の大悲」を持ち、それを行動に現すものなのです。  かつて詩人の木原孝一さんが朝日新聞に次のような文章を書いておられました。  「恋人、愛人、女房。それらの女性はすべて、そのペアである男性にとっては、なんらかの意味で『永遠の女性』でなければならぬ。たとえば、画家モジリアニのあとを追ってアパートの五階から身を投げたジャンヌ・エピテルヌ、彼女はすばらしい絵を夫に描かせるエネルギーの泉だった。『王将』の坂田三吉の女房小春、彼女は将棋に生涯をかけた夫に、自分の生命をかけた。彼女たちのように、自分の夫とおなじビジョンのなかで、夫とともに生きた女性こそ、われら男性の求める『永遠の女性』にほかならない」  この「おなじビジョンのなかで」ということは、つまり精神的な「同体」であり、彼女らこそ「同体の大悲」の持ち主だったと言えましょう。 父親と地べたに寝た少年  徳川期の有名な学者中根東里(とうり)の少年時代の話ですが、東里の父は大の酒好きで、酔うと道ばたに寝てしまうくせがありました。  夏のある夜、よそに招かれて出かけた父が、夜半になっても帰ってきません。東里少年は母に「ちょっと探しに行ってきます」と言って出かけました。案の定、二キロばかり先の道ばたに寝ているのです。揺り起こしてみても目を覚ましません。  飛んで帰った少年は、母に事実を話せば心配すると思って、「父上はあちらのお宅にお泊まりになるそうです。わたしはこれから蚊帳(かや)を持っていって一緒に泊まってきますから、母上は安心しておやすみください」と言い、父親のところへ引き返しました。そして、道ばたの木の枝に蚊帳を張り、地べたの上に抱き合うようにして寝たのでありました。  この少年の心ばえと行為は、「同体の大悲」の典型というべきでありましょう。人間にはもともとこうした美しい感情が備わっているはずです。それを自然に行動に表したのは、型にはまった「孝行」という概念を超えた純粋な人間の美しさ、心の奥底にある「同体の大悲」の発露と言えましょう。  こんな話を時代離れしたもののように感ずる人があるかもしれませんが、それは時の流れに鈍感な人です。いまや時代は「心の時代」「美の時代」へと転換しつつあるのです。エゴと「物」ばかりに執着していたのでは破滅あるのみだと感じとった人間の英知が、志向するところをしだいに変えつつあるのです。そういう意味で、右のことばをよく味わって欲しいと思います。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば10

衆生の恩とは、すなわち無始よりこのかた一切衆生五道に輪転して百千劫を経(へ)、多生中に於て互いに父母となる。互いに父母となるをもってのゆえに、一切の男子はすなわちこれ慈父にして、一切の女人はこれ悲母なり。 (心地観経・巻2)

