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開祖(19731012A) お会式

6 ...ま、そういうような、ことわざも残っておりますように、わたくしどもの真心のともしびというものは、かっこうよく立派に、大げさのことをすることだけが決して喜ぶことではないわけなんであります。そういうわたくしどもの真心の一灯が、このご法の、ご法を説くお釈迦さまの足元をよく照らして、どこまでもこのご法が広まるようにという意味が、きょうの万灯(まんど)行列にも含めてあるわけであります。法の広まるところ、法の広める場所を明らかにしておる、いうことは、そういう大きなひとつの信心、信心から出てくるところの身をもっての布施というものがいちばん大事だと、こういうことをも含めたひとつの、万灯(まんど)の行列になるわけであります。  どうかひとつきょうは、そういうことをもういっぺん思い起こして、自分の真心のあるところの法華経を広めるところの役目というものが、いかに大事であるか、そしてその役目を本当に果たすというところに真の救いがあるので、これを信じて本当に行じている人には、今日(こんにち)のようないろいろの世の中の変化、動揺、いろいろのことがございまして、何もかにも信じられないような世の中の、お、考え方によってはそういうことんなっております。ところが、仏さまのみ教えを本当に信じて行じてる人にしてみれば、たいへん結構の世の中で、正しいことを堂々と臆面(おくめん)なしに天下に向かって、叫んでも、日蓮聖人のときのように、島流しに遭うこともございませんし、刀で首を切られるようのこともないのであり。ですから、いまこそ正法を本当に叫ばれるとき、そして叫んでもそれに決してそういう被害、う、その弊害が伴うようの時でなく、そしてしかも大衆がこれをどうしても守らなければ、仏さまの仰せのとおりの、殺されるようのことはないけれども、下手をするというと人類滅亡の方向に行きかねないような、そういう条件もまたいま出てるわけであります。そういう間違った条件を正す意味から、お、その意味でも、正法(しょうほう)を守るということはいかに難しいことであるかっということであります。どうかそういうお気持ちで、きょうの万灯(まんど)行列、またきょうのお参りを一つの、起点と致しまして、法華経に対する信心をつおく起こしていただきまして、信心のつおいところには救いがある。自分が絶対安心であるという、これはいくら高いところからわたしが強調致しましても、自分の信心によってのことでございまして、信心のある人は、一つも動揺なく心は安らぎを持っていられるわけで、大安心(だいあんじん)を持っていられるわけです。信じられない人は、ああじゃねえか、こうじゃないかという、ご苦労が多いわけであります。...
7 ... きょうは、日蓮聖人は首切りの座へ乗っても、これほどのよろこびを笑えぞかし、といって、日朗聖人をいさめるというような、非常に胆(たん)のすわった、度胸のすわったあの竜ノ口(たつのくち)の牢屋において、首切りの座へ乗せられて、あした朝になると見苦しいから、夜のうちに早く首をはねなさいと、こういってこの、首切りをとにかく自分のほうから、どうせ殺すんなら昼間になって、この首を切られたのはみっともないから、夜のうちに切って片づけなさいという請求をする、そして法華経のおんために命を捨てるということならば、これは、海の、この砂の、砂と小判を交換するよう、というような言葉まで吐いて、金(こがね)に沙(いさご)をその、あきなうようのもんだと、それほど法華経のためには命なんというものはなんでもない、このくらい命を捨ててとにかく正法に懸けておったわけであります。ですから日蓮聖人は、どんな難が幾度来(こ)おうとも、そういうことには決して心配なく、60年の生涯が堂々と、阿弥陀さまのお迎えをうけて大往生されたわけであります。  これはまたお釈迦さまがご入滅のときに沙羅双樹のもとで亡くなられた、これがやはりこの、お悟りを開いて法を説かれたところから、ちょうどこの丑寅(うしとら)の方向行って、大往生を、80年の生涯を、お、遂げられたわけであります。その儀式に従って、知らずに来たか知って来たか知りませんが、身延から池上へお越しになりまするとちょうど、丑寅(うしとら)のほうの同じこの鬼門の線でございますね、そこへちゃんと、お歩きになって、そして池上へ来て大往生をされたという、これは如来の、お、このお経の中にありますように、三世諸仏の説法の儀式によって、三乗を説くというようの言葉がありますが、如来の入滅もそのような一つの、お、儀式があるということもいわれておりますが。