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仏教者のことば(67)
立正佼成会会長 庭野日敬

 一切世間の治生産業、ことごとく取り用いて我が実相智印となす。
 慈雲尊者・日本(『人と為る道』)

仏法と生活とは密着す

 慈雲尊者飲光(おんこう)は徳川時代中期の高僧です。釈尊がご在世のとき説かれた正法そのままを学び、広めようと発願して、梵語(サンスクリット)を研究し、『梵学津粱』一千巻の著があるほどです。そして、真言宗正法律の開祖となりました。
 さて、ここに掲げた言葉は、真言宗の立場をよく物語っているものですが、もっと広い目で見れば大乗仏教全体の考え方を代表していると言っていいでしょう。すなわち、仏法の智慧と現実生活とはけっして遊離したものではなく、つねに密着しているものだ……ということです。
 治生というのは、生活に役立つものごとです。産業というのは、読んで字のとおりです。実相というのは、一般に「事件の真相」などと言われている意味よりもっと深い、あらゆる物象の奥にある、目に見えぬ真実の相(すがた)をいうのです。
 「印」はしるしという語ですが、印象などというように心に深く刻み込まれたものごとで、仏教では悟りの内容を言います。それも、その悟りを外部の人に伝えるための標章を指すことが多く、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静を三法印といい、それに一切皆苦を加えて四法印というのがその例です。そこで、この言葉の意味は、「すべての生活活動・生産活動そのものの中に、究極の真実を知る素因が存在するのであって、わたしはそれを吸収して智慧を養うことに心がけている」ということになります。

興味を持ちしっかり考える

 これについて思い出すのは、吉川英治さんの「わたし以外のすべての人はわたしの師である」という言葉です。吉川さんは小学校も卒業しておられないのに、数々の名作を残し、国民的文豪と呼ばれる身となられました。
 それというのも、十二歳のとき没落した一家を支えるために印刷所に住み込んだのを手始めに、役所づとめ・商店員・労務者・船具工など・収入のよい仕事を求めて転々としながら、そういった仕事とそのまわりの人びとからさまざまなものを吸収し、慈雲尊者の言葉にあるように、すべての治生・産業(じしょう・さんごう)の中にものごとの奥にある真実を発見していかれた……その体験の積み重ねが、あの多くの名作となって結晶したのです。
 ここで見逃してはならないのは、ただ漫然といろいろな体験をしたというのではなく、その中から何物かを吸い取ろという積極的な心構えをつねに持っておられたということです。その積極性とは具体的に言ってどういうことかといいますと、次の二つの要点があると思います。
 まず第一に、何事にも好奇心を持つということです。未知の物に対して、目を輝かし、興味をもって見る……そういう態度が大切です。中年になっても、年を取っても、そういった少年のような態度でものごとに対すれば、いつまでも若々しく、どこまでも自己をふくらませていくことができるのです。
 第二に、ものごとをしっかり見ることです。しっかりと見れば印象が深くなり印象が深くなれば、自然とそのことをじっくり考えるようになります。その考えるということが、奥にある実相を悟る大事な要因となるわけです。
 この二つを心がけておれば、一切世間の治生産業がことごとく実相の悟りへと誘(いざな)ってくれるのであります。ともあれ、この言葉はじつにスバラシイ人生訓だと思います。
題字 田岡正堂

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