1 ...経典のことば(10) 立正佼成会会長 庭野日敬 衆生の恩とは、すなわち無始よりこのかた一切衆生五道に輪転して百千劫を経(へ)、多生中に於て互いに父母となる。互いに父母となるをもってのゆえに、一切の男子はすなわちこれ慈父にして、一切の女人はこれ悲母なり。 (心地観経・巻2) 一切衆生は同根である  ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば  父かとぞ思う母かとぞ思う  これは行基菩薩がよんだと伝えられている歌です。現代人の常識からすれば、山鳥の声を聞いて「あれは死んだお父さんではなかろうか。お母さんではなかろうか」と想像するなど、ありえないことのように考えられましょう。  ところが、ほんとうの詩人というものは天地の万物と血のつながりを覚えるほどの一体感を持っており、ましてや行基菩薩のようなすぐれた仏教者ともなれば、そうした心情が一切衆生とのあいだに寸分のスキもないほどに透徹していますから、この歌も不可思議な実感をもってわたしどもの胸に迫るのです。  いま「不可思議な」と申しましたが、よくよく考えてみますと、けっして不可思議ではないのです。正真正銘の実感なのです。わたしどもとこの世のあらゆる生物とはけっして他人ではないからです。  おおむかしの地球はもともと渦巻く高熱のガス体だったわけで、生物はまったく存在しませんでした。そのガス体が冷えて固まったのが地球のはじまりであり、いまから約二十億年ほど前、そこにはじめて生物の祖先が誕生しました。それはアメーバよりも原始的な、単細胞の微生物だったといわれています。  そのただ一種の微生物から、より高等な原生動物が生じ、昆虫類・魚類・両生類・爬(は)虫類・鳥類・哺(ほ)乳類と進化し、哺乳類の一部が人類となったのはまぎれもない事実ですから、一切衆生はまさしくわれわれと同根の、遠いながらも親戚筋に当たるわけです。 人間仲間はみな血縁  ましてや人間仲間となれば、ますます近い血縁つづきなのです。わたしどもは両親を持っています。両親もそれぞれ両親を持っています。こうして二代前までを考えても、われわれは合計六人の「親」を持っているわけです。このようにして先祖の数を数えてゆきますと、十代前は千二十四人、二十代前になると百四万八千五百七十六人、三十代前だと十億七千三百七十四万千八百二十四人、五十代前までさかのぼるとなんと百十二兆八千九百九十九億人を超える「親」がいたことになるのです。ということはつまり、人類全体がごく近い血縁関係にあることを数字が証明しているわけです。  さらに過去世までさかのぼってみますと、右の経文にもありますように、百千劫という長い年月のあいだ死に変わり生き変わりしながらさまざまな世界を輪廻(りんね)してきたあいだには、人類すべてがお互いに父となり、母となってきた……と、お釈迦さまはそのたぐいなき宿命通(前世を知る超能力)によって見通されたわけです。  そうした理由によって、「すべての男子はこれを自分の慈父だと思い、一切の女子はこれを自分の悲母だと思い、その恩を感じなければならない」と教えられているわけです。  人間同士が争いあい、奪いあい、殺しあう不幸な状態は、お互いのあいだに心の繋(つなが)りがないからこそ起こるのです。心の繋りがないのは、いのちの繋りがないという無知にもとづくものだと思います。この経文はその無知をうち破る貴重この上もない真理のことばではないでしょうか。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば11

色即是空 空即是色 (般若心経)

1 ...経典のことば(11) 立正佼成会会長 庭野日敬 色即是空 空即是色 (般若心経) 空とは何か  仏教経典には随所に「空」ということばが出てきます。初めて仏典を読む人は、いったい「空」とはどんなことなのか、何のためにそれが説かれるのかがつかみにくくて、ぼう然と見過ごしている人が多いのではないでしょうか。  しかし、仏教の教義はこの空という思想――というよりは真理――を基礎として説かれているのですから、仏教を学ぶ以上はどうしてもこれを避けて通るわけにはいかないのです。そしてまた、空といえばたいへん哲学的で難しそうな感じがしますけれども、考えかたによっては案外やさしくわかるものだと思います。  現在の原子物理学では、この世の万物は素粒子という目に見えぬ極微の単位物質から出来ていることを立証しています。しかしその素粒子も、新しいもの(すでに三十種以上)が続々と発見されるところから、当然それらの素粒子をつくる大もとのなにものかがあるはずだということになっています。といっても、そのなにものかはもはや物質というべきものではなく、宇宙全体に透き間もなくみなぎっている「根源のエネルギー」と考えるほかはないわけです。  学者の説によりますと、この「宇宙の根源のエネルギー」こそが、じつは「空」にほかならないというのです。その目に見えないひといろの空が、さまざまな原因と条件の和合によってさまざまな存在をつくり現しているわけです。  こういう真実を、お釈迦さまはそのたぐいなき直観力によって悟られたわけですが、「この世のすべての存在には実体がないのだ」という一見全面否定と見えるその表現が昔の人にはなかなか理解できなかったのではないでしょうか。それに対して、原子物理学がすでに常識の世界にまではいりこんでいる今日では、わりあい容易に納得できるようになったと思われるのです。 空は宇宙の大生命と同じ  納得がいっても、右の般若心経の「色即是空(この世の存在はすべて空である)」という教えをストレートに聞けば、なんとなく自分自身が空中分解しそうな虚無感を覚える人もありましょう。そんな人は「空すなわち根源のエネルギー」という科学的な考え方を一転して「空すなわち宇宙の大生命」と考えればいいのです。結局は同じことなのですから。  そうすれば「ああ、自分は宇宙の大生命の一つの現れなのだ。宇宙の大いなるいのちに生かされているのだ」という深い喜びがわいてくるはずです。それが「空即是色」の真義にほかならないと思うのです。冷たい哲学思想が一転して宗教的法悦に変わるのです。般若心経のこの名句もそう考えてこそ人間の救いになるのだと信じます。  また、空の思想は、対人関係においても大きな救いをもたらすものです。もしわれわれと他の人とが絶対的に別々の存在だったら、対立や抗争こそ起これ、お互いの間に友情や思いやりとかが生ずることはありえません。もともとはただ一つの空すなわち宇宙の大生命に生かされている仲間同士であればこそ、そこに相通ずる心情がありうるのです。  自然に対する感情でもそうです。山の緑を眺め、野の花を見て「美しいなあ」と感ずるのは、やはり宇宙の大いなるいのちに生かされている縁つづきなればこそなのです。そうした感情は、空の思想に徹すれば徹するほど深まり、おのずから自然を大切にするようになり、したがって自然からも大切にされるようになりましょう。空の思想はこのように受けとるべきだと信じます。 題字と絵 難波淳郎 ...