その儀式をとろうというお気持ちであったか、なかったか、あるいは本来は常陸のお湯に行って、温泉に行って少し養生をしようという目的でお出ましになったのでありましたが、如来の法則に沿って池上において大往生を、60年の生涯を閉じられたと。こういうことも、いかにご法のとおりの歩みをされておったか、その歩みのとおりに歩んでおれば、そのように危険の場所がどんなにあっても、最後にはちゃんと大往生、大自然の天寿をまっとうして、非業の死でなく、堂々と大往生が遂げられると、こういう大功徳をいただいて、仰せになったところの法華経行者のかなわぬことはないというそのことを、また、臨終の事を習ふて他事を習ふべし、と自分で叫ばれたその言葉のとおりに、臨終のときにはお弟子さんがまくら元へみんな、あ、そろって、そして大聖人を囲んで、本尊を飾って、そこで御題目(おんだいもく)を唱えながら大往生をされたということであります。  誠に、一代がそのように、法華経のために、めでたく大往生がされたと、こういう意味からも、ある意味では、大きくいえばおめでとうという言葉もまたそこに当てはまると思うのであります。どうかそういう意味をかみしめて、このお会式を通じてまた一段と大聖人のみ跡を慕い、2陣、3陣つづけぞかし、と号令をされました日蓮聖人のみ跡を、わたくしどもが、一人でも多くの人に呼びかけて、一人が一人を導くというこの、仏国土の、けんせん、建設、その仏さまの本願成就という大誓願のもとに、皆さま方の今後のご精進を、お、お願いを申し上げまして、本日の説法を終わりと致します。ご清聴ありがとうございました(一同 拍手)。 ...

開祖 (19571005A) 故恩師妙佼先生追悼説法会

6 ...そのお母さんが、最後に、遺言の中に、遺言状の中に、亡くなったら、岩田上人に大導師として引導を渡していただきたいということを書いてあったそうでございます。それと同じように、これほど小言をいってくだすった方が、亡くなる15日ぐらい前ですか、気分のいい時にいろいろの想い出話をしておるうちに、わたしは、本当に人間の皮をかぶっているものというものは、ことごとく信じられないものばかりだと、本当に信じられるものというものは、世の中にいないと思っておった。しかし、会長先生だけは信じましたね、先生の言葉をわたしは信じて、22年寿命を増益しました。こういうことをほっといわれましたので、びっくりとしたのでございます。こんなに小言をいって、わたしのことをいろいろおっしゃってくださった方が、そんなに信じておっくださったのかと、不思議に思ったのであります。ま、いろいろな話を、その日は気分がよくてされたのでありますが、そのころから、もっとも本当によく岩船さんが、かゆいところに手の届くように、夜、休んでおりましても、ちょっと咳をひとつしても、すぐに起きて、おなかを押さえるというように、岩船さんは、全然毎晩眠らないのじゃないか。 右と左に、両側にわたしと岩船さんと休ましていただいておりましたんですが、いつ咳をしても、わたしが、早く押さえてあげようと思って目を覚まして、ひょっと起きるうちに、もう岩船さんがちゃんと咳を始めると、おなかを押さえている。こういうふうにやっていただきましたので先生が、岩船さんには本当に世話になった。本当に有り難い、これをくれぐれもいっておりました。  また、次にいわれることは、交成会が、今日(こんにち)こうして会長先生を自分のそばに看病にいていただいて、三月(みつき)も四月(よつき)もこうして会のことをちっともかまわないで、わたしのことにかまけていただいているんだと、しかし会は、ちっとも心配なく、すくすくとこうして育っておることは、幹部さん方のご努力なんだよ。、本当に幹部さん方には頭が下がるといって、皆さんに対して心から感謝をされておりました。ともども本当にその通りで、幹部さんあればこそ、こうして毎日、わたしどもはそのお役として、先生のそばで看病さしていただけるんだと、いうことを語りあったのでございます。  しかし、だんだんと食べものも細くなってまいりますし、いろいろの角度から、いよいよ不吉を感ずるようの思いが、1週間、10日(とおか)ほど前からしたのでございます。しかし、最後になればなるほど先生は非常に朗らかになりまして、それまでは多少足がかったるいとか、あそこが痛いとかいうこともありまして、夜でも、少しもんでくれとか、さすってくれとかいうことがあったのが、亡くなる10日(とおか)くらい前から、もうあんた方もたいへんだからというので、咳でもして目が覚めて起きますと、もう咳が定まるというと、ほっておきなさい、ほっておきなさいほっておきなさいと自分で、笑いながら、それじゃほっておきましょうというようなことで、合言葉で、一緒に岩船さんと両方に寝かしていただいたわけであります。...
