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人間釈尊(49)
立正佼成会会長 庭野日敬

教えに背く弟子をも捨てず

お足跡を踏み消そうとした

 善星という比丘は、お釈迦さまのお傍(そば)に仕える弟子でありながら、教えを信じようとしないばかりか、かえって世尊に反感をいだき、何かといえば反抗的な言動をしてはばからない、心の曲がった男でした。
 お釈迦さまがカーシー国に布教に行かれたときのことです。町へ托鉢に出られますと、人々は仏さまを拝み、立ち去られた後も、その足跡をジッと見つめて尊崇の念を深めるのでした。仏さまの足跡には尊い印文(いんもん)が残るという信仰があったからです。
 ところが、お供をして後ろに従っている善星は、わざわざその足跡を踏み消してしまおうとするのでした。町の人々は、なんという恐れ多い、何という心ないことをする男かと、怒ったり呆(あき)れたりするのでした。
 王舎城に苦得という異教の師がいて、いつも「因果などというものはない。人間の煩悩にも原因はなく、また煩悩からの解脱にも原因はないのだ」という説をなしていました。
 善星はお釈迦さまが「善因善果・悪因悪果」ということを説かれるのがいかにも身を縛られるように感じていましたので、この苦得の自由奔放な説に心から敬服してしまいました。
 そしてお釈迦さまに、
 「世尊、世の中に阿羅漢(あらかん=あらゆる煩悩を除き尽くした人)がいるとすれば、あの苦得こそ阿羅漢だと思います」
 と言いました。お釈迦さまが、
 「何を愚かなことを言うのだ。苦得などは阿羅漢とはどんなものかということさえわかっていないのだ」
 とおっしゃると、善星は、
 「世尊は阿羅漢ですのに、どうして苦得に嫉妬(しっと)などされるのですか」
 と、とんでもないことを言い出すのでした。そんな男だったのです。

なぜ長く傍に置かれたのか

 善星は、仏さまの傍にいるのがどうにも窮屈になり、自ら離れ去って行きました。そしてナイランジャナー河の近くに独り住んでいました。
 お釈迦さまは、善星がその後どうしているだろうかと心配され、迦葉を連れてわざわざ訪ねていかれました。
 善星はお二人の姿を見ると、こっそりと房を出、河を渡って逃げようとしました。そして深みにはまって溺(おぼ)れ死んでしまったのです。お釈迦さまの心眼には、彼がたちまち地獄に落ちたのがアリアリと映りました。
 「ああ、とうとう救われなかったか……」
 お釈迦さまは悲しげに嘆声を発せられました。
 迦葉が、
 「どうしてあんな男を二十年もお傍に置かれたのですか」
 とお尋ねすると、
 「それはね。善星にも毛筋ほどの善根はあるのだから、辛抱づよくそれが現れるのを待っていたわけだ。また、善星には多数の親類がいて、その人たちは善星を阿羅漢だと信じ込んでいる。もしわたしが彼を捨ててかえりみなければ、どれほど多くの人が彼のために迷いの道に落ちこむかわからない。それゆえ二十年ものあいだわたしの傍近く置いて、彼の邪見の害毒がひろがらないようにしていたわけだ」
 と仰せられました。
 お釈迦さまの忍耐づよさと、心の広さと、智慧の深さが、つくづくしのばれる話ではありませんか。提婆達多を「善知識」とおっしゃったのと双璧をなす話だと思います。
(涅槃経第三十三より)
題字 田岡正堂/絵 高松健太郎

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