経典のことば12

煩悩を断ぜずして涅槃に入る。これを宴坐となす。 (維摩経・弟子品)

1 ...経典のことば(12) 立正佼成会会長 庭野日敬 煩悩を断ぜずして涅槃に入る。これを宴坐となす。 (維摩経・弟子品) 凡夫が煩悩を断じ得るから  これは、舎利弗が林の中で座禅をしているときに、在俗の仏教者維摩(ゆいま)が投げかけたことばです。  「舎利弗さん。静かな所で無心になって座るばかりが座禅じゃありませんよ。煩悩は煩悩のままで持ちながら心の安らぎを得るのが、ほんとうの座禅というものですよ」  これにはさすがの舎利弗もギャフンとなってしまいました。  維摩は毘舎離(びしゃり)の大商人で、維摩経はこの人を中心として繰り広げられる、ドラマのような構成の経典です。「空」の思想をいかに日常生活に実践するかを主題としています。  聖徳太子が数ある大乗経典の中から、法華経と、勝鬘(しょうまん)経と、この維摩経の三つを選んで講義されたほど重要な経典ですが、なぜ太子がこれらの経を選ばれたかを推測しますと、こうした大乗の教えは、苦しみや、悩みや欲望や、競争などの渦巻くなかにあって、どうすれば心の安らぎを得、われ・ひと共にしあわせな人生を送ることができるかを説いた生活者のための教えだったからでありましょう。  現代の心ある人々は、あまりにも「物」と「金」に振り回されている生活にむなしさを覚え、宗教、特に仏教への関心を深めています。しかし、出家修行者のために説かれた経典を読んで、あらゆる煩悩を除きつくした「涅槃」が理想の境地だと知ると、とてもそんなことは不可能だとあきらめてしまったり、かえって反発を覚える向きもあるようです。  涅槃というのは、もともと「火を吹き消したようにあらゆる煩悩を除きつくした境地」を言い、もっと極端に、肉体がある以上必ずいくばくかの煩悩(たとえば食欲)は残っているのだから、肉体が滅してこそ真の涅槃だという論もあり、そこから「死ぬ」ことを「涅槃に入る」というようになったわけです。 生活に生かしてこそ仏教  ところが、世の荒波に揉まれながら生活費を稼ぎ妻子を養わなければならぬ普通の男性たちに、また、物価高のなかで家計のやりくりをし、何かと問題を起こしがちな子供を育てるのに苦心している主婦たちに、そんな涅槃を要求するのは無理というものでありましょう。  維摩は右のことばの前に「道法を捨てずしてしかも凡夫の事を現ずる、これを宴坐となす」とも言っています。真理の道にはずれないように心がけながら凡夫の生活をするのが座禅の神髄なんだ……というのです。この「しかも凡夫の事を現ずる」ということばに、あなたはホッとするような救いを覚えませんか。われわれは、ともすれば、ジッと座ってめい想するとか無心になるとかしなければ――もちろん、そんなひとときが持てればそれに越したことはないのですけれども――心の安らぎは得られないと考えがちです。  しかし、大乗仏教の教えはそこをもう一つ超えているのです。煩悩のなかにあって煩悩にとらわれず、さらに進んで煩悩をプラスの方向へ活用するところに、生々ハツラツたる前向きの心の安らぎがあるというのです。いわゆる「煩悩即菩提」の境地です。そして、多くの人のそうした姿勢や行動が大きなところで調和するところに、人類の進歩もあるというのです。  そのことを、維摩は右の短いことばに凝集させて喝破したのだと、わたしはそう受け取るのです。 題字と絵 難波淳郎  編集部注 前回の文中、「学者の説によりますと……」の学者とは、山本洋一工学博士のことです。...