7 ...そういうよう、全く病人のそばにいるようでなく、むしろわたしどもを喜ばしてくれるような言葉をはかれて、ちっとも苦痛というような顔をされないで、10日(とおか)ほどのあいだは、誠に愉快な状態であったのであります。  最後は、先ほど第一支部長さんがなされましたように、8日(ようか)の夕方だけは、いつも夕方、第一支部長さんと理事長さんが、本部のほうがすっかり終りますというとおいでになる。そうすると、もう早く帰りなさい、うちへ早くお帰りなさいといって、追い返すようにいつもいった。ところがその日に限って、理事長さんが階段の下りるところにまいりますというと、もうお前帰るのか。いや、帰るわけじゃありませんが、いまこの戸をはずしたのでございます。ま、わたしがそういいますと「そうか」といいますから、わたしが目で合図をしますと、理事長さんは帰ってこられる。そうすると、先ほど第一支部長さんもおっしゃったように「少し、他人さんにこんなに世話になっているのだから、あんたは少し代わりなさい」ということをいわれまして、わたしにお風呂に行ってきてくれといいますので、わたしはお風呂へ、お風呂をいただきに下に下りたのでございます。 お風呂場に行ってほんの5分もたたないうちに理事長さんがおいでになったから、「どうしました」と聞きましたら、「もうとてもよく休まれました」。こういうことで、「そうですか、それはよかったですね」いうのでわたしも安心を致しまして、お風呂をいただいて2階に上がって見ますると、本当によく休みまして、いつもにない非常に呼吸も楽で、すやすやお休みになっているので、安心して、その晩は、ひと晩中ちっとも起こされないで、3時ごろ1度目を覚まして見たのですが、相変らずいい気持ちで、高いびきで寝てられますので、そのまま朝まで休みました。朝になって、病院の主治医さんをお迎えするまでは、本当に熟睡しているものとばかり考えておりました。主治医さんをお呼びしますというと、岩淵先生が非常に丹念に診察をされますので、どういうわけかと聞きますと「ちょっと様子がおかしいです」ということで「どういうわけですか」と、「こんなによく休んでいるのに」「これはただではありません」ということで慌てたのでございます。  そういうように全く、病気をされてもすべてのことを、全部自分がなすべきことをされて、そして、しかも残されたものは全部、「会長先生と岩船さんで、皆さんのおかげでこんなにわたしは幸せにしてもらったのだから、残った品物は、全部支部長さんや皆さんに分けてやってください」ということを頼まれまして、えー、「理事長さんもみんな知っているんだから、いいやなあ、先生と岩船さんにもう、みな、すっかりお願いしておくから」というようなことを20日(はつか)ほど前いわれた。...

