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経典のことば(41)
立正佼成会会長 庭野日敬

そなたがまさしく見たように
小さな種子から大樹が生ずる
わたしもまさしく見ているのだ
小さな行為から大きな報いが生ずることを
(根本説一切有部毘奈耶薬事第八)

業報は無限に展開する

 お釈迦さまが王舎城を出て多根樹という村で托鉢されたときのことです。
 カピラバストからこの村に嫁に来た一人の女がいて、光り輝く仏陀のお姿を見て心の中に思いました。――仏さまは釈迦族の中でいちばん尊いお方。そんなお方がわたしのような者にまで食を乞われる。有り難いことだ。わたしはこの麦こがしを差し上げよう――。
 仏陀はすぐその心を見通され、鉢を持って近づき、「姉妹よ、そなたの麦こがしをこの鉢に施してください」とおっしゃいました。女は自分の心を見抜いていてくださったことを知り、ますます尊敬の念を深め、うやうやしく麦こがしを供養しました。
 仏陀はニッコリと微笑されました。おそばにいた阿難がそのわけを聞きますと、「この女は十三劫という長いあいだ天上界に生まれ、最後には独覚の悟りを得ることを予知したから、微笑したのである」とお答えになりました。
 仏陀のそのお声は村中に響きわたりました。林の中にいた女の夫がそれを聞いて大いに怒り、駆けつけてきて、
 「お前はおれの妻から麦こがしをもらうために、独覚の悟りを得るなどと大嘘をついたな。少しばかりの麦こがしでそんな果報が得られるはずがない。この嘘つき奴!」
 と怒鳴りつけるのでした。仏陀は静かに、
 「そなたは珍しいと思うことを見たことはないかね」
 とお尋ねになりました。すると男は、
 「珍しいものはいろいろ見たが、この村の多根樹ほど珍しいものはないだろう。なにしろ一本の木の陰に五百台の馬車をゆっくり入れることができるのだから……」
 と言います。
 「ほほう。だとしたら、その木の種子はよほど大きいのだろう。ひき臼(うす)ぐらいか、牛のかいば桶ぐらいか」
 「いや、そんなに大きくはない。ごく小さいものだ」
 「そんな小さい種子から、木陰に五百台もの馬車を入れるほどの大樹がほんとうに育つだろうか」
 「ほんとうだ。ちゃんとおれが見て知っているのだ」
 男がそう断言すると、釈尊は即座に一つの偈を作って示されました。
そなたがまさしく見たように
小さな種子から大樹が生ずる
わたしもまさしく見ているのだ
小さな行為から大きな報いが生ずることを
 男はなるほどと感じ入ったのでありました。

仏典の小話の読み方

 この小話に含まれる教訓は、もはや説明の要もありますまい。しかし、仏典に出てくるエピソードは、意味が明白だからといって軽く読み過ごしてはならないのです。そこに登場する人間像やその心理を、自分と引き比べながら思いめぐらしてみることが大切なのです。
 例えば、この女が麦こがしを供養しようとした瞬間の気持ちを推し測ってみましょう。すると、どう考えてもそこになんらの交換条件のような心もなければ作為もなく、おのずから催してくる純粋な気持ちからだったとしか思われません。お釈迦さまもその魂の純粋さを高く評価なさったのだろうと拝察されます。そしてそこから、われわれが布施や善行をなす場合の大切な心得を教えられるのです。
 このように、仏典に出てくるどんな小さなエピソードでも、それを出発点として思索を深めてみることが大切だと思います。
題字と絵 難波淳郎

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