全ページ表示

1ページ中の 1ページ目を表示
仏教者のことば(66)
立正佼成会会長 庭野日敬

 「わたしは貴僧に招待されて来たのではなく、ヤソ教に招待されて来たのですから、その悪口は言えません」
 山崎辨栄上人・日本(仏教布教大系第十九巻)

他教排斥への痛烈な戒め

 山崎辨栄上人については第四十七回にも書きましたが、「宇宙の万物はすべて如来という一大心霊の変現したものである」という仏教の世界観に透徹した方だけあって、他の宗教についても広い心を持っておられました。
 明治時代のこと、岐阜県下の一寺院で、いつもは布教などしないお寺だったのに、その土地にヤソ教(キリスト教)がはいったのを追い出そうと考えた住職が、天下に有名な辨栄上人を招いて三日間の大説法をお願いしました。
 ところが、三日間の説法はすべて仏教のことばかりで、キリスト教に対する批判などは一言もなかったのです。たまりかねて住職が不満の意を述べますと、上人は「わたしは貴僧に招待されて来たのではなく、ヤソ教に招待されて来たのですから、その悪口はいえません」と答えられました。
 ヤソ教に招待されたというのは、その住職がキリスト教排斥というチッポケな了見で招待したことに対する痛烈な戒めだったのです。そして、「他教の悪口を言うよりも、自分の信ずる宗教の布教に努めることに専念しなさい」と、懇々と説き聞かされたといいます。

豚が食えば豚肉に

 とかく人間は、末端の小さな違いにこだわって、大本を忘れてしまいがちです。国の政治でも、その大本は「国民のすべてが幸せに暮らせるようにする」ことにあるのですけれども、与党も野党も政策論争のほうにとらわれ、国民不在などと言われていることは、みなさんよくご存じのとおりです。
 宗教というものは、どの宗教・宗派にしても、その大本は宇宙の背後にある見えざる絶対的存在に根ざしており、その目的はすべての人間に心の安らぎを与え魂の浄化をはかるものなのに、いまだに地球上には宗教の違いによる紛争が絶えないのは、ほんとうに残念なことです。
 臨済宗天龍寺派の管長、関牧翁老師が、その著『魔禅』の中にこう書いておられます。「これは私の持論だが、宗教も世界的にならねばダメだと思っている。先日から浄土門の宗祖大遠忌で賑わっていたが、われわれの立場から見ると、禅宗の布教の届かぬところを浄土門各宗でお手伝いして下さるのだと思っている。人間、了見の狭いことをいっちゃいかん。豚が食えば何でも豚肉になり、牛が食えばことごとく牛肉になる」。
 他宗の盛大な催し事をむしろ有り難く受け取っておられる、そのひろびろした心に頭が下がりました。とくにおもしろいと思ったのは「豚が食えば何でも豚肉になり、牛が食えばことごとく牛肉になる」という言葉です。
 本は同じお釈迦さまの教えでも、天台大師がそれを消化すれば天台宗となり、達磨大師がそれを消化すれば禅宗となり、日蓮聖人がそれを消化すれば日蓮宗となるわけです。それなのに、末にこだわって本を忘れるために、宗派同士の反目などが起こるのです。
 いや、もっと本の本をただせば、あらゆる宗教の根源は同じなのです。山崎辨栄上人の言葉を借りれば、宇宙の一大心霊から発したものなのです。わたしも、まったく同じ信念を持っています。さればこそ、「世界宗教者平和会議」や「国際自由宗教連盟」や「明るい社会づくり運動」などに打ち込んでいるのです。
 関老師も言われるとおり、「人間、了見の狭いことをいっちゃいかん」のです。
題字 田岡正堂

関連情報