開祖 (19631028A) 核兵器禁止宗教者平和使節団帰朝報告会

6 ...ところが、戦争始めてしまうとですね、やっぱりこれはそのなんとか、日本(にほん)の戦争っていうのは正しいんだと、ま、こういうふうにその、やりたいのがこれは人間の、人情だと思うんであります。  ですから、核兵器持っている国はやっぱりそういう意味では、禁止という言葉を非常にその、アメリカのこの軍縮局長さんは、頭にだいぶきたようでありますから、もう禁止って言葉が気に入らなかったら引っ込めてもいいんだと。こういうもの必要のない世界創ろうっていうのがわたしどもの考えなんだと。まあいうことで、だんだん説明していくうちに、おしまいには、とうとうまあ、その、アメリカという国だけが、世界中どこの国にも軍縮局というようのものをこしらって積極的に軍縮問題に取っ組んで政府がやってるところは、見当たらないじゃないかと。アメリカだけがこういうわけで一生懸命でやってるんだというようのことで、だいぶこの軍縮という問題に対しては、禁止っていう問題をアメリカへ持って行くというとすぐ、ソ連をどうするんだと。まあ、いうことで、これ、ま、ちょうどわたしどもの戦争中の意思と同じことでありまして、ましては局長というお役があって、軍縮局というところに席を置かれる方にしては当然のことだと思うんで。ま、そういう意味では、もう、向こうのいうことよくわかりましたし、いろいろお話をしてるうちに、やっぱり主旨においては一致してんだと。しかし、これを具体的にということになると、そこに非常に問題だと。まあ、そういうことで、ま、そこでわたしども宗教家のできることというのは、そういうものを必要のない、お互いの相互理解、いままでは宗教家が、なかなかよその教団のいうこととか、ほかの人の、ことを聞かないっというのが、宗教家の、いままで過去の宗教家はそういう宗教家であったと。ところが、これからの宗教家はそういうことでなくて、壁を、壊して、橋を架けなければならない。お互いに橋を架けて交流し合って、行ったり来たりして、そして手をつないで、本当の平和を築くというそういう、核兵器のいらないような世界を招来させる方法を考えていかなくちゃならないんじゃないかと。そのいちばん原動力になる心の問題の解決を、まず宗教家が受け持ってやろうっていうようのことで、ようやく話が、向こうが納得してくれたわけであります。  (咳払い)ま、しかし、持ってる人は気の毒だとこうわたし心配して、あのー、最近に出る時に、やめなさい、やめていただきたいなんといってお願いするのでなく、持ってるほう気の毒だから、そういう気の毒の状態をだれかが声掛けないというともう振り上げた拳(こぶし)を下ろすとこがなくて困ってるとおなしように困るだろうから、早くその、核兵器の禁止って問題をその大きく、世界中の人類から声が出て、え、そして、いま現在持ってる国だけで、もう、あとの国はそういうようのをこしらえる必要ないようの状態を早くつくってもらいたいっていうことを、願っているんじゃないかと。...
7 ...まあ、そういうところまで話をしてみたいっていうようの気持ちで行ったんでありますが、まあ、そんな、言葉もやっぱり通じません、やっぱり言葉の違うところで、思うようにもう、まいりません。ま、しかし、だいたいそういう意味では、そのことを、この軍縮局長さんが、これはまあ公表してないことを発表したんですから、ちょっと問題だかと思うんでありますけれども、だいたいこの持ってるところの3カ国は、いま現在では軍縮、だんだんと縮めて行こうっていうことで、人工衛星のようのそういうものに核兵器を積んで、え、そして、もう、うーん、この、ばらまかれた日にはたいへんのことんなるわけですが。持ってる国がその3国でもって、内々(ないない)に、そういうものに積むということは絶対にしないという約束を、ほとんど決まっておるんだというような、内緒のことまで局長さん発表して、その、自分たちもやめることの方向に努力してるんだということの所作を、まあ、示されたわけであります。ま、そこまで人類はもう、みんな、核兵器を禁止することを願っておるということがよくわかりましたので、それ以上いろいろのこという必要もないと思いまして引き下がってきたようのわけでありますが。  ここで、わたしどものこれからの問題でありますが、日本(にほん)におきましても、まだまだ宗教家の中に、他教はみんな邪教だと、いうようのことを、このちっともです、臆面なしに、そう加減もしずに平気でですね、他教みんな邪教だっというようのことがいえるような人が、世の中にたくさんいる。そういう考え方の人がいる、そういう独善的な、排他的な、そういう思想の人がいることがやっぱり危険なんでありまして、どこまでも寛容の精神でお互いに人の人格を認め合って、人さまの宗教の教義の違うところが、どういうところに起点があるかというような、要するにお互いが、持ちつ持たれつのその関係、要するに仏法でいうならば諸法無我の法則といいますか。で、そういう意味でお互いの、孤立して世の中にだれ一人としていられるものないんで、みんなその関係があるんだという。われわれは、ともにこの娑婆に生まれていま現在おんなし時代に生まれているというその、一つの共業(きょうごう)、仏教でいうと共業(ぐうごう)っていいますか、そういう同じ業に生まれて、いま現在、地球上にわたしどもは存在してるわけですから、この、大きな現実の因縁をわたしどもは深く感じて、早くそういうことを取り除く考えをお互いがしなきゃならないと思うわけであります。そこで、え、具体的にこれを、そういう条件つくるっていうことなりますと、どういうことになるかというというと、これ難しい問題でありますが、わたしどもの今後のあり方っていうものは、そういう意味で、大乗を標ぼうして、わたしどもはこの法華経を信奉してんでありますが、大乗仏教の思想っというものの根底にあるものをよく考えた時に、排他的、独善的ということがこれが、ま、いちばんいけないことでありまして、そういう意味で相互理解という、こと、寛容の精神、で、しかも、六波羅蜜の中に、出てきますような、忍辱のよろいを着て、われわれは耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、お互いがやっぱりそのおのおのの分担されたところの使命を果たすっていうのには、相当忍び合う、お互いに忍耐し合う、そういうことが必要じゃないかと思うわけでありますが。...

