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仏教者のことば(68)
立正佼成会会長 庭野日敬

 アクのあるのを愛という。アクのないのを慈悲という。慈悲は平等であって、愛の方は区別がある。こっちが愛したかて、向こうが愛してくれなかったら、これは成立しない。けど、向こうがどうであろうが、言うこと聞いても聞かいでも、かわいいというのが慈悲なの。
 大西良慶・日本(坐禅和讃講話・『大法輪』五十五・九)

良慶師の懐かしい思い出

 昨年(昭和五十八年)二月十五日に百七歳で大往生を遂げられた大西良慶師は、わたしの最も尊敬する仏教者の一人で、師にお目にかかるのは何とも言えぬ楽しみでした。
 たしかわたしが古希を迎えた年だったと記憶しますが、関西のあちこちを回りましたとき、京都に着くとまずお訪ねしたのが清水寺でした。その時は百一歳でしたが、じつにかくしゃくたるもので、わたし自身ちょっと年を取ったかな……と時々思っていましたところ、それを見すかすように、「これからは庭野さんのような若い方に先頭に立ってもらわねば……」と言われ、返す言葉もありませんでした。
 約一時間ほどお話しいたしましたが、――世界宗教者平和会議に力を尽くし、現実にたくさんの衆生を済度してくれている。また、難しい仏典をやさしい現代語に直して多くの人に分かるようにしてくれて有り難いと思う――などと、過分の褒め言葉を頂き、恐縮しました。お暇しようとしますと、「ちょっとお待ちを……あなたに差し上げようと思って書いておいたのですが、拙筆ですけれども……」と、一幅の書をくださいました。
 「青山聳天表(せいざんてんぴょうにそびゆ)」と雄渾(ゆうこん)な筆勢で書かれてありました。その品格の重さには、いつものことながら敬服に耐えず、有り難く頂戴した次第でした。

慈悲は無条件・無償

 追慕の念やみ難く、つい私事を書いてしまいましたが、師はほんとうに悟りを開いた方でした。そして、普通ならば反駁や非難への思惑から「と言われている」とか「と思われる」とかいった逃げ道をつくって発言することを、何のためらいもなく、ズバリと断言する方でした。
 霊界とか転生とかについても、たとえば、「弥勒(みろく)さんがいま兜率天(とそつてん・高い霊界の一つ)にいられる。弘法大師も伝教大師も皆ここでいま勉強していられる。それで今度弥勒さんの下生(げしょう)のときにその一座の人が皆人間の世界へ下ってきて、この弥勒さんの法を手伝われる(法華経自我偈講話『大法輪』五十七・二)と言い切るといったふうでした。あのお年になられると、やはり神通力が生じて、天界のことをも見通しておられたのかもしれません。
 さて、愛と慈悲についての前掲の言葉、これはもう解説の必要もないことと思いますが、アクの有る無しに譬えられたのがじつにぴったりだと思います。愛も、人と人とのかかわり合いになくてはならぬスバラシイものですけれども、それには多かれ少なかれ煩悩がつきまといます。「こうあってくれればうれしいのだが……」とか、「この愛情を受け取ってくれるかどうか心配だ」といった気持ちがあって、心がほんとうにスッキリしません。それがアクです。
 ところが、慈悲となるとそれがないのです。なんの条件もなくかわいいと思う、なんらの報いも望むことなくしあわせであってほしいと思う。まことにおおらかで、まじりけのない思いやり、それが慈悲というものです。まことに難しい境地ですが、仏教でいう慈悲とはそんなものだとだけは心得ていたいものです。
題字 田岡正堂

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