経典のことば13

まだ涅槃を得ていない人でも、すでにそれを得ている人の声を聞いてその境地を知ることができるのです。 (ミリンダ王の問い・那先比丘経)

1 ...経典のことば(13) 立正佼成会会長 庭野日敬 まだ涅槃を得ていない人でも、すでにそれを得ている人の声を聞いてその境地を知ることができるのです。 (ミリンダ王の問い・那先比丘経) 体験談こそ人を動かす  「ミリンダ王の問い」は、一風変わった経典です。ギリシャ人であるミリンダ王(メナンドロス王=紀元前二世紀)が那先(ナーガセーナ)という比丘に仏教についてさまざまな質問をし、那先がどんな質問に対しても懇切に、忍耐強くそれに答え、王がついに仏教に帰依するいきさつを述べた実話ですが、標記のことばはそのなかにある那先のことばです。その前後の問答は次のとおりです。  「尊者那先よ。まだ涅槃を得ていない者が、涅槃が安楽であることを知ることができるでしょうか」  「できます」  「わたしにはそれがどうしても分からない」  「大王よ。手足を切断されたことのない人が、手足を切断することは苦しいものだと知ることができるでしょうか」  「尊者よ。それは知ることができます」  「どうして知るのですか」  「他人が手足を切断されたときの悲痛な声を聞いて、それを知ることができましょう」  「大王よ。それと同様です。まだ涅槃を得ていない人でも、すでにそれを得ている人の声を聞いてその境地を知ることができるのです」  那先が言った「声」というのは「説法」という意味もありましょうが、それよりもむしろ「体験談」という意味が強いと思います。  いつも言うように、信仰は体験の世界です。宗教には哲学的な要素もあり、道徳的な要素もあり、それらを理知に訴えて説くことも多いのですが、そうした説法を聞いたり、書物で読んだりして魂が奮い立つような感動を覚える人はよほどすぐれた人でありましょう。  ところが、どんな人の話でも、信仰によって苦しみのどん底からはい上がりえた血のにじむような体験談を聞けば、心の底から共感し「よし、わたしも……」という気持ちがフツフツとわき上がってくるものです。  わたしどもの会で「法座」というものを信仰生活の最重要の拠点とし、その法座においては体験を語り、かつ聞くことを最も重んじているのは、こうした理由によるものなのです。 体験を聞く功徳・語る責任  いわゆるインテリは、ともすればすべての場合に通ずる理論に飛びつきがちで、「個々人の体験は範囲が狭く自分自身に当てはまらぬことが多い」という理由で軽視するきらいがあります。  しかし、それは考え違いです。聞くその時点においては「自分に関係ない」と感じても、そういった場当たり的な気持ちを捨てて謙虚に耳を傾けることが大事なのです。なぜならば、その話は必ず意識の底に焼きつけられ、いつの日か自身がそれに類した場面に立った場合、フッとその記憶が浮かび上がり、善処や克服の貴重な指針となるからです。  このような「人の体験を聞くこと」の大切さは、それを裏返せば、「自分の体験を人に語ること」が世の多くの人を幸せに導く道であるということにつながります。目をもっと広く向ければ、人類の文化は無数の体験の積み重ねによって築かれ、進歩していくものですから、自分の体験を他のために語る責任がすべての人にあると言っていいでしょう。  とくにわれわれ日本人は、右の問答の例に引かれた「手足を切断される苦しみ」を原爆によって味わった世界唯一の民族です。その苦しみの悲痛の声を全人類に聞いてもらう責任があります。それを忘れてはなりますまい。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば14

世尊、わたくしは今日から悟りを得るまで、他人の容貌や装身具などに対して妬(ねた)み心を起こすことをいたしません。 (勝鬘経・十受章)