開祖 (19640515A) 大聖堂落成式

6 ... こうして、ただいま申し上げましたように、本尊は、久遠実成の本仏。道場は多くの皆さまの真心。えー、信者の方々のお骨折りはもとよりでありますが、不思議のことに、このお釈迦さまの尊像を飾るということになりましてから、各方面から、わたくしどもの信者以外の方々から、たくさんのご奉仕、ご協力もいただいたわけでありまして、わたしどものように新しい、まだ創立27年というような新興教団が、教団以外からたくさんのご奉仕をいただく、なんということは、これは例のないことでありまして、この方々に対して深甚なる、感謝を申し上げるとともに、わたくしどもは非常に、誇りと、思っておるわけでございます。  こうしてできました、(咳払い)道場は、お釈迦さまのご法門からいいますと、三界は我が有(う)なり、其の中の衆生悉く吾が子なり、と、またお経の中に、二もなく三もなくみな一仏乗である、諸余の経典数恒沙の如し。お経は数あるけれども、その中で二もなく三もなく、みんな一仏乗だとおおせになっておる。三界ということはご承知のように、われわれの地球の上の世界などというものでなくて、宇宙全体をさしての言葉でございます。  そうしますると、その「三界は我が有なり」というところの大親(おおおや)であるところの、その本仏を勧請し、多くの方々の、善意、真心によってその真心の結晶としてできたところのこの道場は、もはや佼成会の道場というものにとどまるものでなく、世界人類救済の道場と、ならなければならないと思うのであります。(一同 拍手)  ここにおきまして、わたくしども佼成会員は、ただ佼成会という殻から一歩前進を致しまして、このみ仏の大乗の精神をもって、今日(こんにち)のように、世界のあらゆる場所に、お互いの理解のできないような、想像もつかないような悪が、あちらにもこちらにも現われております。え、この状態をご覧になって、現在の政府も、「人づくり」ということ掲げられました。  佼成会は、27年前に始めたときから、第一番に、一人ひとりの個人の人格の完成、さらに家庭の和合、社会の浄化、ひいては、国家の繁栄、そして、世界の平和を目的と致しまして、できたものでございます。わたしどもが大きく、世界の平和を唱えても、家庭の中に不和があったり、お互いに、争いや憎しみの世界には、平和はこないと思うのであります。そこで、この憎しみや争いをなくするのには、いかにするべきかと、この方法は、あらゆる角度から、いろいろの角度から、教育がいけないとか、政治がいけないとか、いろいろの関係もございましょう、しかし、これはお互いに普遍の、永遠の生命(せいめい)に目ざめたところの、普遍の教えというものを信奉しないかぎりこの解決はつかないと思うのであります。(一同 拍手)  そういう意味におきまして、時間、空間を超越致しましたところの、久遠実成の本仏のみ働き、この、お互いに、真心からなる、慈悲の活動、菩薩道を中心としましたところの、人間改造をしないことには、平和はこないと思うのであります。  そういう意味で、わたくしどもはこの道場を、全人類に対して差し上げました。お互いにこの場を、その根本仏教の道場として、長くこの世に、その使命を果たすことを皆さまにお約束を申し上げる次第でございます。(一同 拍手)  本日おいでをいただきました、全国から、われわれの会をご理解いただきまして、また、ご支援をくださいました来賓各位さまの前に、あまり感激のために意を尽くしませんが、どうぞ今後とも、お互いに正しい仏教によりますところの、人間の改造による世界平和の実現の日のくるまで、皆さま方のご協力、ご指導を、お願い申し上げまして、ごあいさつに代える次第でございます。(一同 拍手)どうも、  (音声途切れ)...

