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経典のことば(35)
立正佼成会会長 庭野日敬

阿難よ、あの羊飼いは、草の傘をもって仏を暑さから覆うた。その功徳によって十三劫(こう)のあいだ天のよき所に生まれ、自然に七宝の傘をもって覆われるであろう。
(菩薩本行経・上)

微笑された世尊

 お釈迦さまが、大勢の弟子たちと共に、ウツタンラエン国のある村に行かれたときのことです。
 ちょうど真夏のことで、太陽は頭上から照りつけ、あまつさえその村には林も木立もなく、涼しい陰がひとつもありませんでした。
 一人の羊飼いが道端の野原で羊の番をしていましたが、お釈迦さまの一行がカンカン照りの中を歩いて行かれるのを見て、気の毒に思いました。なかでも、いちばんお年を召したお釈迦さまがおいたわしくてなりません。
 そこで、大急ぎで道ばたの草を集めて傘を作り、一行のあとを追って走りました。ようやく追いつくと、お釈迦さまの後ろからその粗末な傘をさしかけて歩きました。
 ずいぶん行ってから、少年は、羊の群れから遠く離れてしまったことに気づき、傘を地上に投げ出して駆けもどって行きました。
 それをごらんになったお釈迦さまは、ニッコリとほほ笑まれました。お供をしていた阿難は、お釈迦さまに申し上げました。
 「世尊はめったにお笑いになったことはございませんのに、いまニッコリなさいました。どうしたわけでございますか」
 お釈迦さまはおっしゃいました。
 「そなたはあの羊飼いを見ていたか」
 「はい、見ていました」
 「阿難よ、あの羊飼いは、草の傘をさしかけて、わたしを暑さから守ってくれた。その功徳によって十三劫(劫=数字では表しきれないほど極めて長い年月)のあいだ天界のよい所に生まれ、自然に七宝で飾られた傘で覆われるであろう」

純粋な思いやりこそ

 この話を読むと、二千五百年前のこととは思えず、つい昨日あたり、そこいらの村での出来事のように感じられるのです。そして、ほのぼのと胸が温まるような美しい情感に、しばらくうっとりとさせられます。
 少年のしたことには、理屈も何もありません。ただ自然に起こった「おいたわしい」という心情です。純粋な思いやりです。
 そして、その辺の草を集めて傘を作ってさしかけてお供をした。そこには、為になろうとか、良いことをしようとかいう心さえありません。文字通り無邪気そのものです。フト気がついたら遠くまで来てしまったので、あわてて傘をほうり出して走って帰った……その子供らしい行為、これまた無邪気そのものです。
 お釈迦さまは、その無邪気さについニッコリされたのではないかと拝察されます。そしてその純粋さの功徳を大きく評価されたのでありましょう。
 最近の社会には、こうした心温まる話が少なくなりました。新聞・雑誌・テレビなどの報道も、ギスギスした、血なまぐさいものが主流を占めています。そのために人の心もますます乾いていくのではないかと思われます。
 アメリカのある地方で、いわゆる美談ばかりを報道する新聞を発刊したところ、じつに売れ行きがよいということを聞きました。人間の心の底にはまだまだそうした尊いものが残っているものと、ホッとする思いがしました。
 思わず微笑が浮かぶようないい話、そんなものをたくさん掘り出したいものですね。
題字と絵 難波淳郎

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