1 ...経典のことば(14) 立正佼成会会長 庭野日敬 世尊、わたくしは今日から悟りを得るまで、他人の容貌や装身具などに対して妬(ねた)み心を起こすことをいたしません。 (勝鬘経・十受章) 勝鬘の一念が仏陀に通じて  コーサラ国のハシノク王と王妃のマリ夫人が心からお釈迦さまに帰依していたことは有名です。二人は他国へ縁づいている娘・勝鬘(しょうまん)にも有り難い仏恩に浴せしめたいと望み、長い手紙を書いて帰依を勧めました。  勝鬘もかねがね仏の教えのすばらしさを聞き及んでおりましたし、純粋で素直な心の持ち主でしたので、父母からの手紙に接していよいよ渇仰の心を燃やし、ああ一日でも早く直接に尊いみ教えを承りたいものだ……と心から念じたのでした。  すると、その一念がお釈迦さまのみ心に通じ、ただちに勝鬘の前にお姿をお現しになりました。意外の出来事に感激した勝鬘が仏徳をたたえる偈をうたって帰依の真心を披歴しましたところ、お釈迦さまは、まだ初心の信仰者であるにもかかわらず、そなたはこれこれの修行をしたのち仏の悟りを得るであろうと予言し、保証されたのです。  ますます感激に燃え立った勝鬘は、即座に十個条の誓いを立ててお釈迦さまに申し上げました。これを「十大受」と言って、勝鬘経の重要な眼目となっているのですが、その一個条が標記のことばです。 妬みほど不毛なものはない  聖徳太子は数ある経典の中から、法華経と維摩経とこの勝鬘経を選んで講義をなさいましたが、この経を選ばれたのは(女帝推古天皇にご進講されたことからしても)それが女性による女性のための教えであるからに相違ありますまい。また、わたしがここに「十大受」の中からとくに妬みの心の一個条を選んだのも、それが女性にとって最も慎むべきことだと思うからです。  貪欲もよくない心には相違ありませんが、まだそれが軽くて「欲望」の域内にあるうちは、人生に対する積極的な意欲をかき立てるメリットがあります。  怒りも人間の心を狂わせるものですけれども、義憤という怒りが慈悲の行為の引き金となることもあり、公憤という怒りが社会の向上に役立つこともあります。  ところが、妬み心ばかりは自分自身を不幸に陥れるばかりで、プラスの要素は一つもありません。例えばここに挙げられている他人の容貌に対する嫉妬、これは羨んでみたところで、妬んでみたところで、どうなるものでもありません。まったく不毛の感情です。ただ劣等感と僧悪がない交ぜになって心を苦しめるばかりです。ましてや、他人の持ち物に対する妬み心は、必ず競争欲をそそり、家計を圧迫するような買い物に走らせたり、サラ金などの厄介になって生活を破たんさせることにもなりかねません。  草むらのスミレの花が高い梢に咲くサクラの花を妬んだとしたら、だれが考えても不合理かつ無用なことでしょう。スミレはスミレでそれ自身の美しさを持っています。地球上にただ一つそれしかない尊い存在価値を持っています。  人間とて同じです。あなたは、宇宙の中であなたしかない存在価値を持っているのです。それを丹念に磨き上げていくならば、どんな人にも劣らない立派な人間となることは間違いありません。それを忘れて、他との比較ばかりにとらわれるから嫉妬が生ずるのです。  とにかく、妬み心ほど人間を心身共に不幸に陥れるものはありません。勝鬘夫人のこの誓いを、二千数百年前のインドのすぐれた一女性の発心だと、ひとごとのように考えてはならないと思いますが、どうでしょうか。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば15

過去を追うことなかれ。未来を念(おも)うことなかれ。過去はすでに捨てられたるなり。未来はいまだ至らざるなり。ただ現在をよく観察すべし。 (一夜賢者経)