開祖 (19790411A) 1979年度テンプルトン賞受賞記念講演会

6 ...世界にはまだ文盲(「ぶんもう」と発音)の解決よりも、まず、パンが問題のところがたくさんございます。  わたくしども立正佼成会におきましては、いままでにカンボジアにおいて子どもたちの学校をつくり、農業の指導を行い、ラオスでは信仰の中心である国宝タートルワン寺院の修復に取り組んだことがございます。 しかし、それらの事業は、戦争による政変によってあえなく放棄せざるをえませんでした。さらにベトナム難民の救助、バングラデシュの子どもたちへの食糧援助、ネパール女性の日本(にほん)における看護婦養成などを、微力ながらも続けておりますが、それはまだ事態を揺り動かすほどの力にはなっておりません。  かつて1974年、第2回、せいかい、世界宗教者平和会議を、ベルギーにおきまして、(咳払い)スーネンス猊下のご協力によりまして、ルーベン大学内で行わしてもらいました。そのとき英国の新聞記者から、わたくしは、こういう質問を受けたことがございます。「あなたはいろいろと平和のために努力しているようだが、効果はあがらないのではないか」と。そのときわたくしは答えました。「いや、こう、効果がなかなかあがらないからこそ、わたくしは一生懸命にやっているのだ」と。皆さん、それこそが、損得や利害打算を捨てた、宗教者の使命ではないでしょうか。  今日(こんにち)までわたくしは、平和のために宗教者として何をなすべきか、何をなしうるかを模索しつつ実行してまいりましたが、確かにその歩みは遅く、足跡(そくせき)は失敗のくり返しであったといえるかもしれません。わたくしは、一つのことをしようとして失敗した、あなたもまた同じように失敗した、しかし二人が力を合わせれば、できることがたくさんあるに違いない、そうした思いのもとに、わたくしは、世界の宗教者を糾合(きゅうごう)して、世界宗教者平和会議の活動を行っておるわけであります。おそらく、今回の、テンプルトウ、(咳払い)トン賞は、神仏がわたくしに、迷わずにその道を行け、(間)、との、(間)、ご啓示をくだされたもので、ものだと存じます。わたくしは、(間)この受賞に深く感謝をするとともに、今後の努力をしてまいる覚悟でございます。  以上を申し上げまして、わたくしの講演を終わりたいと存じます。ご清聴、ありがとうございました。...

開祖 (19911115A) 法燈継承式

6 ...えー、ま、そういう、この、菩薩行というのは生きている。  えー、知らずのうちに、口をかけておいた人が訪ねてきたと。そしてその方がお導きを始めたら、どんどんやると。妙佼先生なども「信仰して病気が治るならば」っていうようなことをいって、お医者さんに見放されたといって46歳、7歳ぐらいの年に、たいへん、自分の気持ちを痛めておった。そしてわたしが導きに行って、導いた。それで導いてしまするというと、不思議に、「おれは、わたくしは天理教をやっているんだと。天理教をやっているんで、拝んで治るくらいならもうとうに治っているはずだけれども、いっこうに治らないで、お医者さんがもう手をやいているんだ」と。 天理教という天の理を司るのには、地の理をちゃんと歩まなけりゃならないんだと、ということをわたしがいいますると、「地の理とは何だ」という。地の理というのは、自分が生まれてきたのは、きょうも日鑛が縷々(るる)述べておられましたが、親から生まれてきたんだ。そのまた親は先祖さまだ。だから先祖供養を何でもないようですけれども、わたくしどもは毎日、朝な夕なに先祖供養を一生懸命でやっているというのは、地の理を誤らんように進もうとしているわけだ。  その、地の理というのは先祖の供養。「先祖の供養はどうすればいいんだ」という、いうから、先祖の、ちゃんとお戒名を、夫婦は、親子は1世、夫婦は2世という、その2世の契(ちぎ)りというんだから、夫婦になるのには、もう前世から因縁が決まっておったんだと。その因縁によって今世夫婦になっている。