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経典のことば(3)
立正佼成会会長 庭野日敬

たまたま一あればまた一を少(か)き、是れあれば是れを少く、斉等(さいとう)あらんことを思う。
(仏説無量寿経・下)

欲求不満で一生を送るか

 このことばの前に、お釈迦さまは「世の中の人は、田が無ければ田が欲しいと心を悩まし、持ち家がなければ家が欲しいと心を悩ます。牛や馬、金銭、衣服、食物、家財道具などについてもそのとおりである」という意味のことをお説きになっています。
 そして、ここにあるように「たまたま一つの物があれば、他の一つの物について不足感をおぼえ(少き)これがあればあれがないと欲求不満を起こす。そして、何もかも等しく揃えて持ちたい(斉等あらん)と望むものである」と、煩悩多き凡夫の心理を説破しておられます。
 これにつづけて、大略つぎのように述べられています。
 「このように心を悩ましてみても、なかなか思うとおりにならぬものである。それなのに、ただ物を追い求めて心身ともに疲れはて、善を行ったり、道を求めたり、徳を積むことを忘れ、そうしているうちに一生が終わってしまう。そしてただ一つの物さえ持たず、ひとりあの世へ去ってしまうのである」
 あなたはこれを読んで、二千五百年前のインドと今日の日本と、いっこうに変わりはないのだなぁ……とは思いませんか。
 マイホームが欲しい。無理をしてローンで家を建てる。今度は車が欲しくなる。ピアノも欲しい。ついサラ金から金を借りる。ローンとサラ金への支払いに頭を悩まし、妻は家事に疲れたからだにむちうってパートに出る。ローンの支払いが終わるころ夫は定年になる。老いがしのび寄る。そして死を迎える。
 そのときになって、自分はいったい何のためにこの世に生まれ、これまで生きてきたのだろうか……と、むなしい思いにさいなまれても、時すでに遅いのです。
 ですから、ここに掲げたことばは、「人生とは何か」「人間は何のために生きるのか」という大命題について深く考えさせられる、貴重この上もない一句だと思うのです。

子供にも「斉等」を望むな

これはまた、教育の問題についても大きな示唆と教訓を含んでいると思います。
 あなたはお子さんに対して「一あればまた一を少き」の思いをいだき、たとえば国語がよくできれば算数の点数の劣るのを不満とし、「斉等あらんこと」を願って、それ塾よ、家庭教師よと騒いではいらっしゃいませんか。そのようにすべての成績を均等に上げようとすることは、その子の個性を伸ばさず、かえって持ち前の天分を殺すものだとは思いませんか。
 あの大発明家エジソンは、いわゆる変わった子でした。小学校に入学しても、一人で変な実験ばかりしていました。数学の時間に先生が「一たす一は二です」と教えると、「なぜ一たす一は二になるんですか」としつこく追求するというふうでした。先生は、この子は精神薄弱児だと判断し、母親を呼び出して「お宅のお子さんはほかの子供と一緒に教育はできません」と言い渡しました。
 その母親が偉かったのです。子供の本性を見抜いていましたので、さっそく退学させて自宅で教育し、その異常なほどの探究精神を伸ばしてやりました。エジソンは学校には三ヵ月しか行っていないのに、一生に千八百余りの発明を成し遂げたのでした。
 子供はだれでも未知の可能性を秘めています。それぞれ持ち前の才能を具えています。それを「斉等ならしめん」として殺してしまうのは、その子自身のためにも、人類全体のためにも、大きな損失だと知るべきでありましょう。
題字と絵 難波淳郎

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