1 ...経典のことば(15) 立正佼成会会長 庭野日敬 過去を追うことなかれ。未来を念(おも)うことなかれ。過去はすでに捨てられたるなり。未来はいまだ至らざるなり。ただ現在をよく観察すべし。 (一夜賢者経) クヨクヨが生命力を弱める  標記のことばを読むごとにわたしは、お釈迦さまは偉大な心理学者でもあり、精神身体医学の大家でもあられたのだ! と感嘆せざるをえません。  人間の苦悩の大部分はクヨクヨすることから生じます。心の中にある複雑な固定観念(コンプレックス)から生じます。病気でさえも、その多くが心因性であることを現在の医学は実証しています。標記のことばは、そうした苦悩や病気を治癒し、人間の生命力を回復せしめるすばらしい処方箋だと信じます。  あなたは過去の出来事や、過去における自分のあり方にこだわってはいませんか。「学生時代にもっと勉強していたらもっと出世していただろうに」とか、「あのとき思いきって商売替えをしていたら、今のようにかつかつの暮らしをしなくてすんだのではないか」とか、「あのとき、あの人が、あんな仕打ちをしなかったら……」とか。  過去のことはいまさらどうにもなるものではありません。しかし、人間の心理として、ときどきフッと過去の自分のマイナス面に思いがいくことがありますが、その思い出を深追いするなというのが「追うことなかれ」の真意だと思います。追っていけばついクヨクヨすることになり、それが心身の活力を大いに弱めることになりますから。 恐れるものはやってくる!  次に「未来を念うことなかれ」とありますが、これは未来についての希望や計画をさしているのではありません。「取り越し苦労をするな」という教えなのです。  あなたは、「子供が非行に走るようなことがありはしないか」とか、「夫がガンにでもかかったらどうしよう」とか、「この仕事がこのまま順調にいくだろうか。何かの事情で下向きになり、倒産でも……」などと、現在はなんでもないことを心配してはいませんか。まだ起こってもいない出来事を心に描いてあれこれと考えるのを取り越し苦労といい、これがまた心身に対して大きな悪影響をおよぼすものです。  そればかりでなく、お釈迦さまが「三界は唯心の所現」とおっしゃったように、聖書にも「恐れるものは来る」と説かれているように、強く心に描くものは現実に現れてくるものなのです。ですから、現在ありもしないことを心に描く取り越し苦労ほど愚かなことはないのです。  そこで大事なのは、現在を正しく生きることです。ここに「観察すべし」とあるのは、たんに「しっかり見よ」ということばかりでなく、八正道が「正見」に始まって「正思・正語・正行……」とつながっていくように、「現在を正しく見て正しく生きよ」という教えに違いないと思います。  子供の非行化が気になるなら、現在の家庭のあり方をりっぱにすればいいのです。ガンが恐ろしいならば、食事をはじめとする生活万般を正しくすればよいのです。  現在を正しく生きることは、たとえて言えば、畑によいタネをまき、その日その日に適切な管理をするようなものです。そうすれば、未来にはかならずよい収穫が約束されるのです。「未来」をつくるのは「現在」なのです。  ですから、毎朝起きたら「きょう新しい人生が始まったのだ」と明るい思いを抱き、その一日を精いっぱいに生きてみてください。あなたには必ず幸せが訪れましょう。それが心と生命の法則なのですから。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば16

一切衆生悉(ことごと)く仏性有り (大般涅槃経・迦葉菩薩品)

1 ...経典のことば(16) 立正佼成会会長 庭野日敬 一切衆生悉(ことごと)く仏性有り (大般涅槃経・迦葉菩薩品) 仏性のギリギリの意味は  すべての人間はみんな仏性を持っている!  なんというすばらしい大発見でしょう。なんという喜ばしい大真実でしょう。  仏法のすべての教えは、お釈迦さまの、この大発見をいとぐちとして展開され、八万四千というぼう大なその法門も、巻き納めれば、この大真実に帰結するのだ……と断じてもさしつかえはありますまい。  では、その仏性とはどんなものでしょうか。ごく普通の解釈では「仏すなわち精神的に完成した人間になりうる可能性」ということです。しかし、日々の暮らしに追われているわれわれにとって、お釈迦さまのような完全な人格者になりうる可能性がお前にもあるのだと言われても、現実の自分との間にあまりにも距離がありすぎて、ただ気の遠くなるような思いをするばかりです。  それよりも、もっと掘り下げたギリギリの意味の仏性のほうが、かえって身近に感じられるのです。すなわち、同じ涅槃経に「仏性とは第一義空なり」とあるように、「人間の本性は宇宙の大生命そのものである」ということです。  この世の万物万象は宇宙の大生命が生み出したものである……これはまったく抜きさしならぬ真実です。人間もやはり万物万象の一つですから、間違いなく宇宙の大生命が生み出したものです。目に見えぬ宇宙の大生命の具体化・現実化といってもいいでしょう。したがって、人間の本性は宇宙の大生命そのものであり、すべての人間が平等にその本性を持っているのだ……ということになります。  これが「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」のギリギリの意味なのです。 仏性の悟りが幸せを生む  自分の本性は仏性なのだ。宇宙の大生命そのものなのだ……という真実をしみじみとかみしめてみるとき、あなたの胸にはどんな思いがわいてきますか。  これまで自分をつまらぬ人間だ、地位も金もない下積みの存在だなどと思いこんでいたのが一転して、「現象のうえはどうあろうとも、本質的には宇宙のいのちの生みの子なのだ。だれにも劣らぬ光り輝くような存在なのだ」という自信がわきあがってはきませんか。  その自信は、宇宙の生命の法則にピタリ合致した意識ですから、それはあなたの生命力を限りなくもり立てる原動力となりましょう。心は明るくなり、積極的な意欲がおう盛になりましょう。したがって、健康もメキメキとよくなり、仕事も発展の一路をたどりましょう。すなわち、仏性を意識することがあなたにほんとうに幸せをもたらすのです。  あなた自身の幸せばかりではありません。「すべての人に仏性がある」という真実を悟れば、人を見る目もガラリと変わってきます。現象のうえでは、よくない行為をする人もあり、無能と見える人もあり、利己一点張りの人もありますが、これまでは現象のうえだけでその人を評価し、憎んだり、蔑視したり、排斥したりしたのが一転して、その人の奥にある本質は、やはり宇宙の大生命の分身なのだ、という真実を見るようになりますから、その人をひとりの人間として受け入れる気持ちになります。  あなた一人だけでなく、世の中の多くの人がそのような寛容の心を持つようになれば、ひとりでに世の中全体がおだやかになり、明るくなっていくことは必至です。そうした社会を建設するのが仏教の理想にほかならないのですが、その理想はつまるところ、多くの人が「一切衆生悉く仏性有り」と悟ることによって達成されるのであります。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば17