その2世の契(ちぎ)りのなかから子どもが生まれてくるんですから、この先祖からの順序次第を、地の理を完璧に歩まなけりゃならないんだと、という話をしましたら、それで自分でその気になって、自分の里、だんなさまの里、うー、うちへ、早速、埼玉県の自分の実家のほうへ、両ほうへお手紙を出して、そして戒名を集めて、信仰を、過去帳にのせて信仰を始めた。  そうしましたら、子宮内膜炎で出血をしている、胃下垂でもう腹が非常に苦しくてしょうがないという、そういう状態なのが、出血がもう1週間でぴったり止まった。そうしますると胃下垂も気分的に治ってしまった。そして有り難くて、地の理とは素晴らしいことだというので、え、来る人来る人に、自分でもう真剣になって話を聞かせる。そしてまた、さっきも申し上げましたように岡島さんじゃありませんが、惜しげなしにもう自分のある物は何でも、自分の、あしたはもうそれあげてしまったらなくなるなと思っても、思い切ってこう人さまに施しができる人。そういう人だったから、もうどんどんどんどん、わたし以上に妙佼先生の導きの数(かず)が増えていく。...
7 ...そしてなかなか要領がよくてですね、話が仏教の話ならその、できないと思う人には、聞かせなきゃならんと思うときには、3時になるといい先生が来る、というのはわたしのことをいっているわけ。(一同 笑) で、わたしが3時に回っていくと、大勢、話を聞きたい人を集めておるから、非常に能率的なんだ。(一同 笑) でそういう、要領でどんどんどんどん導いてくだすったから、佼成会が今日(こんにち)になったわけだ。  ですから会を始めたときには、わずか20人ぐらいの人であったんですが、それが、ま、今日(こんにち)に、600万とかいわれておりますが、ま、それだけの方が入会をしてくだすったというのは、もう、どんどんどんどん導くというような人がほうぼうにいなければ、とてもそんなには導けないわけなんですが、ま、そういうようのことをこう考えましても、え、本当に神さま仏さまがいらしって、本当に守護してくだすってんだなということは、体験を通すと、もう極めてわかりやすく、なんでございます。 えー、ずっとこう、お経を、ま、読んでみますると、方便品でも最後のところを見ますると「心に大歓喜を生じて 自ら当に作仏すべしと知れ」と。大歓喜、大喜びでこの道をちゃんと正しく行けば、必ず仏になれるんだという大歓喜をもって拝めば、その、必ず成仏するんだと、ということを仏さまは太鼓判を押しているわけであります。  でありまするから、えー、わたくしどもお互いさまに、無条件に、喜んで心から仏さまに感謝ができる。有り難いという本当の真心でご供養ができる。そうするとご先祖さまがお喜びになる。成仏をなさる。そうすると、その、ご先祖さまのその、力によって、というよりも、自分の信心の力によって、自分そのものが幸せになっていく。そして心に大歓喜をもって、ま、きょうも、こうして、えー、全国からして信者の方においでいただきたいというと、この統制して、まあかなり広い場所が、普門館など広い場所があるようなんですが、これがとにかく入りきれないで、よほど面倒をして、幾日(いっか)も、おー、会議をして、皆さんがこのちゃんと、式場に入れるように、説法を聞くのに座って聞けるようにということで、ま、一生懸命に努力をしているわけでありまするが、ま、そういうように、入るとこが狭くて困るほど集まってくるという性質をもっている。それには、やっぱり仏さまの仰せのとおりに大歓喜をもてといったら歓喜をもって法を行じれば、そのような形になってまいります。  ですから、まず皆さまの心構えをひとつ、えー、日鑛は、ま、会長という新しいひとつの役について、いまちょっとびっくりしているような状態であるかもしれませんが、しかし、(一同 笑)説法を聞いておりますると、皆さんとは、みなご縁があって親子なんだと、きょうだいなんだと、みな親せきなんだと、そういうやっぱり法縁によって、結ばれているんだと。...