むかしの人たちはこういう宝物のために、お互いに傷つけあい、殺しあい、盗み、欺し、嘘をつき、それが原因で生まれ変わり死に変わりの中で苦しみを増大させ、大地獄に落ちたそうだよ。 (仏説弥勒大成仏経)

1 ...経典のことば(17) 立正佼成会会長 庭野日敬 むかしの人たちはこういう宝物のために、お互いに傷つけあい、殺しあい、盗み、欺し、嘘をつき、それが原因で生まれ変わり死に変わりの中で苦しみを増大させ、大地獄に落ちたそうだよ。 (仏説弥勒大成仏経) 実現しつつある予言  標記のことばは、弥勒仏が出現される未来の世の人びとが、だれでも自由に出入りできる宝物の蔵を見物しながら、話し合うことばです。彼らは美しく輝く宝物を見ても、それを鑑賞するだけで、欲しいとか私有したいとかいう心を起こさないのです。そして、物欲のためにさまざまな悪行をなし自ら不幸におちいった過去の人間たちを、ほんとうに気の毒な人たちだ……と感じているわけです。  このお経はお釈迦さまが舎利弗その他の弟子たちに説かれたものですが、その中には二十世紀のわれわれがオヤと思い当たるような予言の数々が述べられています。  まず、「未来世の都は道幅がたいへん広く、路上は油を塗ったように平らかで、人びとが歩きまわっても塵が立たない」とあります。アスファルトで舗装した現代都市の道路そっくりではありませんか。  次に、「街路のあちこちに明珠の柱があって、その光は太陽のように四方を照らし、夜でも真昼のように明るい」とあります。明珠というのはつまり何百燭光の電灯のことでしょう。  また、「人びとが大小便をすると地面が割れて中に吸いこみ、吸いこんだあとは元どおりにふさがり、その上に赤い蓮の花が生じていやな臭いを覆ってしまう」とも述べられています。現代の家庭の水洗便所と、そこに飾られているホンコン・フラワーや芳香剤などを思い合わせてみると、思わずほほ笑まざるをえません。 精神の時代が来る  このお経には、精神的に高い境地に達した人々との様子も、さまざまに予言されています。現代の人間がそこまで到達するには今後何十年、何百年かかるか、まことに気が遠くなる思いがしますが、しかし、物質面の予言がどうやら実現しているような現状からおしはかれば、いつかはそうなるに違いないと思われます。いや、そのように努力するのが人間らしい積極的な生き方でありましょう。  その努力の方向を知るために、精神面の予言も、二、三しるしてみることにします。  「人びとはいつも慈しみの心を持ち、恭敬和順で、官能をほどほどに抑制するであろう。そして語ることばは謙遜であろう」  この恭敬というのは、見えざる大いなる存在を敬い畏れる心でありましょう。和順というのは、まわりの人々と相和し仲よくすることでありましょう。  「人びとは不殺生戒をたもち、肉食をしないので、官能が平静で、顔かたちは美しくて威厳があり、天の童子のようであろう」  戦争をしない、殺しあいをしない世界の人びとの気高い様子が目に見えるようです。  「その時代の人間は、年老いて身が衰えれば、ひとりでに山林の木の下に行き、安らかに、楽しく仏を念じながら命を終え、死後に多くの者は幸せに満ちた霊界または諸仏のみもとに生まれ変わるであろう」  死も自然のままであり、そういう死こそがその後の安楽をもたらすことを教えていると思います。  「老若男女にかかわらず、遠くにいたままで、仏法のふしぎな力によって自由に相会うことができるであろう」  いわゆるテレパシーや霊視がごく通常のこととなるという予言でありましょう。  総合的に見て物の時代が終わって精神の時代が来ることを、この経は予言しているものと思われます。 題字と絵 難波淳郎...

経典のことば18

如来の身は汝と同じからず、汝、もし多く服(の)まば必ずさらに患(うれい)をなさん (賢愚経 3・15)

1 ...経典のことば(18) 立正佼成会会長 庭野日敬 如来の身は汝と同じからず、汝、もし多く服(の)まば必ずさらに患(うれい)をなさん (賢愚経 3・15) 愚かな対抗意識の毒  お釈迦さまが霊鷲山においでになっていたときの話です。  たまたま風邪をおひきになられたので、名医の耆婆(ぎば)が薬や酥(そ=ちちざけ)など三十二種を調合してさしあげました。  提婆達多もまた風邪気味だったとみえて、耆婆に薬を要求しました。耆婆が薬を調合して「これを一日に四両(両は重さの単位)服みなさい」と言いました。いつもお釈迦さまに対抗意識を持っている提婆は「仏陀は何両お服みになるのか」と尋ねましたので「一日に三十二両」と耆婆は答えました。  提婆は「それではわたしも三十二両服むことにする」と言います。「いや、仏陀のおからだとあなたのからだとは違います。あなたがそんなにたくさん服めば、必ず病気はもっと重くなりますよ」と言っても承知しません。「わたしのからだと仏陀のからだとどこが違うのだ。とにかく三十二両の薬を作ってくれ」と、しつこくせがむのです。  仕方なく耆婆が三十二両の薬を調合して与えますと、毎日それを服んだ提婆は、薬毒のため手足の関節に激痛が起こり、起き上がることもできなくなりました。うめきわめきながら苦しみ、身もだえして転げまわりました。  遠く離れた所にいらっしゃったお釈迦さまは、霊眼をもってその様子をごらんになり、「かわいそうに……」とおぼしめされ、はるかに手を差し伸べてその頭をさすっておやりになりました。すると、薬毒はたちまち消え、病気も治ってしまいました。  ところが提婆はそれに感謝するどころか、「シッダールタ(仏陀の太子時代のお名前)のさまざまな術を世間が受け入れないので、今度は医術を学んだのか。よし、このことを言いふらしてやろう」と悪態をつきました。 自己を知ることの大切さ  この経文を読んですぐ頭に浮かんだのは「自己を知る」ことの大切さです。愚かな人間は、自己を知る心がまえを忘れているために自らを不幸におとしいれているのです。提婆はたいへんな秀才でした。いわゆるエリートでした。しかし、自己を知ることを忘れた愚かさのために正法に背き、ついに生きながら地獄に落ちてしまったのでした。  自己を知ることには、二つの段階があると思います。第一は、自己の体格・性格・才能等々における「持ちまえ」を虚心坦懐(たんかい)に自覚することです。すべての人は宇宙が必要としたからこそ生まれてきているのであり、その「持ちまえ」は宇宙がその人ならではとして与えた役割です。  このことを悟り、他人との比較に心を煩わすことなく、ひたすら自己の「持ちまえ」を磨き上げ、精いっぱい発揮していくならば、それだけでだれにも負けない存在であり、社会にとってなくてはならぬ人間であることは間違いありません。  第二の段階は、体格・性格・才能といった表面の表れの奥に、ほんとうの自己(仏教的にいえば仏性)というものがあり、その点においては万人がまったく等しいのだと悟ることです。それを悟ることこそ自分の真の尊厳さを知ることであり、それを知れば他人へのムダな対抗意識を燃やすことなどはなくなります。  提婆は第一段階の「自己を知る」ことすらしなかったために、いっぱしのエリートでありながら身を滅ぼしてしまったのです。この実話に、特に標記の耆婆のことばに、われわれは大きな示唆を感じとるべきでありましょう。 題字と絵 難波淳郎...